にっぽんのじんじゃ・しまね

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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秋鹿郡(島根半島中東部):

『出雲国風土記』には、

  秋鹿と名づけるわけは、郡家の真北に秋鹿日女命(あいかひめのみこと)が鎮座している。
  ゆえに秋鹿(あいか)という。

とある。
『出雲国風土記』においては、神の名やその発した言葉がダイレクトに地名となっていることが多く、
神と土地との結びつきが非常に強い。

佐太神社
(別ページ)
恵曇神社
(畑垣)
多太神社

楯縫郡(島根半島中西部):

『出雲国風土記』には、
杵築大社を建てるにあたって、
神魂神(かみむすひのかみ)が御子の天御鳥命(あまのみとりのみこと)を楯部(たてべ。楯の製作を職掌とする部民)として天降し、
天下をお造りになった大神(大国主大神)の宮を飾るための楯を造らせられたのがここであるとし、
今(『出雲国風土記』編修時)も楯・鉾を造って尊い皇神(すめがみ)たちにたてまつっているが、
そのために楯縫(たてぬひ)という、
とある。
杵築大社と佐太神社の双方の影響下にあった郡。

玖潭神社 久多美神社 佐香神社

秋鹿郡:

恵曇(えとも)神社。

松江市鹿島町佐陀本郷(字・畑垣)に鎮座。

『出雲国風土記』秋鹿郡の神祇官登録神社一十所の一、恵杼毛社、
『延喜式』神名式、出雲国秋鹿郡十座の一、恵曇神社に比定。

『出雲国風土記』秋鹿郡恵曇郷条には、

  恵曇郷。
  郡家の東北九里三十歩である。
  須佐能乎命(すさのをのみこと)の御子、磐坂日子命(いはさかひこのみこと)が国を巡幸された時、
  この処に到着されて仰せになるには、
  「ここは国が若々しく、美しい。国の形は画鞆(ゑとも)のようではないか。わが宮はここに造ろう」
  と仰せになった。ゆえに恵伴(ゑとも)という〔神亀三年に字を恵曇と改めた〕。

「鞆」は、弓を射た時に弦で手を傷つけないために装着する防具。
巴(ともえ)紋はこれを象ったもの(巴紋がみっつ集まったのが「三つ巴」紋)ともいわれる。
きれいに湾曲した海岸線の形を鞆になぞらえたものだろう。
国が若々しいというのは、まだ国が固まっていない、つまり未開の状態であることをいったもので、
磐坂日子命はこの地に鎮座して開拓を行ったものと考えられる。
佐陀本郷の各地からは弥生時代の遺跡が発見されており、佐陀宮内の佐太神社前遺跡はそれらの拠点集落であったと考えられている。
この神は記紀には見えないが、風土記においては素戔嗚尊の御子神とされており、
神社の後方の山肌に巨岩がいくつも聳え立っている所があって古来「座王さん」と呼ばれていることから、
これを神として祭っていたのが神名の由来になったのではないかという説がある。
『日本書紀』には、素戔嗚尊の御子神である五十猛命・大屋都比売命・抓津比売命が日本中を巡って木種を播き、
日本を緑あふれる大地とした、という伝承が記されており、
素戔嗚尊の御子神は各地を巡幸して国土の開発を行ったことが知られる。

鎮座地は奥まったところだが、前に松江市役所の鹿島支所があるのでわかりやすい。
論社として、鹿島町恵曇、恵曇港北部の江角浦に鎮座する恵曇神社があり、
江戸時代より両社の間でどちらが式内社か論争となっていた。
明治になり、松江縣の判定によって江角浦の江角大明神が式内の恵曇神社とされ郷社に列せられたが、
現在では、江角浦の恵曇神社を『出雲国風土記』秋鹿郡神社条の神祇官未登録神社一十六所の筆頭に記される「恵曇海辺社」「同海辺社」とし、
佐陀本郷の畑垣に鎮座する恵曇神社を式内恵曇社とする見方が一般的で、
鹿島町歴史民俗資料館に置いてある「鹿島歴史探訪ルート案内図」でも「畑垣の恵曇神社」が挙げられている。
もっとも、どちらも『延喜式』より200年古い『出雲国風土記』への記載社であり、悠久の古社であることには変わりがない。

