にっぽんのじんじゃ・とっとり

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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伯耆国(鳥取県西部):

会見郡(米子市の大部分、南部町、伯耆町、境港市の一部):

大神山神社 粟嶋神社

汗入(あせり)郡(米子市の東端部、大山町):

伯耆富士・大山を擁する郡。

*大山 大神山神社〔奥宮〕 *大山寺

会見郡:

大神山(おおがみやま)神社。

米子市尾高に鎮座。

『延喜式』神名式、伯耆国会見郡二座の一。
伯耆国二宮。

『出雲国風土記』にみえる「国引き神話」において、
越の国より美保の崎を引いてきたときに杭としたとする大山を祀る神社で、
主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)で、国作りの神である大国主神のこと。
また、相殿に大山津見神、須佐之男神、少彦名神を祀る。

『出雲国風土記』に意宇郡条にみえる国引き神話に、
八束水臣津野命が越の国の土地の余りである都都(つつ)の岬、つまり島根半島東部の島根郡の箇所を引っ張って来た時、
その土地を固定するための杭となったのが伯耆国の「火神岳」であったと記されている。
大山が最後に火山活動を行ったのは一万年前とされているにもかかわらず
(ちなみに、出雲郡の地を引いてきたときに杭にしたとされる三瓶山が最後に噴火したのは4000年前)、
八世紀成立の『出雲国風土記』に「火神岳」と記されているということは、
大山に対する信仰が相当古くからあったということになるだろうか。
あるいは、『古事記』において、火神を生んだ時に焼死した伊耶那美命は「出雲と伯耆の国境の比婆の山」に葬られ、
さらに激怒した夫の伊耶那岐命は火神の首をはねて殺し、その死体から八柱の山神が生まれた、としていることから、
出雲と伯耆の国境近くにある大山がその山として「火神岳」と呼ばれていたかもしれない。
その場合も、大山がかつては「火神」、火山であったという遠い記憶にもとづいている可能性がある。
ともかく、神の山である大山の信仰センターが「大神山神社」だった。

大山のある地域は律令制導入当時の郡制によれば「汗入郡」だが、神名帳には大神山神社は「会見郡」所在とされており、
国史においても、『続日本後紀』承和四年(837。『延喜式』成立の90年前)二月五日条に、

  伯耆国川村郡の無位の伯耆神(波波伎神社)、会見郡の大山神(大神山神社)、久米郡の国坂神(国坂神社。伯耆国四宮)、
  および対馬島上県郡の無位の和多都美神、胡禄御子神、
  下県郡の無位の高御魂神、住吉神、和多都美神、多久都神、太祝詞神に、
  並びに従五位下を授け奉る。

という神階奉授記事があるので、大神山神社の本社は会見郡とされていたということになる。
西の会見郡から見る大山は「伯耆富士」と呼ばれるほど美しい姿であり、
その姿を仰ぎ見ることのできる地に遥拝のための神社を建てるのは自然なこと。
富士山を祀る富士山本宮浅間大社も、富士山中ではなく富士山の山裾に鎮座している。
当初は山そのものを神とし、その遥拝所としての神社があったか、
あるいは山麓に里宮、そして山中に神域としての簡素な奥宮があって、
その後、仏法の流布とともに山中に大山寺が営まれるようになり、
やがてそれらがドッキングして活動するようになったのだろう。
『伯耆民談記』には「(大山の)四十余町麓に権現の本社あり」と記されており、
近世においても山麓に神社、山中に寺という認識だった。
神仏習合の世だからといって、神も仏もごっちゃになっていたわけではない。
社伝によれば、当初は日野川東岸の西伯郡岸本村(現・伯耆町岸本)の、大山山麓にあたる大神谷に鎮座しており、
その後、戦国時代の大乱の中で衰微していたのを、
毛利氏が山陰を領有した後、吉川氏が北東の福万村(米子市福万町)に新たに社殿を造営して遷座し、
江戸時代に入ると、承応二年(1653)に大山山麓より海に近い平野部の尾高村に遷座した。
はじめは現社地の北東の大本坊という地に遷座し、間もなく後の延宝八年(1680)に現在地に遷座したという。
岸本や福万は、山陰道方面から大山寺に登る道(現在の県道24号)からは大きく外れているため、
時代が下るにつれて一般民衆の参詣が多くなったことで、交通の利便が良く、参拝しやすい場所に遷座したのだろう。

『日本文徳天皇実録』斉衡三年(856)八月五日条には、

  伯耆国の伯耆神、大山神、国坂神に並びに正五位下を加えた。
  倭文神(倭文神社。伯耆国一宮)、宗形神(胸形神社)、大帯孫神(おほたらしひこのかみ。式外社)に並びに従五位上。

『日本三代実録』貞観九年(867)四月八日条には、

  出雲国の従二位勲七等熊野神(熊野大社)、従二位勲八等杵築神(出雲大社)に並びに正二位を授け、
  正五位下の佐陁神(佐太神社)に正五位上。
  伯耆国の正五位下伯耆神、訓坂神(国坂神社)、大山神に並びに正五位上。
  正六位上の湊神、賀茂神(ともに式外社)に並びに従五位下。
  備後国の従五位上甘南備神(賀武南備神社)、高諸神(高諸神社)に並びに正五位下。

という記事があり、川村郡の波波伎神社、久米郡の国坂神社、
そして会見郡の大神山神社がワンセットで神階を授けられている。
当時は新羅の賊が度々来寇しており、朝廷は特に山陰道・西海道の諸国に厳重警備を命じる一方、
それらの国内の神仏をよく祭らせ、国境守護を祈願していた。
(当時の新羅は崩壊寸前の情勢であったために国内外に賊が横行しており、時には国王が海賊行為を命じることすらあった)
この時期の度重なる昇叙はそれのあらわれといえ、またそれだけの神威を有する神社とみなされていたということになる。
のち、村上天皇の御世(946-967)に「大智明菩薩」という菩薩号を授かり、「大智明権現」と呼ばれるようになったと伝える。
朝廷より菩薩号を受けていた神社は、ほかには宇佐神宮など八幡宮の「八幡大菩薩」や、大洗・酒列磯前神社の「薬師菩薩明神」などがある。

神仏習合にともなって大山の神の本地は地蔵菩薩であるとされ、
また、大山山麓では古くから牛馬の放牧や売買が行われていたことから、
そのうち「牛馬の守護神」として伯耆国のみならず中国地方の諸国から絶大な信仰を集めるようになった。
野生馬は縄文時代前期にはいたとされており、放牧は五~六世紀には始まっていたとみられる。
奈良時代後期あたりから牛馬の生産が本格化し、鎌倉時代末にはその数一万頭におよんだといわれる。
牛馬を商う者はもちろん、農耕に欠かせない牛馬をもつ農民はことごとく大山権現を信仰し、
それこそ各村に一社といっていいほど「大山社」「大仙社」を勧請して、
その祭礼においては各自が牛馬を社へと曳いて登り、牛馬の健康と五穀豊穣を祈念していた。
権現の本地が地蔵菩薩であったため、その姿が「牛に跨る地蔵菩薩」としてあらわされることもある。
あのお地蔵さんが大股拡げて牛に跨っている姿たるや、相当奇妙。
周辺の各地に伝わる古い田植唄の中にも大山さんが唄われており、
『大山寺縁起絵巻』の中には、牛耕を温かく見守る地蔵菩薩の姿が描かれていて、
大山権現が「牛馬の守護神」ひいては「農耕の守護神」としても深く信仰されていたことが知られる。
近世には大山寺領奉行によって、大山寺の門前に牛馬市「大山博労座」が整備され、
備後国御調郡久井の「久井の牛市」(広島県三原市久井町)、陸奥国白河郡白河の「白河の馬市」(福島県白河市)、
豊後国速見郡杵築の「若宮の市」(大分県杵築市。牛馬市)などとともに、日本有数の牛馬市として隆盛を極めた。
「袖の下から値を決めて お手手叩いて何百両 これで博労がやめらりょか」
という唄が伝わっている。
「袖の下から値を決めて」というのは、博労(牛馬取引仲介者)が袖の中で相手の手の指を握って値踏みをしていたことから。
「お手手叩いて」というのは、売買が成立した時に売り手と買い手の双方が手を拍っていたことをいう。
この市によって中国地方の牛馬の品種改良が進み、農作物の収穫アップに大いに寄与した。

明治になるまでは大山寺はもとより大神山神社においても神事とともに仏事が営まれていたが、
明治の神仏分離によって神社より仏法に関わるものは一掃され、
大山山中の大山寺本殿は「大神山神社奥宮」とされ、大神山神社の管轄となった。
この時、大山寺は一時寺号を廃されたが、明治末期にもとの中門院大日堂を本堂として復興し、
現在は大神山神社奥宮の下に大山寺がある、という形になっていて、
四月の春の祭と十月の秋の祭については、奥宮と大山寺が同日に執り行うようになっている。
本社においては、四月の上旬に春祭、十月上旬に例祭を行っている。

