にっぽんのじんじゃ・しまね

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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神魂伊能知奴志神社 大穴持御子神社 上の宮・下の宮・
大歳社
伊奈西波岐神社 湊社

神魂伊能知奴志神社(かみむすひいのちぬしのかみやしろ)。

出雲市大社町杵築東
北島国造館より50mほど東に鎮座する。

出雲大社摂社。
『出雲国風土記』出雲郡の神祇官登録神社五十八所のうち「企豆伎社(きづきのやしろ)」六社のいずれか、
『延喜式』神名式、出雲国出雲郡五十八座の一、
杵築大社の「同社神魂伊能知奴志神社(おなじきやしろのかみむすひいのちぬしのかみのやしろ)」に比定。
通称は「命主社(いのちぬしのやしろ)」。

祭神は神皇産霊尊(かみむすひのみこと)。
天御中主尊・高皇産霊尊とともに天地開闢の時の「造化三神」の一であり、
万物の生成の力である「むすひ」の神。
「むす」は、『古事記』には「高御産巣日神」「神産巣日神」のように「産巣」の、『日本書紀』には「産」の字を当てられ、
「産巣」という『古事記』の用字から元来の形は「ウムス」であると考えられ、
現在の「むす」のような「生える」意ではなく、「産み出す」の意。
「ひ」は「霊」の意味であり、
つまり「むすひ」とは、「生産の神霊」の意。
『古事記』における神産巣日神は、高天原には作用せず専ら葦原中国に様々な恵みを与える神として表現されている。
たとえば、

  高天原を追放される須佐之男命が、八百万神に食べ物を請われて口や尻などから食物を出していた大気都比売神の姿を見て、
  「こいつ、汚して奉ってやがるぜ」と思ってこれを殺したところ、その全身から蚕や五穀が成ったため、
  神産巣日御祖命(かみむすひみおやのみこと、神皇産霊尊)はこれを須佐之男命に取らせた。

  大穴牟遅神(大国主命)が因幡の八上比売を娶ったことで兄の八十神たちは大いに妬み、
  八十神は伯岐国の手間の山本に狩りと称して大穴牟遅神を連れ出し、「赤い猪を追い出すから捕らえよ」と命じて、
  偽って火で焼いた猪形の大石を落としたため、それを捕らえようとした大穴牟遅神は焼石に焼き付けられて死んでしまった。
  大穴牟遅神の母神である刺国若比売(さしくにわかひめ)は嘆き悲しんで天に参上し、神産巣日之命に申し上げると、
  神産巣日之命は[刮+虫]貝比売(きさかひひめ)と蛤貝比売(うむかひひめ)を遣わして蘇生させた。
       
  大国主神が出雲の美保の岬にいる時、
  波間から天の羅摩(かがみ。ガガイモ)の船に乗り、雁の皮を剥いで衣として寄り来る神がいた。
  その名を問うたが、答えなかった。従う諸神に問うても、皆知らなかった。
  その時、たにぐく(*ヒキガエル)が、久延毘古(くえびこ)が必ず知っているでしょう、と申し上げ、
  久延毘古を召して問うたところ、これは神産巣日神の御子、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)であります、と申し上げた。
  そこで神産巣日神に申し上げたところ、答えて仰せになるには、
  「これはまことにわが子である。子の中で、わが手の指の間からくぐり抜けていった子である。
  この子は、おまえ葦原色許男命と兄弟となり、その国を作り堅めるであろう」
  と仰せになった。
  これより、大穴牟遅と少名毘古那の二柱の神はいっしょにこの国を作り堅めた。

  国譲りが成った後、大国主神は出雲国の多芸志(たぎし)の小浜に天の御舎(みあらか)を造り、
  水戸神(みなとのかみ)の孫の櫛八玉神(くしやたまのかみ)を調理人として天の御饗(みあへ)を奉った時、
  櫛八玉神は鵜となって海の底に入り、海底の粘土をくわえ出してきて天の八十びらか(平たい土器)を作り、
  海布(め。わかめ・あらめなどの類)の茎を刈って火を鑽る(起こす)ための臼を作り、
  海蓴(こも。ホンダワラか)の茎で火を鑽るための杵を作り、
  火を鑽って言うには、
    この、わたしが鑽る火は、
    高天原に向かっては神産巣日御祖命のとだる(*「十足る」で、満ち足りて立派な、の意)天の新巣(にひす。新しい住居)に
    煤が長く垂れるほどに焼き上げ、
    地の下に向かっては、底つ磐根(そこついはね。地底の大磐石)に至るまで焼き固めて、
    楮縄(たくなは。コウゾの木皮繊維で作った縄)の千尋の縄を張り伸ばし、
    釣りをする海人が、口の大きな尾のぴんと張った立派なスズキをざわざわと音を立てて引き揚げ、
    たわわに、天の真魚咋(まなぐひ。魚料理)をたてまつります。
  と申し上げた。   

