にっぽんのじんじゃ・わかやま

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


戻る


紀伊国

牟婁郡(和歌山県田辺市・新宮市・東牟婁郡・西牟婁郡および三重県熊野市・南牟婁郡・尾鷲市・北牟婁郡・度会郡大紀町の一部):

熊野は律令制下の紀伊国牟婁(むろ)郡であり、熊野川流域を中心とした紀伊半島南部の大半を占める広大な地域で、
律令制導入以前には「熊野国」という一国であり、大化二年(646)に紀伊国に合併され、紀伊国牟婁郡(大化当時の表記では牟婁評)となった。
現在では「紀伊の熊野」と言うが、もともと紀伊と熊野とは別の地域だったということになる。
『先代旧事本紀』国造本紀には、

  熊野国造。
  志賀高穴穂朝(第十三代成務天皇)の御世に、饒速日命の五世の孫、大阿斗足尼(おほあとのすくね)を国造に定め賜ふ。

とあり、大阿斗足尼は饒速日命の御子にして神武天皇に布都御魂剣を奉ったという高倉下命(たかくらじのみこと)の子孫とされ、
その子孫は熊野連として熊野の地を治め、また熊野本宮大社の社家として明治初年まで社に奉仕した。
「クマノ」の「クマ」は「奥まった、籠った、隠れた」という意味で、郡名の「ムロ」も「周囲を囲われた場所」をあらわし(漢字では「室」をあてる)、
遠く紀伊半島の南辺、海辺の村々を山と森が囲んでいる状態をいったものだろう。
明治になると広大な牟婁郡は熊野川を境として和歌山県東牟婁郡・西牟婁郡、三重県南牟婁郡・北牟婁郡に分割され、
現在はその中から田辺市・新宮市・熊野市・尾鷲市が市制を敷いている。

熊野本宮大社 *湯の峰温泉 熊野速玉大社
(付・神倉神社)
熊野那智大社
(付・青岸渡寺、
飛瀧神社)
*熊野牛王宝印
花の窟神社

熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)。

田辺市本宮町本宮、熊野川西岸の高台に鎮座する。
明治22年までは熊野川の中州に鎮座していたが、洪水による流失のために現在地に遷座している。

『延喜式』神名式、紀伊国牟婁郡六座の一、熊野坐神社(くまのにいますかみのやしろ)。名神大。
熊野の地の主神で、新宮・那智とともに「熊野三山」を形成し、全国各地に鎮座する熊野神社の総本宮。

主祭神は熊野坐大神で、その御名は家都美御子(けつみみこ)大神。
神名の「ケ」は「食べもの」、「ツ」は「~の」、「ミ」は「神霊」をあらわし、食をつかさどる御子神と考えられ、
素盞嗚尊と同体とされる。
出雲国意宇郡の熊野大社(熊野坐神社)の祭神は「熊野大神櫛御気野命(くまののおほかみ・くしみけののみこと)」といい、
その神名は「霊妙な神饌(くし・みけ)」という意味で、
また『出雲国造神賀詞』にはこの神の形容として「かぶろき」という言葉が用いられており、
これは童子の髪型をあらわすもの(禿、かぶろ・かむろ)という説があって、こちらも食をつかさどる童子神と考えられ、
『先代旧事本紀』では熊野大社の祭神を素盞嗚尊としていることから、
熊野本宮大社は出雲の熊野大社の勧請であるともいわれる。

熊野の有馬には素盞嗚尊の母神である伊弉冉尊の墓所(*花の窟神社)があり、神話によれば素盞嗚尊は母のいる根の国に去ったとされている。
昔は隣国であった紀伊国には素戔嗚尊の三柱の御子、五十猛命・大屋都比売命・都麻都比売命が祀られていて、
このうち五十猛命は『古事記』にみえる「木国(きのくに。紀伊国)の大屋毘古神(おほやびこのかみ)」であるとされ、
『古事記』によれば、大国主命は兄の八十神に追われた時にこの神のもとへ逃げ、
そこからさらに「須佐能男命の坐します根堅州国(ねのかたすくに)」へ向かったとされ、
これは大国主命が紀伊から熊野へ逃走したことを示しているかもしれない。
ただ、これについては、
紀伊国在田郡(有田郡)須佐郷に、延喜式神名帳にて新嘗祭班幣に預かり名神大社にも指定されている須佐神社が鎮座しており、
南海の海辺のこの地が、海原の神であり、海の向こうの国である「常世国=根の国」の王である素盞嗚尊信仰の源流であるという説がある。
紀伊・熊野と出雲の熊野の間に何か関連があるのか、どちらかからどちらかへ人や文化の移動があったのかについては、
諸説あるが決まった答えは出ていない。


熊野坐神社の創祀は、『扶桑略記』『帝王編年紀』『水鏡』などでは崇神天皇治世のこととする。
また、『長寛勘文』(平安末期、熊野社の甲斐国における荘園・八代庄が甲斐国守に侵犯された事件に関する文書を集成したもの)に収録された
「熊野権現御垂迹縁起」には、

  むかし、熊野権現は唐・天台山の王子信の旧跡より九州の英彦山に天降られた。
    (*王子信とは周の霊王の太子・晋。諫言して容れられず野に下り、のち登仙して王子喬と呼ばれる仙人となった。
    鶴に乗り笙を吹く青年の姿で描かれる。天台山に旧宅があったと伝えられ、天台山の鎮守神、地主山王元弼真君となった。
    日本天台宗、比叡山延暦寺の鎮守神・山王権現の呼称はそれを採り入れたもの)
  その形は八角形の水晶の石であった。
  その五年後、伊予国の石鎚山に御渡りになり、また六年後、淡路国の諭鶴羽山に御渡りになった。
  その六年後の三月二十三日、紀伊国牟婁郡切部山の西海の北岸、玉那木淵の上の松の木本に御渡りになり、
  五十七年後の三月二十三日、熊野新宮の南の神倉山に降臨された。
  六十一年後に新宮の東の阿須加社の北の石淵谷に勧請し奉り、その時は二宇の社であった。
  そして十三年後、本宮大湯原(大斎原)のイチイの木の三本の梢に三枚の月形となって降臨された。
  十三年後、犬飼の熊野部千代定が大猪を射、犬の後を追って大湯原に行きついた。
  猪はイチイの木の下で死んでいたので、千代定はこの肉を取って食べた。
  彼はこの木のもとで一泊したが、夜半、木の梢に三枚の月があるのに気づき、
  「どうして月が虚空を離れて梢にいらっしゃるのか」
  と御問い申し上げた。
  月は犬飼に答えて、
  「我は熊野三所権現である。一社は証誠大菩薩という。ほかの二枚の月は両所権現という」
  と仰せになった・・・

