にっぽんのじんじゃ・しずおかけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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駿河国(静岡県東部):

富士郡:

富士山本宮浅間大社

富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)。

富士山の南西麓、静岡県富士宮市宮町に本宮が鎮座。
JR身延線・富士宮駅の北西500mほど。
奥宮は富士山頂上に鎮座する。

『延喜式』神名式、駿河国富士郡三座の一、浅間神社(あさまのかみのやしろ)。
駿河国唯一の名神大社で、駿河国一宮。全国約三千社の浅間神社の総本宮。

『万葉集』巻第三、
山部宿禰赤人、不尽山を望む歌一首・併せて短歌

  天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高き貴き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺を 天の原 振りさけ見れば 
  度(わた)る日の 陰も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくも 雪は落(ふり)ける 
  語り告ぎ 言ひ継ぎ往かむ 不尽(ふじ)の高嶺は

  反歌
  田児の浦ゆ 打ち出でて見れば 真白にぞ 不尽の高嶺に 雪は零(ふり)ける

   ※分かれし時ゆ、田児の浦ゆ・・・「ゆ」は経過を表す助詞。「~から」「~より」の意。※時じく・・・時ならず、の意。
   ※打ち出で・・・万葉集での他の用例から、「障害物で視界が遮られたところから、急に広々としたところに出る」というニュアンス。
   よって、地理的に田児の浦からは富士山は見えないということになる。現在の田子の浦とは別の所。

高橋連虫麻呂の歌、不尽山を詠む歌一首、併せて短歌

  なまよみの 甲斐の国 打ち縁(よ)する 駿河の国と 
  こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽の高嶺は
  天雲(あまくも)も い去(ゆ)きはばかり 飛鳥(とぶとり)も 翔(と)びも上(のぼ)らず
  燎(も)ゆる火を 雪もて滅(け)ち 落(ふ)る雪を 火もて消ちつつ
  言ひも得ず 名づけも知らず 霊(くす)しくも 座(いま)す神かも 
  石花(せ)の海と 名付けて有るも 彼(そ)の山の 堤(つつ)める海そ 
  不尽河(ふじかは)と 人の渡るも 其の山の 水の当(たぎち)そ
  日本(ひのもと)の 山跡(やまと)の国の 鎮めとも 座す神かも 宝とも 成れる山かも 
  駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも

  反歌
  不尽の嶺(ね)に 零(ふ)り置く雪は 六月(みなづき)の 十五日(もち)に消(け)ぬれば 其の夜ふりけり
  布士の嶺を 高み恐(かしこ)み 天雲も い去きはばかり たなびくものを

   ※なまよみ(奈麻余美)・・・「かひ」にかかる枕詞とみられるが、語義・かかり方未詳。
   ※燎ゆる火・・・活火山である富士山火口の火煙。
   ※せのうみ・・・現在の河口湖・本栖湖の間にかつて存在した巨大な湖。
   貞観六年(864)の噴火の際、青木ヶ原溶岩流によってその大部分が埋まり、わずかに残った部分が現在の西湖・精進湖となった。
   「石花(せ)」は、磯の岩の裂け目に住んでいる甲殻類、「かめのて」のこと。「せ」を表記するために字を借りた。
   ※十五日(もち)・・・旧暦の十五日は満月、つまり望月の日なので、十五日を「もち」と呼んだ。
   旧暦六月十五日は夏の最も暑い日とされ(旧暦の夏は4~6月)、
   駿河国風土記逸文には、富士山の雪は六月十五日に消え、その夜の子の時以降また降り変わる、とある。

と古代より讃えられ、近代の文部省唱歌にも、

  あたまを雲の上に出し 四方の山を見おろして かみなりさまを下にきく ふじは日本一の山
  青ぞら高くそびえたち からだに雲のきものきて かすみのすそをとおくひく ふじは日本一の山