神社の駐車場から望む大山。
頂上部には雲がかかっている。
鳥居前。
大山を拝む宮であるので、
社殿は北向きとなっている。
が、正確に大山のほうを向いているわけではなく、
福万の旧鎮座地のあたりを向いている。


鳥居は文化八年(1811)の造営。
道沿いに建つ大燈籠。
池の鯉。
水がすこぶるきれい。
境内。
正面に随神門、右手に手水舎、左手に社務所。
随神門。手前に古い狛犬。
大神山神社拝殿。
拝殿の扁額は、鳥取藩主池田慶徳公の書。

慶徳公は「水戸の烈公」こと徳川斉昭公の子息で、
江戸幕府十五代将軍・徳川慶喜公の兄。
鳥取池田家へ養子に入り、
のち藩主となって、明治維新を迎えた。
その後は鳥取藩知事となり、
藩知事でありながら版籍奉還に真っ先に同意し、
日本の近代化への道筋をつけた人物。

扁額には「従二位」とあるが、
薨去後、従一位を追贈されている。

拝殿に神饌所が接続する。
大神山神社本殿。
本殿の東隣に設けられている、
下山神社遥拝所。

下山神社は奥宮の隣に鎮座しており、
大山参詣の帰途に不慮の死を遂げた人の霊を祀る。
白狐がこの神の託宣を行ったと伝えられており、
遥拝所前には狐が侍っている。
本殿の西には、
末社・朝宮神社が鎮座。
境内の大銀杏。
境内の西(写真の左側)は池になっており、そのほとりに燈籠が並んでいるが、
これは児童の学業成就を祈念して近隣の学校が行っていた「勧学祭」の記念奉納。
境内東側の社叢。

粟嶋(あわしま)神社。

米子市彦名町に鎮座。
弓ヶ浜の西部を走る県道47号線を北へ4kmほど行った左手の小高い山に鎮座する。

『釈日本紀』が引く伯耆国風土記逸文に、

  相見の郡。郡役所の西北に余戸里(あまりべのさと)がある。
  粟島(あはしま)がある。少日子命(すくなひこのみこと。少彦名命)が粟を蒔いてよく稔った時、
  そこで粟に乗って常世の国に弾かれてお渡りになった。
  ゆえに粟島という。
    *余戸里・・・令制の「国・郡・里(郷)」の制においては50戸を一里(郷)として編戸し、
            山間などの僻地においては戸数にとらわれず便宜に里が置かれていたが、
            その場合の最低限の戸数は25戸とされており、それに満たないものを「余戸里」と呼んで、
            里長を置かず、5戸の単位である「保」の長に里長の職務を代行させた。            

と、会見郡の粟島についての記述があり、
粟島は、大国主命とともに国作りを行った少彦名命が常世国に旅立った地であるとされている。
この神は、『古事記』には、大国主命が出雲の御大(みほ。美保)の岬にいた時、そこへ波に乗って寄り来た神であり、
神産巣日御祖神(かみむすひのみおやのかみ)の御子であって、神産巣日神の命によって大国主命と二柱で国作りを行った後、常世国に渡った、
と簡略に記されている。
『日本書紀』には、素戔嗚尊の八岐大蛇退治および草薙剣の出現の箇所に収録された六つの異伝のうち、
大国主神の業績について記す第六の異伝の中に登場しており、
大己貴命(大国主神)と力を合わせて天下を作り、また人間や家畜のためには病を癒す方法や鳥獣・昆虫の害を払うための呪術を教え、
今にいたるまで民は皆そのお蔭を蒙っている、とある。
そして、大己貴命の「われらが作った国はよくできたというべきだろうか」という問いに、
「できたところもあり、また、できなかったところもある」
と答え、その後、熊野の岬から常世郷に出発した、
あるいは淡嶋(あはしま)に行って粟の茎にのぼり、弾かれて常世郷に行った、と記されている。

粟島は、現在は弓ヶ浜に吸収されているが、これは江戸時代の干拓事業によるものであり、
それまでは中海に浮かぶ島であって、社殿も当初は山上にはなかった。
『延喜式』神名式には記載がないが(伯耆国会見郡の官社は胸方神社・大神山神社の二社のみ)、
古くは島自体を神聖視し、社殿が設けられていなかったため、官社には加えられなかったと考えられる。
社伝によれば、鎌倉時代末には島の東の浜辺、現在の御祈祷所の場所に社殿が営まれており、
元弘の変において後醍醐天皇が隠岐に配流された時、天皇が使者を遣わして海上安全を祈願された、
あるいは親しく御参拝されたといわれている。
のち、戦国時代の永正十七年(1520)に焼失し、四年後の大永四年(1524)、尼子経久が社殿を再建。
江戸時代になると、慶長六年(1607)、元和二年(1616)、寛永七年(1630)、慶安元年(1649)に造替が行われ、
そして元禄三年(1690)、初めて粟嶋の山上に大規模な社殿が造営された。
その頃まで粟嶋神社へは渡し船で渡っていたが、18世紀には弓ヶ浜沖の新田開発が進められて粟島は地続きになり、
19世紀になると鳥居などの参道設備が整えられ、
幕末には鳥取藩主の池田慶徳公(十五代将軍・徳川慶喜公の兄)や山陰道鎮撫使の西園寺公望公が参拝された。
近代に入ると郷社に列せられて境内が整備され、大正十一年(1922)に本殿が焼失するも、
昭和十一年(1936)に再建・正遷宮が行われている。

主祭神は少彦名命で、大己貴命、神功皇后を配祀。
医療の法を定めた神であることから難病苦難を救う神として、
また国作りにおいて大己貴命とともに天下を経巡ったことからか、交通安全の信仰もある。
近世には「淡島明神」の民間信仰により、婦人の病気平癒の信仰ももった(淡島明神信仰については加太淡嶋神社の項を参照)。
神功皇后が新羅遠征の時に皇子の安産を祈念され、帰還して無事に皇子(第十五代応神天皇)をお産みになったので、
報賽として当社に母子雛を奉納されたという言い伝えがあり、
その縁起によって相殿に祀られ、安産・子授けの信仰がある。
この雛人形の奉納伝承も、淡島明神信仰にもとづくものと思われる。

鎮座地の現在の町名「彦名町」は祭神にもとづいており、
また、現在は市名になっている「米子」の名も、
「昔、粟島村に住む長者には長い間子がいなかったが、八十八歳の時にようやく子を授かり、以後子孫繁栄したため、
『八十八の子』から『米子』と名づけた」
と言い伝えられていて、
その真偽はともかく、「地名の由来となった(とされる)地」であることから、
少なくとも粟島が古来この地方の中心的な位置を占めていたことは間違いないだろう。

神社前。
「粟嶋」は市指定名勝、「粟嶋神社の社叢」は県指定天然記念物となっている。
参道。
右手に大燈籠がある。
参道脇に立つ、
新旧の社日。
新しい方は燈籠の竿に神名が彫られており、
「粟嶋大明神」「杵築大明神」「勝田大明神」
「大山大智明権現」「天照皇大神宮」などの名が見える。
大燈籠。
石段前。鳥居が立つ。
賽銭箱があって、遥拝所となっている。
石段は標高38m急角度一気登り。きつい。
このため、石段下に遥拝所が設けられている。
体育会系におすすめ。
石段の石材には、
江戸時代には松江藩の御留石であった「来待石」が用いられている。

石段の途中からは、荒神宮や荒神祠への参道が分かれている。
もう少し登れば、随神門。

石段は187段ある。
と、案内板に書いてある。
随神門をくぐる。
境内は苔むしている。
随神門の脇には、
伊勢神宮遥拝所が設けられている。
粟嶋神社拝殿。
拝殿および本殿は、島の頂上の南北幅を可能な限り用いて建てられている。
拝殿前の古い燈籠。

拝殿にかかる扁額は、正二位勲一等・若槻禮次郎男爵の揮毫。
若槻卿は松江の出身で、二度の内閣総理大臣など国家の重職を歴任、
軍縮・不拡大主義であったことから昭和天皇の信任もあつく、先の大戦の終結においても多大な力を尽くしている。
昭和十一年に社殿再建の正遷宮が行われているので、その時に揮毫を依頼したのだろう。

拝殿前の左右には、元は何かの施設があったのだろうか。
背後より、粟嶋神社本殿。弓浜地方最大級の威容を誇る。
大社造で、外観に特に装飾は施されていないが、逆にそのシンプルさが重厚感を醸し出している。
本殿背後からは中海が見渡せる。
中海一帯は「国指定中海鳥獣保護区」、
またラムサール条約湿地になっており、
鳥獣の捕獲は禁止されている。
目の前の一帯は「米子水鳥公園」となっており、
コハクチョウの集団越冬地の世界南限地。