とあり、これが現存最古の縁起。
熊野権現が中国から英彦山・石鎚山など修験道の聖地を渡って来たと記されているように、
多分に修験道の要素が混じった縁起となっている。おそらくは熊野信仰の伝播ルートを逆さにしたものだろう。
英彦山の縁起も、これとほとんど同じものとなっている。
狩りで射た猪が神の御許で死んでおり、狩人がそれを神のもとで取って食べたというのは、
殺生を禁ずる仏法にはそぐわない伝承であり、「山の恵みを与える神」という古くからの形と思われ、
狩猟民が神社の担い手であったことを示している。
熊野には、旧暦の十一月二十三日にのぼる月が三体となるという「三体月」の伝承があり、
現在でも本宮周辺の人々は旧暦十一月二十三日夜に「月待ち」を行っている。
「三体月」は、寒い冬の日、大気中の氷晶の状態によってごく稀に太陽や月が幾重にも見える「幻日」「幻月」のような自然光学現象とみられている。

国史初見は『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条。

  京畿七道の諸神の階を進め、また新たに叙す。すべて二百六十七社。
  (中略)
  紀伊国の従四位下伊達神・志摩神・静火神に並びに正四位下を、
  従五位下勲八等丹生都比売神・伊太祁曽神・大屋都比売神・都摩都比売神・鳴神に並びに従四位下を、
  従五位下須佐神・熊野早玉神・熊野坐神に並びに従五位上を、
  (中略)
  授け奉る。

この時はまだ紀伊国内でも中堅クラスといった感じだったが(須佐神社と同ランクということは、祭神の上で関連があるとされていたか)、
それが同年の五月二十八日条に、

  出雲国の正三位勲七等熊野坐神、正三位勲八等杵築神、紀伊国の従五位上熊野早玉神、熊野坐神に並びに従二位を、
  山城国の従五位下大川原国津神、有市国津神、正六位上天照御門神に並びに従五位上を授け奉る。

と、従五位上から従二位へ破格の九階ジャンプアップを果たしている。
記述からすると、どうやら出雲国の双璧である熊野坐神社(熊野大社)・杵築大社(出雲大社)と同格にまで引き上げられたらしい。
この頃には、出雲国の熊野大社と何らかの関連性が生まれていたのだろうか。
のち、貞観五年三月二日に熊野早玉神にのみ正二位が授けられ、
延喜七年(907)十月二日に熊野早玉神に従一位、熊野坐神に正二位が授けられ、
天慶三年(940)二月一日、熊野早玉神に正一位が授けられた。
これからすると、
このころには霊験の大きい社として名神に指定される熊野坐神(本宮)よりも熊野早玉神(新宮)が格上とみられてみたことがわかる。
平安後期には「伊勢大神宮と熊野権現は同体である」との論が起こり、
伊勢と熊野は「伊弉諾尊・伊弉冉尊が祭神として共通している」ことがその根拠のひとつとされた
(伊勢大神宮には別宮として伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀る伊佐奈岐宮二座が鎮座。月読宮と並んで鎮座する)。
となると、この時には、新宮=伊弉諾尊、本宮=伊弉冉尊あるいは家津美御子という認識だったか。

主祭神の家都美御子大神を第三殿・証誠殿に祀り、
第一殿・西御前には熊野牟須美大神(伊邪那美大神)・事解之男神、
第二殿・中御前には速玉之男神、
第四殿・若宮には天照皇大神を祀って、
これを上四社と称する。
ほか、中四社・下四社があって、合計十二殿あることから「熊野十二社権現」と呼ばれてきた。
また、本宮・速玉・那智のいわゆる熊野三山を総称して「熊野三所権現」という。
明治二十二年までは東南の熊野川にある中州「大斎原(おおゆのはら)」に社殿があったが、洪水によって流失したため、
上四社を現在地に遷座し、中四社・下四社および摂末社は石祠にて大斎原に祀られている。
そのため、往時の姿は絵図からしかわからない。

中央から遠く離れた紀伊半島南辺の神域ということで、仏法が流布するにつれて修験者たちの穴場となり、
熊野はほどなく神仏習合の一大霊場となった。
権中納言藤原師時の日記『長秋記』の長承三年(1134)二月一日条に、
鳥羽上皇と待賢門院璋子の熊野参詣に関する記録があり、その中に祭神の本地を尋ねた答えが記されている。


  丞相 和命家津王子  法形 阿弥陀仏
  両所 西宮 結宮    女形 本地千手観音
      中宮 早玉明神 俗形 本地薬師如来
    已上三所
  若宮   女形  本地十一面
  禅師宮  俗形  本地地蔵菩薩
  聖宮   法形  本地龍樹菩薩
  児宮        本地如意輪観音
  子守        聖観音
    已上五所王子
  一万 普賢、十万 文殊、勧請十五所 釈迦、飛行夜叉 不動尊、米持金剛童子 毘沙門天、礼殿守護金剛童子

