にっぽんのじんじゃ・しまね

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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出雲郡(出雲市西部、斐川町の一部):

八束水臣津野命(やつかみづおみつののみこと)が、
「八雲立つ出雲」
と詔したことから「出雲」の名がついたと『出雲国風土記』は記している。
近世に入るまでは「杵築大社(きづきのおほやしろ)」と呼ばれていた出雲大社の鎮座する地。

出雲大社
(別ページ)
阿須岐神社 日御碕神社 因佐神社 伊努神社
曾枳能夜神社 立虫神社・
万九千神社
*荒神谷遺跡

阿須岐(あすき)神社。

出雲市大社町遙堪
出雲大社より2.5kmほど東、弥山の麓に鎮座する。

『出雲国風土記』出雲郡の神祇官登録神社五十八所のうち十一所が「阿受伎(枳)社」、
そして神祇官非登録神社六十四所のうち二十八社が「阿受支社」であり、
実に出雲郡内の神社、総数122社のうちの三割を超える39社が「アズキノヤシロ」となっている。
『延喜式』神名式、出雲国出雲郡五十八座のうち、
 阿須伎神社
 同社神韓国伊太氐神社(おなじきやしろの かむからくにいたてのかみのやしろ)
 同社天若日子神社(おなじきやしろの あめわかひこのかみのやしろ)
 同社須佐袁神社(おなじきやしろの すさのをのかみのやしろ)
 同社神魂意保刀自神社(おなじきやしろの かみむすひおほとじのかみのやしろ)
 同社神阿須伎神社(おなじきやしろの かむあすきのかみのやしろ)
 同社神伊佐奈伎神社(おなじきやしろの かむいざなきのかみのやしろ)
 同社神阿麻能比奈等理神社(おなじきやしろの かむあまのひなとりのかみのやしろ)
 同社神伊佐我神社(おなじきやしろの かむいさがのかみのやしろ)
 同社阿遅須伎神社(おなじきやしろの あぢすきのかみのやしろ)
 同社天若日子神社(おなじきやしろの あめわかひこのかみのやしろ)
以上の十一社が阿須伎神社とその同社として登録されており、『出雲国風土記』の社数と一致、各々の祭神がはっきり記されている。
祭神は様々であっても社名としては「同社」「アズキノヤシロ」で統一されているので、阿須伎神社とその摂社群ということになるか。
『延喜式』神名式における出雲国の神社は、
同名の社の場合「同社坐(おなじきやしろにいます)」「同社(おなじきやしろ)」と使い分けがなされており、
前者が境内社、後者が境外社ということになるのだろうか。
ここでの「同社」の中には「天若日子神社」のように祭神が重複しているものもあるので、境外社の可能性が高いと思われる。
杵築大社や「企豆伎社」「支豆支社」(きづきのやしろ)と表記されている神社は10社(式内9社、式外1社)にすぎず、
阿須伎神社が出雲郡内で最も多い神社を管下に置いていたことになる。
もちろん、『延喜式』神名式内においても、一社のうちで十一座もの神が官社登録されているのは最多となっている。
(それに続くのは山城国久世郡の水主神社の十座で、こちらは十座すべてに「大」の指定がなされているのが特徴)

『延喜式』神名式では杵築大社とその「同社」に引き続いて記されており、
また「同社」の多さからみて、かつては杵築大社を別格として出雲郡諸社の首座のような位置にあったと思われるが、
現在は出雲大社の摂社となっている。
本宮以外の38社は本宮に合祀されたとも、出雲大社の東十九社・西十九社になったともいわれている。
現在は阿遅須伎高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)を主祭神とし、
相殿神として五十猛命(いたけるのみこと)、天稚彦命、素盞嗚尊、下照姫命、猿田彦命、伊邪那岐命、
天夷鳥命(あまのひなとりのみこと)、稲背脛命(いなせはぎのみこと)、事代主命、天穂日命を祀る。
おおよそ式内社にみられる祭神を祀っているということになる。

阿遅須伎高日子根命は大国主命と宗像三女神の一・多紀理比売命の間に生まれた、大国主命の長子。
『日本書紀』には「光儀華艶(よそほひうるはし)」と形容される、父の美貌を受け継いだ神。
「アヂスキ」という神名から、耜(すき)を象徴とする農業神であるとも、
その飛翔する姿が「二丘二谷の間に照り輝く」と表現されることから雷神であるともいわれる。
「国譲り」には出てこないが、
代々の出雲国造がその就任にあたって朝廷に赴き奏上していた『出雲国造神賀詞(いづものくにのみやつこのかむよごと)』には、
大穴持命が、

  己(おの)れ命(みこと)の和魂(にぎみたま)を八咫(やた)の鏡に取り託(つ)けて、
  倭(やまと)の大物主櫛瓺玉命(おほものぬしくしみかたまのみこと)と名を称(たた)へて、大御和(おほみわ)の神奈備(かむなび)に坐(ま)せ、
  己れ命の御子阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木(かづらき)の鴨(かも)の神奈備に坐せ、
  事代主命の御魂を宇奈堤(うなて)に坐せ、
  賀夜奈流美命(かやなるみのみこと)の御魂を飛鳥(あすか)の神奈備に坐せて・・・
  
と、自らの御魂と三柱の御子の御魂を天皇の近き護りとして大和の各地に鎮座させており、
自らの和魂に続く第二の存在として、「宮中八神」の一柱でもある事代主命より上位に置いている。
『古事記』には「今、迦毛大御神(かものおほみかみ)と申し上げる神である」と記述があり、
「葛木の鴨の神奈備」こと奈良県御所市に鎮座する高鴨神社の祭神として「大御神」という最高尊称をもつ神だった。
記紀の記述からはなぜそこまでの尊称を得ていたのか窺い知ることはできないが、
記紀が編まれた当時の人々にとって、その神威は言うまでもない自明の事だったのだろう。
『古事記』の阿遅須伎高日子根命は、友人である天若日子が亡くなった際にその殯(もがり)の場に参ったが、
天若日子と容姿がそっくりであったためにその父母から「わが子は死んでいなかった!」とまとわりつかれたため、
「私は親しい友人であったから弔いに来たのだ。それを、穢らわしい死者に見立てるとは何事か!」
と激怒し、佩剣である「大量(おほはかり)」でその喪屋を斬り伏せたうえ蹴り飛ばし、それは遠く美濃国の藍見河の河上の喪山となった、
とあり、その強大な力と、おそらくは信仰圏の広さをあらわしているだろう。
大国主命と多紀理比売命の間に生まれた長子であるということは、
出雲と北九州との交流がごく最初期からあったということをあらわしていると思われる。