また『出雲国風土記』では、島根郡法吉郷条に、
  神魂命(かみむすひのみこと)の御子、宇武賀比売命(うむかひめのみこと)が法吉鳥(ほほきどり。ウグイス)になって飛んできて、
  ここに鎮まられた。ゆえに法吉(ほほき)という。
とあり、同郡加賀神埼条には、
  窟がある。(中略)〔いわゆる佐太大神(さだのおほかみ)のお生まれになったところである。
  お生まれの時にあたって、弓矢が失くなってしまった。
  その時、御祖神魂命の御子、枳佐加比売命(きさかひめのみこと)が、
  「わが御子が摩須羅神(ますらのかみ。雄々しく立派な神)の御子であれば、失くなった弓矢が出てきますように」
  とお祈り申し上げた。その時、角(獣角)の弓矢が水の流れのまにまに流れ出てきた。
  その時、弓を取って、「これは弓矢ではない」と仰せになり、投げ捨てられた。
  また、金の弓矢が流れ出てきた。そこで待ち受けてお取りになり、「暗い窟(いわや)であることだ」と仰せになって、射通された。
  そこで、御祖枳佐加比売命の社がここに鎮座している(*加賀神社)。
  今の人は、この窟のほとりを行くとき、必ず声を轟かして行く。もし密かに行けば、神があらわれてつむじ風が起こり、行く船は必ず覆る〕

とあって、大国主命を蘇生させた両女神は神皇産霊尊の御子神であったことがわかる。
神皇産霊尊は生産の力、命の神であり、その御子も貝の霊力の神格化であって、命をよみがえらせ、命を生み出す女神だった。
『出雲国風土記』楯縫郡条には、
  神魂命が仰せになるには、
  「わが十足る(とだる。満ち足りた、の意)天の日栖(ひすみ)の宮の縦横の尺度は、千尋の楮縄を百八十箇所も結びに結び下げているが、
  この天の尺度をもって、天の下をお造りになった大神の宮をお造り申し上げよ」
  と仰せになり、御子の天御鳥命(あまのみとりのみこと)を楯部として天からお下しになった。(後略)
とあり、出雲大社造営の命を出したのは神皇産霊尊とし、その尺度は神皇産霊尊の天日栖宮にもとづくとされている。
出雲郡においては、
漆治郷条には、神魂命の御子・天津枳比佐可美高日子命(あまつきひさかみたかひこのみこと)がこの郷に鎮座しているとあり(曽枳能夜神社)、
宇賀郷条には、神魂命の御子・綾門日女命(あやとひめのみこと)に大国主命が求婚した伝承を記している。

神皇産霊尊の後裔氏族として著名なのは、紀伊国造家である紀氏、そして京の賀茂社を管掌した山城賀茂氏。
また、県犬養氏などもそう。

大社から東に隣接してある、
北島国造館。
古来、出雲国造として千家家とともに大社を支えてきた、
北島家の館。
北島家が主宰する「出雲教」の本部でもある。

大社の宮司職は千家家と北島家の両家が務めていたが、
近代以降は千家家が務めている。

昔、この場所には、
南北朝期に建立された大社の神宮寺が置かれていたが、
江戸時代初期の神仏分離により他所に移転している。
北島国造館の前を過ぎてしばらく進んだ、
左手の路地の向こうに見える。
社殿。
手前には樹齢千年といわれる巨大なムクノキが立っている。
本殿の背後には「真名井遺跡」があり、
その地は垣で囲まれ、石畳の中に榊と石祠が立ち、参拝時には真新しい榊が捧げられていた。

