にっぽんのじんじゃ・しまね

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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大原郡(雲南市東部):

『出雲国風土記』大原郡の条には、

郡役所の東北十里百十六歩(5.6km)のところの田が十町(11.4ha)ほどの平原であり、名づけて大原という。
昔、ここに郡役所があった。今もなおもとのままに大原という。
〔今、郡役所のあるところは名を斐伊(ひ)の村という〕

と郡名の由来が記されている。
昔、大原に郡役所があったため大原郡といい、
現在は郡役所が斐伊村に移ったが、斐伊郡と改名せずに以前のまま大原郡としている、ということ。

神原神社 御代神社 八口神社 宇能遅神社
加茂神社 矢櫃神社跡 *加茂岩倉遺跡

神原(かんばら)神社。

雲南市加茂町神原、
国道54号線から1kmあまり西の赤川南岸に鎮座。
旧社地は現在地より北東50mほどの地点で、赤川の拡幅事業により現在地に遷座している。

『出雲国風土記』大原郡の神祇官登録神社一十三所の一、神原社。
『延喜式』神名式、出雲国大原郡十三座の一、神原神社。

ここから北の一帯は古くは神原郷と呼ばれ、『出雲国風土記』大原郡神原郷の条には、

  神原の郷。郡役所の真北九里。
  古老の伝えにいうには、天下をお造りになった大神が御財(みたから)を積み置いたところである。
  ゆえに「神財郷(かむたからのさと)」というべきであるが、今の人は誤って「かむはらのさと」といっている。

との地名起源伝承が記されている。
昭和47年(1972)、暴れ川である赤川の治水のための拡幅事業により、川のほとりに鎮座していた神原神社は移転することになったが、
この神社は古墳の上に建っていたため、古墳の調査が行われた。
この古墳は神社本殿の下にあったために盗掘されてはおらずよく保存されており、
古墳形式や多量の副葬品から4世紀中頃の古墳時代初期、出雲でも最古期のものであるとわかったが、なにより人々を驚かせたのは、
「景初三年(239)」という、中国の三国時代、魏の元号の銘のある三角縁神獣鏡が発見されたことだった。
この年は『三国志』「魏書」の「烏丸鮮卑東夷伝第三十」中の倭人の条、つまり「魏志倭人伝」に、
倭の女王卑弥呼が魏に使いし、魏の明帝・曹叡から銅鏡百枚を賜わった年と記されている。
つまり、景初三年の銘がある鏡はいわば「卑弥呼の鏡」であり、
この発見により、この古墳、そして神社が風土記の記述とともに大きく注目されることとなった。
(ただ、現在の研究では、三角縁神獣鏡は日本でのみ大量に発見されていることから、国産鏡ではないかという説がある。
この鏡も、銘文の韻律が整っていないことから、魏皇帝の下賜物ではないとみる説がある)
風土記の記述はこのことを記していたのか?
しかしさらに1996年、ここから2km北西の加茂岩倉遺跡から国内最多の39個にも及ぶ銅鐸が集中出土。
この発見により、この一帯はまさに「神財の郷」であることが明らかになった。
(正確には、加茂岩倉のあたりは古代の矢代〔屋代〕郷だが、隣接はしている)
また、加茂岩倉遺跡の3km北西の荒神谷遺跡からは1984年に358本の銅剣をはじめとする青銅器が出土しており、
この辺りは出雲の一大勢力圏であったとみられている。

祭神は、大国主命、磐筒男命、磐筒女命。
磐筒男命・磐筒女命は、『日本書紀』収録の異伝によれば、
イザナキが火の神を斬ったときに、その切っ先から散った血が神聖な石群にかかり、そこから生まれた神。
『古事記』では、磐筒男命のみ名が見える。
社伝では、天照大神がこの地に積み置かれた神財の司として磐筒男命、磐筒女命を任命したと伝える。
本来は大国主命一座だったのが、宝物管理神として磐筒男命、磐筒女命の二柱が後に加えられたのだろう。
また、同じ大原郡の斐伊神社が武蔵国に勧請され、氷川神社として鎮座するとき、
神原神社から神宝の十拳剣を御霊代(みたましろ。神の依りつく品物)として奉献したという。
かつては屋裏郷、屋代郷、神原郷三郷の総氏神として尊崇され、神宮寺も付属していた大きな神社であったと社伝には記されている。