対岸は島根県安来市。
本殿後方には、
出雲大社遥拝所が設けられている。
参道の途中の脇にある鳥居をくぐってしばらく行くと、
荒神宮が鎮座している。

また、この右上の高台にも小さな荒神祠が鎮座している。

 

石段の下、参道脇にある御祈祷所。
上まで登るのが大変なため、通常の祈願はここで行うようだ。
かつてここが島であった頃、当初はこの位置に社殿が建てられていたと伝えられている。

御祈祷所の隣には豊受宮、その隣には地元の奉斎する歳徳神の社が鎮座している。

歳徳神の脇からは粟嶋の北から西へと廻っていくことができ、
そちらには「御岩宮祠」「静の岩屋」がある。

粟嶋の北辺に鎮座する御岩宮祠(おいわきゅうし)。
通称「お岩さん」。
その名の通り、大岩を祀っている。
往古、海から寄り来る神が真っ先にこの岩に抱きつかれたという岩であると伝えられる、神の依代としての岩。
祭神の少彦名神も、ここから上陸されたという。

「石」→「セキ」ということで、風邪や咳によく効く神様として信仰されており、
難病にも霊験あらたかであると伝えられている。
さらに西へ廻っていく。
粟嶋の西側は岩場になっている。
「静(しず)の岩屋」。
いわゆる「八百比丘尼(はっぴゃくびくに、やおびくに)」の伝説が残る巌窟。

  昔、粟嶋神社を奉斎するこの辺りの漁師十一軒が「講」を結成して毎月一回の集会を開いていたが、
  ある時、ひとりの漁師がそこに引っ越してきて、この講中に加わった。
  翌年、彼の当番になった時、彼は厚恩への感謝として講中の皆を舟に乗せ、竜宮のような立派な御殿に案内し、もてなした。
  何日か経って帰る時、最高の御馳走であるとして「人魚」の料理が出されたが、
  誰も気味悪がって食べようとはせず、さりとて残すのも失礼なので、食べたふりをしてたもとに隠し、帰る途中に海へ捨てた。
  ところが、漁師の中に捨てるのを忘れていた者がおり、
  その家の十八歳になる娘が、父の着物を畳む時にそれを見つけて、それと知らずに食べてしまった。
  以後、娘は決して老いることなく、いつまで経っても十八歳の姿のままであった。
  娘は、周囲の者が次々と死んでいく中で自分ひとり生き長らえるという悲哀に堪え切れず、
  世をはかなんで尼となり、この岩屋に入ると、干柿を食べ、鉦を鳴らしつつ、やがて息絶えた。
  その時、彼女の齢は八百歳であったことから、
  村人は彼女を悼んで「八百比丘尼さん」「八百姫(やおひめ)さん」と呼び、ていねいに祀ったという。

以上の伝承により、現在も長寿の御利益があるとして信仰されている。

八百比丘尼の伝説はその多くが若狭国(福井県南部)を舞台としているが、
中世には広く知られた話になって全国各地で類話が作られ、ほかの話とミックスしたようなものまである。
八百比丘尼を自称する者も多く、そういった者が各地を行脚することでその話が広まったようだ。
若狭が発端の地となったのは、「不老不死」と「若さ(若狭)」を掛けたものだろうか。
『和漢三才図会』には、若狭国の名の由来として、
「昔、この国に男と女があって夫婦となり、ともに長生きして、人はその年を知らなかった。
容貌の若いことは少年のようであり、のちに神となった。
今の一宮の神(若狭彦神社。若狭国一宮)がこれである。ゆえに若狭の国と称する」
と記している。


「静の岩屋」の名は、『万葉集』巻第三(355)にある生石村主真人(おひしのすぐり・まひと)の歌、

  大汝(おほなむち) 少彦名のいましけむ 志都(しつ)の石室(いはや)は幾代経ぬらむ

という歌にもとづいており、少彦名神と大己貴神の鎮座する粟島をそれになぞらえている。
この「静の岩屋」がどこであるかについてもまた諸説がある。
離れて見るとこんな感じ。

社叢の植生は、スダジイ、タブノキ、モチノキなどの高木、
ヤブツバキ、カクレミノ、ネズミモチの中低木など樹種に富み、
中海側にはシャシャンボが多く群生している。
この地方では珍しい天然の照葉樹林。

粟嶋の西は「水辺のわくわく学校」として、子供がメダカやトンボを観察するための池となっている。

社前よりの大山の眺め。

近隣にはJリーグ3部のJ3に所属(2014年度現在)するガイナーレ鳥取のホームグラウンドのひとつであるサッカー専用競技場、
「チュウブYAJINスタジアム」がある。
「YAJIN」は、鳥取で現役生活を終えた元日本代表FW岡野雅行のあだ名から。
今では日本がW杯に行くことなど当たり前のようになっているが、
岡野がジョホールバルで行われた1998フランス大会アジア予選のアジア第三代表決定戦・イラン戦の延長戦で劇的なゴールデンゴールを決めるまでは、
日本は一度もアジア予選を突破したことがなかった。
あの野人が今や鳥取のGMとか凄い
ちなみに鳥取のメインのホームスタジアムは、鳥取市内にある「とりスタ」こと「とりぎんバードスタジアム」。
田園地帯の中にそっと置かれたような、コンパクトで気持ちの良いスタジアム。


汗入郡:

大山(だいせん)

主に西伯郡大山町に属する火山。

全国には「大山」と呼ばれる山がいくつもあることから、旧国名を冠して「伯耆大山」と呼ばれ、
また西からの眺めが富士山のようであることから、「伯耆富士」とも称される、
古来、神の山そして仏の山として信仰されてきた、山陰のみならず中国地方を代表する、日本有数の霊山。

大山は、180万年前から50万年前に形成されたカルデラ火山の上に、
5万年前から1万年前にかけて成長した溶岩ドームが乗る複合火山であるとみられている(異説もある)。
かつては活発な火山活動を行っており、広範囲に及ぶ被害を及ぼしていた。
最後の噴火は1万年前とされ、有史以後の噴火記録はないため、かつては「休火山」あるいは「死火山」と呼ばれることもあったが、
地球の活動のスパンは人間の想像を絶するほどはるかに気長なので(なんてったって46億歳)、
現在では「たかだか1万年噴火していないからといって『お休み』とか『逝った』とかいえない」という見解となっており、
今はたまたま活動していない時期にすぎないのかもしれない。

有史以後の噴火記録やその形跡はないが、
『出雲国風土記』意宇郡条にみえる「国引き神話」のうちに、

  ・・・また、
  「高志(こし。越、北陸・越地方)の都都(つつ)の三埼(みさき。岬)を、国の余りがあるかと見ると、国の余りがある」と仰せになって、
  童女の胸のような鉏(すき)をお取りになって、
  大魚のきだ(*えら)を衝き分けるように(*突き刺し)、
  (*その肉を)はたすすき屠り分けるように(*土地を切り離し)、
  三本縒りの綱を打ち掛けて、
  霜黒葛(しもつづら)をくるやくるやと(*手繰るように)、
  河船をもそろもそろと(*引き揚げるように)、
  「国よ来い、国よ来い」
  と引いてきて縫い付けた国は、美保の埼である。
  手に持って引いた綱は、夜見の島である。
  引いてきた国を固定するために立てた杭は、伯耆の国にある、火神岳(ひのかみのたけ)がまさにこれである。 
   (*美保の埼・・・島根半島東端部)
   (*夜見の島・・・弓ヶ浜) 

