にっぽんのじんじゃ・わかやま

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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紀伊国(和歌山県、三重県の一部):

名草郡(和歌山市、海南市、紀の川市、紀美野町):

日前神宮・
国懸神宮
竃山神社 伊太祁曾神社
淡嶋神社

*和歌山市内には日前神宮・国懸神宮(ひっくるめて日前宮〈にちぜんぐう〉と呼ばれる)、
竈山神社そして伊太祁曾神社という三つ(正確には四つだが)の大きな神社があり、
これらを参拝することを「三社参り」と言った。
現在の和歌山電鐵貴志川線は、もともとこの三社参りのために造られた鉄道。

日前神宮・国懸神宮(和歌山県和歌山市)

和歌山市秋月に鎮座。
わかやま電鉄貴志川線日前宮駅下車すぐ。
『延喜式』神名式、紀伊国名草郡十九座のうち、日前神社および国懸神社。
ともに名神大に指定され、祈年祭だけでなく月次・相嘗・新嘗祭という朝廷からの幣帛フルコースを受けていた、
おそらくは大和朝廷黎明期から深く崇敬されていた神社。
紀伊国一宮。

日前神宮は日前大神(ひのくまのおおかみ)を祀り、
国懸神宮は国懸大神(くにかかすのおおかみ)を祀る。
『日本書紀』神代巻第七段一書第一には、

 「思兼神が、日神を天石窟から呼び戻すために日神の像を作ってそれを祭儀に用いることとし、石凝姥命にその役を命じた。
 石凝姥命はまず日矛と天羽韛(あめのはぶき)を作り、それらを用いて鋳造したのが紀伊国に坐す日前神である」

とあり、斎部広成が著した『古語拾遺』には、

 「石凝姥命が日像之鏡(*ひがたのかがみ。日神の像をかたどった鏡)を作ろうとしたが、
 最初に鋳たもの〔紀伊国の日前神〕はやや意に沿わなかったので新しく鋳直し、
 今度は美しい鏡〔伊勢大神〕を鋳造した」
 (*伊勢大神=八咫鏡のこと)

という記述がある。
日前大神は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体とするが、これは八咫鏡と同じく日神・天照大神の姿をかたどったものとされる。
国懸大神は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体とする。これは古典には記述がないが、
社伝では『日本書紀』にみえる「日矛」が「日矛鏡」であるとし、八咫鏡に先立って鋳造された二枚の鏡を祀っている、としている。
つまり伊勢の八咫鏡に準ずる神器を奉じているわけであり、古来よりの尊崇は非常に高く、
別格の神社として、伊勢の神宮と同様に朝廷から神階を送られることもなかった。

国史初見は『日本書紀』持統天皇六(692)年五月二十六日条。
「使者を遣わして四所に奉幣す。伊勢、大倭(大和)、住吉、紀伊大神」
との奉幣記事があり、同年十二月には、新羅国からの調(みつき)を上の四社に菟名足社(宇奈太理坐高御魂神社)
を加えた五社へ奉ったとある。
以後の史書にも神宝奉献記事が頻繁に見られ、朝廷の崇敬が篤かったことがわかる。
また、名草郡は「神郡」とされ、その収入は日前・国懸神社へ納められることになり、
少領以上の郡司の三親等以上の連任が認められていた。
(原則として、郡司の世襲は認められていなかった)
これにより、名草郡は紀伊国造であり日前・国懸神社社家である紀氏が郡司として代々治めていた。
『延喜式』式部式・上、郡司条には、郡司中に同姓の者を用いることを禁じているが、陸奥国や大隅国の国境部や神郡については例外とし、
「神郡」の規定として、注には
「伊勢国飯野・度会・多気、安房国安房、下総国香取、常陸国鹿島、出雲国意宇、紀伊国名草、筑前国宗形等郡を神郡とす」
とあり、飯野郡は多気郡から分割されたもので実質合計八郡であることから、これらを「八神郡」と呼ぶ。
それぞれ、現在の伊勢の神宮、安房神社、香取神宮、鹿島神宮、出雲大社、日前・国懸神宮、宗像大社に奉献された。