現在は出雲大社の摂社であり、かつて39社を数えた神社の総本宮としてはこぢんまりとした境内となっている。
大社から歩いて参拝するにはいささか遠く、車の駐車場もないので、参拝者はあまりいなさそう。
ただ、境内の構えや社殿は立派。

鳥居前。
駐車場はない。鳥居横に空き地があるが、個人の敷地だろう。
参道。
拝殿、本殿。
本殿。 境内社。
本殿の裏手にも境内社が鎮座する。
御山神社遥拝所。
厳島の弥山山上の御山神社のことか。
主祭神の母神は厳島の祭神である宗像三女神の一なので、
鎮座地の山名の一致という縁もあって自然か。

日御碕(ひのみさき)神社。

出雲市大社町日御碕に鎮座。

『出雲国風土記』出雲郡の神祇官登録神社五十八所の一、美佐伎社(みさきのやしろ)。
『延喜式』神名式、出雲国出雲郡五十八座の一、御碕神社。

島根半島の西北端、「日沈の処」である日御碕に鎮座する神社。
社伝によれば創祀は神代に遡るとされ、
素盞嗚尊(すさのをのみこと)が熊成峯(くまなりのたけ)にて柏の葉を取り、
「わが御魂はこの柏葉の止まる所に住むであろう」
と誓約して投げたところ、柏葉は風に吹かれて現鎮座地の裏手である「隠ヶ丘」に落ち、
そこで御子神である天葺根命(あめのふきねのみこと)が祖神の御魂をこの地に奉斎したのが始まりであると伝える。
天葺根命は『日本書紀』の天石窟の段の一書に「天乃葺根神」とあって素戔嗚尊五世の孫であり、
素戔嗚尊が八岐大蛇を斬ってその尾から草薙剣を得た時、草薙剣を天照大神に献上する使いとなっている。
『古事記』では、須佐之男命の五世の孫を「天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)」といい、この神は天乃葺根神と同一視され、
代々の社職である小野氏はその天葺根命の子孫と称する。
神社はその後、第三代安寧天皇の十三年に勅命によって現鎮座地へ遷座したと伝えられ、
これが「神の宮(かむのみや)」と称される宮。

境内には、また「日沉(沈)宮(ひしずみのみや)」と称する宮があり、素盞嗚尊の姉神である日神・天照大御神を祀る。
社伝によれば、天葺根命が清江の浜(神社の西の浜)に出た時、経島の百枝の松の上に瑞光が輝いて天照大神の神託が下ったので、
命がその神託の通りに島上に大御神を鎮祭したのを創祀とし、
その後、第九代開化天皇二年に勅命によって島上に神殿が造営され、
時代下って第六十七代村上天皇の天暦二年(948)に経島より現鎮座地に遷座、
以来、「神の宮」「日沈宮」の両宮をもって日御碕大神宮と称した。
「日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、
出雲国日御碕清江の浜に日沉宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん」
という神託があり、日本の昼を守る伊勢大神宮に対し、日本の夜を護る宮として信仰を集めていった。
この、経島にかつて鎮座していた社は、
『出雲国風土記』出雲郡神祇官非登録神社六十四所の一、百枝槐社(ももえゑにすのやしろ)に比定されている。

『出雲国風土記』には、この辺りの島・浜・岬を以下のように記している。

  宇礼保(うれほ)の浦。幅七十八歩〔船が二十隻ほど泊まることができる〕。(*大社町宇龍)
  山崎(やまさき)。高さ三十九丈、周囲一里二百五十歩〔椎・楠・椿・松がある〕。(*権現島)
  子負島(こおひしま)〔磯である〕。(*宇竜付近の島か)
  大椅(おほはし)の浜。幅百五十歩。(*大社町日御碕、御坐浜〔おわすはま〕)
  御前(みさき)の浜。幅百二十歩〔民家がある〕。(*大社町日御碕、日御碕神社前の浜)
  御厳島(みいつくしま)〔ワカメが生える〕。(*大社町日御碕、日御碕神社西方の経島)
  御厨家島(みくりやしま)。高さ四丈、周囲二十歩〔松がある〕。(*大社町日御碕、日御碕浜南方の大前〔うまや〕島)
  等々(とど)島〔イガイ・カメノテがある〕。(*日御碕西方2km海上の艫〔とも〕島)
  [忄至]聞埼(しもさき)。長さ三十歩、広さ三十二歩〔松がある〕。(*日御碕西南端の追石鼻〔おいせはな〕か)
  (*中略)
  すべて北の海でとれる様々な産物は、楯縫郡で説明したものと同じである。
  ただし、鰒(あはび。アワビ)は出雲郡が最も優れている。鰒を採る者は、いわゆる御埼(みさき)の海子(あま)がそれである。

経島はもともと「御厳島」といい、「斎(いつ)く島」として、厳重に清浄をきわめて祭祀が行われていたことがうかがわれ、
「御厨家島」という島名から、この辺りの海から神饌に供する海産物を獲っていたこと、
アワビを獲る「御埼の海子」がいたことがわかる。
現在も、権現島において旧暦正月五日には和布刈(めかり)神事が行われている。

なお、『出雲国風土記』出雲郡の神祇官未登録神社六十四所の筆頭に「御前社」「同御埼社」とあるが、
この「ミサキノヤシロ」二社が日御碕神社に関わる社であるかは不明。

出雲大社方面から、海沿いの崖上の道である県道29号線を走ってゆくと、
鷺浦方面への道と分かれる三叉路のすぐ手前に見える「筆投島」。
わが国の画聖・巨勢金岡(こせのかなおか)がこの島を描こうとしたが、
朝夕に色彩が変わるこの島の姿を写すことができず、ついに筆を投げてしまったことからその名がついたという。

左は海へと落ちる崖、そして右も切り立った崖で、崖崩れの修復跡もあり、
悪天候の日は通行が危なげな道。
もっとも、かつてに比べれば見違えるようによくなっているとのこと。