とあり、美保の崎、つまり島根半島東端の島根郡の地を引いてきたときに立てた杭である「火神岳」が大山のこととされており、
はるか昔に火山活動を停止していたにもかかわらず「火神岳」と呼ばれていたということは、
かつて活火山であったころの強烈な記憶が伝えられていたのか、
あるいは噴火はせずとも時折煙をもくもくと上げていたのだろうか。
出雲郡地方を引いてくるときの杭代わりにしたとする三瓶山(『風土記』では「佐比売山」)もまた火山であり、
あるいは地震や火山活動による土地の大変動の記憶が「国引き神話」に反映されているのかもしれない。
実際、縄文時代早期(7000年前)にはまだ弓ヶ浜はなく、また宍道湖は西で日本海とつながる「古宍道湾」であり、
島根半島は今の松江市の辺りで本土とかろうじてつながっている状態だった。
それが、縄文時代前期末(5000年前ごろ)に古宍道湾の西が塞がって「宍道湖」となり、「神門水海」と「薗の長浜」が形成され、
そして2400年前の弥生時代には神門水海が縮小し、また「弓ヶ浜」が形成されて、島根半島がその両端でがっちり本土と接続する形となった。
もしかすると出雲の人はこの4000年以上にわたるロングスパンの大地の変動をその世々において語り伝え、
それらを最終的に「国引き神話」として昇華したのかもしれない・・・
とはいえ、4000年は人間の記憶に留めるには余りに長すぎるので、さすがにありえないか。
たかだか1200年前に東北地方で起こった「貞観地震」も、国史『日本三代実録』にその甚大な被害について記されていたが、
現代においては「大袈裟すぎwww」「そんなにねーよwww」というのが一般の見方だった。そして、あのようになった。
もっとも、上古の人と現代の人との自然に対するまなざしは相当違っていたと思われ、また上古には文字がなかったので、
自然現象に対する言い伝えは尊重されただろう。
『日本書紀』においてさえ、「飛鳥寺の西の槻の木の枝がひとりでに折れて落ちた」という記事があり(天武天皇九年〔680〕七月一日条)、
一国の正史に「木の枝が折れた」という記事が載るほど、日本人は自然の微妙な出来事にも敏感だった。
またあるいは、『古事記』において、火神・迦具土神を生んだ時に焼死した伊耶那美命は「出雲と伯耆の国境の比婆の山」に葬られ、
さらに激怒した夫の伊耶那岐命は火神の首をはねて殺し、その死体から八柱の山神が生まれた、としていることから、
出雲と伯耆の国境近くにある大山がその山として「火神岳」と呼ばれていたかもしれない。

大山の最高峰は、新期大山の溶岩ドームの一つである剣ヶ峰の1729m。
ほかには弥山・三鈷峰が新期大山の溶岩ドームであり、
カルデラの外輪山は烏ヶ山~矢筈ヶ山~勝田ヶ山~船上山がそれにあたるが、
崩壊が激しく、その大部分は不明瞭となっている。
大山を構成する岩は「角閃石安山岩」という非常にもろい岩であり、
噴火を休止している現在は、日照による風化、雪解けに伴う崩落、大雨がもたらす土石流などによって山は崩壊の一途を辿っている。
そのため大山は年々低くなっており、
大山の山頂である弥山の高さもごく最近までは1711mだったが、
平成十二年の鳥取県西部地震による崩落により現在は1709mとなっている。
なお、最高峰である剣ヶ峰は、山頂に人間が立てるスペースがないこと、またそこまでの縦走ができないことなどの理由で、
大山山頂とはみなされていない。
大山は、西から見る「伯耆富士」の姿は美しいが、その北壁や南壁は激しい崩落による荒涼とした姿を見せており、
それが山裾の豊富な森林とのコントラストによる絶景を生み出している。

大山から蒜山にかけての火山地形、隠岐諸島、島根半島海岸部、
そして三瓶山一帯からなる国立公園である「大山隠岐国立公園」の中心をなし、
春夏秋冬それぞれの自然の美しさ、夏は登山、冬はスキーなどと、一年中楽しめるところ。
大山の山裾やそれに連なる蒜山高原では放牧が盛んであり、
大山では「大山まきばみるくの里」、蒜山では「ひるぜんジャージーランド」が有名。

ソフトクリームおいしいです
あと、「大山トム・ソーヤ牧場」のアルパカとか人気。

蒜山ICより蒜山高原を登って大山環状道路(県道45号)を走った中での数枚。

遠方に、白雲をまとう大山。
江府町と大山町の境、
大山撮影スポットとして特に有名な鍵掛峠(かぎかけとうげ)から。
ここからは大山の険峻な南壁を正面から目の当たりにできる。
ここには展望所、トイレを備えた駐車場があり、心ゆくまで大山南壁の絶景を堪能できる。
とはいえ、新緑や紅葉のシーズンともなるとドドドドドドドと車が押し寄せて溢れ返るので、注意。

携帯カメラのスペックではこの美しさというか「空気」を収めることはできない。
グーグルのストリートビューでは、ここを含む秋の大山環状道路を走ることができる。
そこから、大山から土石が流れ落ちる三つの大きな沢、
三の沢・二の沢・一の沢を過ぎる。
これは二の沢
一の沢より。少し視点が変わっている。

南壁と北壁は荒涼として険しいが、
西麓は古代から牛馬の放牧が行われていたなだらかな斜面で、
西から見ると「伯耆富士」の名に相応しい美しいフォルムとなる。
一の沢下流部分。膨大な土石が堆積して層を成し、流水で鋭くえぐられている。

これらの沢では何重にも砂防設備を施しているが、
ひとたび大雨が降ればそれらはほぼ何の役にもたたず、道路はあっという間に土石流で塞がれ
(もっとも、道路の方が沢を無理やり横切って造ってあるので当然そうなるのだが)、
下流には被害が及ぶ。
自然の猛威の前に人間の力はとうていかなわないが、
それでも少しでも被害を食い止めるべく努力しなければならない。

沢といっても、通常は一切水は流れない、土石流の沢。
美しい情景の中の荒涼とした景色、これも自然のなせるわざ。

大神山(おおがみやま)神社〔奥宮〕。

西伯郡大山町大山に鎮座。

大神山神社は『延喜式』神名式、伯耆国会見郡二座の一。
また、伯耆国二宮。

大山のある地域は律令制導入当時の郡制によれば「汗入郡」だが、神名帳には大神山神社は「会見郡」所在とされており、
国史においても、『続日本後紀』承和四年(837。『延喜式』成立の90年前)二月五日条に、

  伯耆国川村郡の無位の伯耆神(波波伎神社)、会見郡の大山神(大神山神社)、久米郡の国坂神(国坂神社。伯耆国四宮)、
  および対馬島上県郡の無位の和多都美神、胡禄御子神、
  下県郡の無位の高御魂神、住吉神、和多都美神、多久都神、太祝詞神に、
  並びに従五位下を授け奉る。

という神階奉授記事があるので、大神山神社の本社は会見郡とされていたということになる。
西の会見郡から見る大山は「伯耆富士」と呼ばれるほど美しい姿であり、
その姿を仰ぎ見ることのできる地に遥拝のための神社を建てるのは自然なこと。
富士山を祀る富士山本宮浅間大社も、富士山中ではなく富士山の山裾に鎮座している。
当初は山そのものを神とし、その遥拝所としての神社があったか、
あるいは山麓に里宮、そして山中に神域としての簡素な奥宮があって、
その後、仏法の流布とともに山中に大山寺が営まれるようになり、
やがてそれらがドッキングして活動するようになったのだろう。
『伯耆民談記』には「(大山の)四十余町麓に権現の本社あり」と記されており、
近世においても山麓に神社、山中に寺という認識だった。
神仏習合の世だからといって、神も仏もごっちゃになっていたわけではない。

近世まで奥宮は大山寺の本殿であり、本殿のすぐ下には本坊西楽院があって本殿を管理していたが、
明治初年の神仏分離において、政府はそれまでの「大智明権現」の権現号を廃して「大神山神社」の旧号に復し、
明治四年には国幣小社と定め、明治八年には大山寺の寺号を廃して大山寺本殿を「大神山神社奥宮」とし、
以降は米子市尾高の大神山神社を本社、大山山中の社を奥宮として現在に至る。
(大山寺は明治三十八年、「中門院大日堂」であった建物を根本堂として再興した)

かつて大山寺では、旧暦四月二十四日に神幸の「初の会」、
六月十五日に院僧二人が大山に登り、写経奉納とともに嶺上の池の水を汲む「中の会」、
また十月二十四日に読経を行う「秋の会」が行われていたが、
奥宮ではその伝統にならって五月二十四日に春季大祭、十月二十四日に秋季大祭を大山寺と同日に行っている。
春の祭日は新暦導入により一か月遅らせ、秋の祭日は変更なしなのは、気候を考慮したのだろうか。
また、中の会である山上で池水を汲む行事は「古式祭(もひとり神事)」として大神山神社の神事となっており、
現在は七月十四日夜~十五日に行われている。
昔は大山寺の院僧二人のみが行う秘密の行事であって、そのため一般人の登山は禁じられていたが、
現在は一般人も参列できる祭典となっている。
14日午後7時より奥宮にて祭典、翌朝大山山頂に登山し、嶺の池より水と薬草を採取、
奥宮に戻って神前に供える神事。
薬草は「ヒトツバヨモギ」という種類で、大山隠岐国立公園の保護指定植物であるため原則として採取は禁止されているが、
この神事のため、年一回の採取が許可されている。
神事終了後、薬草は参列者一同に配られ、大山の神のお蔭を受けることになる。

