にっぽんのじんじゃ・ながのけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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諏訪大社。
『延喜式』神名式、信濃国諏方郡二座、南方刀美神社二座、並びに名神大。
信濃国一宮。全国にある諏訪神社の本社。
創祀は不明。神体山祭祀や狩猟祭儀など、縄文時代に起源があるのではないかといわれるほど、
その歴史は古い。
その神域は上社・下社に分かれ、それらがさらに二箇所に分かれた四箇所、これらが諏訪湖の周辺に鎮座しており、
それぞれ上社前宮、上社本宮、下社春宮、下社秋宮と呼ばれている。
これらの社殿の周囲には「御柱」と呼ばれる巨木の柱が四本立ち、また幣拝殿の左右に片拝殿をもつという独特の配置の建築様式となっている。

祭神は、『延喜式』神名式では南方刀美神(みなかたとみのかみ)を主祭神とする二座。
『古事記』によれば、国譲りの際に諏訪に逃れ鎮まった神として建御名方神の名があがっており、
その妻神とされる八坂刀売命とともに祀られている。
現在、上社に建御名方命・八坂刀売命を、
下社は建御名方命・八坂刀売命に加え、『古事記』では建御名方命の兄弟神とされる八重事代主神を合わせ祀っているが、
元々は上社に南方刀美神、下社に八坂刀売神を祀っており、それで「二座」と数えられていたと思われる。
正史には、『日本書紀』持統天皇五(691)年八月二十三日条に、

  使者を遣わして龍田の風神・信濃の須波・水内等の神を祭った。
   (*龍田風神は大和国の龍田大社、須波が諏訪大社、水内は信濃国水内郡の健御名方富命彦神別神社)

とあるのが初見で、
このころにはすでに風神としての信仰があったことがわかる(この年は天候異常が多かったため、風神や水神を頻繁に祭った)。
その後、承和九(842)年五月に南方刀美神に神階従五位下、
同年十月には健御名方富命前八坂刀売神に従五位下が与えられ
(「前」は主祭神以外の神をあらわす時に用いられる。「健御名方富命の配祀神、八坂刀売神」ということ)、
その後順次昇格して天慶三(940)年には建御名方富命に、永保元(1081)年には八坂刀売命にそれぞれ正一位が与えられた。
神仏習合の影響により「南宮大明神」「法性大明神」とも呼ばれ、
武田信玄が戦において「南無諏方南宮法性上下大明神」の軍旗を掲げていたのはよく知られている。

そのように諏訪の神は軍神としても信仰されているが、
朝廷の統治下に入ってからは越国など東方の蝦夷への押さえの機能をもったと考えられることから、
そのころから軍神としての性格があった可能性がある。
信濃国は、『延喜式』によれば16の官営の牧があって毎年朝廷に80頭の馬を供給しており、
さらに弓の産地として、折にふれて大量の弓を朝廷に献上していたなど、
成立当時の武士の必須アイテムであった弓馬をともに産出する地だった。
『日本三代実録』の貞観十二年(870)八月には出羽国の「須波神」に従五位下を授けるという記事があり、
蝦夷征伐に諏訪の神が伴っていたことがわかる。
坂上田村麻呂が蝦夷を征伐できたのは諏訪の霊験、とする話は平安時代のうちに出てきており、
『梁塵秘抄』には、
「関より東のいくさ神、鹿島香取(かしま・かんとり)、諏訪の宮」
との歌が収録されていることから、
この頃にはもう諏訪の神は軍神であるという認識は一般にあったようだ。
さらに、諏訪社の社家は武士団を結成しており、
諏訪氏・金刺氏は源頼朝に仕え、諏訪社は鎌倉幕府の手厚い庇護を受けた。
そして狩猟神事である御射山神事に幕府が協賛、大掛かりな武芸大会が行われたことで広く武士の尊崇を集めるようになり、
武士たちを通してその信仰が全国的に広まった。