この頃には「家津王子」「結宮」「早玉明神」の熊野三所権現の信仰が整えられていて、
本宮・新宮・那智のどこでも三所権現を中心とする十二社権現が祀られていた。
本宮は阿弥陀如来の西方極楽浄土として来世の救済を担当し、
新宮は薬師如来の東方浄瑠璃浄土として過去世の救済を担当し、
そして那智は観音菩薩の南海補陀落浄土として現世の救済を担当して、
熊野参詣によって過去・現在・未来すべての救済が成就されると信じられた。
熊野は、京畿から深い山々を隔てて南海に接する辺境の地で、伊弉冉尊の墓所があるなど古来「死」のイメージが強い場所であり、
人々は熊野権現に参詣することで「死と再生」を実体験することを目指した。
熊野三山には、宇多法皇そして花山法皇の参詣を皮切りとして皇族や貴族の参詣が引きも切らず、
中世からは、熊野三山だけでなく全国の修験者ネットワークや、
宗祖・一遍が熊野本宮で覚醒したという時宗の活動によって熊野信仰が日本中に広まり、
一般人も我も我もと熊野に押し寄せ、「蟻の熊野詣」と呼ばれるほどの活況を呈した。
慶長年間にポルトガル人のイエズス会宣教師がつくった『日葡辞書』の「Ari(蟻)」の項目には、

   Arino cumano mairi fodo tcuzzuitayo.(蟻の熊野参りほど続いたよ)
 (*日本語のハ行の発音は、上古は「パピプペポ」であり、古代~中世では破裂音にしない「ファフィフフェフォ」となり、
  近世になって口をとがらせない現行の「ハヒフヘホ」となった。ただ、現在も「フ」の時に口をとがらせるのは中世の名残。
  そのため、古代に漢字を導入した時、漢語の“h”の子音を日本語では“k”として認識した〔例:海“ハイ”→日本での音読み“カイ”)。
  このころはまだハ行が「ファフィフフェフォ」の頃なので、「ほど」が「フォド」となっている。ただ、西洋における「f」の子音とは違う)

という、行列の非常に長い事を表す慣用句が収録されている。中世には「熊野参り」と呼ばれていた。

熊野参りのための道を、一般に「熊野古道」という。
大きく分けて「紀伊路」・「伊勢路」の二つがあり、
紀伊路は、摂津から和泉を経て紀伊に入ると、田辺の三栖口(田辺市北新町)からさらに「大辺路」・「中辺路」に分岐、
また高野山から熊野を目指す「小辺路」があった。
「大辺路」は田辺から那智勝浦の港町へ向かう海辺の道で、那智行きコース。
海沿いながらいくつもの峠を越える難道で、しかも距離が長かった。
そのため、人々はめいめい楽なルートを探しながら那智勝浦を目指したため、これと決まった道がないらしい。
ただ海辺をゆくので風光明媚であり、日程的に余裕のある人や文人は好んでこの道を通ったようだ。
「中辺路」はもっとも一般的なルートであり、田辺から東に折れて熊野本宮に向かい、本宮から那智・新宮へと向かう道で、
九十九王子はこの途上に設けられ、参詣者はこれらを巡拝し道中の加護を祈りつつ熊野本宮を目指した。
「小辺路」は高野山から熊野本宮へと向かう道であり、集落も少ない紀伊の奥深い山地を一気に縦断する最短コース。
もとは現地の人々が通商などに用いた生活道路が発展したものらしく、
まだるっこしい事抜きで「ただ熊野三山にお参りしたい」という人向けのルート。
「伊勢路」は、伊勢大神宮と熊野本宮あるいは新宮を結ぶルートで、東海道方面から来た人が多く利用した。
お伊勢参りの後に熊野詣を行い、那智山から西国三十三ヶ所を巡って帰るのが、当時の神仏フルコース・ツアー。

熊野三社が烏を神使とするのは、
神武天皇の東征において、大和への入国を長髄彦に阻まれた神武天皇が紀伊半島を大きく迂回し、熊野に上陸して進軍したが、
山中の行軍において道に迷った時、天照大神(あるいは高木大神)が遣わした八咫烏が天皇の軍を導いた故事による。
牛王神符には三本足の烏が描かれているが、本来「ヤタガラス」とは単に「大きなカラス」という意味で、三本足であるという記述はない。
これは、中国における「太陽の中には三本足の烏が住んでいる」という説が日本に輸入され、八咫烏と習合したものとみられている。
日本サッカーの功労者に縁深い神社が熊野神社であったことから日本サッカー協会のシンボルマークともなっており、
サッカー日本代表グッズを身につけた人々の参詣も多い。
古くは、「鞠聖」と呼ばれた平安後期の蹴鞠の達人、藤原成通卿が蹴鞠上達を祈願して何度も熊野に参詣したと伝えられる。
この成通卿、幼いころは病弱で、健康のために蹴鞠を朝から晩まで一心に練習してついには無類の名手になったという人で、
『古今著聞集』には彼の伝説的な蹴鞠の逸話が多数収録されている。
いわく、

*蹴鞠の精に出会って話をした
*侍を七、八人並んで座らせ、沓を履いたままその肩に乗り、次々肩を踏みながら小毬を蹴って渡ったが、誰もがほとんど重さを感じなかった
*清水寺の舞台の高欄を、沓を履いたまま鞠を蹴りつつ一往復したので親父にメッチャ怒られた
*キック力は常人の三倍で、ある時高く鞠を蹴り上げると、雲の中に入って落ちてこなかった
*若い頃、蹴り損なって鞠が御簾の中に入ろうとするのを追って飛び込んだが、
 御簾のそばに親父がいたために無作法(土足)を恐れ、鞠を足でトラップすると足をつかずにそのままバク宙で飛び帰った
*身のこなしも軽く、築地や垣根の側面を走り、屋根の上を棟から転がり落ちて軒でぴたりと座った
*雨の日に牛車に乗る時は、片手で袴の裾をたくし持ち、片手で御簾を上げて飛び乗り、装束を汚さなかった。そのため、従者も一、二人しかつけなかった

などの凄まじい変態・・・もといファンタジスタっぷり。
「蹴鞠の精に会った」とか「ボールはトモダチ」どころの話ではなく、間違いなく翼くん以上。
また無類の美声でもあり、今様を謡うと物に憑かれた女性が正常になったり、乳母の瘧が癒されたともいう。
成通卿は熊野本宮に参詣した際、自らの蹴鞠を神前に奉納した(あるいは願掛けか)が、
「うしろ鞠」(かかとリフティングと思われる)を西から百度、東から百度の計二百度上げて落とさなかったと伝えられる。