神原神社裏の土手から、赤川河畔。上流方面。
赤川は斐伊川の支流で、この下流、八口神社近隣で斐伊川に合流する。
神社はもともと現在の土手の辺りにあった。
神原神社古墳は移転保存されている。 神原神社古墳。
古墳石室。
一の鳥居、二の鳥居、随神門。 拝殿。川沿いで、境内は爽やかな雰囲気。
右手に神原神社古墳がある。
本殿。瑞垣内には小さな祠が。

御代(みしろ)神社。

雲南市加茂町三代(みじろ)、
八口神社から1kmあまり東南の斐伊川北岸の山中に鎮座。
旧社地は500mほど西方の字大津の地内といい、もとは斐伊川のそばに鎮座していた。

『出雲国風土記』大原郡神祇官登録神社一十三所の一、御代社。
『延喜式』神名式、出雲国大原郡十三座の一、御代神社。

祭神は素戔嗚尊、稲田姫命で、大山咋命を配祀。
大山咋命は近江比叡山の日吉大社からの勧請と伝えられ、この社地は本来日吉神社の境内地であったのを、
大正元年に御代神社が遷座してきたときに合祀となった。

素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した際、その頭は下神原の草枕に、その尾は三代の地に斬り留められたといい、
その伝承によって、この神社は中世以降「尾留(おとめ)大明神」と呼ばれて崇敬された。
つまりこの神社(正確には旧社地)は、大蛇の尾から発見された三種の神器の一、草薙剣の出現地ということになる。

境内には高麻(たかさ)神社、貴布禰神社、稲荷神社、荒神社、社日神の末社が鎮座している。
高麻神社は青幡佐久佐日子命(あおはたさくさひこのみこと)を祀る神社で、
もとは北東5kmの加茂町・大東町の境にそびえる高麻山の山頂に鎮座していた。
『出雲国風土記』大原郡の山野河川の条に、

  高麻山。郡役所の真北一十里二百歩。高さ一百丈。周囲は五里。
  北方に樫・椿などが生えており、東・南・西はみな野である。
  古老の伝えにいうには、
  神須佐能袁命(かむすさのをのみこと)の御子、青幡佐草壮命(あをはたさくさひこのみこと)がこの山上に麻を蒔きたもうた。
  ゆえに高麻山という。すなわちこの山の峰に坐すのは、その御魂である。

とあり、その神名と業績から植物を司る神であるようだ。
高麻山頂の旧社地にはなお小祠があるという。
この神社がこれほど離れたところに遷座しているのは、同じ屋代郷の神社ということと、
現在でも多くの境内社が鎮座しているように、御代神社が屋代郷中で最も有力な神社だったからだろうか。
青幡佐草壮命は『出雲国風土記』意宇郡条にも名がみえ、佐久佐社(さくさのやしろ)の祭神となっている。
佐久佐社は八重垣神社あるいは出雲国総社六所神社に比定されており、この神は意宇郡に本社があって、
こちらには分社があったということになる。

ちなみに、草薙剣の元の名を天叢雲剣といい、
日本武尊が焼津の危難の際にこの剣で草を刈り払って以来草薙剣と呼ぶ、とよく言われるが、
これは『日本書紀』の本文へ「一に曰く」として割注で小さく紹介されている異伝にすぎず、
『古事記』はこの剣をその出現から「草那芸剣」と呼ぶことで一貫しており、
『日本書紀』でも同じくその出現から「草薙剣」と呼び、しかも焼津において日本武尊が草を薙ぐという描写は本文中には無い。
この剣は最初からクサナギノツルギという名称だった。
『古事記』では焼津において倭建命が剣で草を薙ぐ場面があるが、
その剣の表記は「草那芸剣」と、「なぎ」に「那芸」と万葉仮名を当てており、剣名が「草を薙ぐ剣」という意味ではないことを明確にしている。
『古事記』でこういう場合に万葉仮名を用いる時は、それが「和語」「古語(8世紀当時においての)」であるということが多い。
では「なぎ」とは何か?
沖縄周辺の島々では、青大将のことを「オーナギ」「オーナガ」といい、「ナギ」は「蛇」を意味しているらしい。
この地方の言葉は他の多くの事例から古代日本語をよく保存していることがわかっているので、
古代日本でも蛇を「ナギ」と呼んでいた可能性があり(もとは「長い」という身体的特徴からだろうけど)、
「クサ」とは「臭」、つまりその忌避するほどの猛烈な威力を臭いであらわしたものと考えられるので
(シュールストレミングやキビヤックやホンオフェやくさやを想像すべし)、
つまりクサナギノツルギとは「臭蛇剣」「猛蛇剣」、猛烈な威力を持つ蛇の剣の意となる。
この剣は大蛇の尾から出てきたので、その名に蛇とつくのは至極当然であり、
「大蛇の上に雲が立ち上っていたからその剣を天叢雲剣というのだろうか?」
(この注の部分、原文は疑問形になっており、『書紀』編者の推定とみられる)
という回りくどい説明よりはるかにストレートで本質的。
天叢雲剣の名称を記す異伝についても、
日本武尊が焼津において火難に陥った際、天叢雲剣なら雲を呼んで雨を降らせれば名前どおりなのだが、そうはならない。