命主社の背後、つまりこの場所にはもともと巨大な岩があった。
寛文五年(1665)、出雲大社の御造営時にこの岩を石材として切り出したところ、
その下から銅戈や硬玉勾玉などが発見された。
これらは神宝として大社に伝えられ、昭和28年に国の重要文化財に指定されている。
これらの遺物は祭祀に用いられたものであり、
石の下に祭祀遺物があるというのは、福岡県の宗像大社の沖ノ宮にもその例が見られ、
大岩を磐座(いわくら)として神の降臨の場とし、祭りを行うという古い祭祀形式。

これらの出土品は研究によって1世紀のものとされており、
この場所における祭祀はきわめて古い時代から行われていたと考えられる。
これは「邪馬台国」の時代よりゆうに百年以上昔の事で、出雲の歴史の古さを感じることができる。
青銅器と勾玉が供伴する埋納は他に例が無く、出雲国内における銅戈の出土例はこれが唯一。
銅戈は北九州産、翡翠製の勾玉は新潟県糸魚川産と判定されており、
その頃にはすでに出雲が北九州や上越地方と交流をもっており、
この場所では、それぞれの地で造られた祭具をもって祭祀が行われていた、ということになる。
他に類をみない出土例であることから、
この埋納にはそれだけの強い思いが込められていたことがうかがわれる。

出雲と北九州との交流は、大国主神が宗像三女神の一・多紀理毘売命を娶ったことにあらわされており、
越との交流は、同じく高志(越)国の沼河日売を娶ったことにあらわされている。
あるいはこの場所で、その二女神に関わる祭祀が行われたことがあったのだろうか。

銅戈と勾玉は大社の宝物殿に収蔵されており、
平成24年度に京都国立博物館および東京国立博物館で開催された出雲展にも出展された。
寛文御造営当時の記録によれば、同時に剣・鉾の類が少なくとも四本出土したとされているが、
それらがどうなったかは不明となっている。
ムクノキの下部。
何とも言いようのない生々しい生命力を感じる。

「真名井遺跡」というのは、この一帯の字を「真名井」というためで、
命主社の東に真名井という湧水があって、古来、大社の祭に供されている。

真名井。
一般の人も水を汲んで帰ってOK。

大穴持御子神社(おおなもちみこのかみやしろ)。

出雲市大社町杵築東
大社の西荒垣と神楽殿の間、素鵞川沿いの道を北へてくてくてくてくと約1㎞ほど登っていった先に鎮座する。
この道をずっと進むと山を越え、日本海に面した港町、鷺浦へと達する。

出雲大社摂社。
『出雲国風土記』出雲郡の神祇官登録神社五十八所のうち「企豆伎社(きづきのやしろ)」六社のいずれか、
『延喜式』神名式、出雲国出雲郡五十八座のうち、
杵築大社の「同社神大穴持御子神社(おなじきやしろのかむおほあなもちのみこのかみのやしろ)」
に比定される。
通称は「三歳社(みとせのやしろ)」。

祭神は、事代主神・高比売神・御年神の三座。
事代主神と高比売神は大国主神の御子。
事代主神は託宣を司る神であり、国譲りにおいては大国主神の意思を代弁して高天原の使者に奏上、
その後は国つ神をまとめて天孫に仕える役割を担い、大和においては、葛城の豪族・葛城鴨氏によって崇拝された。
『出雲国造神賀詞』においては、天皇を守護する四柱の神の一として大和の「宇名提(うなて)」に鎮座しているとされ
(『延喜式』神名式、大和国高市郡の高市御縣坐鴨事代主神社。現在の橿原市雲梯〔うなて〕町に鎮座する河俣神社に比定)、
宮中においては、神祇官に祀られる八神、いわゆる「宮中八神」の一となり、天皇の守護神として重んじられた。

高比売神はその異母妹で、豊穣を掌る女神。
大国主神と宗像三女神の一・多紀理比売命との間の子で、
『古事記』に「迦毛大御神(かものおほみかみ)」と称えられる大国主神の長子・味耜高彦根神(あぢすきたかひこねのかみ)の実妹。
別名を高照姫あるいは下照姫といい、
国譲りの使者として天下ってきた天稚彦(あめわかひこ)と結婚したことが記紀にみえる。
天稚彦は彼女と結婚したことで大国主大神の後継者になろうという野望を抱き、結果的に命を落とすことになった。

御年神は、素戔嗚尊の御子である五穀豊穣の神・大年神の御子。
父神と同じく五穀豊穣の神であり、大和においては葛城鴨氏によって「葛木御歳神社」の主祭神として祀られ、
五穀豊穣を祈願する律令制下の国家的祭祀「祈年祭」において第一に祭られる神として高く崇敬された。
そこでは高照姫神をも併せ祀っている。