『梁塵秘抄』にはまた、
「南宮の本山は、信濃国とぞ承る。さぞ申す。
美濃国には中の宮、伊賀国には稚(おさな)き児(ちご)の宮」
とあり、ともに金属・製鉄の神である美濃国の南宮大社(金山彦命)、伊賀国の敢国神社(金山比咩)の本山という認識があり、
諏訪の神には製鉄神としての側面もあった。
諏訪地方は古くから製鉄が行われており、
室町時代に成立した『諏方大明神画詞』には、諏訪の土着の神・洩矢神が「鉄輪」をもって戦ったという記述があり、
祭神の「ミナカタ」という神名も、製鉄に基づくものという説がある。

建御名方神は、『古事記』の「国譲り」の場面で大国主神の子として登場する。
建御名方神は千人がかりで引けるほどの岩を手先で差し上げながらやってきて、高天原よりの使者である建御雷神に力比べを挑むが、
建御雷神の手を取ったとたん、その手が氷柱そして剣刃に変化したために驚いて退いてしまう。
今度は建御雷神が建御名方神の手を取ると、若葦を取るように押し潰して投げ飛ばしたので、建御名方神は逃走した。
そしてついに信濃国の諏訪湖に追い詰められ、殺されそうになったところで建御名方神は降参し、
ここから他の地へは出ないこと、父・大国主神の命と兄・事代主神の言葉に逆らわないこと、
葦原中国は天つ神である御子の命のまにまにたてまつります、と申し上げた。
建御雷神の神威を強調するかませ犬のような立場になっているが、
大国主神の「国作り」の場面の後半に載せられている大国主神の子孫の系譜にはこの神の名はなく、
国譲りの場面でいきなり登場してくる。
重要な場面で登場する神にもかかわらず、なぜ大国主神の系譜に出てこないのかは不明で、
『日本書紀』の国譲りの場面ではどうかといえば、そこには建御名方神はいっさい登場しない。
よって記紀においては母神も不明なのだが、
平安中期ごろ成立とみられる『先代旧事本紀』の「地祇本紀」では、建御名方神は大国主神と高志(越)の沼河比売との間の御子神とされている。

神名の「ミナカタ」とは通説では「水潟」のことで、諏訪湖のほとりに鎮座する水の神としての名であるとされる。
しかし歴史の上では狩猟神、風神、軍神としても信仰を集めており、長い歴史の上でかなりの変容(というか巨大化)を見せている。
『諏方大明神画詞』には、建御名方神は出雲より来訪した征服神であり、
洩矢・手長・足長ら土着神を破ってこの地に君臨したと記されているが、
この時代には当然仏教の本地垂迹説も加わっており、
また、社家同士の対立・論争もあったため、その作為によってかなり日本古代の信仰からは変容した神話となっていると思われる。
なので、これらをそのまま信じるわけにはいかない。
もちろん、諏訪の信仰史の重要な一ページとしての価値は変わらない。本来の信仰を洗い出すには、慎重な研究が必要というだけのこと。

諏訪社の神職の最高位は「大祝(おおはふり、おおほうり)」といい、上社では南方刀美神の子孫である神(じん)家の流れである諏訪氏
(一説には、大和国の大神神社の社家である三輪氏と同系といわれ、『諏方大明神画詞』で語られるタケミナカタの侵入は、
外来の大和の祭祀氏族三輪氏が諏訪の土着信仰の上に立った、という歴史を言い換えたものかもしれない)、
下社では信濃国造の子孫である金刺氏(信濃国造は皇族なので、皇族の末裔となる)がつとめた。
大祝は諏訪の神をその身に宿した、まさに現人神として君臨し、諏訪の地を祭政一致で治めていた。
大祝は年少の童子でなければならず、成人するとその資格を失った。
そのため、大祝をつとめた人間は成人してその資格を失うと、惣領として諏訪氏の長となるのが慣例となった。
大祝の下には神長官(じんちょうかん)、禰宜(ねぎ)、権祝(ごんのはふり)、擬祝(ぎのはふり)、副祝(そえのはふり)の五官があり、
上社神長官の守矢氏は守屋山の神とされる洩矢神の末裔と伝えられる。
守矢氏は独特の神器を用いて祭儀を行うなど、その特異性が知られている。

