にっぽんのじんじゃ・しまね

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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石見国(島根県西部)

山陰道西端の国。国府は那賀郡にあったが、いまだ発見されていない。
東西にけっこう長く、現在も大田市・江津市・浜田市・益田市が連なっており、
松江のへんから国道9号で山口県へ行こうと思ったら、そーとーイライラするかもしれない。

安濃郡(大田市東部、出雲市の一部):

『日本三代実録』によれば、
伊勢国安濃郡の人、安濃宿禰の末裔が移住したことに因んでその名がついたという。

物部神社

邇摩郡(大田市西部、江津市の一部):

城上神社

物部(もののべ)神社。

大田市川合町に鎮座。
国道375号線沿い。八百山の麓、三瓶山から流れ下る静間川が忍原川と合流する川合の地に鎮まる。

『延喜式』神名式、石見国安濃郡十座の一。小社。
石見国一宮。
物部氏の祖、宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)を祀る。
宇摩志麻遅命は、皇孫・瓊瓊杵尊に先立って大和の地に降臨した饒速日命(にぎはやひのみこと)の子で、
神武天皇に仕え、饒速日命より伝わる十種神宝(とくさのかんだから)をもって鎮魂祭(みたましづめのまつり)を執り行い、
また天香語山命(あまのかぐやまのみこと。尾張氏の祖。『先代旧事本紀』では宇摩志麻遅命の異母兄で、
熊野にて神武天皇に韴霊剣[ふつのみたまのつるぎ]を奉った高倉下命のこととする)
とともに尾張、美濃、越国を転戦してまつろわぬ者を平定、天香語山命は越後の弥彦神社(越後国一宮)に鎮座したが、
宇摩志麻遅命はさらに播磨・丹波から石見に入って国内の賊を平定し、厳瓮(いつべ)を据えて天神を祭った。
それから鶴に乗って鶴舞山(神社の東南約4㎞)に降りて国見を行い、八百山が大和の天香具山に似ていることから鎮座地と定め、宮居を築いた。
死後は八百山に御陵が築かれて信仰の場となり、時代下って継体天皇八年(514)、勅命によりその麓に社殿が築かれた。
これが物部神社の創祀と伝わる。

石見国は、はじめ崇神天皇治世、
紀伊国造家である紀氏の祖・天道根命(あめのみちねのみこと)の後裔、
蔭佐奈朝命(かげさなあさのみこと)の子、大屋古命(おおやこのみこと)が国造に任ぜられていたが、
景行天皇治世に物部竹子連(もののべのたけこのむらじ)が国造に任ぜられており、
物部氏がその創祀より神社の祭祀を司った。
子孫はその後金子氏を称して宮司職を継ぎ、明治に神職奉仕の長きを嘉され男爵の位を賜っている。

この神社は、物部氏の氏神であった大和の石上神宮とともに、
かつての律令制下の四時祭(毎年の恒例祭)のひとつで、宮中で行われていた(現在も行われている)「鎮魂祭」を行うことでも知られ、
境内には鎮魂八神(宮中の神祇官にて祀られていた、いわゆる宮中八神。天皇を守護する)が祀られている。
鎮魂祭(みたましづめのまつり)とは物部氏と猿女君が伝えてきた行事をまとめて律令祭祀としたもので、
旧暦十一月、下卯の日の新嘗祭の前日、寅の日に行われた。
新嘗祭を前にして、天皇の魂をその肉体に鎮めて力を回復させるための儀式。
古代においては、魂はほうっておくと肉体から遊離しやすくなって弱体化すると信じられており、
魂を肉体にしっかりと鎮めることにより、人を人として確固とした存在に戻し、力を回復させる儀式が必要とされた。
物部氏は「十種神宝(とくさのかんだから)」をゆらゆらと振ることで鎮魂を行うと『先代旧事本紀』に記され、
また宇摩志麻遅命が神武天皇のために鎮魂祭を行ったという記述もあり、
その子孫が祭祀を行った物部神社はその伝統を伝えている。

鳥居前から。
摂末社が多いこともあり、境内はかなり広い。
さすがは一宮というところ。
後ろの山は八百山で、祭神の御陵がある。


ちょっと雨がちで写真が暗い。
境内。正面に手水場。
手水石は砂金を含んだ含金石でできている。
右のほうには自動車の祓所。
かなり大きく、バスやトラックも祓えそう。
拝殿。
拝殿内。 拝殿とその後ろの本殿。
本殿。島根県指定有形文化財。
現在の社殿は、天文十九年(1592)に吉川元春が再建した社殿が享保三年(1718)に焼失したのを
宝暦九年(1753)に再建したもので、安政三年(1856)に改修を受けている。
基本的には春日造だが、高床・千木・勝男木・大棟など出雲の様式を採り入れた変形の春日造。
社殿の高さは16.3mあり、春日造系の社殿としては日本最大を誇る。


主祭神は宇摩志麻遅命。
相殿として、左座に天御中主大神と天照大神を、
右座に饒速日命と韴霊神を、
客座に鎮魂八神(高皇産霊神・神皇産霊神・魂留産霊神・生産霊神・足産霊神・大宮売神・事代主神・御食津神)および
別天神(天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・天之常立神)を祀る。

本殿の後方には御神墓がある。
本殿東(向かって右)に鎮座する摂社の後(うしろ)神社。
拝殿を備える。
祭神は、主祭神の妃神・師長姫命(しながひめのみこと)。

後神社の向こうには、
佐比売山三瓶大明神を祀る末社・一瓶社が鎮座し、
主祭神が厳瓮を据えて祭祀を行った故事を記念する
造酒神事が行われている。
一瓶社の外側には神井がある。
本殿東脇に鎮座する末社・神代七代社(東五社)。
国常立尊より伊邪那美尊までの七代十一柱を祀る。