創祀は神武天皇二年と伝わる。
紀国造家(紀氏)の祖・天道根命(あめのみちねのみこと)が、天皇より日像鏡・日矛鏡を賜って名草郡に祀ったという。
紀氏は主に海上で活躍した氏族で、漁業だけでなく海運や朝鮮との通交などに力を発揮した「海の民」だった。
もとは名草郡毛見郷(和歌山市毛見)に鎮座していたが、
垂仁天皇十六年に現在地に遷座。
この地には当初伊太祁曽神社が鎮座していたが、東へと遷座した。
旧社地には浜宮神社が鎮座しており、『倭姫命世記』によれば、
崇神天皇の治世に豊鍬入姫命が「木乃国(紀伊国)」の「奈久佐浜宮(なくさはまみや)」にて天照大御神を三年間奉斎したとあり、
その宮に比定されている。


和歌山駅に近く、賑やかなところ。

ひとつの境内に日前神宮(ひのくまじんぐう)・
国懸神宮(くにかかすじんぐう)というふたつの神社が並び立つ。
参道から本殿位置まで東西対称のつくりとなっており、
東に国懸神宮、西に日前神宮が鎮座する。
このようなシンメトリカルな配置になったのは、
大正期の大改修のとき。

左が日前神宮。日前大神(ひのくまのおおかみ)を祀る。
右が国懸神宮。国懸大神(くにかかすのおおかみ)を祀る。
社殿もまったく同じつくり。
まあそれはともかく、
ここらへん、砂利の音とあいまって、リアル世界樹の迷宮2(第一階層)だなーと思いながら歩いていた。
頭の中で古代サウンドが流れるう。

竈山(かまやま)神社。

和歌山市和田に鎮座。貴志川線竈山駅下車後、和田川を渡ってしばらく南へ歩いていったところ。

『延喜式』神名式、紀伊国名草郡十九座の一。
神武東征の途上、戦傷がもとで薨じた神武天皇の兄・彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を祀る。

『日本書紀』神武天皇即位前紀によれば、
大和の地を目指す東征の軍は生駒山を越えて大和へ入ろうとしたが、そこで長髄彦(ながすねひこ)という者がこれを防ごうとし、
孔舎衛(くさえ)の坂にて両軍が激突、その戦の中、流れ矢が五瀬命の肘に当たり、軍も前進することができなかった。
天皇(*正確には、この時はまだ即位してはいない)は、
「わたしは日神の子孫なのに、日に向かって戦うのは天道に逆らう。
いったん退いて弱いと見せかけ、神祇を礼祭し、背に日神の威を負い、御影のまにまに襲いかかるのがよいだろう」
と策を講じ、いったん退却して紀伊半島を迂回することとなった。
そして、その途上、

  五月の八日、軍は茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと。大阪府泉南市男里の辺り)に到着した。
  この時、五瀬命は流れ矢の傷が痛むこと甚だしかった。
  そこで剣の柄を握り締め、雄叫びして仰せになるには、
  「口惜しいことだ、大丈夫(ますらを)でありながら賊に手傷を負わされ、讎も報いずに死んでしまおうとは」
  と仰せになった。時の人は、その所を名づけて「雄水門(をのみなと)」といった。
  さらに進んで紀国の竈山に到った時、五瀬命は軍中に薨じられた。
  そこで、竈山に葬り申し上げた。  

五瀬命はこの竈山で薨去され、葬られた。
神社はこの彦五瀬命の墓の隣地に建てられており、本殿の裏に彦五瀬命の墓がある。
戦国期以降長らく衰微し、明治になると社格は村社(ひとつの村の鎮守社に与えられる、格がある神社の中では一番下の格)となったが、
神武天皇の兄を祀っているということで信仰を集め、どんどん昇格を重ねて大正四年にはついに最高の社格である官幣大社となった。
村社から官幣大社となったのはこの神社が唯一の例。
現在は神社本庁の別表神社となっている。