当初は事代主神・高比売神の二柱を祀っており、のちに御年神を併せ祀って「三歳社」と称したと伝える。

普段参拝する人はまれだが、
一月三日午前一時より当社で「福迎神事」が斎行される時には大勢の人々が参拝し、
祭典後に福柴・福茅を戴いて、一年間の開運・幸運を祈る。
鎮座地は険しい山々に分け入る入口、いわゆる「山口」の地であり、
古くは山を祭って、山の幸が豊かに得られるよう、山から流れ出る水により五穀豊穣が成されるよう祈願する場だったのだろうか。

西荒垣の外の道を北へ。 大社作業場。
そこを過ぎると、道端に石碑が。 「右 八雲の瀧」とある。
ここを右折し、小川を遡ってゆくと、
八雲山の麓より流れ落ちる「八雲の滝」に出遭う。
三歳社へはここで曲がらず、なお真っ直ぐに行く。
スカウト活動センター前を過ぎる。 素鵞川を渡り、さらに上へ。

右手に下る道があるが、こちらを通っても行くことができる。
ただし、舗装されていない。
撃たれないよう気をつけなきゃ・・・ なお上へ。
鋭い右ヘアピンカーブを過ぎると、右下へ下りてゆく道がある。
この先が三歳社。

この辺り、どこからか数多くの蜂の羽音が聞こえていた。
スズメバチの巣とかあったらやだなあと、足早に移動。
深い森の中で、いかにもありそう。

この舗装道路をひたすら行くと、鷺峠を越えて、
摂社・伊那西波伎神社が鎮座する鷺浦に達する。
到着。
三歳社本殿。
八雲山の方を向いて建っている。
あるいは、当地における祭祀の始まりは、八雲山の御子神としてのものだったかもしれない。
神社からはまだ下へと降る道があり、
その先には素鵞川を渡る石橋がある。
石橋を渡って素鵞川沿いに右へ行けば、
6枚前の写真の場所に戻る。


上の宮(かみのみや)。

出雲市大社町杵築北に鎮座。
出雲大社前の道路を西へ向かい、出雲阿国の墓、そして奉納山を過ぎると大社の摂社・大歳社が鎮座しているが、
そこから右へ下ってゆく小路の右手に鎮座する。
「上の宮(かみのみや)」は「仮の宮(かりのみや)」が転じたもので、この一帯の字名は「仮の宮」という。

出雲大社摂社。
旧暦十月十日、稲佐の浜にて海から寄り来る神々を迎える「神迎祭」が行われた後、
神々の先導である海蛇「龍蛇神」と神々は大社に鎮祭され、神々はそれから十七日まで会議を行うとされているが、
その会議が行われるのがこの「上宮」であるとされ、
日中は上宮で会議を行い、夕刻になると大社の東西十九社にお帰りになるという。
この間、周辺に住む人々は神々の会議を邪魔せぬようにと忌み慎み、ひっそりと生活する。
そのため、神在祭は別名を「お忌みさま」という。
この場合の「忌む」とは、「清浄にして慎む」という意味。
往古の神在祭は一か月にわたる長期間だったが、時代が下るにつれ一か月もの間忌み慎んで生活することが難しくなってきたため、
現在では一週間ほどに短縮されている。

祭神は素盞嗚尊、八百万神。
通常は素盞嗚尊を祀る神社で、神在祭期間中は八百万神が加わるということ。

出雲大社から西へ向かう。
右手には、出雲大社の経営する神職養成所「大社国学館」、
そして島根県神社庁がある。
左手に、出雲阿国の墓がある墓地。
出雲大社摂社・大歳社(おおとしのやしろ)。
大歳神は素戔嗚尊の御子神であり、五穀の稔りを司る神。
「とし」とは、もともとは「五穀の稔り」を意味する言葉で、これが「耕作のサイクル」を表す言葉となり、
最終的には現在一般的に用いるところの「年期」を表す言葉となった。