鳥居前。
駐車場は境内の南外側にある。
参道。
朱塗りの楼門と廻廊が見える。
素朴な大社と違い、華麗な構え。


朱に塗られるのは、海辺の社であるので、
白木だと潮風その他によって汚れが目立つ、
などの現実的な理由もあるだろう。
安芸の厳島神社も、明治時代には政府より「朱塗りはダメ」
との指導が入って社殿は塗装を落とされて白木の状態だったが、
潮風や海藻その他による汚れが目立ちに目立ち、
見るも無残な状況だったという。
そのため、明治末年の改修において朱塗りの元の姿に戻されている。
楼門をくぐると、左右に門客人神社が鎮座している
(写真は廻廊南側から)。
奥には素盞嗚尊を祀る「神(かむ)の宮」が見える。
神素盞嗚尊を祀る上の本社、「神の宮」。
参道右手の石段を登った高所に南を向いて鎮座している。
神の宮拝殿近景。
本殿は修理中だった。

本殿左脇からはさらに上りの参道が延び、
朱色の鳥居が立ち並んでいる。
その上には稲荷社、そして湧水があって御井社が祀られ、
また荒祭宮の小祠が鎮座する。
眼下には神庫(たぶん)と末社群。
中央にみえる末社は蛭児社。
素盞嗚尊の兄弟にあたる蛭兒命を祀る。

神庫の脇の小祠は荒魂神社。

奥には韓国神社。
韓国伊太氐神こと五十猛命を祀る。


左端には日沉宮(ひしずみのみや)がみえる。
天照大御神を祀る下の本社、日沉(沈)宮。
楼門の正面に鎮座する。

神在祭期間中で、拝殿内には龍蛇神が祀られていた。
日御碕神社の神在祭は、出雲大社と同じく旧暦10月11日~17日で、14日に「龍神祭」が行われる。
基本的には神迎え・神送り・龍蛇到来を祭神に奉告するのが祭典の内容で、
神社として神迎えや神送りを行うわけではなく、大社にならって忌み籠る期間となっている。
廻廊外に出て、浜の方に向かうと鎮座している社。
周囲を水に囲まれており、
日御碕神社の主祭神が天照大御神・素戔嗚尊であるので、
宗像三女神を祀っているのだろう。
海辺の鳥居より、神社方面。


経島(ふみしま)
上に鳥居と小祠がある。
古代には「御厳島」と呼ばれた神聖な島であり、
現在も八月七日の祭典において神職が渡島する以外、何人も渡島を許されない。
「経島」とは、万巻の経文を積み上げたような形であることから名づけられたという。
日沈宮の旧地とされ、
『出雲国風土記』出雲郡神祇官非登録神社六十四所の一、百枝槐社(ももえゑにすのやしろ)に比定される。
現在は「経島ウミネコ繁殖地」として国の天然記念物に指定されている。

ここから北に歩いてゆくと、日御碕、そして日御碕灯台方面へ。
日御碕浜。
海からものすごい風が吹きつけてきており、荒波が次々と押し寄せ、砂浜には有象無象様々なものが打ち上げられていた。
この時期、このような烈しい風に乗って海からやってくる神々は、今では日本国内の八百万神とされているが、
もともとの形ではいったいいかなる神だったのだろう。



因佐(いなさ)神社。

出雲市大社町杵築北
「国譲り」の舞台である稲佐(いなさ)の浜に東北から流れ込む小川のほとりに鎮座。

『出雲国風土記』出雲郡の神祇官登録神社五十八所の一、伊奈佐乃社(いなさのやしろ)。
『延喜式』神名式、出雲国出雲郡五十八座の一、因佐神社。
往古は独立していた神社だったが、現在は出雲大社の境外摂社となっている。

祭神は建御雷神。
『古事記』では、「国譲り」の使者として天鳥船神とともに遣わされ、その大任を果たした武神。

大国主神が国作りを終えた後、高天原では天照大御神が、
「豊葦原の千秋の長五百秋(ながいほあき)の水穂の国は、
わが御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)の統治する国である」
と委任し、天降らせたが、
天忍穂耳命は天浮橋に立って、地上がひどく騒がしいことを見ると、還って天照大神に報告した。
そこで高御産巣日神と天照大御神の命で天安河の河原に八百万神を集め、思兼神に思わせて、
葦原中国に荒振る国つ神を言趣(ことむ)けるためにいずれの神を遣わせばよいか、議論させた。
思兼神と八百万神は議論し、その結果、天忍穂耳命の弟である天菩比神(あめのほひのかみ)が推薦され遣わされたが、
この神は大国主神に媚び付いてしまい、三年になっても復奏しなかった。
そこでまた会議が開かれ、いずれの神を遣わせばよいかが議論された。
この時、思兼神が天津国玉(あまつくにたま)の子・天若日子(あめわかひこ)を推薦したので、
天之麻迦古弓(あまのまかこゆみ)、天之羽羽矢(あまのははや)を天若日子に賜って遣わした。
しかしこの神も、大国主神の娘・下照比売を妻とし、その国を獲ようと思って、八年になっても復奏しなかった。
そこでまたまた会議が開かれ、雉名鳴女(きぎしなきめ)を使者として天若日子に復奏しない理由を問わせることにした。
鳴女は天降って天若日子の門の聖なる桂の木の上に止まり、天神の詔を述べた。
この時、天佐具売(あまのさぐめ)はそれを聞き、天若日子に「あの鳥の鳴き声はとても悪い、射殺しなさい」と勧めたので、
天若日子は天神より賜わった天之波士弓(あまのはしゆみ)と天之加久矢(あまのかくや)でその雉を射殺したが、
その矢は高天原の天照大御神と高木神(高御産巣日神の別名)のもとに届いた。
高木神は神々にその矢を見せ、
「もし天若日子が命を違えずに悪神を射た矢が届いたのならば、天若日子には当たるな。
もし邪心があったならば、天若日子はこの矢にまが(禍)れ」
と仰せになって矢を取り、矢の穴より投げ返したところ、天若日子が寝ている胸板に当たって死んだ。
これが「還矢(かへしや)恐るべし」という言葉のもとである。
天若日子の葬儀ののち、さらに会議が開かれ、いずれの神を遣わすべきか議論された。
思兼神と諸神は申し上げて、
「天安河の河上の天石屋(あまのいはや)に坐す、伊都尾羽張神(いつのをはばりのかみ)を遣わしましょう。
もしこの神でなければ、その神の御子、建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)を遣わしましょう。
その天尾羽張神は天安河の水を逆さまに堰き上げて道を塞いでいるので、他の神は行くことができません。
ですから、とくに天迦久神(あまのかくのかみ)を遣わして問わせましょう」
そこで天迦久神を遣わして天尾羽張神に問わせたところ、
「恐れ多いことです、仰せの通りにいたしましょう。しかし、これにはわたしの子、建御雷神を遣わしましょう」
と申し上げて、奉った。
そして、天鳥船神を建御雷神に副えて遣わした。