また、中世には、烏文字で書かれた熊野権現の神符「熊野牛王神符」を起請文に用いて誓約を交わす信仰が発生した。
この誓約に違反すれば熊野権現の神使である烏が死に、違反者もたちどころに死んで地獄に落ちると信じられており、
誓約書として絶大な効力をもっていた。
白を切る罪人に「この熊野牛王神符に名を書いて、焼いた灰を飲め」と脅すと、たいていの者はあっさり白状したとも伝えられる。

『新抄格勅符抄』収録の、大同元年(806)時点における全国の神社の神封(ある神社の維持管理のために国がその神社に充てた封戸)
をまとめた文書である「大同元年牒」には、

  熊野牟須美神 四戸 紀伊 〔天平神護二年充て奉る〕
  (中略)
  速玉神 四戸 紀伊 〔神護二年九月二十四日充て奉る〕

とあり、この二社の間には新屋神・祝園神・伊豆三嶋神など五社が挟まっている。
この時、この二柱が新宮の祭神であったとする説があるが、
同社であれば普通は併記するであろうし、また「二座」と数えられるべきであり、
そうなれば『延喜式』神名式には「熊野早玉神社 二座」と記されるはずだがそうなっていないので、熊野牟須美神と速玉神は別の社と考えられる。
速玉神は新宮の速玉大社で問題ないが、
現在、熊野牟須美神(と同じとされる熊野夫須美大神)を主神として祀っている那智の信仰のおおもとは大瀧信仰であって、
さらに『延喜式』の10世紀になっても神名帳登録の官社ではなかった那智がこの頃「熊野牟須美神」を祭って神封を持っていたとは考えられず、
また新宮が神戸を持っているのに本宮が持っていないというのも考えにくいため、熊野牟須美神は本宮の神ということになる。
「生成の霊力」をあらわす根元的な力「牟須美」の神名は、熊野の主神にふさわしい。
となると、本宮の元来の主祭神は熊野牟須美神であって、のちに御子神の家都美御子大神が主祭神に昇格した、
あるいは新しく勧請されたとも考えられ、
貞観元年五月の破格の昇級には家都美御子大神の出現が関わっていたのかもしれない。
実際、熊野本宮および新宮の社殿配置は、西宮・中宮の二殿の前に拝殿にあたる「礼殿」を備えており、
社殿配置からはこの二柱が熊野の元々の神であって、のちに主祭神となった家津美御子以下は後に加えられていったと考えることもできる。

本宮大社の例祭においては大和舞の奉納があるが、その時に歌われる歌は伊弉冉尊の墓所と伝えられる「花の窟」を題材としたもの。
花の窟に神々が来訪された時、本宮から七度お迎えの使いを出したが神々はおいでにならず、
八度目に使いを出した時、途中で本宮に向かわれる神々と出会い、お迎えすることができた、という「七度半の使い」の伝説がある。
熊野牟須美神は伊弉冉尊と同体とされるので、本宮が有馬村の花の窟に神迎えを出したという伝承は、
すなわち本宮の地に有馬から伊弉冉尊の神霊をお迎えした、もしくは定期的にお迎えしていたという出来事に基づいているのだろうか。
もとの熊野の主神が黄泉津大神とも呼ばれた伊弉冉尊であったなら、熊野が死と関わり深い地と見做されたのも自然な事と思われる。
ただ、江戸時代に書かれた『熊野巡覧記』によれば、
近世には本宮の主祭神である証誠殿の神は伊弉冉尊とみなされており、中御前・西御前は速玉之男、事解之男で、
この三柱が熊野三山の主祭神であって、家都美御子という祭神は存在していなかった。
これは紀州徳川藩が行った神仏分離において、祭神には記紀に名の見える神を当てていったため、
記紀に名の見えない家都美御子は排されたのだろう。
このため、本宮大社と花の窟が同祭神ということで親しくなったのだろうか。

『長寛勘文』では、八代庄への狼藉に対する量刑において熊野本宮および新宮が伊勢大神宮と同体であるか否かが問題となったことが記されており
(同体とすれば、熊野の荘園に狼藉を働いたことは伊勢大神宮、つまり「律」で規定するところの「大社」に対する狼藉と同じであり、
「大社」は天皇に関わるものや皇太子と同列の扱いであって、その神物を盗んだ場合の量刑がはるかに重くなる)、
当時、識者の間に伊勢熊野同体説があったことが知られる。
その理論としては、

 *『日本書紀』には、伊弉冉尊が熊野国有馬村に葬られたと記されている
 *『延喜神祇式』(巻第四、伊勢大神宮式)には、
  「大神宮(おほかみのみや。内宮のこと) 天照大神一座」、「伊弉奈岐宮二座 伊弉冉尊一座・伊弉冉尊一座」とある
 *同じく『延喜神名式』(巻第十、神名下、南海道神)には、紀伊国牟婁郡に「熊野早玉神 大」「熊野坐神 名神大」とある
 *これらを総合すると、伊弉諾尊・伊弉冉尊は天照大神の父母であり、この神は伊勢にも熊野にも祀られている
  であれば、熊野権現と大神宮は名は異なっていても同じものである。

というもの。
伊弉諾尊・伊弉冉尊が熊野速玉および本宮で祀られている神と同体であるという認識。
ただし、この説は否定され、伊勢と熊野は別であるとされた。
それでも、伊勢熊野同体説は一部で生き残ってのちの文献にも登場しており、
「熊野権現は天照大神五世の孫で、インドのマガダ国から飛来した」
という逆本地垂迹的な伝承も生まれた。

鳥居前。
参道。
神門前。
神門より先は上四社の四殿(ただし第一・第二殿は相殿)の並ぶ神前であり、神職の許可がない限り撮影禁止。
向かって一番左手に建つ第一・第二殿の対面には礼殿があり、神前祈願はここで行う。
主祭神の前で祈願を行わないというのは珍しいが、第一・第二殿の神が熊野の古くからの神ということなのだろうか。
平安後期の貴族、中御門右大臣藤原宗忠の日記『中右記』を見ると、当時の熊野本宮への参詣次第は、