稲佐の浜の手前であり、奥には日本海がみえる。
大歳社の右手の小路へ入る。 ほどなく到着。
上の宮。
神門・拝殿・本殿を備え、小社ではあるがゆったりとした境内。
神門。
臨時の授与所が置かれ、神職さんらが対応に忙しい。
ただ、若い女性の参拝者が多いので苦にはならない、はず。
拝殿および本殿。
上の宮の西の道向かいには、下の宮が鎮座する。
祭神は、素戔嗚尊の姉神で高天原の主宰神である天照大神。

伊奈西波岐(いなせはぎ)神社

大社から北へ向かって山々を越えた先の閑静な港町、
出雲市大社町鷺浦に鎮座。

出雲大社摂社。
『出雲国風土記』出雲郡の神祇官登録神社五十八所のうち「企豆伎社(きづきのやしろ)」六社のいずれか、
『延喜式』神名式、出雲国出雲郡五十八座のうち、
杵築大社の「同社大穴持伊那西波伎神社(おなじきやしろのおほあなもちいなせはきのかみのやしろ)」
に比定される。

祭神は稲背脛命(いなせはぎのみこと)。
『日本書紀』が伝える国譲りにおいて、天神の使いである経津主命が大己貴神に国を譲るか否かを問うた際、
大己貴命は自分では答えずに息子の事代主命が答えるであろうと言い、
稲背脛を熊野諸手船(くまのもろたぶね)、またの名を天鴿船(あまのはとふね)に乗せて、
美保に釣りに出ている事代主命のもとへ返事を聞きに行かせた、とある。
つまり、国譲りの言葉を聞く使者であり、『古事記』にみえる天穂日命の御子、天夷鳥命(あまのひなとりのみこと)と同一視される。
この神社には、稲背脛命のほか、
 八千矛神(やちほこのかみ。大国主命の武神としての別名)
 稲羽白兎神(いなばのしろうさぎのかみ)
 稲羽矢上比売命(いなばのやがみひめのみこと)
を配祀する。
「因幡の素兎」の神話に登場する因幡の兎と姫がここに現れるのは不思議だが、
この鷺浦と東の鵜峠(うど)を総称して地元では「鵜鷺(うさぎ)」と呼んでおり、そこからの連想か。
あるいは、鷺浦は湾の出口付近に柏島という島があって日本海の荒波が湾内に入ってきにくい良港であるため、
近代に至るまで商船の立ち寄る港町として栄えていたので、その縁で因幡の信仰が入ってきたのだろうか。

この神社は、その奥まった立地に関わらず「鷺大明神」「鷺宮」として広く知られており、「疱瘡除け」の神様として信仰されていた。
疱瘡とは天然痘のこと。
松江藩主松平侯は江戸の雑司が谷や大阪の土佐堀の藩屋敷に鷺大明神を勧請し、それによって鷺大明神の信仰は日本中に広まっていた。
雑司が谷の鷺大明神は、近代になって大鳥神社という社号となり、今に至る。
野田泉光院という修験僧が文化九年(1812)から文政元年(1816)にかけて日本中の名峰を巡り歩いて記した『日本九峰修行日記』には、
彼がこの地を訪れた時の事が記されている。

  (*日御碕から)元の道に戻って二十丁ばかり、そこから左に折れて山中へ入ること二里、
  また海辺へ出て鷺大明神という社に詣で、納経した。
  これは疱瘡の守護神日本第一であるという。
  御大内(*宮中の人々)が疱瘡の時は御代参が詣でる、と社主は話した。
  また近隣の村の者は疱瘡に罹る前にこの社段(*境内)の石を申し受けて帰り、
  疱瘡が去ると返すということであった。
  私も小石一つを拾ってきた。
  御殿は東北向きである。
  それから杵築まで二里の峠(*鷺峠)があり、大社の後ろへ出る。  

また、『鷺大明神疱瘡守護之記略辞』という文献には、この風習に基づく疱瘡除けの歌が載せられている。

 イモハシカ カロキオモキモ ヘダテナク マモラムサギノ カミニワノイシ
  (疱瘡〔いも〕・麻疹〔はしか〕、軽き重きも隔てなく守らむ鷺の神庭の石)

あるいは、「疱瘡守御笠」というものがあって、子供がまだ疱瘡にかからないうちにこの笠を被らせると疱瘡にかからないとされていた。
これは「瘡(かさ)」と同じ読みの「笠」を用いて病を防ぐという、いわゆる言葉遊びのまじない。
また、本居宣長の『古事記伝』によれば、一般の大人も疱瘡にかかるとこの笠を神社から借りて帰って神棚に祭り、
全快の後にはもうひとつ笠を作って、借りてきたものとあわせて二つを神社に返納する習慣があったようで、
そのために神社の笠はどんどん増えていったという。