  王(みこ)の帯びていらっしゃった剣「叢雲」がひとりでに抜けて、王の傍らの草を薙ぎ払った。
  これによって免れることができた。そこで、この剣を名づけて「草薙」というのである
  〔「叢雲」は、ここでは「茂羅玖毛(もらくも)」という〕。

とあり、意思を持った剣として描かれている。
何の意思か、といえばこれはもう八岐大蛇しかないわけで、
この伝承においてもこの剣が「蛇の剣」であるという認識が強くあったことがわかる。
「叢雲」の読みも、「むらくも」ではなく「もらくも」だったようだ。

鳥居前。
随神門。左には手水舎。 拝殿。
本殿。 広い境内に末社が並ぶ。本殿裏の向かって左側。
右から社日神、貴布禰神社、稲荷神社。
本殿の向かって右側の末社。
二本の木の立っている所は荒神社で、右の石祠が高麻神社。
社前からの風景。
遠くに斐伊川。

八口(やくち)神社。

雲南市加茂町神原
神原神社の西、赤川が斐伊川に合流する地点に鎮座する。

『出雲国風土記』大原郡の神祇官登録神社一十三所の一、矢口社。
『延喜式』神名式、出雲国大原郡十三座の一、八口神社。

祭神は素戔嗚尊。
地元の伝承では、素戔嗚尊が酔って眠り込んだ八岐大蛇の八つの首をこの地で斬ったといい、それにより八口大明神と呼ばれた、
あるいは、この神社の北にある草枕山を枕に眠り込んでしまった八岐大蛇を素戔嗚尊が矢で射たために矢口という、とする。
地形上からは、赤川が草枕山下の狭い谷をくぐって斐伊川へ流れ込んでいたため「谷口(やくち)」といったのが語源であろうとされる。
草枕山は江戸末期、安政年間の赤川の治水工事の際にそのほとんどが削られ、現在は赤川がその跡地を流れている。

式内八口神社には、「印瀬の壺神さま」として知られる木次町西日登の八口神社も比定されており、
こちらは八岐大蛇を酔わせた酒の壺があるところとして知られている。

正面のこんもりした森が社叢。その向こうに赤川が流れ、左手には斐伊川。
周囲は水田地帯となっている。
鳥居と拝殿。 本殿。
左端と中央右にある小高い盛り上がりはもともと草枕山の両端で、かつて中央には小高い山があった。
赤川はその草枕山を東南から迂回して斐伊川に注いでいたが、流路が狭く屈折しているためにたびたび氾濫していたので、
安政年間の治水工事により山の中央部をごっそり削り取り、そこへ赤川を通した。
境内はこぢんまりとしているけど、
周囲を緑に囲まれ、風通しがよくて気持ちいい。
神社から南を望む。

宇能遅(うのぢ)神社。

雲南市加茂町宇治
赤川南岸、赤川を渡る国道54号線の西脇に鎮座。

『出雲国風土記』大原郡神祇官登録神社一十三所の一、宇乃遅社。
『延喜式』神名式、出雲国大原郡十三座の一、宇能遅神社。

また、

『出雲国風土記』大原郡神祇官登録神社一十三所の一、汙乃遅社。
『延喜式』神名式、出雲国大原郡十三座の一、同社坐須美禰神社(おなじきやしろにいますすみねのかみのやしろ)。

を合祀している。
現在は宇乃遅彦命、須我禰神、素戔嗚尊、稲田姫命、大国主神を祀る。
本来は宇乃遅彦命と須我禰神を祀っていたと思われるが、
中世以降大国主神、素戔嗚尊の社殿が新たに建てられて三社大明神と呼ばれた。
社殿はいつからか三社合祀して一つの社殿となったが、
この一帯十二ヶ村の総氏神として栄えていたという。