この神が出雲に降り立った時の様は、

  是(ここ)を以ちて、この二はしらの神、出雲の国の伊耶佐(いざさ)の小浜(をはま)に降り到りて、
  十掬剣(とつかのつるぎ)を抜き、逆(さかしま)に浪の穂に刺し立て、その剣の前(さき)に趺坐(あぐみゐ)て、
  その大国主神を問ひて言ひしく、
  「天照大御神・高木の神の命以ちて、問ひに使はせり。
  汝(なむち)がうしはける葦原の中つ国は、我(あ)が御子の知らさむ国と言依し賜ひき。
  故(かれ)、汝が心はいかに」

「波の上に剣を逆さまに突き立て、その切っ先に顕現する」という、
中学二年生大喜びの外連味。

大国主神はその問いに対して、「自分は答えることはせず、御子の八重事代主神が答えるであろう」と申し上げた。
これは、八重事代主神が託宣をつかさどる神であるため、大国主神の意思は彼が代弁して申し上げる、ということ。
そこで、御大(みお。美保)の岬に鳥の狩り・魚の漁に出かけている事代主神のもとへ天鳥船神を遣わして召し、問うたところ、
「恐(かしこ)し。この国は、天つ神の御子に立て奉らむ」
と言ってその船を踏み傾け、天の逆手(さかて)を打って船を青柴垣(あをふしかき)に変え、その中に隠れられた。
建御雷神は、まだほかに申す神はいるかと大国主神に問うたところ、建御名方神がいると答えた。
ちょうどその時、当の建御名方神が千引の石(ちびきのいは。千人がかりで引けるほどの大岩)を手先に捧げ来て、
建御雷神に力比べを申し出た。
そして、まず建御名方神が建御雷神の手を取ったが、とたんに建御雷神の手が氷柱、そして剣刃に変化したため、恐れて退いた。
今度は建御雷神が建御名方神の手を取ると、若葦を取るようにやすやすとつかんで投げ飛ばしたので、建御名方神は逃げ去った。
それを追撃して、科野(しなの。信濃)国の州羽(すは。諏訪)の海に追いつめて殺そうとした時、建御名方神は申し上げて、
「恐し。我(あれ)を殺すことなかれ。此地(ここ)を除(お)きては、他(あた)し処に行かじ。
また、我(あ)が父大国主命の命に違はじ。八重事代主神の言(こと)に違はじ。
此の葦原の中つ国は、天つ神御子の随(まにま)に献(たてまつ)らむ」
そこで建御雷神は出雲に戻ってもう一度問うたところ、大国主命は、二柱の御子が申し上げた通りに葦原中国をたてまつろうと言い、
その代わり、みずからの住居を、

  天つ神御子の天津日継(あまつひつぎ)知らすとだる天の御巣(みす。住居)のごとくして、
  底津石根(そこついはね。地底の岩盤)に宮柱ふとしり、高天原(たかあまのはら)に氷木(ひぎ)たかしりて・・・

と、皇孫の宮のような立派な宮を建てて祭れば、出雲に深く隠れていようと申し上げ、
みずからの百八十の御子神は、八重事代主神がお仕えしている間は決して背く神はないであろうと告げ
(これは、裏を返せば、もし事代主神が離反した場合には大国主神の御子神はことごとく皇孫に背く、ということ。
そのような事態を招かぬよう、皇孫は事代主神を丁重に扱わねばならない)、
出雲国の多芸志(たぎし)の小浜に天の御舎(あめのみあらか)を造り、
櫛八玉神(くしやたまのかみ)を膳夫(かしはて。調理人)として天の御饗(あめのみあへ)をたてまつった。
そこで、建御雷神は高天原に還り、葦原中国を「言向(ことむ)け和平(やは)し」たことを復奏した。

『日本書紀』では、基本的な流れは同じだが、
最終的に推薦されるのは下総国一宮の香取神宮に祀られる武神・経津主神(ふつぬしのかみ)であり、
武甕槌神(たけみかづちのかみ)は自分が推薦されなかったことに憤ってその場で猛然アピール、
それが通って、経津主神に副えて遣わされる、ということになっており、
こちらでは国譲りの主役は香取大神こと経津主神で、
武甕槌神は自分が推薦されなかったためにゴネまくってついていった、というちょっと困ったちゃんとして描かれている。
また、建御名方神は出てこず、
大国主神が隠れる時には、国を平定する時に持っていた広矛を二神に授け、
天孫がこの矛をもって統治するならば必ず国は平安に治まるであろうと申し上げている。
二神は国内を巡って邪神や草・木・石を誅していったが、
この時、ただ星神の香香背男(かかせを)が従わなかったので、
倭文神(しどりのかみ)の建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わすと服従したので、二神は天に上り、復奏した、としている。
草木石を誅したというのは、太古はすべての草・木・石も言葉を喋っていて地上が非常に騒がしかったので、それを黙らせたということ。
『常陸国風土記』香嶋郡条には、
「荒ぶる神たち、また岩石・立木・草葉の一片すらも言葉を語って、
昼は五月の蠅のように騒ぎ立て、夜は暗闇の中に(得体の知れない)光が赤々とする国、
これを服従させ平定するため、大神は天から降ってお仕え申し上げたという」
と、鹿島に鎮座する大神、武甕槌神の事績を記している。

同箇所の一書(異伝)第一には、天照大神が「武甕槌神また経津主神」を遣わした、とあり、
一書第二には、天神が「経津主神・武甕槌神」を遣わし、経津主神は岐神(ふなどのかみ)を道案内として天下を巡り平らげた、とあって、
この二神のどちらが主であったかについてはいろいろな所伝があったようだ。
神武天皇即位前紀には、熊野において天皇とその軍勢が熊野の神の毒気により病み臥せってしまった時、
熊野の高倉下(たかくらじ)という者が夢を見て、その中で天照大神が武甕槌神に「葦原中国はなお騒がしい。おまえがまた行って討て」と命じると、
武甕槌神は、自分が行かずとも、自分が国を平定した時の剣「韴霊(ふつのみたま)」を下せば国は平定されるでしょうと申し上げ、
翌朝、高倉下が庫を開けてみると、剣が逆さまに庫の底板に立っていた、とあって、
神武天皇の伝承においては、国譲りを成就させたのは武甕槌神とみなされていたようだ。