諏訪社の神職は祭祀だけではなく武士としても活躍しており、「神家党(じんけとう)」と呼ばれる武士団を結成していた。
『吾妻鏡』には、平家に加担していた「諏訪大夫盛澄」という人物が、
源頼朝の呼び出しになかなか応じなかったため捕らえられて断罪されようとするところを、
神業級の流鏑馬の腕前を披露したために許されたという話が見える。
この人物は『諏方大明神画詞』では下社大祝・金刺盛澄とされ、木曽義仲の縁者であり、
義仲の配下として活躍した手塚光盛はその弟であるとされている。
『吾妻鏡』の記述とは矛盾するが、少なくとも、諏訪の神職がかなりの武芸を修めていたことを知ることはできる。
それはともかく、諏訪の諏訪氏・金刺氏は以後鎌倉幕府に仕えた。
鎌倉幕府が倒れ足利尊氏が政権を握ると、大祝(と伝えられる)諏訪頼重が北条時行を奉じて中先代の乱を起こしている。
続く南北朝時代には南朝に与して戦ったが、徐々にその結束にはひびが入り、
諏訪氏は武家であり一族の上に立つ惣領家と専ら祭祀を司る大祝家とに分裂、祭政が分離することとなった。
さらに諏訪氏と金刺氏の上社・下社間での争いも勃発。
ついに上社では、前宮の神域にて惣領家と大祝家が兵火を交える事態におよんで対立が決定的となり、
惣領家は神殿(ごうどの。諏訪氏の居館)を出て上原城を築き、大祝家は干沢城を築いた。
大祝家の諏訪継満は前宮神殿での宴会に惣領家の諏訪政満を招いた上で謀殺、惣領家を併合しようとしたが、
これが社家・豪族たちの反感を買い、彼らは干沢城を攻撃して継満を逃走させた。
この事件は文明十五(1483)年のことで、以後、惣領家が大祝と惣領をつとめる元の形となった。
下社の金刺氏は永正十五(1518)年に上社大祝・諏訪頼満に攻撃されて滅亡し、
諏訪氏も甲斐武田氏との度重なる戦いの末諏訪頼重が敗北、一時は上社・下社とも戦火により焼亡、荒廃していた。
それが復興したのは江戸時代になってから。
上社の祭祀は諏訪氏がそのまま行い、下社には金刺氏と同族の今井氏が入って武居祝(たけいはふり)と称して祭祀を引き継ぎ、
江戸時代になって武居祝の童男を大祝とするようになった。

明治になると、すべての神社は国家の管理下におかれることとなり、
神職は公務員のような立場となって、神職の世襲は禁止され、政府がそれにふさわしい人物を精選補任する方式になった
(もっとも、全ての神社においてそのような事はできるはずもないので、地方の小さな神社では事実上世襲が続いた)。
また、祭祀も各地でバラバラではまとまりがつかないため、統一した行事作法によって祭りが行われるようにした。
これはこれで必要なことではあったが、神職世襲の禁止ともあいまって、各地の社家で伝承されていた多くの独特な祭儀が失われることとなった。
諏訪の神長官守矢氏に伝えられていた一子相伝の祭儀も、それによって断絶してしまった。

神仏習合により、明治になるまでは、上社・下社境内には神宮寺をはじめとする寺院群があり、また仏堂もあって僧侶が神事に参加することもあった。
しかし、明治の神仏分離によってそれらは廃絶した。

はあはあ、前フリはこれくらいでいいか。ではいってみよう。

→上社前宮へ


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