戦前の社格が官幣大社という最高の社格であったため、参道入口の大鳥居に広大な境内と、本当に堂々とした神社。
弟君のの神武天皇を祀っている橿原神宮と似た雰囲気がある。
広大な境内の一角に幼稚園があった。

伊太祁曾(いたきそ)神社。

和歌山市伊太祁曽に鎮座。貴志川線伊太祁曽駅下車、南へしばらく歩いたところ。

『延喜式』神名式、紀伊国名草郡十九座の一。
日前宮と同じく名神大に指定され、祈年祭だけでなく月次・相嘗・新嘗祭という朝廷からの幣帛フルコースを受けていた。
紀伊国一宮。

素戔嗚尊の御子神で、国内に木種を播いてこの国土を緑の大地とした、
国土経営に大功あった木の神・五十猛命(いたけるのみこと)を主祭神とする。
五十猛命は大業を終えた後、
同じく木種を国土に播いた妹の大屋津比売命(おおやつひめのみこと)・都麻津比売命(つまつひめのみこと)
とともにこの「木の国」紀伊に鎮座した。
紀伊国は元は「きのくに」と呼ばれ、漢字表記は「木国」だった。木が非常に多いゆえである。
それが奈良時代の和銅六年(713)に「地名には好字を用いよ」という法令が出、
それとともに地名を二字に揃える動きがあり、「紀伊国」と改められた。
(ちなみに、ほかには「和(倭)国(やまとのくに)」が「大和(倭)国」、「泉国(いずみのくに)」が「和泉国」、
「近淡海国(ちかつあふみのくに)」が「近江国」、「遠淡海国(とほつあふみのくに)」が「遠江国」となったりしている)
これでも読みは「きのくに」のままだったのだが、現在は漢字をそのまま読んで「きいのくに」と読んでいる。

元々は日前宮の社地に鎮座していたが、日前宮の遷座(第十一代垂仁天皇の御世)とともにこの地へ遷ったといわれる。
そのときは現在の鎮座地の南東にある「亥の森」に鎮座していた。
そして『日本書紀』に続く日本国の正史である『続日本紀』の大宝二年(702)二月己未(二十二日)条に、
「伊太祁曾・大屋都比売・都麻都比売を三神社に分遷す」
という記事があり、この時に、それまで一緒に祀られていた大屋都比売・都麻都比売の神社と分かれて、
伊太祁曾神社は現在の位置に遷るよう命令が出た。その後和銅六年(713)に社殿完成し鎮座と伝えられる。

田園・住宅地から一転して森の中、という感じで、静かで落ち着いた大きなお社。
ここも「一宮」となっているが、一宮とは別に誰かがはっきりと定めたものではなく、
時代の変遷とその時々の神社の隆盛によってこの神社が一宮と呼ばれたり、あの神社が一宮と呼ばれたりする。
なので、一国の中に一宮が何社もある、というのは互いに意地を張り合っているのではなく、
昔、実際にそう呼ばれていたことを示しているということ。
現在には現在の「一宮」の認識があるだろう。

一の鳥居。左手に駐車場がある。 二の鳥居。
くぐるとすぐ池があり、それにかかる太鼓橋を渡ってゆくことになる。
御祭神のゆえに、境内にはさまざまな木々が植えられている。 奥に本殿。
本殿の左右脇殿には、
妹神の大屋津比売命・都麻津比売命を配祀。



大宝二年に分祀された大屋都比売命・都麻都比売命の神社も、
ともに『延喜式』では名神大社に指定されており、
篤い崇敬を受けていた。
両社とも大屋都姫神社、都麻津姫神社として現存しており、
ともに兄弟姉妹を配祀し三柱でお祭りされている。
例大祭の時にはイベントとして、
チェーンソーで丸太を削り何かの像を作り上げる
チェーンソーロービングが行われるそうで、
そのうちのひとつが展示されていた。
これをチェーンソー一本で削り出すとは・・・