上古、稲佐浜の浜辺はもっと内陸部にあったと思われるので、
この神社も浜に程近い位置にあったのだろう。

稲佐の浜。
海から強風が吹きつけてきて浜には砂塵が舞い、荒波が次々に打ち寄せてくる。
これが神在月の日本海か。

中央に見えるのは「弁天島」。
古くは「沖御前」といって沖合の島だったが、時代の経過とともに川が運んでくる土砂のために浜辺が拡がっていき、
相対的に島はどんどん浜辺へ近づいてきた。
さらに近年のテトラポットの設置によって砂の流出が防止されたことで砂浜の拡大に拍車がかかり、
数十年前までは泳いで渡っていたという弁天島は現在、徒歩で渡れるようになっている。
名前の通りに古来弁財天の祠があったが、現在は豊玉毘古命を祀っている。
ただ、地元ではなお「弁天さん」で通っている。

奥にみえる松林の砂丘は「園の長浜」と呼ばれ、『出雲国風土記』出雲郡条には、

  薗(その)。長さ三里百歩、広さ一里二百歩。松が繁って多い。
  神門(かむど)の水海(みづうみ)から大海に通る潮(みなと)は、長さ三里、広さ百二十歩。
  これは出雲と神門と、二つの郡の境である。
   (*神門水海=かつて斐伊川は、現在のように宍道湖に注いではおらず西流しており、
    現在の神西湖に名残を残す大きな内海、神門水海に注いでいた)

と記されている。
また、同書意宇郡条の国引き伝承において、
八束水臣津野命が新羅の岬に綱をかけて引き寄せ、島根半島の西部とした時に用いた縄が「薗の長浜」であるとし、
杭としたのが「石見国と出雲国の境にある佐比売山」であるとする。
佐比売山は現在の三瓶山であり、写真の奥に霞んで見える山。
松林の砂丘が綱で、高山が杭。
これらの光景だけでなく、島根半島全域にわたる地理から「国引き伝承」を生み出した出雲人の発想のスケールは凄まじい。
それを可能とするだけのグローバルな活動を行っていたということだろう。

「薗の長浜」は、風土記編纂の時期にはすでに松が繁っていたが、神門郡の神門水海条には、
「今では年々砂に埋もれ、半分が残っている。恐らく、ついには埋もれてしまうであろう」
と、その消滅が危惧されている。
しかし、太平の江戸の世へと向かう慶長年間、防風林形成のために25,000本以上のクロマツがこの長浜に植えられたことで、
園の長浜は現在も松の繁った砂丘でありつづけている。
弁天島。 北のほうは海水浴場および大社漁港。
写真右手外の、砂浜から少し入った所には「潮掻島」があり、
8月13日の神事において大社の神職が潮を汲む場となっている。

奥のほうは日御碕になる。
因佐神社への道端にある、屏風岩。
大国主神と建御雷神がこの岩陰で国譲りの協議をおこなったと伝えられる。

長年の風雨にさらされてもろくなり崩れやすくなっているらしく、
近づかないようにとの警告標示がある。

鳥居前。
奥は長谷寺の境内になる。
因佐神社境内。
二本の小川を渡って参拝することになる。
因佐神社本殿。
小さいが、檜皮葺の立派な社殿。

この社に参拝する時、決して言葉をしゃべらず、そして振り向かない、
そうすれば祭神の神徳である武運に恵まれる・・・という話。
「若さって何だ」「振り向かないことさ」的なサムシングか。

伊努(いぬ)神社。

出雲市西林木町に鎮座。

『出雲国風土記』出雲郡の神祇官登録神社五十八所のうちには「伊努社」表記が四社、「伊農社」表記が三社の合計七社、
そして神祇官非登録神社六十四所のうちには「伊努社」が三社記されており、計十社。
神祇官登録神社については『延喜式』神名式、出雲国出雲郡五十八座のうち、
 伊努神社
 同社神魂伊豆乃売神社(おなじきやしろの かみむすひいづのめのかみのやしろ)
 同社神魂神社(おなじきやしろの かみむすひのかみのやしろ)
 同社比古佐和気神社(おなじきやしろの ひこさわけのかみのやしろ)
および、それに続いて記される、
 意布伎神社(おふきのかみのやしろ)
 都我利神社(つがりのかみのやしろ)
 伊佐波神社(いさはのかみのやしろ)
の七社がそれに相当すると考えられている。

『出雲国風土記』出雲郡伊努郷条には、

  伊努の郷。郡家の真北八里七十二歩。
  国引きをなさった意美豆努命(おみづののみこと)の御子、
  赤衾伊努意保須美比古佐和気能命(あかぶすまいのおほすみひこさわけのみこと)の社が郷のうちに鎮座している。
  ゆえに伊農という〔神亀三年、字を伊努と改めた〕。

と、地名由来伝承が記されており、伊努の郷の主神であったようだ。
同書の秋鹿郡伊農郷条には、

  伊農の郷。郡家の真西十四里二百歩。
  出雲の郡の伊農の郡に坐す、赤衾伊農意保須美比古佐和気命の后、天瓺津日女命(あまのみかつひめのみこと)が国を巡行なさった時、
  この所に来られて仰せになるには、
  「伊農波夜(いの〔ぬ〕はや。伊農よ、という慨嘆の言葉)」
  と仰せになった。ゆえに伊努という〔神亀三年、字を伊農と改めた〕。
   *秋鹿郡伊農郷=出雲市野郷町・美野町の辺り。

とあって、記紀には見えないが広範囲にわたって信仰された神であることがうかがえる。
これによると、出雲郡と秋鹿郡の伊農郷・伊努郷間で用字を入れ替えたようになっているが、
いったいどういうわけでそうなったのか。
秋鹿郡の神社条には、「伊努社」が神祇官非登録神社十六所のうちに記されており、現在の美野町に鎮座。
また、『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』が引く尾張国風土記逸文には、