鳥居前。
民家の間に参道が伸びる。
石段を上ってゆく。 ちなみにけっこう長いです
随神門。手前に狛犬。 随神門をくぐると拝殿。
拝殿の東西にはそれぞれ建物が建っている。
神庫や社務所(授与所)などだろうか。
境内東の山肌に「座王さん」が見える。

本殿。
右にみえる階段と手すりは、「座王さん」への参拝路。
参拝の便のために平成2年に設けられたとのこと。
上っていくと、座王さん。
前に注連縄が張られ、御幣が何本も立てられている。
座王さん、正面より。
言われてみれば、なんとなく椅子みたいにみえる。

多太(ただ)神社。

松江市岡本町、秋葉山の西南麓に鎮座。

『出雲国風土記』秋鹿郡の神祇官未登録神社一十六所の一、多太社。
同じく神祇官未登録神社である同多太社(おなじきただのやしろ)が飛地境内地に鎮座。

『出雲国風土記』秋鹿郡多太郷条には、

  多太郷。
  郡家の西北五里一百二十歩である。
  須佐能乎命(すさのをのみこと)の御子、衝鉾等乎與留比古命(つきほことをよるひこのみこと)が国を巡幸された時、
  この処に到着されて仰せになるには、
  「わたしの御心は照明(あか)く正真(ただ)しくなった。わたしはここに鎮座しよう」
  と仰せになって、鎮座された。ゆえに多太(ただ)という。

との地名起源伝承があり、
国を巡行していた衝鉾等乎與留比古命がこの地を好まれ、鎮座しているとする。
父神の素戔嗚尊も、宮地を求めて巡幸していたところ、ある場所にやってくると御心がすがすがしくなったので、
その地を「須賀(すが)」と名づけて宮を造られた、と記紀に見え、
神社を定めるにあたってそのような場所が好まれていたこと、
そして、「すがすがしい」「明く正しい」というような「心の在るべき姿」が重視されていたことがわかる。
『出雲国風土記』の地名起源伝承には、そういった「神の御心の状態(の発言)」が地名の元になっているものが多く、
これは記紀や他の風土記と比べてみても独特。

『雲陽誌』によれば、近世には「羽鳥大明神」と呼ばれており、鳥石樟船神を祭神としていたが、
近代になって多太神社に比定され、衝鉾等乎與留比古命を祭神としている。

南に下った、宍道湖にほど近い所に艫田神社という社が鎮座しており、
これが『出雲国風土記』秋鹿郡神社条に「同 多太社」とある神社に比定され、大正三年に飛地境内社となっている。
この社は猿田彦命を祀り、
社伝によれば、国譲りの際、大国主神が美保の事代主神へと使いを出した時、
猿田彦命がその舵取りを行い、その船がこの地に着かれたことにより社を建てて祭るという。
多太神社から東へ秋葉山を越えた次の山間には、秋鹿郡の名のもとになった秋鹿日女命を祀る秋鹿神社が鎮座しており、
二つの山間を流れる川は艫田神社のあたりで海に注いでいる。
秋鹿日女命はどのような神であるか不明だが、あるいは多太社と関連のある神であったかもしれない。

いくつも谷を越えてゆくのでまぎらわしいが、広域農道の交差点に白い案内柱が立っており、それを見逃さなければOK。
この辺りの式内社および風土記記載社は広域農道から近いものが多い。
社地はそう広くはないが、社殿の装飾が見事。

社前。両側から山の迫った川沿いの地。
神社は東側の秋葉山の麓に西向きで鎮座する。
鳥居前。 拝殿。
龍の彫刻に気合が入っている。
拝殿、本殿、および本殿北に鎮座する小祠。
山間の小社とはいえ、本殿の装飾も素晴らしい。
その小祠の隣にはまだ二社の石祠が鎮座する。 本殿南には、大石の上に「社日」が立っている。
『雲陽志』には、境内には「船石」があると記しているが、
この大石がそうだろうか。
境内南にある神楽殿。
例祭においては、夜に出雲神楽が演じられている。