淡嶋(あわしま)神社。

和歌山市加太に鎮座。

『延喜式』神名式、紀伊国名草郡十九座の一、加太神社(小社)に比定される神社。
旧郡制では加太の地は名草郡ではなく海部郡にあたるが、
これは、『延喜式』の錯誤か、
あるいは『延喜式』神名式のもととなった官社リストが最初に編まれたときは名草郡所属だったが、
その後海部郡が名草郡から分割された後も訂正されずに名草郡所属のまま残ってしまったもの、と考えられる。

神功皇后が新羅征伐からの帰途、難波を目の前にした時に突如強風波浪起こって船団は針路を見失った。
皇后は天神地祇に祈り、船を導きたまえと祈念して苫の枝を海に投げ入れると、
船団は流されるままにひとつの島にたどり着いた。
皇后が上陸するとそこには神祠があり、これが自分の危難を救ってくださった神であろうと拝したてまつったが、
これが少彦名命であった。
苫がとどまった島であるので島の名は苫が島と名づけられ、後に友が島と訛った。
神祠は友が島のひとつ、神島にあったが、仁徳天皇がこの地に狩りに来た時、祭祀の便宜をはかるため現在地に遷座させた。
仁徳天皇五年三月三日のことと伝わる。
以上がこの神社の創祀伝承。

祭神は少彦名命。
大国主命とともに国土経営にあたった神で、身体が小さく、気性の激しいトリックスター的神様。
人や家畜のために様々な医学・呪術の技を授けたことで、医学・薬学の守護神とされる。
この神は淡島(粟島)から粟の茎にはじかれて常世国に去った、という伝説があり、
友が島がその淡島であるといわれている。
(淡島の所在については諸説ある)
少彦名命を祀る社は社名を「淡島神社」「粟島神社」とすることが多く、
全国に「淡島神社」「粟島神社」があるため、この神社は区別のために「加太淡嶋神社」と呼ばれる。
この神社の創祀伝承では少彦名命は海上交通の守護神のようだが、
これは少彦名命が船に乗り、海を渡って大国主命のもとにやってきたという伝説に基づくのだろう。

少彦名命の信仰はのちに「淡島神」の信仰として変容し、
「淡島神は天照大神の六番目の娘・婆利塞女(はりさいにょ)であり、住吉明神に嫁いだが、
婦人病にかかったために淡島に流されたため、そこで婦人病に悩む女性を救うという誓いを立てた」
という神仏習合的伝説が生まれ、婦人病、ひいては安産・子授けの神となった。
さらに江戸初期から「淡島願人」と呼ばれる下級修験者が小宮と立雛を持ち歩いて全国に淡島神信仰を説いて回ったため、
雛人形、人形供養の神ともなった。
淡島神信仰については、その流布のはじめから「少名彦神は男神だろう。何を荒唐無稽な・・・」と言われていたのだが、
女性の間で爆発的に広まってしまったため、そのまま定着してしまった。
各地に伝わる「流し雛」の行事は、一般に言われる「厄祓い」ではなく、
「雛人形に祈願を込め、加太淡島の淡島明神に向けて流す」
という、淡島神信仰にもとづくものが多いといわれる。
この信仰に基づき、加太淡嶋神社境内には奉納・あるいは人形供養の雛人形をはじめとし、
十二支や狸その他の置物、さらには仮面などがあふれている。
一言で言うと、カオス。