1.証誠殿に奉幣、拝礼
2.両所権現(西宮・中宮)に奉幣、拝礼
3.若宮王子にて五所王子に奉幣、拝礼(*若宮にて中四社の分も併せて奉幣したということ)
4.一万眷族十万金剛童子・勧進十五所・飛行夜叉・米持金剛童子惣社(*下四社)に奉幣、拝礼
5.両所権現前の礼殿にて経供養
6.証誠殿前で願書を読み上げ、証誠殿を開けて願書を納める
7.進んで礼拝、阿弥陀経を読む
8.礼殿に戻って加持を受ける

というものであり、この頃は証誠殿が主祭神となっている。


写真の向かって左は御守り等の授与所。サッカー御守とかもあり、バリエーション豊富。
ワールドカップなどの重要な大会の前には、必勝祈願の記帳所もできる。

*熊野本宮大社・大斎原(おおゆのはら)

田辺市本宮町本宮。本宮大社の旧社地。

熊野本宮大社参道途中にある、
旧社殿絵図。
明治二十二年当時、
熊野川の中州に鎮座していた時の復元図。
人が出てきているところの路から、
旧社地である「大斎原(おおゆのはら)」へ向かう。
「ゆ(斎)」とは、古語で「神聖」という意味。
巨大な鳥居の向こう、森が広がる一帯が大斎原。
本宮大社神職の方の許可をいただいて写真を撮らせていただきました。
(大斎原の撮影には神職さんの許可が必要)
到着。 案内板。
大斎原。
熊野川とその支流、音無川・岩田川が形成する中州に広がっている。
「蟻の熊野詣」と呼ばれ、皇族・貴族から庶民にいたるまでのおびただしい数の人々が目指したのがここだった。
この広大な森の中に熊野の神々をまつる五棟十二殿の社殿と摂末社が鎮座、
また神楽殿、能舞台、文庫、宝蔵、社務所、神馬舎、楼門を備えており、
明治二十二年、山林伐採による大洪水により殆どが流失するまで、壮大なる信仰の場であった。
かの一遍上人もこの場所でピコーンと覚醒したといい、
彼のあとを継ぐ時宗歴代上人は、宗門を継ぐ際には必ず本宮大社を参拝、その旨を奉告する。

現在も本宮大社例祭ではこの地へ渡御を行い、ここで神事や舞が奉納されるなど、
もっとも重要な場所となっている。

写真中央にみえる石祠に中四社・下四社および境内摂末社の御神霊を祀る。
音無川方面へのびる道。
昔は音無川に橋がなく、参拝者は徒歩で川に入り、
足を濡らして参拝したという。
これを「濡れ草鞋の入堂」といい、
藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』にもその語がみえる。
一種の禊といえるだろう。
大鳥居がある北からの道は「御幸路」と呼ばれ、
皇族以下、紀州藩主など貴人が通っていた。
森の間から熊野川を見る。
現在はダムによる流量の減少で、
水を満々とたたえたかつての熊野川を見ることはできない。
堂々として、みずみずしい森。
古代の人々は、
豊かな水に囲まれたこの森に神の存在を感じたのだろう。
熊野川の河原。

湯の峰温泉。

田辺市本宮町下湯川
JR紀勢本線・新宮駅から本宮方面行き、かつ湯の峰温泉へ迂回するバスに乗って約一時間のところ。
バスの本数はあまりないので、車で訪れる人が多いようだ。
近隣には渡瀬温泉・川湯温泉がある。

第十三代成務天皇の治世、熊野国造の大阿刀足尼(おほあとのすくね)によって発見されたと伝えられ、日本最古とも呼ばれる温泉。
平安時代の上皇・法皇も熊野御幸の際にこの湯に浸かられたことで、広く世に知られるようになった。
すぐそばを熊野古道が走っており、九十九王子の一・湯峯王子もあって、
熊野詣を行う人はこの温泉を訪れて湯垢離を行い、身を清めると同時に長旅の疲れを癒した。
ここから最後の一山、「大日越」をすれば本宮に到着することになる。
本宮大社の例祭においては、湯の峰温泉においても「湯登神事」などの行事が執り行われる。
また、説経節にもなった『小栗判官』の伝説でも名高い。
現世で妬みにより毒殺され、地獄に落ちて閻魔大王の前に引き出された小栗が閻魔大王の同情を得て餓鬼の姿で現世に送り返され、
木の車に曳かれて熊野の湯の峰温泉にたどり着き、四十九日の湯治の末、元の若々しい姿に蘇生したという話で、
熊野のもつ「死と再生」のイメージを体現する一篇となっている。
江戸時代、ネタ的につくられた全国温泉ランキング「温泉番付」では、
数多く作られたどの番付でもド真ん中に「立行司」や「勧進元」として記され、大御所、別格扱いとなっていることからもその高名さがうかがえる
(ちなみに東大関は草津、西大関は有馬)。
近年では、昭和32年(1957)に川湯温泉・渡瀬温泉とともに国民保養温泉地に指定されている。

旅館4、民宿11というこぢんまりとした温泉場。
92度Cという高温の温泉が四村川沿いに自噴しており、ボーリングが全く行われていない稀有な温泉。
川沿いに湧く「つぼ湯」は小栗判官蘇生の湯として知られ、
史跡「熊野参詣道」の一部、そしてユネスコ指定の『世界遺産』の「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部にも登録されており、
世界遺産で唯一の公衆浴場となっている。

熊野川。
初めて来た時は、19時過ぎに新宮駅に着いたらもう駅前は真っ暗で、飲み屋くらいしか開いてなかった。
翌日早イチのバスに乗って本宮へ向かったが、
大雨のため川の水量は多く、また両側はすぐ険しい山のため、滝が至る所から流れ落ちていた。
それでも河原には多くの車が停まり、川辺や川中で釣り人たちが竿を振るっていた。
道沿いには那智黒の看板が多い。
写真は二度目に来た時。この時もあんまり天気よくない。
この地方は天気が不安定で、夏の降水量も凄まじく、公共交通機関のダイヤはしょっちゅう乱れるとのこと。
平成23年の台風12号にともなう被害は記憶に新しい。
初めて来た時も、名古屋方面への電車が豪雨のため運休していた。
大雨の中、バスの中より湯の峰温泉を。公衆浴場前。
左手に「小栗判官蘇生の地」の表示がある。

熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)。

和歌山県新宮市上本町1丁目、熊野川の河口近く、川が大きく蛇行しているところに鎮座している。
昔は熊野本宮に参詣したのち、熊野川を舟で下って参詣するのが常だった。楽ちんだし。
通称は熊野新宮といい、市の名もこれにちなんでいる。

『延喜式』神名式、紀伊国牟婁郡六座の一、熊野早玉神社〔大〕。
本宮は特に霊験ある神として「大」の指定に加えて名神の指定を受けていたが、速玉社は「大」の指定のみ受けていた。
ただ、神名式での記載は熊野坐神社(本宮)よりも先の牟婁郡筆頭であり、神階も一時は本宮よりも上の階位にあるなど、
平安時代には熊野の主神である本宮よりも立場が上だった。

主祭神は熊野速玉大神。
「ハヤタマ」は神霊の働きの勢いよく盛んなさまをいい、伊弉諾尊と同体とされる。
『延喜式』神名式では祭神は一柱となっているが、現在は熊野速玉大神と熊野夫須美大神の二座を主祭神とする。
『熊野権現御垂迹縁起』などにもとづく伝承によると、
熊野権現は唐の天台山を出てまず筑紫の英彦山に降臨し、それから各地を遍歴した後に神倉山に祀られ、
景行天皇五十八年、現在地に社殿を造営して遷座し、神倉山の旧社地に対して「新宮」と呼ばれるようになった、と伝えており、
もとは近隣の山、神倉山で祀られていた神であると考えられている。
神倉山には「ゴトビキ岩」という巨岩があり(ゴトビキはヒキガエルの意味)、古来祭祀が行われていて(岩の下から銅鐸が発見されている)、
現在も神倉神社が鎮座し、高倉下命を祀っている。
熊野市の花の窟神社と同様、巨石信仰が行われていたものが、祭祀形態の変遷によって現在地に移ったのだろう。
事実、熊野三山の中で最も交通の便のよいところ。
『日本書紀』には、紀伊半島を迂回する神武天皇が、

  而して熊野の神邑(みわのむら)に到り、且(また)天磐盾(あまのいはたて)に登り、

とあるが、この天磐盾がゴトビキ岩のこととされている。
神武天皇の頃すでに神邑と呼ばれていたとされることから、その祭祀も相当古くから行われていたのだろう。

第一殿・速玉宮に熊野速玉大神、
第二殿・結宮に熊野夫須美大神、
そして上三殿として「証誠殿」に家津御子命・国常立命、「若宮」に天照皇大神、「神倉宮」に高倉下命を祀り、
続く「八社殿」に中四社・下四社の神々を祀っており、
熊野十二社に神倉宮を加えた十三社を祀っていることになる。
当初は、早玉・結・家津美御子三柱を二社殿で祀っていたが、その後熊野信仰の広がりとともに諸神が合祀されていき、
平安時代には現在のような十二社権現となったという。
「蟻の熊野詣」と称された熊野参詣ブームにおいては本宮・那智とともに参詣者で大いに賑わった。
「熊野御師(くまのおし)」と呼ばれた三山の僧や神官は「牛王宝印」を携えて全国に布教を行い、それに伴う参詣者のガイドや世話も行っていた。
また、ブームが一段落した近世においては、「熊野比丘尼」と呼ばれる尼僧が「熊野曼荼羅」などを持って全国を行脚し、
曼荼羅の絵解きによって死と地獄の有様、極楽往生のさまを見せて熊野信仰を説いた。
彼女たちは絵解きに調子をつけ、時には歌に乗せて一般人にわかりやすく布教したので、「歌比丘尼」とも呼ばれた。
ただ、江戸時代には「おかげ参り」の伊勢参宮のほうがメジャーであって熊野詣はいささか斜陽気味であったため
(伊勢参宮のあと熊野に向かわず、観光優先で大坂や京に向かうことが多かった)、時には春を鬻ぐこともあったという。
それはともかく、現在でもその伝統を受け継ぎ、新宮では「熊野観心十界曼荼羅」を用いた絵解きを行っている。
(もちろん、事前に問い合わせ必要)

国史初見は熊野本宮大社に同じく『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条。
この時に本宮とともに従五位上を授けられ、
同年五月二十八日に従二位へと破格の昇級を果たしている。
そして速玉大社は、さらに貞観五年(863)三月二日条において熊野本宮を差し置き単独で正二位を授けられており、
この時には、熊野の主神であるはずの本宮よりも上位の神とみなされていたことになる。
『新抄格勅符抄』収録の、大同元年(806)時点における全国の神社の神封をまとめた文書である「大同元年牒」には、

  熊野牟須美神 四戸 紀伊 〔天平神護二年充て奉る〕
  (中略)
  速玉神 四戸 紀伊 〔神護二年九月二十四日充て奉る〕

とあり、この二社の間には新屋神・祝園神・伊豆三嶋神など五社が挟まっているため、熊野牟須美神と速玉神は別の社と考えられる。
この頃にはまだ那智はなく本宮と新宮の二社しかなかったと考えられるので、
その頃は熊野牟須美神が本宮、速玉神が新宮の神であったということになり、
後世、特に速玉神が伊弉諾尊と同体とみなされるようになったことにより、
諏訪や筑波山のように夫婦神が並立するところでは男神のほうの神階が上位とされていたように、速玉神のほうが上位に立ったということだろうか。

この地には、秦の始皇帝の時代に童男童女を率いて東海に船出した方士・徐福が来着した、という伝承がある。
熊野には新羅遠征から帰還した神功皇后や、遣唐の帰途の吉備真備も漂着したといい、
インドからは那智山を開いた裸形上人が漂着した、とも伝えられる。
熊野の海辺の人々にとっては南海・東海の向こうは「常世国」つまり理想郷であって、
海を介して様々なものが出て行く一方、また様々なものがやってくるところだった。