楯縫郡:

玖潭(くたみ)神社。

出雲市久多見町(字ウヅメ)に鎮座。
東福町にも「久多美神社」という同名社があるため、地元では区別のため「くたんじんじゃ」と読まれている。

『出雲国風土記』楯縫郡の神祇官登録神社九所の一、久多美社。
『延喜式』神名式、出雲国楯縫郡九座の一、玖潭神社。
楯縫郡所在神社の筆頭に記される、同郡の主神。
また、『出雲国風土記』楯縫郡の神祇官未登録神社一十九所のうち、久多美社および同久多美社を合祀。

『出雲国風土記』楯縫郡玖潭郷条には、

  郡家の真西五里二十歩(*3km)。
  天の下をお造りになった大神命が、天の御飯田(*あめのみいひだ。神田)の御倉をお造りする処を求め、巡行なさった。
  その時、「波夜佐雨(はやさめ)久多美(くたみ)の山」と仰せになった。ゆえに忽美(クタミ)という〔神亀三年、字を玖潭と改めた〕。

という地名起源伝承が記されている。
「はやさめ」は「にわか雨」の意で、「クタミ」や「フタミ」にかかる枕詞。おそらくは「速雨→降(クタル)」の語呂合わせからか。
この地は大国主神によって命名されたことから、
当社の主祭神は大穴牟遅大神となっている。
また、合殿として久多美社の正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野橡樟命の五男神、
および貴女社(うづめしゃ)の多紀理比売命、市杵島比売命、多寸津比売命の三女神(宗像三女神)、
そして霹靂社(へきれきしゃ)の闇於加美神(くらおかみのかみ)の九柱を配祀。

当初は現在地より二十町(2.2㎞)余り北方の城山要害平という山頂に鎮座していたが、
明応五年(1496)秋、火災に遭って社殿はことごとく焼失。
御神体は西方の巨巌上に祀られていたが、その後当地の貴女(うずめ)社に奉遷し、
さらに池田の久多美社(五社明神)を合祀して寛文九年(1669)、二年前に正遷宮を終えていた出雲大社の古材を拝領して現在地に遷座し、
この時に「畑の池」という所の竜王石という岩のほとりに鎮座していた霹靂社をも合祀して、現在に至る。

中世、杵築大社が素戔嗚尊を主祭神としていた時、玖潭大明神は杵築大明神の第二王子として特に尊崇され、
また紀州熊野権現と同体とみなされており、
杵築大社においては瑞垣内の「左右門客人神社」の一として大神の御前を御守り申し上げており、
現在も出雲大社八足門内の「門神社」二宇の西に久多美大神が祀られている。
また、当社の遷宮にあたっては杵築大社の古材を賜わる例となっており、
寛文八年(1668)には出雲大社の古材を賜わり、
延享元年(1744)と文化六年(1809)には素鵞社の御内殿(本殿内に安置される小型の本殿)を当社の御内殿として賜わり、
明治十四年(1881)には御神輿と御客座御神輿を天満宮内殿および金刀比羅神社内殿として賜わっている。
このように出雲大社と縁深い社であるため、例祭の五月三日には出雲大社宮司が参向される例となっている。
例祭の五月三日には古式ゆかしい「御田植神事」「獅子舞」が執り行われており、
獅子舞は毎年五月の出雲大社大祭礼において奉納されている。
元々の例祭日は四月三日だったが、
現在では平日に人が集まることが難しくなっているため、
一か月ずらしてゴールデンウィーク中の五月三日に行うようになっている。