その東隣の祠には須賀見神社・乙見神社を同座で祀る。
それぞれ主祭神三代の孫である六見宿禰命と、
その弟である三見宿禰命を祀っている。
『先代旧事本紀』天孫本紀には、

  (饒速日命の)
  四世の孫、大木食命〔三河国造の祖。出雲醜大臣の子である〕。
  弟、六見宿禰命〔小治田連等の祖である〕。
  弟、三見宿禰命〔漆部連等の祖である〕。
  この命は、秋津嶋宮にて天下を治められた天皇
  (第六代孝安天皇)の御世、ともにお側近くにお仕えしたことにより、
  はじめ足尼(すくね)となり、次に宿禰(すくね)となり、
  大神(*石上大神)を斎き奉った。
  宿禰というのは、この時初めて起こったのである。

とある。
  

本殿西には、皇祖の天忍穂耳尊および日向三代を祀る皇祖四代社(かつては天照大神も同座だったが、現在は本殿相殿へと遷座)と
須佐之男尊を祀る荒経霊社(あらふつのみたましゃ)を同座で祀る西五社、
稲荷神社(祭神:倉稲魂命。大穴牟遅命・大年神・大地主神を合祀)、菅原神社(菅原道真公)、柿本神社(柿本人麿朝臣)、
淡島神社(少彦名命)、八重山神社(伊邪那美命、大山祇神、若布都主神)が鎮座する。
また、境外にも八社の摂末社がある。


邇摩郡:

城上(きがみ)神社。

大田市大森町
世界遺産・石見銀山の大森代官所跡に建つ石見銀山資料館のすぐ北に鎮座する。

『延喜式』神名式、石見国邇摩郡五座の一。
元来は約4㎞西、邇摩郡馬路村の高山(もとは城上山ともいった)に鎮座していたが、
永享六年(1434)に大内氏によって現鎮座地の東にある香語山(愛宕山)に遷座、
その後天正五年(1577)、毛利氏によって現在地に遷座と伝わる。
元来の鎮座地である城上山および高山は、馬路の港や海上からは双子山のように聳えて見える山であり、
往古は漁民たちの信仰篤く、海上安全の神として信仰されていた。
現在、境内に置かれている「亀石」は、その頃に奉献されたものを運んできたものと伝えられている。
それが、石見銀山の発見とともに馬路村が銀の運搬路となったことから銀山の守護神とみなされるようになって、
銀山の近くに遷座することとなったようだ。
現在地に遷座してからは地名を取って「大森大明神」と呼ばれ、銀山と大森町の氏神として信仰された。
人間の都合で遷座されたというのは神様も大変だが、
裏を返せば、それだけ城上神社の信仰が大きく、また霊験が大であったということだろう。

祭神は大物主神。
大和の三輪山に鎮座する大神神社の祭神で、
大国主命の幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)であるとされ、同体とみなされている。
三輪山のような笠を伏せたような形の山は神奈備山と呼ばれ、神が宿る山とされていた。
旧鎮座地の城上山もそのような形の山であり、そのため三輪山と同じく大物主神を祀ったのだろうか。
現在は相殿に建甕雷命・斎主命(経津主命)・天児屋命の、いわゆる春日の神をあわせ祀る。

史跡石見銀山遺跡・代官所跡。
現在は石見銀山資料館となり、様々な展示を行っている。
鳥居。
拝殿。現在の建築は文化九年(1812)の再建時のもので、県指定有形文化財。
重層式の入母屋造、瓦葺で、江戸の亀戸天満宮(江東区亀戸鎮座の亀戸天神社)に倣って建てられたと伝えられる。
その亀戸天満宮は筑紫の太宰府天満宮を模して建てられたといわれるので、
当時の太宰府天満宮もこんな感じだったのだろうか。

通常の拝礼も拝殿に上がって行うことができる。もちろん土足厳禁。
拝殿内の天井には竜が描かれている。
これは「鳴き竜」と呼ばれるもので、直下の板敷の上に座り(目印の丸印が描かれてある)、拍手をすると、
「ビィィン」と反響が聞こえてくるというもの。
反響はそのポイントでしか聞こえず、周囲の人にはまったく聞こえない。
これは平行な硬い壁の間で音響が多重反射して起こる「フラッタリングエコー」という現象で、
一般的な「鳴竜」は天井・床とも硬い材質で、天井が緩くアーチを描いていて音が拡散しにくいことから起こる。
鳴龍は日光東照宮や相国寺など、日本各地にみられる。天井に龍を描くのは寺院なので、ほぼお寺。
状況が揃えばわりと容易に起こる現象で、しまなみ海道の生口島と大三島を結ぶ多々羅大橋の下では強烈なのが聞けるらしい。


拝殿の奥には本殿がある。
これも立派な建築だが、いささか老朽化が目立っている。
これだけの社殿を修理するとなると相当の金額がかかると思うが、
世界遺産の地の氏神であるので、国の補助などでなんとかならないのかと思う。
境内社。これは稲荷社。 境内社と相生の松。
相生の松は片方が枯死し、もう一本が残っている。
境内の端に亀石が置かれている。
この亀石は旧鎮座地に置かれていたもので、大内氏によって愛宕山に遷座した際にはこの石も運ばれたが、
毛利氏による現鎮座地への遷座時には運ばれず、川中へ落ち込んでいたのを、
ある人が霊夢によってその存在を教えられ、川から引き上げて境内へ据えたという。
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