宇乃遅彦命は須我禰神の御子神であり、風土記の海潮郷の条には、
宇乃遅彦命が親の須我禰神に対して怒り、宍道湖を氾濫させて親神を漂わせたという伝承が記されている。
水に関する強力な神のようだ。

鳥居前。神社は赤川南岸に近い丘陵地の東端に鎮座している。
鳥居の向かって左脇には、この加茂町一帯の歴史的な社寺・遺跡について表示した地図パネルがある。
随神門。奥に拝殿。 拝殿と本殿。
拝殿傍らの木には矢が数本括りつけられている。
この一帯は昔は屋代郷(やしろごう、やしろのさと)といい、
風土記には大穴持命が矢を射たという伝説が記されている。
それにちなんだ神事があるのだろう。

加茂(かも)神社。

雲南市加茂町加茂中に鎮座。加茂町の中心部に位置する。

『出雲国風土記』大原郡神祇官未登録神社一十六所の一、屋代社に比定。
屋代社には、三代の貴布禰神社や中村の加茂神社などが論社となっている。

屋代郷については『出雲国風土記』に、

  屋代の郷。郡役所の真北十里一百十六歩。
  天下をお造りになった大神が(的用の)盛り土をして矢を射られたところである。
  ゆえに「矢代(ヤシロ)」という。〔神亀三年に字を屋代に改めた〕
  ここには正倉がある。

とあり、東隣の屋裏郷(やうちのさと)にも天下をお造りになった大神(大穴持神)の弓射に関する伝承あり、
来次郷には大穴持神が兄の八十神を追撃したという伝承があり、
斐伊郷には大穴持神がそのための城を築いたとあるなど、
この辺りは戦いの伝承に彩られている。古代、この街道周辺で大きな戦いがあったという記憶だろうか。

中世、この一帯は山城の賀茂神社(京都市の上下の賀茂神社)の社領となり「福田庄」と呼ばれ、
元久二年(1205)、この神社に上賀茂神社の祭神、賀茂別雷命を勧請。
それによりこの一帯を賀茂村と称し、神社も賀茂大明神と呼ばれるようになった。
近世になると、地名・社名とも「加茂」の字を用いるようになり、今に至る。
現在の本殿は、寛保年間の京都賀茂神社修復の際、当地の者が京に出向いて宮大工に賀茂神社と同じものを造らせ、
あとは組み立てるばかりにして持ち帰って建てさせたといい、また拝殿は賀茂神社拝殿を移築したものという。
京の賀茂神社と深いつながりがあったことから、中世以降この一帯では最も栄えた神社になったようだ。

主祭神は八重事代主命。境内に上賀茂神社など数多くの末社が鎮座している。

大きな鳥居。
神社の南には雲南市加茂総合センターがあり、東隣には加茂小学校。
この地域の中心部に鎮座している。
随神門。 門をくぐってすぐ右手に鎮座する上賀茂神社。
祭神は賀茂別雷命。
そのさらに右手の写真外には幸神社が鎮座。
拝殿と本殿。
いずれも京都の賀茂神社の模倣また移築といわれる。
堂々としたたたずまい。
流造の本殿。華麗な彩色。
本殿背後に末社が一列に並んでいる。
左の写真は速玉神社、右の写真は手前から天満宮、金刀比羅神社、稲背神社、畠塚社、幸石社、牛荒神、三宝荒神、
星宮神社、社日神社、稲荷神社。
西の道向かいにも末社の雲並神社が鎮座している。

矢櫃(やびつ)神社跡。

雲南市加茂町岩倉。(地図の表示は旧参道入口)
39個の銅鐸が発見されて一大センセーションを巻き起こした加茂岩倉遺跡の北の山中。
神社は、現在は国道54号線沿いの東谷八幡宮に合祀されている。
『出雲国風土記』大原郡神祇官未登録神社一十六所の一、矢代社(やしろのやしろ)ではないかといわれている。
この神社跡には斜面から張り出してむき出しになった巨石があり、また近隣にも金鶏伝承のある大石があり、
「岩倉」という地名も「磐座」からきたと考えられ、巨石信仰があった一帯と思われる。
この地に銅鐸が埋められたのも、それに関連してのことか。