この社が疱瘡除けの神となったのは、祭神の一である因幡の素兎が大国主命によって肌を癒されたという神話に基づくのだろう。
天然痘は全身にひどいできものがあらわれて高熱を発し、たとえ快復してもひどいあばたが残るという恐ろしい病であって、
それだけに人々は疱瘡除けの神様の御利益を熱心に祈っており、
鷺大明神のほかにも鍾馗や桃太郎、
そしてわが国の最強武将(スーパー系)である鎮西八郎為朝などが疱瘡除けの神として信仰されていた。
天然痘はエドワード・ジェンナーの開発した種痘法の広まりによって1980年に根絶が宣言され、今では疱瘡除けにお参りに来る人はいなくなったが、
現在は皮膚病全般に効験があるとして信仰されている。

石鳥居。
大社の摂社、そして全国に知られた神徳の社、
またかつては栄えた港町であったことから、
構えの良い境内。
神門前。奥に拝殿がみえる。
拝殿ほかの建物に明かりがついており、
何かの行事が行われているようだったので、
中に入るのはやめた。

あとで調べたところ、この日は「鷺浦荒神祭」の日で、
境内の荒神社および恵比須社で祭りが行われる日だった。
朝から藁で巨大な大蛇を作り、
夕刻に祭典を行って御神酒を頂いたのちにその大蛇を人々が抱えて境内を暴れ回り、
最後に椿の木に巻きつけて神事が終わる、というもの。
迂闊に入らなくてよかった。

湊社(みなとのやしろ)。

出雲市大社町中荒木(字・湊原)に鎮座。

『出雲国風土記』出雲郡の神祇官未登録神社六十四所の一、「支豆支社(きづきのやしろ)」に比定。

出雲大社摂社。
現在はやや内陸に鎮座しているが、
この地はもともと出雲平野南部に広がっていた広大な湖「神門水海(かむどのみつうみ)」が海に注ぐところ、
「水戸(みなと)」の地であったと考えられている。
祭神は櫛八玉神(くしやたまのかみ)。
『古事記』において、国譲りの協定が成った後、多芸志(たぎし)の小浜に天之御舎(あめのみあらか)を造り、
水戸神(みなとのかみ)の孫である櫛八玉神を膳夫(かしはで。調理人)として天之御饗(あめのみあへ)を献上したとする。

  そこで、(建御雷神は)また帰ってきて、大国主神に問うて、
  「おまえの子たち、事代主神・建御名方神の二柱の神は、天つ神御子の命に従って違う事はないと申し終わった。
  そこで、おまえの心はどうか」
  と問うた。そこで答えて申すには、
  「わたしの子ども二柱の神が申す通りに、わたしは違う事はありません。
  この葦原中国は、命の通りにすっかり献上いたしましょう。
  ただ、わたしの住処だけは、天つ神御子が天津日継をお伝えになる天の住居のように、
  底つ磐根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりてお祭りくだされば、
  わたしは、百足らず八十隈手(やそくまで。たくさんの曲がり角を経て行った果て、の意)に隠れて居りましょう。
  また、わたしの子ども百八十の神は、八重事代主神が諸神の先頭に立ち、また後方に立ってお仕えするならば、
  背く神はありますまい」
  と、このように申して、出雲国の多芸志の小浜に天の御舎を造って、
  水戸神の孫、櫛八玉神を膳夫として、天の御饗を献上した時、祝福の言葉を申し上げて、
  櫛八玉神は鵜となって海の底に入り、底の粘土をくわえて出て、天の八十甕(やそびらか。多くの平たい土器)を作り、
  海布(め。ワカメなどの海藻)の茎を刈り取って火を鑽(き)り出す臼を作り、
  海蓴(こも。海藻。ホンダワラか)の茎をもって火を鑽り出す杵を作って、火を鑽り出して言うには、
    この、わたしが鑽った火は、
    高天原に対しては、神産巣日御祖命(かむむすひみおやのみこと)の満ち足りて立派な天の新しい住居に煤が長く垂れるほどに焼き上げ、
    地の下に対しては、底つ磐根までも焼き固めて、
    栲縄の千尋もある縄を張り伸ばし、
    釣りする海人が口の大きな尾翼鱸(をはたすずき)をざわざわと引き寄せ揚げて、
    打竹(さきたけ)のたわわたわわに、天の魚料理(まなぐひ)をたてまつります。
  そこで、建御雷神は返り参り上り、葦原中国を言向け、帰順させ平定したことを復命した。