明応五年の本殿焼失の後、御神体が一時留まっていた城山の巨巌は、のち安永七年(1778)、
松江藩主第七代の松平不昧公(治郷)が父・宗衍(むねのぶ)の寿像碑(長寿祈願の碑)を建立するにあたり、
それにもっともふさわしい石として切り出されることとなった。
ただ、神が鎮座していた岩であることから人々が不安を抱いたため、
まず玖潭神社で祈願祭を執り行うこととし、祈願ののち岩に楔を打ち込んだものの、
十数本打ち込んだにもかかわらず岩はなお割れなかった。
これは神明が惜しまれているためであろうと重ねて祈願祭を行ったところ、
翌朝、この岩は人々の見ている前で大音響とともに垂直に割れたため、人々は神の力であると大いに驚いた。
それからこの切り出した大石を運ぶために久多美川の川底に多数の大竹を敷き詰め、大石をその上に滑らせて運搬することとし、
数百人で曳いて船川(平田船川)まで運び出した。
そこからは大石を筏に乗せ、二隻の船で曳いて布崎(宍道湖河口付近)まで出たところ、
一天にわかに掻き曇り、すさまじい雷雨波浪となって、筏は今にも覆らんばかりになった。
すぐさま藩に急使が立てられ、藩は代参を玖潭神社に遣わして懇ろに奉幣、祈願を行わせたところ、
祭典の終るころには空は晴れ渡り、宍道湖は鏡面のごとく静かになったので、大石は無事に松江城下へと到着した。
松江に到着した大石は堀川に引き入れられ、そこから松江藩主菩提寺の月照寺まで堀を開削して筏を引き入れた。
その跡は現在も残っている。
大石には祈念文が刻まれ、巨大な亀石の上に立てられた。これは天隆院殿寿像碑石として今に伝わっている。
それから不昧公はかの巨巌に延命地蔵菩薩像を線刻させて「御留石」とし、
いかなる者もこれを切り出すことを禁じられた。
なお、碑石の下にある巨大な亀石には、かつては夜な夜な動き出して松江城下で人を食っていたため、
その背に碑石を置いて怪異を鎮めた、という怪談が伝わっており、
小泉八雲の随筆でも紹介されている。
あるいは、池の亀が夜な夜な巨大化して城下で子供を食っていたので、亀の石像を造って安置したところ、怪異は止んだ、とも伝わる。
現在では、父の長寿を祈願して立てられた寿像碑を背負う大亀の像の頭をなでれば長生きできるといわれている。

社前よりの眺め。
遠くに、東西に走る広域農道(宍道湖北部広域農道)が見える。
この辺りの主要な神社は広域農道にほど近い所に鎮座している。
鳥居前。
石段の途中の右手に榊の木があり、
根元に縄を巻き御幣串が多く立ててあった。
石段を登ると、右手に拝殿および本殿が
南面して建っている。
玖潭神社拝殿および本殿。
本殿の背後には末社群が鎮座する。
本殿真裏には東より八坂神社(祭神:素盞嗚尊)、天満宮(菅原道真公)、金刀比羅神社(大物主命)が鎮座。
本殿西には、東面して若宮神社(味耜高彦根命)が鎮座、また一社の石祠があった。
本殿裏手にも、
三本の木の根元に縄を巻き、多数の御幣串が立ててあった。
なんらかの儀礼が行われているのだろうか。
社務所。



久多美(くたみ)神社。

出雲市東福町
東福町と東郷町の境に鎮座。

『出雲国風土記』楯縫郡の神祇官未登録神社一十九所のうち、久多美社および同・久多美社、
これら二社の分霊社。

『出雲国風土記』によれば楯縫郡には「久多美社」が三社あって、
そのうちの一社が朝廷の神祇官の神名帳に登録され、官社となっていた。
神祇官に登録されていない二社の久多美社はそれぞれ池田(いけだ)と埋女(うづめ)の地に鎮座していたが、
平安時代の永保年間(1081-1084)、
久多美の地の神職が現在の鎮座地に住むことになり、
その時に東郷三河守より久多見三十三社の神主職を拝命し二丁五反の領地を拝領したことから、
池田と埋女の久多美社の分霊を現在地に遷し奉ったのが創祀と伝えられる。
飛び地、遠隔地に遷し奉ったことから「飛田大明神」と称していたが、
寛文二年(1662)に松平藩公が当地へ狩に来られた際に当社の由来をお尋ねになり、
「飛田」を「富田」と改めさせられたので、以後は「富田大明神」と称した。
明治になって社号を地名にもとづいて「久多見神社」と改称し、
のち大正二年の遷宮時、風土記の用字である「久多美神社」の社号に改称して現在に至る。
氏子区域は、東福町・東郷町・上岡田町と広範囲にわたる。