「もひとり神事」は特殊な神事であり、地蔵菩薩信仰とは明らかに異質であるため、
神仏習合以前の原初信仰を遺しているとされており、
「大山のもひとり神事」として県指定無形民俗文化財に指定されている。
大国主神は少彦名神とともに国作りを行った時、人間と家畜のために「病気の治療法」や「鳥獣・虫を払うまじないの法」を教えたとされており、
霊水と薬草を採取するこの神事はその故事に基づくものといわれ、
伯耆国四宮で少彦名命を祀る国坂神社にも、
山から薬草を摘んで来て海で清め、神社にて頒布するという「薬草祭」という神事が伝わっている。
  *「もひ」は「水」の古語で、「もひとり」は「水汲み」の意。
  宮中においても、天皇のお召しになる水を汲む職を「主水司(もひとりのつかさ)」といった。
  この「もひとり」がなまったのが「もんど」で、「主水」と書いて「もんど」と読むのはそのため。
『大山寺縁起』においては、山嶺の池が地蔵菩薩顕現の場所とされていることから、
古くより山頂の池が大山の神霊の坐すところと考えられていたのだろう。

大山の神の本地は地蔵菩薩とされていたが、地蔵を本地とする神はわりと珍しい。
修験道の本尊ともいえる蔵王三所権現の中で蔵王権現もしくは子守明神が地蔵を本地としているが、
大山においては蔵王権現は祀られていない。
もともと大山寺は大神山神社とは関係なく、地蔵菩薩を本尊とする寺院として創建され、
神仏習合の広まりに伴って両者がタッグを組んだ時、地蔵菩薩がそのまま大山の神の本地となった、という説がある。
地蔵菩薩は六道輪廻に苦しむ人々、わけても地獄に落ちた人をも救うことができる菩薩。
秀麗な「伯耆富士」の裏、大山北壁・南壁や土石流の沢などの荒涼とした地形から大山を「冥府」「地獄」の入口とみなし、
それゆえ地蔵菩薩が本尊に相応しいと考えられたのか、
あるいは、もともと大山には「死」のイメージがあったのか。
『古事記』の「伊耶那岐命の黄泉行き」の話は、伝承中にみえる地名から出雲と伯耆の国境付近が舞台になっており、
『日本書紀』本文には採用されていない伝承であることから「出雲神話」であると思われるが、
その中で、火の神・迦具土神は生まれる時に母の伊耶那美命を焼死させたことから、
父である伊耶那岐命に斬り殺されている。
『出雲国風土記』の編纂当時、「火神岳」とある大山が迦具土神とみなされていたとすると、
母を死なせ、父に斬り殺された御子神である迦具土神の供養のために地蔵菩薩が祀られたのかもしれない。

大山寺橋たもとの南光河原駐車場に駐車し、佐陀川にかかる大山寺橋の上より。
大山には雲がかかり、周囲は真っ白。
河原は、洪水の跡かというような土砂と大石で埋まっている。
これらは、大山北壁から元谷へと崩落した土石が流れ来たもの。
上流の元谷からここに至る約1㎞の河原は「南光河原」と呼ばれている。
河原の名は、かつてこの周辺にあった大山寺の三院の一「南光院」の名にもとづいている。

橋を渡ったところには、登山用品やアウトドア用品を取り扱うモンベルの大山店があり、
登山やキャンプに来たけど忘れ物しちゃったー、ということがあった時にべんり。

ここから振り返ると、遠くに美しい弧を描く弓ヶ浜を望むことができる。
大山寺および大神山神社奥宮参道。 大山寺の寺宝等を展示している霊寶閣。
大山寺山門にて参拝志納金(いわゆる拝観料)を納めれば、
入館券をいただける。
牛霊碑。
大山智明権現はかつての農耕の重要なパートナーであった
牛馬の守護神であり、その霊を慰めるために立てられた碑。
大山寺門前には博労座があり、
牛馬の市が立って賑わっていた。
山陰地方の古い農家には、炊事場の土間の壁一つ向こうが
牛舎になっている家もあるなど、牛馬は非常に大事にされていた。
信濃坊源盛碑。
源盛は名和長年公の弟で大山寺別当であり、
兄が後醍醐天皇を隠岐から伯耆国船上山にお迎えして挙兵した際、
大山寺の衆徒を率いてこれに加わり、京の六波羅攻略に功があった。
のち、長年公の嫡子の養子・顕興に従って肥後国八代荘に下り、
征西将軍宮懐良親王のもと、南朝のため尽力した。
その業績を顕彰した石碑であり、
宮家御下賜金によって立てられている。
大山寺山門の手前、御幸参道から左に分かれて石畳の参道があり、鳥居が立てられている。
参道右手に立つ、佐々木高綱の等身地蔵。
治承・寿永の乱における宇治川の戦いにて、
「宇治川先陣」の功を立てたことで知られる佐々木高綱は、
建久四年(1193)、戦功によって山陰道七か国の守護として赴任の途中
大病にかかったが、
地蔵菩薩に祈ったところ全快したので、
自らの等身大の地蔵菩薩像を寄進したと伝えられている。
現在のものは、寛政八年(1796)に焼失したものを、
嘉永元年(1848)に石で再現したもの。

史実では、佐々木高綱は長門・備前の守護に任ぜられ、安芸・周防・因幡・伯耆・出雲・日向などの諸国に恩賞地を拝領、
東大寺の再建にも木材を調達する功を挙げ、のち建久六年(1195)に高野山にて出家している。
伝承では、その後諸国を巡回したと伝えられており、各地に高綱ゆかりの社寺が存在する。
高綱の二男・光綱は出雲国野木に住み、一族もそれぞれの恩賞地に住んでその土地を治め、
出雲佐々木氏は室町時代に山名氏が台頭するまで大きな勢力を有していた。
野木に住んだ佐々木氏はそののち野木(乃木)氏を称したといい、明治時代の陸軍大将であった乃木希典はその子孫という。

参道。
右手には「暗夜行路の地」碑がある。
志賀直哉は大山寺子院の一、蓮浄院に滞在していたことがあり、
『暗夜行路』はこの時の体験をもとに書かれている。
参道が右曲するところにある「無明の橋」。
橋の裏には金剛経が刻んであり、
これを渡れば一切の罪科が消滅するといわれている。
橋を渡ると、ごつごつした自然石の参道となる。
大雨のために流出した石も多く、地面が剥き出しの部分もある。
高所で湿気も多く、石は滑りやすい。
参道の両側には地蔵菩薩などの石仏も多い。

登っていくと、左手に「僧兵の力石」がある。
吉持地蔵。
江戸中期、会見郡の長者・吉持甚右衛門の寄進。
大山寺の中でも自然石に刻まれた数少ない地蔵。
途中いろいろ観ながら10分ちょっと登ると、鳥居が見えてくる。
鳥居をくぐると、右手に手水舎。 左手には、大山寺本坊西楽院跡。
かつては奥宮とともに大山寺の中核をなす建物だったが、
明治の神仏分離時に破却されている。
奥宮神門。
扉にかける閂(かんぬき)が外側についているため「後ろ向き門」「逆さ門」と呼ばれる。
もとは本坊西楽院にあった、宮家が通るための「御成門」で、
明治の初めに大山寺が一時廃された時、その門をこの所に移転したものという。

だいたいの神社の神門には扉がなく、開いたままなので、閂がどちらについていようが特に問題はない。
門の手前。
本殿側から。
石段の上に、奥宮が鎮座する。
奥宮の背後には、霧、ではなくて雲がかかっている。
この広い石段の向こうの石垣、拝殿、そして森、あと雲が圧倒的な迫力を醸し出している。

石段は、昔は自然石であったのを、江戸時代に佐田村の源右衛という者の妻が切石の石段を寄付したという。
大神山神社奥宮拝殿。
一瞬雲が晴れて太陽がのぞいた時に撮影。
社殿は、入母屋造の本殿と拝殿を縦長の幣殿で接続したもので、いわゆる「権現造」だが、
本殿・幣殿・拝殿の幅が同じこと、拝殿の左右に長大な翼廊がついていることが特徴。
つまり、上から見たら「⊥」、逆T字形という変わった形になっている。
文化二年(1805)の造営で、国指定重要文化財。

もとは大山智明権現である地蔵菩薩を祀る場所だったが、
現在は大己貴命を祀る場所になっている。
もっとも、どちらにせよ「大山の神」を拝むことには変わりがない。
拝殿前面。精巧な彫刻が施されている。
拝殿内部には八角神輿や神馬が安置されており、
正面には有栖川宮熾仁親王殿下揮毫の社号額がかかっている。
また、幣殿内には華麗な彩色が施されており、授与所にて申し込めば拝観できるようだ。

大神山神社・大山寺は伯耆国の社寺ではあるが、「出雲国神仏霊場」の一つに名を連ねている。
これは、大山が『出雲国風土記』の国引き神話に登場しているため。
ごっつ長い翼廊。 奥宮幣殿および本殿。
幣殿も長い。