従来はこの「天之御舎」を杵築大社とみて、櫛八玉神が大国主神に御饗をたてまつったと解釈されてきたが、
この箇所は原文では「~而~而~而~」と、「そして、それから」という意味がある「而」という接続詞を重ねており、
直前の大国主神の発言から文が切れておらず、主語の交代がみられないことから、
大国主神が服属のしるしに天之御舎をしつらえ、天神に御饗をたてまつった、とする解釈もある。
では『古事記』では杵築大社はいつ造られたのか、ということになるが、
これは垂仁天皇記に、御子の本牟智和気御子が長じてもはっきりした言葉を喋ることができず、
その事について悩む天皇の御夢に出雲大神が現れて、
「わたしの宮を修繕して天皇の御舎のようにするならば、御子は必ずはっきりとものを言うだろう」
と教えたので、天皇は本牟智和気御子を出雲に遣わして大神の宮を拝ませたところ、御子ははっきりと言葉を喋るようになったので、
天皇は出雲大神の神の宮を造らせた、とあって、この時に「天つ神御子」つまり天皇と出雲大神との約束が果たされたことになっている。
つまり、厳密には「国譲り」の時に出雲大神の宮を造ったかどうか、『古事記』は記していないということになる。
どちらにせよ、櫛八玉神が水戸(河口)の神の属性を持ち、海産物を御饌として奉る神であることには変わりはない。

水門の地において御饗をたてまつることについては、天照大神の宮を伊勢に定めた倭姫命の事績について記した『倭姫命世記』にも、
天照大神の御杖代として鎮座地を探し求める倭姫命が宮川を下って河口の小浜に出てきたとき「鷲取老翁」に出会い、
老翁は冷たい御水をもって御饗を奉ったので、倭姫命はそれを讃えて水門に水饗神社を定め、その浜を「鷲取小浜」と名づけた、
という伝承があり、
「(来訪した)貴い存在」に対して「水門の小浜」にて「御饗」をたてまつることについてモチーフが共通している。
湊社に御饗の神である櫛八玉神が祀られており、もしその鎮座が多芸志の小浜での御饗を記念したものだとすると、
この湊社の鎮座する地が多芸志の小浜であり、神に御饗をたてまつった地ということになるが、はたしてどうだろうか。
「たぎし」とは、「折れ曲がった状態」をあらわす古語で、「たぎたぎし」と重ねると「デコボコな状態」をあらわす。
この地が神門水海が日本海に流れ出す水門、くびれて狭くなっていた所であったならば、
地形が「く」の字形に折れ曲がっている状態を「たぎし」といったのではないか。
「多芸志の小浜」は『古事記』にのみみえる地名で、
『日本書紀』ではこの御饗の記事が正文・一書(異伝)ともに一切収録されていない。

櫛八玉神は鵜の姿に変じて海中に入り、海底の粘土をくわえ出して来てたくさんの土器を作り、
海藻の茎を刈って火を起こすための臼を作り、また海藻の茎で火を起こすための杵を作り、
それらをもって火を起こしたと『古事記』に記されていることから、
出雲国造の代替わりの時に行われる重儀「火継式」の時にはこの神を祭り、
国造は火継式を終えて熊野大社から帰る途中、当社を拝むことが常例となっている。
また、毎年八月十四日に行われる「神幸祭」においては、
古くは櫛八玉神の子孫である別火(べっか)氏が神幸の供奉をして当社に至り(現在は禰宜が供奉する)、
祭事にお仕え申し上げていた。
小さな社ではあるが、大社の祭においては重要な役割を果たす社となっている。

社前。
周囲には細い道しかなく、東にはぶどう園が広がっていて、場所がわかりにくい。
鳥居。
神社は南面している。
参道の向こうに拝殿。
右手は森になっている。
参道は砂地になっていて、いかにも海辺の社。
拝殿前。奥に本殿が見える。
湊社本殿。簡素な一間社。
境内風景。
社殿は簡素だが、境内地は広い。
西の方はグラウンドゴルフ場?になっている。



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