「東郷三河守」については、東郷の領主と思われるが、
平安時代に地方の一領主が「三河守」という官職を授けられることはありえず、
有力な武官に名目上の国守補任が行われるようになるのは鎌倉時代以降で、
室町時代以降は自官(自称の官)も増え、また朝廷に献金して官職を授かったり、その官名を代々受け継ぐということも行われていたことから、
「東郷三河守」については、社の由緒作成当時の東郷氏が代々三河守を称していたことからそうなったのだろう。
現在の出雲市多久町に城跡が残る檜ヶ仙城には、戦国時代の大永年間(1521-1527)に「東郷三河守忠光」が拠ったとする資料がある。

主祭神は、
池田社の祭神であった正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命の五柱。
境内社の三女神社に埋女社(うづめしゃ)の祭神であった多紀理姫命、市杵島姫命、多岐津姫命を祀る。

神社本殿の正中線(中心線)が東福町・東郷町の境(もとは村境)になっており、
鳥居から本殿に至る中心線より北は東郷町、南は東福町に属している。
法人としての「主たる事務所」にあたる社務所が東福町側にあるため、登録上の神社の所在地は東福町となっている。

道向かいには久多美小学校がある。
平田船川が近く、
旧・平田市の中心部から氏子区域三町を南北に貫く県道232号線が近隣を通っており、開けた地域。
鳥居前。
参道中心線から向かって右が東郷町、左が東福町になる。
境内参道。
境内は整然と整備されている。
久多美神社拝殿。
久多美神社本殿。
本殿南脇に鎮座する三女神社。
境内の案内板には、

  三女神社〔牧戸天満宮〕

とあったので、
牧戸天満宮(祭神:菅原道真公)を合祀しているのだろう。


三女神社のすぐ左には、
稲荷社と三方荒神社が鎮座地している。
境内北側に鎮座する福富神社。
恵比寿・大黒の二福神、
および稲荷さんである稲倉御魂(うかのみたま)を祀る。
脇にあるの石段の向こうには、
稲荷神社および東郷の塚荒神が鎮座。
本殿北脇に鎮座する三社。

いちばん左の正面を向いている神社が能登神社で、
大国主命、大己貴命、神功皇后、応神天皇、武内宿禰、稲倉魂命を祀る。

その手前の社は東郷天満宮で、祭神はもちろん菅原道真公。
境内に天満宮・稲荷社・荒神社がそれぞれ複数あるが、
それぞれ東福町と東郷町の神様ということだろう。


その手前の社は金毘羅神社で、祭神は大物主命。

佐香(さか)神社

出雲市小境町清水
国道431号線から一畑薬師さんへと北上する県道23号線付近に鎮座する。

『出雲国風土記』楯縫郡の神祇官登録神社九所の一、佐加社。
『延喜式』神名式、出雲国楯縫郡九座の一、佐香神社。

『出雲国風土記』楯縫郡佐香郷条には、

  佐香郷。
  郡家の真東四里百六十歩である。
  佐香の河内に百八十神が集われ、御厨をお立てになり、酒を醸させられた。
  そして百八十日にわたって喜燕(さかみづき。酒宴)を行い、解散された。ゆえに佐香(さか)という。
     (*「燕」はツバメの飛ぶ姿の象形文字で、「ツバメ」の意味のほか、音を借りて「宴」「安」の意味に用いられる。
     燕喜、燕飲、燕遊、燕安、燕息など)

という地名起源伝承が記されており、現地名の「小境(こざかい)」もそれにもとづくものとされる。
大国主神の御子神の数が180あるいは181とされていることから、百八十神が集まったということは、出雲国内の神々が一堂に会したことを示す。