とその雄大さが歌われる日本第一の高峰にして霊峰、富士山を神体として崇拝する神社で、
全国各地に鎮座する浅間神社の総本宮。
主祭神は浅間大神(あさまのおおかみ)で、富士山の神。
「あさま」はもともとは「あさくま」で(伊勢にも「朝熊山」があって「あさまやま」と呼ぶ)、
アサは「浅」、クマは「隈」、水の湧き出す窪みや川の淵のような流れの籠ったところをさす言葉で、
富士山の水神としての側面をあらわす神名。
神社境内には富士山の地下水が湧き出す「湧玉池」があり、一級河川神田川の源流となっている。
その後富士山では修験道の進出による神仏習合が進み、『竹取物語』を改作した富士山縁起が作られ、
その主人公である赫夜姫(かくやひめ)が「浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)」となり、
その本地は大日如来(あるいは千手観世音菩薩)、山頂の八つの岳は胎蔵界曼荼羅の中台院八葉に擬せられるなど、
富士山は神仏習合の一大センター、世界の縮図となった。
富士山縁起によって富士山の神が女神と認識されるようになり(古くは男神という認識だった)、
その正体は天照大神あるいは木花佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)と同一視されるようになったが、
天照大神は「お伊勢さん」であるので、江戸時代には広く木花佐久夜毘売命とみなされるようになった。
木花佐久夜毘売命は山の神・大山祇命の姫神で、天孫・瓊瓊杵尊の妻となり皇室の祖を生んだ。
その縁により、相殿神として大山祇命、瓊瓊杵尊を祀っている。

社伝によれば、第七代孝霊天皇の御世に富士山が噴火、人民が恐れて離散し国が荒廃して久しかったため、
第十一代垂仁天皇の三年、浅間大神を山足の地に祭って山霊を鎮めたのを創祀とする。
のち、第十二代景行天皇の御世、日本武尊が駿河で賊徒による火の難に遭った時、
富士浅間大神を祈念して難を遁れたので、駿河平定の後、山宮の地(現鎮座地の北方約6km、山宮浅間神社)に大神を祀ったという。
現在の鎮座地へは、平城天皇の大同元年(806)に坂上田村麻呂が勅を奉じて山宮より遷し奉った。
朝廷・武家よりの崇拝が篤く、累世にわたって多大な寄進が行われ、
特に徳川家康は社殿造営のほか富士山八合目以上を寄進するなど絶大な崇敬を寄せ、江戸幕府はその例に従って寄進を欠かさなかった。
また、修験道や民衆生活の発展に伴い富士登山が盛んになると、富士登山の起点として一般からの参詣も増え、
江戸時代よりは関東を中心にした「富士講」などで日本全国からあまたの人が訪れている。
かつてはこの神社もしくは富士山周辺の浅間社で身を清めてから富士山に登ったものだったが、
現在は単なる観光目的で富士山に直接登山する者が多く、心ない振る舞いによって霊峰がゴミの山と化しているという問題がある。
富士講は江戸時代から異端視されていてたびたび禁止令が出されたりしていたが、
明治初年の神祇改革によって神職の世襲が禁止されたことで長い間この神社の社家であった富士氏が宮司職を退き、
新たに仏法大大大キライな薩摩の人が宮司に就任したため(当時、薩摩は自領内の寺院を破却しまくっていた。
ちなみに長州は京都の本願寺と密接なつながりを持っていたこともあり仏法には寛容だった)、
神仏分離においては激烈な廃仏毀釈が行われた。
富士山周辺から神仏分離を踏み越えた仏法的施設の破却が行われ(本来、分離するのは神社内の仏法施設のみ)、
仏教的富士信仰は富士山周辺から一掃されてしまった。

明治になると神社の境内地はすべて国に上知されて国有地となっていたので、
先の大戦後に宗教法人令(のち宗教法人法に改正)に従って神社が宗教法人として立つとき、
もともとの境内地を国から無償で払い下げてもらえることとなったが、
その境内は本殿周辺一帯の土地と富士山山頂の奥宮周辺の土地しか認められなかった。
そこで、その昔徳川家康より寄進された(寄進状あり)富士山八合目以上を境内地として認めてほしいと訴えを起こし、
昭和49年、最高裁判決によってそれが認められ、富士山八合目以上は富士山本宮浅間大社の境内地に復帰した(一部の国有地を除く)。
宗教法人法は、境内地の定義の中に「歴史・古記等によって密接な縁故がある土地」を挙げており、
富士山八合目以上はそれに該当すると認められたもの。
静岡県・山梨県の県境が確定されていないために登記がなかなか行われていなかったが、
平成16年にやっと土地所有権が国から浅間大社に移った。
ただ、いまだに県境未確定のため、土地の登記は行われていない。
人が多く来るところなので、両県間の利権絡みであれやこれやなんだろうか。
万葉集の昔には「駿河なる富士の高嶺」と呼ばれていてそういう認識だったんだろうけど、現在ではどうなることか。