  尾張の国の風土記〔中巻〕にいう。
  丹羽の郡。吾縵(あづら)の郷。
  巻向の珠城宮にて天下をお治めになった天皇(*垂仁天皇)の御世、
  品津別皇子(ほむつわけのみこ)は、生まれて七歳になっても口をきいて語ることができなかった。
  広く群臣に御問いになったが、誰一人良い意見を申し上げる者がいなかった。
  その後、皇后の夢に神があってお告げを下して仰せになるには、
  「わたしは多具(たぐ)の国の神で、名を阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)という。
  わたしにはまだ祭りを行う祝(はふり)がいない。もしわたしのために祭る人を充ててくれるならば、
  皇子はよくものを言い、また御命も長くなるであろう」
  と仰せになった。
  帝は、この神が誰で、どこにいるのかを探し出すべき人を占わせると、
  日置部らの祖、建岡君(たけをかのきみ)が占いに合った。そこで神を尋ねさせた。
  その時、建岡君は美濃国の花鹿山に到り、榊の枝を折り取って縵(かづら)に作り、誓約(うけひ)して、
  「わたしのこの縵が落ちるところに、必ずこの神がいらっしゃるだろう」
  と言ったところ、縵は飛び去ってここに落ちた。そこで神がここにおいでになると知り、社を建てた。
  この社の名(*「かづらのやしろ」)によって里に名づけた。後の人は訛って「阿豆良(あづら)の里」という。 
    (*『延喜式』神名式、尾張国丹羽郡二十二座の筆頭に「阿豆良神社」の名がある) 

とあり、「多具の国」とは、出雲国の島根郡から秋鹿郡に向け西流する多久川の流域とされ、
島根郡や楯縫郡に「多久神社」が鎮座し、この女神を祀っている。
これからすると、この夫婦神の信仰は出雲を飛び出して相当な広範囲に広がっており、
大国主命だけでない、様々な出雲の神が日本各地で信仰されていたことが知られる。

主祭神は赤衾伊努意保須美比古佐和気命で、
天之甕津日女命、神皇産霊尊、速秋津比売命、鵜葺草葺不合命、玉依毘売命、誉田別命、息長足姫命、武内宿禰命を配祀。
神皇産霊尊は同社神魂神社、速秋津比売命は同社神魂伊豆乃売神社を合祀しているということだろう。
それに、神武天皇の御両親である鵜葺草葺不合命と玉依毘売命の神社、そして八幡神社が合祀されているということになるか。


『出雲国風土記』出雲郡在神祇官社条には、「伊努社」がまず6番目に現れ、次に28~30番目に「伊農社」が来て、
48~50番目に「伊努社」が記されている。
風土記の社名表記順は神社の社格順に拠っているとされてきたが、
近年では、神祇官への登録が何次かにわたって行われた、その追加順の表記ではないかという説がある。
まず郡内の最重要の神社が登録され、そののちほかの神社が順次登録されていく中で、
既に登録されている神社の摂社も登録されていった、ということ。
そうすると、まず主祭神の「伊努社」が登録され、次に摂社の「伊農社」三社が登録され、その後さらに摂社の「伊努社」三社が登録されて、
残り三社については神祇官に登録されなかった、ということになり、
「伊農」「伊努」の用字については、「伊農社」三社は「伊農」→「伊努」の地名表記変更がなされる以前、つまり神亀三年以前の登録、
「伊努社」三社はそれ以後の登録、ということになる。
最初の「伊努社」は、祭神の表記が「赤衾“伊努”意保須美比古佐和気能命」であったのでそれに従ったのか、
風土記編修時に伊農を伊努に訂正したか。

鳥居前。
昔ながらの集落の中央に鎮座している。
拝殿および本殿。
境内社。
朱色の鳥居の稲荷社。
境内には遊具も設置されている。
境内の東側には、神木らしい木の前に注連縄を張り、
紙垂を下げていた。
脇に据えてある石には梵字の「マ」らしき文字が刻まれており、
神仏習合の名残がみられる。














社号は「いぬ」と読まれているが、
「努」は上代特殊仮名遣いの研究により「甲類ノ」に分類される字であって、「野」「怒」などとともに「ノ」と読むべきであるとされている。
つまり「伊努」は「イノ」と読むべきで、実際中世の訓では「野」「怒」「努」を「ノ」と読んでいるが、
賀茂真淵や本居宣長など近世の国学者が「ヌ」と訂正したことからそれが慣例になっており、
現在でも「野」「努」「怒」などを「ヌ」と読んでいる例が多い。
『古事記』には、出雲神話の中の大歳神の系譜の中に「伊怒比売」とあり、近年の出版では「いのひめ」と読まれている。
しかし『古事記』では、『出雲国風土記』で国引きを行った神「八束水臣津野命(やつかみづおみつののみこと)」とみられる神が、
須佐之男命の四世の孫「淤美豆奴神(おみづぬのかみ)」として現れている。
『出雲国内神名帳』では、伊努神社を「伊奴大明神」と表記しており、これは「いぬだいみょうじん」。
出雲では「甲類ノ」と「ヌ」の区別がほとんどなかったようだ。
また同文献では、『出雲国風土記』に「波禰社(はねのやしろ)」とある社を「波奴大明神(はぬだいみょうじん)」と記しており、
『出雲国風土記』意宇郡条にも、国引きを終えた八束水臣津野命が「意恵(おゑ)」と言ったために地名を「意宇(おう)」という、
という地名起源説話があり、
島根郡条には、「[虫居][虫者]島(たこしま)」を今の人は誤って「栲島(たくしま)」と言っている、とある。
オもエもウに収束しているような感じだが、昔の出雲の人は口をあんまり開けずにしゃべるスタイルだったのだろうか?


曾枳能夜(そぎのや)神社。

簸川郡斐川町神氷(かんぴ)
仏経山の北西麓に鎮座するが、現在は広域農道により仏経山とは隔てられている。
3km東に、358本の銅剣が出土したことで知られる荒神谷遺跡がある。

『出雲国風土記』出雲郡神祇官登録神社五十八所の一、曾伎乃夜社。
『延喜式』神名式、出雲国出雲郡五十八座の一、曾枳能夜神社。

祭神は伎比佐加美高日子命(きひさかみたかひこのみこと)。
向かいに聳える仏経山(標高366m)は『出雲国風土記』には神名火山(かむなびやま)と記され、以下の記述がある。

  神名火山。郡役所の東南三里一百五十歩。高さ一百七十五丈。周囲十五里六十歩。
  曾支能夜社が坐す。伎比佐加美高日子命の社がこの山嶺にある。ゆえに神名火山という。

もとは山の上に神社があったと思われるが、祭祀の利便のために山麓のこの地へ遷ったのだろう。
概して古代出雲では山上など、とにかく「高いところ」に神様を祀る傾向がある。
出雲大社も、古くは高さ約50mの高層建築であったと文献に記されている。
『大祓詞』の中に「国つ神は高山の末、低山(ひきやま)の末に登り坐して、高山のいほり、低山のいほりを掻き分けて聞こし食さむ」
とあるのは出雲の神々の祭祀のことだろうか。
『出雲国風土記』出雲郡漆治郷条には、