主祭神は久斯之神(くすのかみ)、大山咋神で、
天津彦彦火瓊瓊杵尊、木花咲耶姫之命、百八十神等を配祀する。
久斯之神は薬師(くすし)の神、酒造の神で、少彦名神と同一視される。
大山咋神は、素戔嗚尊の子である大年神の子で、「山末(やますゑ。山頂))の大主の神」とも呼ばれる山の神。
『古事記』には、「この神は近淡江国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用いる神である」とあり、
比叡山の日吉大社、京の松尾大社で祀られる神。
松尾大社を管掌した秦氏が酒造に長じていたことから、松尾大明神は酒の神として信仰されていた。
古い棟札の文面から、当社は室町時代後期にはすでに「松尾大明神」と呼ばれていたようで、
酒の神としてのステータス維持のためか、高名な京の松尾大社を勧請したらしい。
古代においては酒神といえば記紀に伝承のみえる三輪の大物主大神や少彦名神だったが、
中世以降は専ら京に鎮座している松尾大社が有名となり、各地に勧請されていた。
現在中国地方で演じられている神楽でも、「八岐大蛇」にて酒を醸す神は「松尾大明神」となっている。
近代になって社号は「佐香神社」と旧に復したが、通称として「松尾神社」の号も用いられている。

古来、造営は出雲国造や当地領主の命によって行われており、崇敬の高い社だった。
神宝として、松江藩主松平家より奉納の鎧一領および文箱一式が伝えられている。
もちろん、地元の酒造である出雲杜氏が古来崇敬する神社であって、
日本酒の島根県統一ブランド「佐香錦」の銘は当社にちなんでいる。

十月十三日は秋季大祭であり、「どぶろく祭」と呼ばれている。
宮司自らが杜氏となって十月朔日未明より御神酒の醸造を行い、
例祭当日には県内の酒造関係者が参列して酒造りの安全を祈願、
「湯立神事」を行って一同を清めたのち、御神前に捧げられた御神酒を朱塗りの大椀に酌んで回し飲みする。
出雲杜氏は、この祭りが終わってのち新酒の仕込みに入る慣わしとなっている。
午後からは一般の参拝者もこの御神酒を戴いて家内安全・五穀豊穣を祈り、神楽を観覧して夜遅くまで賑やかに楽しむ。
濁酒の醸造は室町時代より続く行事とされ、近代になっても明治二十九年に「濁酒年一石以下無税」の許可を得て続けられ、
現在は財務省の許可のもと醸造し、国税庁の検査を経て氏子崇敬者にふるまわれている。

県道から社前へと入っていく道路に立つ大鳥居。
県道沿いには、
第八十一代出雲国造、千家尊紀国造揮毫の社号標が立っている。
社前の風景。
島根半島中部では、
宍道湖に流れ込む川の流域の山間に集落が形成されている。
人家は東西の山の麓にあり、
その間は一面の田畑となっている。
この佐香川沿いはわりと開けた地域で、
百八十神が集うにふさわしい。
社前。神社は山の東麓に東向きで鎮座している。
社の前の道路が、古くからの道なのだろう。
道路脇に十分なスペースがあるので、車で来ても安心。
ただ、祭のときには難しいようだ。どぶろくも出るし。
鳥居、燈籠、狛犬。
狛犬がめっちゃ威嚇してはる
石段を上がったところにある古い狛犬。
台には、「文政四辛巳 四月吉日」と彫られている。
文政四年は西暦1821年。
左手に手水舎、そして正面に拝殿。 南側より、拝殿および本殿。

手前に見える石畳は、「湯立神事」を行う場。
本殿北には稲荷神社が鎮座する。


稲荷神社の横には神社へ上がってくる舗装道路が付いており、
車でも上がって来れるようだ。
もちろん、上には駐車場はないので、
例祭の時のもろもろの搬入・搬出を楽にするためだろう。
本殿南の末社群。

向かって右より、

種痘神社
宝殿神社
武内神社
疫神社

の四社が鎮座。
境内は広々としており、さわやか。
境内の南には、神楽殿(右)と御仮殿(左)がある。
どぶろく祭の宵には、神楽殿で出雲神楽が舞われる。
けっこう広い神楽殿なので、アクションの大きな神楽も大丈夫そう。
秋の夜長にどぶろく飲みながら神楽を見るのも乙。

御仮殿は、本殿を修理する時、御祭神が一時仮遷座される場所。
その時にはまず御仮殿を建て替え、白木の新しい御仮殿にお遷りいただくことになる。
今ある御仮殿は、前回の仮遷座の時に建て替えられたものだろう。けっこう前っぽい。




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