和歌山市内から県道7号線をひたすら走ってゆくと加太湾。
向こうに友ヶ島が見える。
友が島は紀伊半島・淡路島間の紀淡海峡に蓋をするように浮かんでいる。
ここに引っかからなければ、
神功皇后の船団は南海に飛び出して海の藻屑となっていただろう。
加太港。
連休中ということで海辺の駐車場は車でいっぱいで、
防波堤には釣り人たちがぎっしりと並んで釣り糸を垂らしていた。
神社前。
目の前は海で、
周囲には観光センターや旅館が
並んでいる。
別に祭りがあるわけでもないが露店が。
短い参道を抜けると拝殿に出てくる。
海の強い日差しに朱塗りが映える。
この神社の特異な所は・・・
これ。
拝殿の廊下には雛人形がびっしりと立っており、
その下には花嫁人形が。
カエルも居る(中央のやつはセクシー)
蛙は、少彦名命の神使とされている。
きもの人形、下には十二支の置きもの。
拝殿周囲は万事こんな感じで、とってもカオスフル。
神社というよりかはなんかの秘宝館みたい。
絵馬舎の裏にあるのは雛倉。
紀州徳川家奉納の雛人形を収めていたが、
現在は古い雛人形を収めている。
この倉は紀州徳川藩第十代治宝(はるとみ)の建立。
紀州徳川家では、姫君が誕生すると、
その初めての桃の節句にこの神社へ一対の雛人形を奉納するのが
ならわしとなっていた。
淡嶋神社では三月三日に雛流しの神事が行われる。
三月三日は現在地への遷座日とされ、
以前は例祭もこの日に行われていたが、
新暦採用とともに一ヶ月ずらし、現在は四月三日に行われている。
拝殿の左手にある大国主社。
少彦名命と国作りをおこなった大国主命を祀る社、だが、
見たところ七福神の祠になっちゃっている。
階段を上がっていった右上に見えるのは遷使殿で、
少彦名命の神使である蛙を祭る。
拝殿で祈願したあと、その祈願を少彦名命に伝えてくださいますようにと
ここで祈るならわし。
階段の上、大国主社の裏手には紀文稲荷社がある。
これは、この近隣で生まれた紀伊国屋文左衛門が、
巨万の富を得て江戸に移り住む前に奉納したお稲荷さん。
あの紀文さんの奉納、ともなればご利益ありそう?
針塚。
少彦名命は裁縫の神様ともされ、二月八日には「針祭」、
つまり針供養が行われる。
針供養は淡島神をまつる社寺で行われる。
淡島神は女性の守護神という認識が広まる中で、
女性の基本的な手習いである裁縫の神様、
という属性が付与されたのだろう。
拝殿左手奥の末社。
少彦名命と八百万の神を祀る。
大量の絵馬に雑じって袋がぶら下げられているが、
この神社が婦人病に効く神様ということで、
そういった方々が古い下着を奉納して願をかけている、らしい。
民間信仰の生々しい一面を見ることができる。
・・・見るといっても実際に覗いて見たら変態ですが。
こういうところだと、某厄神様絵馬が十枚やそこらあっても
かわいいものだという気もしないでもない。
あるかどうかは見てないけど。変態扱いされたらいやだし。
拝殿内には、
奉納された雛人形一式が見える。
文政十三年(1830)に立てられた、「渡海安穏」の祈願石。
海辺の町ということで、船乗りたちの祈願がこめられているのだろう。


と、最後はきれいに締めてみた

近隣の高台の上にある阿字ヶ峰行者堂。役行者をまつる。
この地方は修験道が盛んであり、
そういった人々が淡島神信仰を各地へと広げていった。
行者堂から西を見る。
加太港が一望の下。
向こうには友ヶ島、さらにその向こうには淡路島。

友ヶ島は四つの島からなっており、
右から地ノ島、中央の小さな虎島、そして左に沖ノ島。
沖ノ島に隠れた向こうに小さな神島があり、旧社地といわれる。
古来修験道の地であり、戦前は軍により砲台が置かれ要塞化していた。
戦後は瀬戸内海国立公園に指定され、キャンプ場などができた。
近年では、あのデスクリムゾン(デス様)OPに
沖ノ島第三砲台の実写映像が使われたといわれ、
クリムゾナー巡礼地として、せっかくだからこの島へ行ってみる人も多い。





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