  漆治の郷。郡役所の真東五里二百七十歩。
  神魂命(かむむすひのみこと)の御子、天津枳比佐可美高日子命の御名をまた薦枕志都治値(こもまくらしつちち)といった。
  この神が郷の中に坐す。ゆえに志丑治(シツチ)という〔神亀三年、字を漆治と改めた〕。正倉がある。

と、鎮座地は祭神の別名から名づけられたという伝承を記す。
神名の別名のうち、薦枕は「シ」や「タカ」にかかる枕詞で、最後の「値」の「チ」は神霊の意。
薦枕なるシツチの神霊という意味。つまり土地の名を冠する、土地神ということになる。
そして神名には「アマツ」とつくので、天に起源する神。

『古事記』垂仁天皇記には、

  皇子である本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)は尾張の木を用いて作った舟を大和の池に浮かべ、それに乗って遊んだが、
  長じても物を言わなかった。
  ある時、飛ぶ鳥を見て声を発したが、これを捕らえて献上しても声を発しなかった。
  困った天皇は、ある日の夢に「わが宮を修理して天皇の宮殿のようにすれば、御子は必ず言葉を喋るであろう」
  という神の諭しを受ける。
  占いによってその祟りは出雲大神の御心であると出たので、
  御子に従者をつけて出雲大神の宮を拝みに行かせたが、
  大神を参拝し終えて帰るとき、斐伊川の中に仮宮を建てて滞在した。
  この時、出雲国造の祖・岐比佐都美(きひさつみ)が、
  川下に出雲大神を祭る青葉の山を模した祭庭をしつらえて御食事を奉ると、御子は、
  「あの、川下にあって青葉の山のようなものは、山に見えて山ではない。
  もしや、出雲の岩隈(いはくま)の曾宮(そのみや)に坐す、
  葦原色許男大神(あしはらしこをのおおかみ。大国主命の別名)を奉斎する祝(はふり)の祭りの庭か」
  と言葉を発した。

という話が収録されている。

この岐比佐都美と枳比佐可美(きひさかみ)の音は似ており、
また、この話自体も、『出雲国風土記』仁多郡三沢郷条の、

  大神大穴持命の御子、阿遅須伎高日子命(あぢすきたかひこのみこと)が長じても昼夜泣き通して言葉を喋らないので、
  船に乗せて各地を巡幸し、楽しませようとしたが、なお泣き止まなかった。
  困った大神は夢のお告げに頼ることにしたが、その夢の中で御子が言葉を喋った。
  起きてから御子に訊ねてみると、御子は「みつ」と言った。
  「どこをそういうのか」と訊くと、御子は石川を渡り、坂の上に至って「ここです」と言った。
  その時、その泉の水が流れ出し、その水で禊をなさった。
  ゆえに、国造が神賀詞(かむよごと)を奏上しに朝廷に参向するとき、清めにその水を用いる。
  このため、妊婦は今もその村の稲を食べない。もし食べる者があれば、産まれた子はすでにものを言う。

という話と、
*御子が物を言わない
*御子が船に乗って遊んだ
*父の夢において事態が展開する
*大国主神に関連する
*言葉を発する状況に水が関係する
*出雲国造の朝廷への奉仕について語る
というモチーフにおいて共通する。

本牟智和気命の出雲参拝記事は『日本書紀』にはなく、

  皇子が飛ぶ鵠(くぐい。白鳥か)を見て「あれは何か」と言葉を発したので、
  天湯河板挙(あめのゆかわたな)が飛ぶ鳥を追いかけ、出雲にて捕らえて献上したところ、
  皇子はそれを飼って遊び、ついに喋れるようになった。
  そこで湯河板挙に厚い恩賞を与え、姓を与えて鳥取造(ととりのみやつこ)とし、
  各地には鳥取部、鳥養部、誉津部を定めた。

という話で、鳥を捕らえてめでたしめでたし、となっているが、鳥を捕らえたところが出雲となっていて、
やはり出雲との関連がある。
古くは出雲国造が天皇の代替わりごとに朝廷に参向して『出雲国造神賀詞』を奏上し、
天皇の御世の長久を祈願していたが、『延喜式』臨時祭式によればその時の献上物の中に「白鵠(しろきくぐひ)二翼」があった。
神賀詞には「白鵠(しらとり)の生御調(いきみつき。生きた貢物)の玩(もてあそ)び物と」とある。
ちなみに、この時に各地にできた鳥取部のひとつが、現在の鳥取県の県名の由来となった。

この近隣には神庭荒神谷遺跡があり、大きな勢力がこの地域に存在していたことがわかっている。
それが出雲国造一族の祖と関連があるのかどうか。
当社では、『古事記』に「出雲の岩隈(いはくま)の曾宮(そのみや)に坐す葦原色許男大神」とある「曾宮」をこの仏経山とし、
ここが出雲大社の旧鎮座地であるとしている。

『出雲国風土記』出雲郡の神社条には、
「曾伎乃夜社」の二社あとに「審伎乃夜社(そきのやのやしろ)」の名があり、
『延喜式』神名式には「曾枳能夜神社」に続いて「同社坐韓国伊太氐神社(おなじきやしろにいますからくにいたてのかみのやしろ)」の名がある。
現在、境内の本殿後方に韓国伊太氐神社が祀られており、素戔嗚尊、五十猛命を祀っている。
また、『出雲国風土記』出雲郡の神祇官非登録神社六十四所の中に「支比佐社(きひさのやしろ)」の名があり、これも境内社として祀られている。
中世には、仏経山上に曾枳大明神・山上大明神・権現社の三社として祀られていたという。


境内前より、仏経山。
戦国時代、尼子経久がこの山に十二寺を建立して山の名を「仏経山」と改めた。
神の山であり、仏の山ともなった霊地。
山頂からは出雲平野を一望できる。
鳥居。 石段を上っていく。
境内。正面に拝殿、後方に摂社が並ぶ。 拝殿前には岩神と、その後方に石祠。