本殿・幣殿・拝殿とその翼廊、
以上の総体としては全国最大級の権現造ではあるが、
本殿自体は幣殿と同じ幅ということもあり、
幣殿に食いつかれたような感じになっている。
おそらくは仏事のために幣殿・拝殿が広く長くなったのだろう。
本殿の隣に鎮座する弁財天社。
主祭神は宗像三女神で、
相殿神として山の神霊である大山津見命を祀る。
山の神は豊かな水を出す水の神でもある。

寛政七年(1796)の火災時に本社とともに焼失したとされ、
近年の平成十年に再興されている。
奥宮のすぐ東に建つ大神山神社末社、下山(しもやま)神社。
祭神は下山大明神こと渡邊源五郎照政命。
元徳二年(1330)、大山に参詣した備中国浅口郡の人、渡邊日向守の一子・照政公がその帰路、奇禍に遭って不慮の最期を遂げ、
これを憐れんだ人々が下山(しもやま)の地(参道の下、登山口一帯)に小祠を建てて「下山神社」と呼んだのが創祀とされる。
以後数々の霊験があったことから信仰を集め、のちに白狐の託宣によって現在地に遷座したという。
祭神については、作州の住人・下山源五郎であるという説もあり、
元亨の頃(1321-1323)、源五郎がこの山中で鈴木某という者と戦って死んだが、その霊魂が祟りをなしたために神として祭ったという。
そしてそのゆえに鈴木氏の者は登山することができず、強いて登ろうとすれば必ず災いがあると伝えられていた。
鈴木さん気をつけて

現在の社殿は石州津和野藩主の亀井隠岐守矩賢公の寄進により文化五年(1802)に造替されたもので、
国の重要文化財に指定されている。

社殿は奥宮本殿の方を向いて建っており、
社前には狛犬ではなく狐が控えている。
拝殿、幣殿、本殿。
入母屋造特有の破風がいくつも設けられており、
非常に複雑な外見。
本殿の西側(向かって右)から登山路が伸びる。大山頂上までは3kmとのこと。
現在の大山主峰・弥山頂上の標高は1709m。
下の方で見た案内板では標高の数字をシールで訂正してあった。それまでは1711m。
最高峰は剣ヶ峰の1729mであり、弥山頂上から尾根を伝えば行くことはできる・・・が、
鳥取県西部地震以来尾根の崩落が著しく、大変危険(命の保証ができないレベル)なため、
現在、剣ヶ峰への縦走は禁止されている。
お陀仏になりたくなければやめましょう
ちなみにこの辺りの標高は約900m。

登山者の方がちらほらと下りて来られていた。

 

神門を出る。
右は登ってきた参道で、左の草生した道は旧参道。
旧参道は「金門」へと続いている。
石畳参道の途中、二ヶ所に金門への道が伸びている。
金門
まるで断ち切ったようなV字形の切り立った崖で、「切分け」とも呼ばれている。
まるで門のようなこの場所を修験者は「金門」と名づけ、この周辺で修行にはげんだと伝えられ、
伝説では、大智明権現の殿堂(現在の奥宮)を築こうとしたところ、この大磐石が通行の妨げとなったため、
僧徒たちはこれを取り除こうとしたがなかなか果たせなかった時、
二羽の烏が飛来して工事を助けたという。
また『大山寺縁起』には、第八代孝元天皇五十二年、八大龍王が権現の勅を奉じたところたちまち岩が切り開かれ、
東方宝浄世界の金剛鳥が飛来して、

  大仙多宝仏 開輪御金門
  応化身垂迹 釈迦両足尊   
    (*多宝仏・・・多宝如来。梵語プラーブター・ラトナ。東方宝浄世界の教主)  
    (*応化身・・・梵語ニルマーナ。仏が衆生を済度するために様々な形態で出現する時の姿。化身。
             応化身を示すことを「垂迹」という)
    (*両足尊・・・二本足の生き物の中でもっとも尊い者、つまり仏をさす。釈迦両足尊とは、釈迦如来のこと)

との偈を説いたという。
多宝如来・釈迦如来は『法華経』の正しいことを証明する仏として一対で祀られることが多い。
『法華経』を根本経典とする天台宗色の強い伝承といえるだろうか。

向かいの崖には「切分地蔵」と呼ばれるお地蔵さんが立っている。
金門の東側南壁の下から三メートルの高さのところには、かつて修験者によって1.3mほどの地蔵菩薩像が刻まれていた。
長い間の土石流によって摩滅し、さらに苔や汚れで見えなくなっていたが、昭和63年の大洪水で洗い流され、
再び見えるようになった、とのこと。
とはいえ、どれがそうなのかよくわからない。
じっと見ていると、あれがそうなのかな、と思えてくるが、合っているかわからない。
南正面から金門。きれいなV字形。
昔、参詣者はこの金門を通り、旧参道を登って奥宮へと向かっていたが、
現在は石畳参道が整備され、また金門にも砂防工事が施されているため、上り下りはできなくなっている。

金門の北側からは、6月のある時期、日没の太陽が金門の間にかかる、という絶景を見ることができる。

「金門」より上、大山北壁から崩落流出してきた大量の土石が積み重なる荒涼とした河原は、
「賽の河原」「地獄谷」と呼ばれている。

賽の河原は「三途の川」の河原のことで、
そこでは幼くして亡くなった子供が、親不孝の報いによって、親の供養のための塔を作るべく積み石を行っている。
しかし、もう少しで積み上がろうとする時に鬼が来てそれを崩し、また積み上げるとまた鬼が崩し、と、
決して石塔は完成することはない。
子供はそれでもなお父母を思い焦がれて石を積んでゆくが、
その時地蔵菩薩が現れ、「今日からはわたしを冥途の親と思いなさい」と抱き上げて救うとされている。
つまり、金門から先は「冥府」であると認識されていたということで、
金門は生の世界と死の世界を分ける境界であったということになる。
死の世界で修行し、パワーアップして生の世界へと帰還する、というのは修験道の目的とするところだった。
界王拳習得とか、そういう感じのノリ。


大山北壁、そして土石流の沢のあまりにも荒涼とした景色は冥府を連想させるに十分。
あるいは、居住空間の周囲に聳える秀でた山に死者の霊が帰り、神となって里人を見守ったのち、
長い時間の後にまた人として生まれてくるという「山上他界」信仰がもともと大山にもあって、
それが六道の人々を救う地蔵菩薩の信仰と結びついたのかもしれない。


何か所かで石が積み上げられていた。
ここは大山北壁を望むポイントの一つだが、この時は完全に雲に覆われていた。

角磐山大山寺(かくばんざん・だいせんじ)

西伯郡大山町大山
伯耆富士・大山の中腹にある。

天台宗別格本山で、本尊は地蔵菩薩。
草創は養老二年(718)と伝えられる。
鎌倉時代に編まれたとみられる『大山寺縁起』には、

  出雲国玉造の狩人の依道が海で光る玉を見つけた。
  その玉は金色の狼へと姿を変えたので、依道は美保関から大山の山中までそれを追っていき射殺しようとしたが、
  その矢の前方に地蔵菩薩が出現し、依道がにわかに発心して弓矢を捨てると、狼は老尼に変じて依道に語りかけた。
  この出来事によって依道は出家し、修行を重ねて大山に地蔵菩薩を祀り、法名を金蓮として寺を開基した。

という筋の縁起が記されている。
また、西行法師に仮託する『撰集抄』の巻七第十二「大智明神 伯耆太山」には、

  伯耆国大山という処に、大智明神と申し上げる神がいらっしゃる。
  利益の新たなることは実に朝日が山の端に出るようなものである。御本地は地蔵菩薩でいらっしゃるとのことだ。
  昔、俊方という弓取が野に出て鹿禽を狩っていたところ、いつもより鹿が多く、みな思うがままに射止めた。
  だが、この鹿共を取ろうとしたところ、自らの仏堂に千体の地蔵を安置し申し上げていた、その五寸の尊像に矢が突き立っていた。
  その時、俊方はあさましく悲しく思われて、地蔵に取りつき申し上げて泣き喚いたが、もはや甲斐のない事であった。
  やがて手ずから髻を切り、わが家を堂に造り替え、永く殺生を止めた。
  そのうち、 称徳天皇の御時、社に祝い奉れという託宣があって、〔やがて堂を社になして大智明神と申し上げた〕。
    (*〔 〕内の一文は、近衛本にみえる)
  利益新たであったので、その処の砂でさえ、夕にはさかのぼって朝には下ってきて、参下向の相を示す。
  その岡の松は、明神の御方に向かって皆なびいている。帰依の姿をあらわしているということだ。
  心なき草木砂までも帰依し奉る業、実に有難いことである。
  この地蔵菩薩の御事は、昔、広目女と申し上げていた時、御母の尸羅善現のために堅固の大願を起こし、
  多くの宿願を立てて修せられ、今、等覚無垢の菩薩と御成りになった。
  (中略)
  中でも、今の大悪人の殺生を止めんがために、まず鹿の姿を現し、そののち尊像を顕して、
  罪悪のわれらに堅固の信心を起こさせられた事は、返す返すも貴くいらっしゃる。
     *御母の尸羅善現・・・尸羅善現は、『大願地蔵菩薩本願経』によれば父の名であり、母の名は悦帝利とされている。