境内入口。
本宮は飾り気のない素朴なたたずまいだが、
新宮や那智は朱色が鮮やか。
狛犬。

熊野三山は江戸後期に紀州藩、
そして明治初年に明治政府によって
神仏分離が行われた。
そのため、新宮の境内は実にさっぱりしている。
左、国指定天然記念物、梛(なぎ)の大樹。
ナギの木は速玉大社の神木。ナギの木としては日本最大。
平安末期、平重盛(清盛の長子)の手植えと伝わる。

                                 藤原定家
ちはやふる熊野の宮のなぎの葉を 変わらぬ千代のためしにぞ折る  


熊野詣の人々は、参詣のしるし、そしてお守りとして
ナギの葉を受けて帰るのをならわしとしていた。


神門前。
本宮と同じく、神門内は神職の許可がない限り写真撮影禁止。
許可をいただいて撮らせていただいたうちの一枚。
拝殿、その向こうに速玉宮と結宮が鎮座。写真右端に見えるのが上三殿。そのさらに右に八社殿がある。
初めて参詣した時はちょうど結婚式が行われていて、雅楽に乗せて巫女さんが舞を奉納したりしていた。
ただ、夏の時分で、天気が快晴から豪雨からクルクル変わって大変だった。
これは二度目の参詣の時。この時も雨がち。


『中右記』の熊野参詣記事では、参拝は

1.証誠殿に奉幣、拝礼
2.両所御前に奉幣、拝礼
3.若宮一王子社に奉幣、拝礼。幣帛は二つ、ならびに眷族別社の四つの計六つを同時に奉る。
4.礼殿にて経供養
5.終わって礼拝。この間、堂に千手観音安置。
*願書は宝殿に納めるように言いつける
*幣帛の数は九。

となっており、幣帛の数が本宮とは異なっていた。

熊野速玉大社摂社・神倉(かみくら)神社。

新宮市新宮、熊野速玉大社の南、神倉山に鎮座する。

神倉山の峰の上に巨岩があり、ゴトビキ岩と呼ばれているが、
そこに熊野速玉大社の境外摂社・神倉神社が鎮座している。
ゴトビキとはこの地方の言葉で「ヒキガエル」のこと。岩の形状がヒキガエルに似ていることからつけられたらしい。
岩の下からは多数の経筒や銅鐸、土器片などが発見されており、上古より連綿と祭祀が執り行われていた信仰の場であったことがわかっている。
『日本書紀』神武天皇即位前紀、戊午年六月条に、

  軍は名草邑(なぐさのむら。和歌山市西南、名草山付近。のち紀伊国名草郡)に至り、
  そこで名草戸畔(なぐさとべ。名草の首長)という者を討伐した〔戸畔は、ここではトベという〕。
  そこから狭野(新宮市佐野)を越え、熊野の神邑(みわのむら)に到り、また天磐盾(あまのいはたて)に登って、
  さらに軍を率いて次第に前進したが、海上にあってにわかに暴風に遭遇し、皇船は漂流した・・・

とある、「熊野の神邑」が新宮であり、「天磐盾」がゴトビキ岩のことであるとされている。
祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)と天照大神。
これは、『古事記』に、

  さて、神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと。神武天皇)はその地(*男之水門)から迂回されて進まれ、
  熊野の村に到着された時、大きな熊がほのかに見え隠れして、そのまま姿を消した。
  すると神倭伊波礼毘古命はたちまち正気を失い、また軍勢もみな正気を失って倒れ伏した。
  この時、熊野の高倉下〔これは人の名である〕が、一振りの大刀を持って、
  天神御子(あまつかみみこ。神倭伊波礼毘古命は霊剣を受けて以降、この呼称となる)の伏せる所にやってきてたてまつったところ、
  天神御子はたちまち正気に戻って、
  「長くも寝てしまったものだ」
  と仰せになった。
  そしてその大刀を受け取られた時に、その熊野の山の荒ぶる神はひとりでにみな切り倒された。
  そうして、その混乱して倒れていた軍勢も、ことごとく正気に戻って起き上がった。
  そこで、天神御子はその大刀を得た事情を問うたところ、高倉下が答えて申し上げるには、
  「わたしが夢に見たことには、
  天照大神・高木神の二柱の神の御命令で、建御雷神をお召しになって詔されるには、
  『葦原中国は、ひどく騒がしいようである。わが御子たちは悩んでおられるとのことだ。
  その葦原中国は、専らおまえが言(こと)向けた国である。よって、おまえ建御雷神が降るように」
  と仰せになりました。すると(建御雷神が)お答えして申し上げるには、
  『わたしが降らずとも、専らこの国を平定した大刀があります。この刀を降しましょう
  〔この大刀の名は佐士布都(さじふつ)神という。またの名は甕布都(みかふつ)神という。
  またの名は、布都御魂(ふつのみたま)。この刀は、石上神宮に鎮座する〕。
  この刀を降す方法は、高倉下の倉の頂を穿って、そこから落とし入れましょう。
  であるから、あさめよく(*意味不詳)、おまえ(高倉下)が取り持って天神御子にたてまつれ』
  と申し上げた、という夢を見ました。
  そこで夢の教えの通り、早朝に自分の倉を見たところ、本当にその大刀がありました。そこでこの大刀をたてまつるのです」
  と申し上げた。