富士山山頂には奥宮が鎮座。本宮と同じく浅間大神を主祭神とし、大山祇神と瓊瓊杵尊を相殿神として祀る。
7月から9月の開山期には神職が奉仕し、富士山が生まれたといわれる8月15日には祭典が行われる。
また奥宮末社の久須志(くすし)神社が鎮座し、大名牟遅命(大国主命)、少彦名命を祀っている。

現在はB級グルメの雄「富士宮やきそば」の地として知られる富士宮市の玄関、JR富士宮駅。
構内でも富士宮やきそばが食べられる。
この日はあいにくの曇天で、富士山の姿は見えず。ギニャー
駅前の商店街、マイロード。
お盆の最中なので、ひと気はない。
商店街を抜けると、右手に二の鳥居が見える。
左手には、神田川沿いに立つ一の鳥居。 二の鳥居前。
鳥居周囲は駐車場になっている。
鳥居の手前にはインフォメーションセンターとお土産屋。
鳥居をくぐり、道路一本横断して参道へ。 境内の東には神田川が流れる。
この川は境内の湧玉池(わくたまいけ)から流れ出るもので、
富士山よりの湧水。
石鳥居、手前に狛犬、奥に流鏑馬の像。 鏡池を渡る。
楼門前を東西に突っ切る桜の馬場。
桜並木になっており、5月4~6日にはこの長い直線を使って流鏑馬神事が行われる。
この神事は、源頼朝が富士の裾野で巻狩りをしたのが起源と伝わっている。
ここのほかにも境内には桜の木が多数植えられている。
桜は浅間大神こと木花佐久夜毘売命にちなんだ浅間大社の神木。
楼門。門の左右には随身が控える。
楼門前の石段のところに「鉾立石」がある。
近世までは毎年4月・11月の大祭に山宮へ神幸が行われており、
その時に神鉾を休め奉ったところ。
拝殿。その後方に、二階建てのようになっている浅間造の本殿楼閣部が見える。
東から。
流造の社殿がぽんと乗っかって二階建てのようになり、はるかに富士山を望む楼閣のような本殿。
他に類例のない形式で、浅間造と呼ばれる。
本殿、拝殿、楼門は慶長九年(1604)、徳川家康造営で、本殿は国指定重要文化財。
手前の祠は、七之宮。
西からも。
手前の祠は、三之宮。
七之宮・三之宮は浅間大神の御子神を祀っている。
駿河国で編まれた『駿河国神名帳』には、
「浅間第一御子明神」から「第十八御子明神」までの十八所の名が見える。子だくさん。
授与所前から。
授与所では、富士登拝のための金剛杖を受けることができ、
焼印も押していただくこともできる。
武田信玄公手植えの枝垂桜。二代目。
絵馬所になっている。
境内の東に広がる湧玉池(わくたまいけ)。
富士山の雪解け水が溶岩の間から湧き出たもの。
湧水は一秒間に3.6キロリットルで一定している。国指定特別天然記念物。
往古より富士登山者はこの池で禊を行い、霊峰へと登っていった。
平安期の歌人、平兼盛は、

 つかふべき 数にをとらむ 浅間なる 御手洗川の そこにわくたま

と歌っている。
この清泉により、社の名を浅隈(あさくま)、訛って「あさま」と呼んだのだろう。

池のほとりには御井神と鳴雷神をまつる水屋神社が鎮座しており、
参拝者はこの社に参拝し、泉の水を汲んでいく。
「平成の名水百選」にも選出されている澄んだ水だが、
飲む場合は念のために煮沸したほうがいいとのこと。
澄んだ水をたたえる。
水温は猛暑の中でも非常に冷たく、池の周囲はとても涼しい。
外国からの人も澄んだ水に見とれる。あとニジマスに。 池は東へと続き、神田川となって流れ出す。
湧玉池遠景。
池中の島には厳島神社が鎮座。
左手の鳥居は稲荷神社。
神田川の起点。 境内東側は「ふれあい広場」となっていて、家族連れでにぎわう。
河辺に座って足を水に浸したり、川中を歩いたりする人の姿も。

富士宮やきそば。神社の前のお土産屋にて。
面が歯ごたえあって、好き。







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