という縁起が記されており、称徳天皇の御世に大智明神として祀るようになったとする。
隣国の風土記『出雲国風土記』にも、すでに「教昊寺」「新造の院」など寺院の存在を記しており、
山陰地方でもごく早期から仏法の受容が進んでいたことが知られる。
また、平安時代初期の貞観八年(866)、
比叡山延暦寺の天台宗第四世慈覚大師(円仁)が当山を訪れて顕・密両法を伝授し、
また唐の五台山で学んだ「引声阿弥陀経」の秘曲を伝え、その道場として境内に「常行三昧堂」が建てられることとなり、
以後修験道より天台宗に改宗したと伝えられる。
のち、村上天皇より大山権現に「大智明菩薩」の菩薩号が与えられ、以後「大智明権現」と呼ばれるようになった。
『大山寺縁起』には、わが国に地蔵菩薩が顕現された縁起として、

  わが朝に地蔵菩薩が化導を顕されたその起こりを尋ねると、
  昔、伊弉諾・伊弉冉の御世に天地が始まった時、兜率天の第三院巽の角より一つの磐石が落ちた。
  その石は三つに割れて、一つは熊野山に留まり、二つ目は金峯山と顕れ、三つ目はこの大山となった。
  このゆえに、この山を角磐山と名づける。日本第三の名嶇と申し上げる。
  兜率天の聖衆である金剛手・金剛光の二菩薩は天降って、密勝仙人・仏覚仙人として示現し、三千七百年の間、修行に打ち込まれた。
  頂上に五つの池が湧出した。その中池の底より多宝の塔婆が涌き出で、釈迦・多宝の二仏が光明赫奕として荘厳殊勝においでであったが、
  夢のようにその塔婆池の中にお隠れになった。仙人はそこで池の底へ入って宝塔を拝見したところ、塔婆の中に八葉の蓮台が現れた。
  台の上に(梵字の)「マン」字があり、変じて文殊師利と現れ、次に「サ」字があって、化して観世音と御成りになった。
  また金色の「ア」字があり、現じて地蔵菩薩の姿を顕された時、文殊は西に退き、観音は東に去り、地蔵尊は中にお座りになった。
  これを号して三所権現と申し上げるのである。
    (*化導・・・衆生を教化して善に導くこと)
    (*梵字「マン」・・・文殊菩薩の種字)(*「サ」・・・聖観音菩薩の種字)
    (*「ア」・・・地蔵菩薩の種字は「カ」であり、合わない。胎蔵界曼荼羅の中台八葉院中央の大日如来の種字、
    あるいは蓮台の中央に宝塔があって多宝如来と釈迦如来が座す密教の「法華曼荼羅」における多宝如来の種字が「ア」であることからか)
    (*三所権現・・・智明権現、霊所権現、利寿権現。大山三所権現と称する。それぞれの本地は地蔵、観音、文殊。
    かつては山中に霊所権現、利寿権現の祠があったが、両権現の信仰は退転して智明権現の信仰のみ残った)

という縁起が記されており、「角磐山」という山号はこれにもとづく。
三つに割れた岩のほかの二つが紀伊の熊野山、吉野の金峯山ということから、修験道の本場とのネットワークは根強かったようだ。
熊野三山の阿弥陀・薬師・観音、吉野の蔵王・勝手・子守の蔵王三所権現と同じく、
大山も智明権現、霊所権現、利寿権現という「大山三所権現」を信仰しており、
それぞれの本地は地蔵菩薩、観世音菩薩、文殊菩薩とされていた。
吉野の蔵王三所権現の本地について、
 蔵王権現・・・過去釈迦・現在千手・未来弥勒、あるいは大日、あるいは地蔵
 勝手明神・・・文殊、あるいは勢至、あるいは不動、あるいは毘沙門
 子守明神・・・僧体阿弥陀・女体地蔵・俗体十一面、あるいは胎蔵大日
と『金峯山創草記』にあり、大山三所権現の地蔵・文殊・観音という本地もこれに影響を受けたものか。
大山の東北にある、古期大山カルデラの一角である船上山にもかつて智積院という寺院があり、
三所大権現として地蔵大菩薩・霊蔵権現(十一面観音)・毘沙門を祀っており、その奥の院として熊野権現があった。
「投入堂」で有名な東伯郡三朝町の三佛寺も天台宗で、釈迦・弥陀・大日の三尊を祀り、その国宝の「投入堂」には蔵王権現が祀られる。
また、隣国・出雲国の「国中第一の伽藍」とうたわれた鰐淵寺も天台宗であり、寺の上流の谷奥の滝の岩壁に蔵王堂があるなど、
この辺りの古刹では修験道と天台宗とが密接に結びつき、栄えていた。

大山寺は、古来その山容を「三院四十二坊」と称されたように、
中門院、南光院、西明院の三院、そしてそれぞれに十四の僧坊(子院)があり、
中門院は大日如来、南光院は釈迦如来、西明院は阿弥陀如来を本尊とし(三仏寺と同じ三尊)、
三院の合議制により大山寺が経営されていた。
また、比叡山延暦寺のように僧兵を抱えており、「大山僧兵三千人」とうたわれるほどの強盛を誇った。
この僧兵がどういうことをしたかというと、

  *寛治七年(1093)、地蔵会の頭役について三院の間で内紛が起こった時、
  天台座主が西明院を支持したため、翌年初頭に西明院と中門院・南光院との間で合戦が起こった。
  三月になって和議のため上裁を仰ぐこととなり、神輿を奉じて大衆六百余人(『中右記』では「三百人ばかり」)が上洛した。
  朝廷は彼らを山崎に留めたので、悪僧たちは神輿を置いて朝廷に向かい、天台座主を訴えたが、
  この時、中門院の悪僧が関白師通公に狼藉を働いたため、僧兵たちは後難を恐れ、神輿を捨ておいて逃げ去った。

  *高倉天皇の践祚大嘗祭にあたって朝廷がその費用を諸国より供出させた時、
  伯耆国は大山寺にも負担を命じたが、南光院は同意したもののほかの二院は了承しなかった。
  そこで伯耆国衙は宣旨をタテに兵を催して南光院の僧兵とともに中門院・西明院を攻撃したが、
  これに対して両院の僧兵らも逆襲して南光院を攻め、
  さらに美徳山(現在は三徳山)三仏寺の僧兵が南光院に味方したとして三仏寺にも攻め入ったため、
  大山一山および三仏寺は灰燼に帰した。

自滅っぷりが凄い。
ただ、僧兵は山内の党派争いの中から生まれたといわれているので、その点においては「正しい活動」を行っている。
もちろん、一山丸焼けはドタバタコントのオチのような「だめだこりゃ 次いってみよう」級のやらかし。
この時代の僧兵は「悪僧」「山法師」と呼ばれ、
後白河院が「意のままにならぬもの」の一つに挙げたように、何しでかすかわからない困った野郎どもだった。
この時、大山寺は独力では再建できなかったため、
翌年、伯耆国西部の豪族であった紀成盛(きのなりもり。紀氏の一族。紀中納言と呼ばれた紀長谷雄の子孫にあたる)
の寄進によって宝殿が再建された。
この時、成盛が寄進した鉄製厨子はその後三度の火災に遭いつつも現在に伝わっており、
その由来を記した銘文は平安時代の象嵌遺品として貴重であり、国の重要文化財に指定されている。

鎌倉時代末、後醍醐天皇がいったんは隠岐に流されながらも伯耆の豪族・名和長年公らの助けで再起し船上山に拠られた時、
長年公の弟で大山寺別当であった信濃坊源盛は大山寺の衆徒を率いて参上、
京の六波羅攻撃にも参加し、長年公の戦死ののちも南朝のために転戦している。