岩神は神魂伊能知奴志命(かんむすひいのちぬしのみこと、
神皇産霊尊のこと。主祭神の御祖神)を祀る。

石祠は「釜神社」という社号で、
猿田彦大神、磐長姫命、塩土老翁命を祀る。
まだ新しいが、これはもとは神氷字宮谷に鎮座していたこの社が、
平成20年に島根県の防災工事によってこの地に遷座してきたため。
かつては川の上に座を設けて神事を行っていたという。
拝殿脇の木は、日御碕大神の拝所となっている。
本殿。
主祭神のほか、
明治末年に字宮谷に鎮座していた熊野神社を合祀している。
本殿脇の出雲大神社。
本殿後方には、

韓国伊太氐神社、
支比佐社(風土記所載、出雲郡神祇官非登録神社)、
若宮社

が並ぶ。



立虫(たちむし)神社、
および万九千(まんくせん、まくせ)神社。

斐川町併川、
斐伊川東岸、国道9号線(山陰道)のすぐ北に鎮座している。

境内に南向きと西向きのふたつの神社が並んでおり、
南向きの神社が立虫神社で、西向きの神社が万九千神社。

立虫神社は、
『出雲国風土記』出雲郡神祇官登録神社五十八所の一、立虫社。
『延喜式』神名式、出雲国出雲郡五十八座の一、立虫神社。
に比定される。
祭神は五十猛命(いたけるのみこと)、大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、抓津姫命(つまつひめのみこと)。
日本中に木種を蒔き緑の大地を生み出した、素戔嗚尊の御子の兄妹三神を祀る。

万九千神社は、
『出雲国風土記』出雲郡神祇官登録神社五十八所の一、神代社。
『延喜式』神名式、出雲国出雲郡五十八座の一、神代神社。
に比定されている。
祭神は、櫛御気奴命(熊野大神)、大穴牟遅命、少彦名命、八百万神。
なお神代神社については、斐川町神庭の神代神社も論社となっている。

二つの式内社が境内に鎮座しており、向きを違えて隣接している、珍妙な形。
もともとは万九千神社だったところへ、斐伊川流域に鎮座していた立虫神社が川の氾濫による流域変更により遷座してきたと伝えられるが、
現在は立虫神社が本社で、万九千神社が摂社となっている。

旧暦の十月、出雲でいう「神在月」においては、この社においても神迎え・神送りの神事が行われる。
この期間は「お忌みさん」といい、地元民は忌み籠り、日常生活全般を慎む。
特に神がお発ちになる「神等去出(カラサデ)」の夜は音を立てず、外出もしない。
この地の小字名は「神立」といい、その日は旧暦11月26日とされ、神等去出祭が執り行われる。
現在出雲で行われている神在祭では一番最後に神等去出祭が行われるため、
一般には、出雲国内各所で会議を行った神々が最後にここへ集い、還っていくと紹介されている。
実際には、神等去出祭を行う各神社において独自に神迎え・神送りの行事を行っており、
往古はどこも一か月間の斎戒を行っていたと考えられている。
神在祭を行う神社は概ね、

「出雲神戸」(熊野大社および出雲大社の経営を支えるための生産を行う人々、またその居住地)
「神名火山」
「川あるいは海」

の三要素を満たす場所に鎮座しており、
これは、現在も佐太神社が行っているように、
川もしくは海から寄り来る神々を迎えて饗宴し、山から還っていただくという、
自然に根ざした古い神祭りの形式を今に伝えていると考えられている。
当社も、大社の鎮座する出雲郡の「神戸郷」内、曾枳能夜神社の鎮座する「神名火山(仏経山)」の近くの、「斐伊川」の東岸に鎮座している。

神社前の鳥居。
以前この一帯は一面の田園地帯だったが、
現在は宅地造成されていてかつての面影はなくなっている。
もともとの参道はもう少し西のほうにあったようだ。
山陰道から延びていたのだろう。
境内入口。正面に立虫神社。 立虫神社拝殿のすぐ右手に万九千神社拝殿がある。
万九千神社には本殿はなく、拝殿後方には石柱が立っているのみ。
ここは神々が鎮まるところではなく出立の場であり、
社殿は必要ないということだろう。
立虫神社本殿。
境内には多くの摂末社が鎮座している。
各々の社には社号が標示されているので、わかりやすい。

*荒神谷遺跡。

簸川郡斐川町神庭(かんば)。
昭和59年(1984)7月、広域農道建設予定地を埋蔵文化財調査のために工事に先立って発掘していたところ、
低い丘陵に囲まれた小さな谷の斜面中腹から大量の銅剣が出土した。
それらの剣は整然と並べられており、その総数は実に358本。
この数は、それまで全国の遺跡から発見されていた銅剣の総数をはるかに上回っており、
それが一ヶ所からまとめて発見されるという、まさに衝撃の大発見となった。
翌年の発掘においてさらに銅矛16本と銅鐸6個が発見され、
それから間もなくの昭和62年、この遺跡は国の史跡に指定され、出土青銅器はすべて国宝に指定された。
平成7年には一帯が整備されて神庭荒神谷遺跡公園となり、今に至る。
この遺跡の銅剣、そして加茂岩倉遺跡の銅鐸の大量出土により、
それまでの「北九州中心の銅剣文化圏・近畿中心の銅鐸文化圏」という定説は打ち砕かれた。

研究により、銅剣は出雲産、銅矛は北部九州産、銅鐸は近畿周辺産とみられ、埋納時期は1世紀ごろと考えられている。
これは邪馬台国に先行する時代であり、
その時期には広い交流範囲を持つ強大な勢力が出雲に形成されていたことがうかがえる。
なぜこの地にこれらが埋められたのか、詳しいことはわかっていない。
埋納箇所の周囲には柱跡が見つかっていて、埋納箇所を覆うような建造物があったとみられ、
なんらかの祭祀にかかわるものであったかと推定されている。
大和の石上神宮は、明治初年まで本殿はなく禁足地を拝する形式であり、禁足地を発掘したところ、そこから剣などが出土した。
ここもそのように、宝物を埋めた一角を神聖な場所として祭祀する形式であったのだろうか。
それにしてもなぜ、これほど大量の銅剣を一括埋納するに至ったのか。
その理由は、現在では全くわかっていない。今後の発掘研究がまたれる。

もともとは谷あいの地だったが、現在は公園に整備されている。 「二千年ハス」が大量に植えられている。
ハスの横を歩いて遺跡へ。ちょっとばかり歩く。 あった。
ヘビもいた。
荒神谷遺跡。
発掘当時の状況を再現している。ちょうど真正面のところで銅剣が発掘された。
上から。
左の階段の上、ブルーシートのところで銅剣が出土。
右側の階段の辺りで銅矛・銅鐸が発見された。


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