大岩。
加茂岩倉遺跡第1駐車場の道向かいに露出している巨石。
『雲陽誌』(享保二年〔1717〕刊)には、

  岩倉。
  民家の西に高さ三丈横七間計りの岩窟あり、里老語て云、
  むかし神原村に長者あり此窟を宝蔵とせり、故に岩倉と号す。

と地名起源伝承を記すが、これが地名の元になった大岩とされる。
地元では、この岩の中に金の鶏がいると伝えられ、毎年大晦日にその金鶏が鳴き、
その鳴き声を聞いた者は至福になるという。
『出雲国風土記』大原郡神原郷条の、大穴持大神が神原の郷に神財を積み置いたという伝承とあわせて、
加茂岩倉遺跡との関連はいかに。
加茂岩倉遺跡駐車場のところの交差点から北へ入る。 旧参道入口。
約500mの山道らしい。
大岩背後から加茂岩倉遺跡方面を見る。 山道を登る。
すでに神社施設は存在しないが、
地元の方によりその旧参道は清掃されているとのこと。
轍の跡があるので、車両も登ることがあるのだろう。
いちおう蛇に注意。
轍も途中からはなくなり・・・ 狭い山道となる。
基本的に道なりに直進。
結構登ったところで「旧矢櫃神社参道入口」の立札。
「ふり出しに戻る」的感覚を味わったぜ・・・
右手に石垣。そろそろか。
参道道端に石が。
もとは鳥居かなにかの建造物があったところか。
そこを越えると、下り道になる。
到着。
斜面から巨大な岩が突き出している。ここからだと爬虫類の頭部に見えなくなくなくもない。
水盤や石畳が残っており、かつて神社であったことを感じさせる。 地表は苔に覆われている。
正面。迫ってくる迫力がある。

加茂岩倉遺跡。

雲南市加茂町大字岩倉字南ヶ廻(みなみがさこ)。
加茂町北西部、国道54号線から赤川支流猪尾川の支流岩倉川に沿って山中に2km弱入り、
そこからさらに南の狭い谷に300mほど入った、谷の最奥部の地。

平成八(1996)年10月14日、週明けの月曜日。
山の反対側へと抜ける農道整備工事のため、この谷の西の斜面をパワーショベルで切り崩していたときのこと。
午前10時ごろ、作業員がそのショベルのバケットの中にいくつもの銅鐸が入っていることに気づいた。
作業を中止、法面の下を見下ろしてみると、またいくつもの銅鐸が転げ落ちているのが見つかった。
すぐに会社へ連絡がなされ、そこから発注元の加茂町農林課、次いで教育委員会に伝わり、
それまでの弥生青銅器文化の定説を打ち砕く大発見となった加茂岩倉遺跡が発見されることとなった。
調査により合計39個もの銅鐸が発見され、これは一所から出土した数として国内最多。
これらの銅鐸のもととなった鋳型は発見されていないが、その特徴から、河内・和泉製作のものや、
ほかに類例が見られない出雲製作と見られる銅鐸から構成されていると考えられている。
これほど大量の銅鐸を何者が所持し、なにゆえにこの山中の谷の最奥部の急斜面の途中に埋めることとなったのかは不明。
ここから北西3kmには、銅剣358本が出土した荒神谷遺跡があり、
少なくとも強大な祭祀権をもった勢力がこの一帯に存在していたことは間違いない。
地元の伝承では、この岩倉の地には昔、神原村の長者が宝を埋めたといい、
『出雲国風土記』大原郡神原郷条には、神原郷は大穴持大神が神財を積み置いた所とある。
また、矢櫃神社跡からわかるようにここは巨石信仰の地であったらしい。
いったい、この地はどういうところであり、どういうわけで銅鐸が埋められることとなったのか。
今後の研究が待たれる。

遺跡は公園のように整備されており、歩き回るのに難儀はしない。草むらに蛇がいそうな雰囲気はあるけど。
第一・第二駐車場があり、第二駐車場のほうが遺跡に近い。
そこから300m、徒歩で谷の奥へ入ってゆくことになる。
一般車両は通行禁止で、銅鐸形の車止めが立っている。
銅鐸出土地への階段。
銅鐸は急斜面の中ほどに埋められていた。
現地は発掘当時の状況を再現してある。
出土状況も忠実に再現。詳細な解説も付されていて、当時の状況がよくわかる。
遺跡ガイドの建物、「加茂岩倉遺跡ガイダンス」まで橋が通されている。また、周辺の山への山道も整備されている。
加茂岩倉遺跡ガイダンスからの出土地の眺め。
本当に急斜面の中ほど。よくあんなところに。
現在ではきれいに整備されているが、もともとは本当に谷のどん詰まりというところだったらしい。


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