近世、大山山中においては、
智明大権現(本地地蔵)、霊像権現(本地観世音)、利寿権現(本地文殊)、
山王権現(本地釈迦)、熊野権現(本地阿弥陀)、白山権現(本地十一面観音)、
金剛童子(本地薬師)、護法天童(本地普賢)、山ノ神(本地不動)、法眼神(本地不動)、
下山明神(本地観音)、竜王(本地無仏号)
の十二神が祀られており、
現在の大神山神社奥宮は智明大権現を祀る大山寺の本殿であって、本殿のすぐ下には本坊・西楽院があって本殿を管理していた。
大きな法会は年三度あり、
初の会である四月二十四日には神幸の神事、
中の会である六月十五日には院僧二人が山上に登って嶺の池水を汲む深密の行事、
秋の会には読経が行われており、
これらの日には遠近の民が多数参詣に訪れ、諸国の伯楽が多く集って牛馬の市を成した。
とくに御神体を拝める神幸の初の会には大いに人が集まったという。
ただし、六月十五日の行事は院僧二人のみが行える秘密の行事であって、
大山への登山が行えるのはこの二人だけであり、一般の登山は完全に禁じられていた。
この行事は、現在は大神山神社の行事となっており(新暦導入以後、一か月遅れの7月14~15日に行われる)、
神仏習合以前の原初信仰を残しているとみられることから「大山のもひとり神事」として県指定無形民俗文化財となっている。
春と秋の会については、現在も五月二十四日と十月二十四日に、大神山神社奥宮と同日に大祭が行われている。

近世にはまた、寛永年間より天台宗の日光山輪王寺門跡、いわゆる輪王寺宮(日光宮)が大山寺主職を兼ねるならわしとなり、
皇族である法親王を戴くことでそのステータスも高かった。
輪王寺宮は江戸上野の東叡山寛永寺も兼職していたので、江戸時代には寛永寺が大山寺の本山であると認識されていたようだ。
ただ、神仏習合の世とはいえ、権現の本社は山麓にあり、大山にあるのは寺、という一般認識であり、
神社と寺の区別がつかない、ということはなかった。
しかし、明治初年の神仏分離によってその関係は断ち切られ、大山寺は一時寺号を廃されるまでになった。
戊辰戦争において、当時の輪王寺宮であった公現法親王は上野彰義隊や奥羽越列藩同盟などから旗頭として奉じられたことから、
大山寺はいわば「朝敵」として扱われ、皇族を戴く寺院でありながら容赦のない扱いを受けることになったともいわれている。
政府はそれまでの「大智明権現」の権現号を廃して「大神山神社」の旧号に復し、
明治四年には国幣小社と定め、明治八年には大山寺の寺号を廃して大山寺本殿を「大神山神社奥宮」とした。
これにより大山登山の禁が解け、一般人も大山山頂まで登ることができるようになった。
その後、本尊の地蔵菩薩は内務省の許可を得たうえで旧・中門院の大日堂において祀られていたが、
明治三十九年に大山寺の再興が認められ、大日堂を根本堂として現在の形となった。
根本堂はのち昭和三年に火災に遭い、大戦後の昭和二十六年に再建されて現在に至る。

公現法親王は謹慎ののち還俗、
若くして薨去された弟君・智成親王の北白川宮家を継いで「能久」の諱を賜わり(ちなみに御二方の生まれは伏見宮家)、
ドイツ留学を経て帝国陸軍に属し、日清戦争においては師団長として台湾征討に赴かれたが、台湾平定直前にマラリアに罹られ薨去。
皇族初の海外殉職者となった
(初めて海外で薨去された皇族は、平安時代初期、求法を志して天竺を目指す途中、マレー半島の羅越国で薨去された高岳親王。
平城天皇第三皇子で、法名は真如、弘法大師空海の十大弟子の一人であり、東大寺大仏の修復作業にも携わった高僧だった)。
薨去後はその勲功を称えて、台湾のうちに親王を主祭神とする数多くの神社が建てられることになったが、
先の大戦の敗戦後、すべて廃祀となっている。
ちなみに能久親王殿下はドイツ留学時、現地の貴族の未亡人と恋に落ちて現地紙にて婚約を発表したため、
政府の命令で呼び戻されて婚約破棄の上また謹慎、という羽目に陥っており、ちょっとしたお騒がせ体質でいらっしゃったようだ。

現在は洞明院・圓流院・金剛院・観証院・寿福院・普明院・理観院の七の子院が存している。
かつて志賀直哉が逗留し、『暗夜行路』執筆の動機となった「蓮浄院」は近年まであったが、老朽化のため退転した。
一時は「志賀直哉記念館」として再建する計画があったが、
志賀直哉の「自分のための記念碑や記念館は一切断ること」という遺言を尊重し、立ち消えとなっている。
有名なのは平成21年に改修時された圓流院で、水木しげる先生による妖怪天井画で知られており、
多目的会館としても利用されている。
また、西明院谷にはもと西明院の信仰の中心であった阿弥陀堂があり、
本尊の阿弥陀三尊像は平安時代後期の天承元年(1131)の作で、国の重要文化財に指定されている。
阿弥陀堂も、もとは天台宗の修法である引声阿弥陀経を修するための「常行堂」として平安時代に建てられたと伝えられ、
洪水で破損したのち天文二十一年(1552)に現在地へ古材を運んで再建したもので、
鎌倉時代とみられる意匠の素晴らしさから、これも国指定重要文化財となっている。
他の諸院は概ね宿坊となっている。

神の本地を地蔵菩薩とする例はあまりなく、珍しい部類に入る。
しかも、縁起にある「八葉蓮台の阿字から地蔵菩薩が出現した」という話は仏菩薩固有の種字が合っておらず、
もとは中門院本尊の大日如来の縁起であったのを改変したものとみられ、
「何がなんでも地蔵菩薩をメインにしたい」という考えがみえる。
このことから、大山寺は創建伝承の通り、もともと大山の神とは関係なく「地蔵菩薩を本尊とする寺院」として成立し、
その後、大神山神社と共同歩調を取るようになった時、
初めて大山の神を「大智明権現」としてそのまま地蔵菩薩の垂迹とみなすようになったのではないか、という説がある。

大山は修験道の山であったことから「天狗」の棲む山ともされている。
大山の天狗は「大山伯耆坊」と呼ばれ、
愛宕太郎坊・鞍馬僧正坊・比良次郎坊・飯縄三郎・彦山豊前坊・大峯前鬼坊・白峰相模坊とともに、
わが国の天狗を代表する「八天狗」の内に数えられる。
また、讃岐へ流された崇徳院がお怨みの余りに天魔(天狗の首領)と化されたため、
相州大山(大山阿夫利神社が鎮座する)に住んでいた天狗が崇徳院御陵のある讃州白峯山に移って白峰相模坊となった関係で、
伯耆坊は相模の大山に移ったともいわれている。
人事異動や転勤があるとか、天狗界も昔から世知辛い。
「伯耆坊」など「~坊」というのはその山に住んでいる天狗グループの総称であり、各個人には個人名があるが、
個体名として認識される事もある。
月岡芳年の画『武勇雪月花之内 五條乃月』は、五条大橋での牛若丸と武蔵坊弁慶との戦いを描いたものだが、
この中では八天狗が牛若丸に加勢しており、伯耆坊は「弁慶の脚と薙刀の尾を掴む」という一番地味な役回りになっている。
その姿は、青白い肌、白衣白袴に白の結袈裟をかけ、背中に翼を生やし、
頭部は弁慶のぶっとい脚の陰に隠れているが、わずかに覗く顎部は嘴のように突き出し、口内は真っ赤で、小さな牙が並んでいる。

大山寺山門。
参拝志納金を納め、入る。
山門手前の手水鉢。
山門をくぐり、石段を登ったところ。
左手に下山観音堂、右奥に護摩堂があり、さらに石段を登った先に大山寺本堂がある。

本堂前にはテラスが張り出しているが、法要もしくは祭りにおいて使うのだろうか。
下山観音堂。
本尊、十一面観世音菩薩。
前には、狛犬ではなくてキツネが控えている。
ここの観音様のお使いとのこと。

左側は大山寺本坊となっている。
護摩堂。
本尊、不動明王。
大山寺本堂。
本尊は地蔵菩薩。
もとは大日如来を祀る大日堂であり、大山寺三院のうち中門院の中核をなす建物だった。
明治初年の神仏分離の時、大山大智明権現は旧号の大神山神社に復して神社であるということになったため、
太政官布告によって大山寺は明治四年に寺領を没収、八年には寺号を廃され、
本尊は現在の大神山神社奥宮より大日堂に移されて、内務省の許可のもと祀られていた。
明治三十八年に大山寺が再興されて以降は本堂となっていたが、昭和三年に火災で焼失してしまい、
現在の本堂は昭和二十六年建立となる。
本堂脇の鐘撞堂、脇地蔵、宝牛など。
宝牛は、岡山県の備中一宮・吉備津神社近くにある、「鼻ぐり塚」で有名な宗教団体「福田海」からの寄進とのこと。
牛つながり。
牛の慰霊のための鼻ぐりの銅をもって鋳造したもので、一つのことを強く念じて撫でれば御利益があるとのこと。
つるつるに光っているので、よく撫でられているのだろう。




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