とあるのに基づく。
この「熊野村」は漠然としているが、
この後神武天皇の軍は八咫烏の導きによって「吉野河の河尻」、つまり吉野川と紀ノ川との境、現在の奈良県五條市に出てくるので、
おそらく新宮から十津川を経由して大和と紀伊との境へと出てくる、現在の国道168号線にあたるルートを想定していたことになり、
『古事記』における「熊野村」とは新宮のこととなる。
『日本書紀』では、天皇は「熊野神邑」の「天磐盾」からさらに東に進み、
海上で嵐に遭遇、漂流して荒坂津にたどり着き、そこから内陸へ向かったと記されており、
上陸地・進攻ルートが異なっている。
「タカクラジ」とは、直訳すると「高い倉下(の空間)」という意味で、床が非常に高い高床式倉庫を指す普通名詞。
『古事記』は、これが普通名詞ではなく人名である事を示すために「此者人名(これは人の名である)」という割注を加えている。
『日本書紀』のように「人有り、号(なづ)けて熊野の高倉下といふ」などとすれば割注は不要となるが、
これは稗田阿礼の読誦を尊重してそのまま筆記し、それに補足を加えたのだろう。
これを「高い倉の主」という意味であるとする説があるが、ならば「高倉主」と書いて「タカクラジ」と読ませればよく、
一見「ジ」に「下」が当たる変な事になっているのは、それは「倉の下」のことを「クラジ」と言っていたからであり、
『日本書紀』には、「倉下、ここには衢羅餌(クラジ)という」という注があって、漢語とそれに対応する日本語がはっきり書かれている。
だいたい、もし「主」という意味であるのなら、それに「下」という字を当てるのは失礼極まりないし、
「ヌシ」であれば人であることが明らかなので、わざわざ「これは人の名である」という注を入れる必要はない。

伝承では饒速日命の御子で、尾張氏の祖・天香語山命と同一とされる。
初代の熊野国造・大阿斗足尼も彼の子孫とされている。
饒速日命の御子・高倉下が天皇に霊剣をたてまつり、その剣がのちに饒速日命の子孫の物部氏に下されて石上神宮に祀られる、という図式は、
物部氏の皇室との深い関わりを示す伝承であり、布都御魂剣はそれを保証する神宝として存在している。
ただし、記紀においては高倉下が饒速日命の御子とする記述はなく、
物部氏に連なる人物が平安中期に書いたとみられる『先代旧事本紀』においてみられる伝承。

熊野権現が最初に降臨したところとして、熊野信仰の高まりとともに熊野根本権現、あるいは速玉大社奥の院として大きな崇敬を集め、
中世は神倉の社僧や諸寺院によって管理され、戦国時代の荒廃の後、江戸時代になると紀州藩が手厚い保護を加えた。
明治三年の台風で境内の建物が多く倒壊して荒廃し、明治末期の神社合祀政策にともない一時速玉大社に合祀されていたが、
昭和になって再び社殿が建てられ、祀られるようになった。
現在は熊野速玉大社の境外摂社となっており、祭礼時は速玉大社から神職が参向して祭典に奉仕する。

神倉山はほぼ断崖絶壁の山となっており、
ゴトビキ岩の拝殿までは、源頼朝寄進と伝えられる538段の急勾配の石段を登ることになる。
二月六日に行われる「御燈祭」が有名で、選ばれた男児たちが精進潔斎して祭典に臨み、
彼等は一堂に会して山に登り、途中で松明に火をつけて神前に参上し、それから一斉に石段を駆け下って自らの家に駆け込むという勇壮な火祭り。
もとは旧暦正月六日に行われており、一年の始めに新年の「新しい火」を神前から各家庭に分け与える儀礼だったとみられている。
また、神職は神倉神社・阿須賀神社・速玉大社と、熊野権現の遷座ルートをたどりながら奉幣行事を行ってゆく。
密教系は火を結界や浄化の手段として用いるため、多分に修験道系の要素が混じっているとは思われるが、
熊野速玉神の遷座ルートをたどる行事があることから、そのおおもとは神の遷座あるいは遷御に関わる行事だったのではないかとも考えられる。

神倉山。新宮から那智へ向かうバスの車内から建物の隙間を縫って一瞬の撮影。

JR紀勢本線・新宮駅。
JR西日本とJR東海の境界の駅であり、駅はJR西日本管轄。

初めて参詣した時の、夜の新宮駅前と昼の新宮駅(踏切上から)。
昼の写真、この時は晴れていたが、朝からの断続的な豪雨によってダイヤは乱れまくっていつ来るかわからなかったので、
バスで那智勝浦駅へと向かった。
バスの中から南海。
蒸し暑かった。

熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)。

和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字那智山
那智勝浦の港町から北に入った那智山中、那智大瀧を北に望む高台に鎮座する。
470段余の石段をのぼるのは一苦労。

那智大社の社伝によると、
神武天皇が那智の「にしき浦(*)」に上陸した時、那智の山が光り輝くのを御覧になって大瀧を発見され、
それを神として祭られたのちに八咫烏の導きによって大和へと向かわれたといい、
のち、仁徳天皇五年に現在の社地に社殿を建て、
大瀧は「別宮飛瀧大神」とし、社殿には熊野夫須美大神をはじめとする十二社を祀ったと伝えられる。
このように熊野三所権現として本宮・新宮と三位一体を形成する神社だが、
十世紀初頭に編まれた『延喜式』の神名式には、本宮・新宮は官社として登録されているものの那智は登録されておらず、
国史にも、官社ではない神社にも授けられることのある神階の授与記事はみられない。
これは、那智が「神社」とみなされていなかったためであり、おそらくは修験道的要素の強い施設だったのだろう。
また、「熊野三山」としての信仰もまだであったと考えられ、
十一世紀後半の史料に初めて「三所権現」の呼び方がみえることから、
この頃までに三山一体の信仰が確立したと思われる。
おそらく、正暦二年(991)の花山法皇の那智山行幸と千日行が契機となったのだろう。
古くから那智大瀧を神体として祀る場があり、その聖地に修験道の行者が入って修行を行ううちに施設が整えられていき、
最終的に皇室による信仰が決定的な役割を果たして本宮・新宮と並ぶ信仰を獲得するようになって「熊野三山」と称し、
共通の祭神を祀るようになったと思われる。
ただ、那智には神主や禰宜は存在せず、長く社僧のみで維持されていた。

(*)・・・『日本書紀』神武天皇即位前紀には、天皇が熊野の神邑で天磐盾に登り、軍がさらに進んで熊野の海中で嵐に遭った後、
      熊野の荒坂津(あらさかのつ)に至る〔またの名は丹敷(にしき)浦〕。因りて丹敷戸畔(にしきとべ)なる者を誅つ。
    とあり、伝承での浦名はおそらくこれに基づく。
    本居宣長はこれを現在の三重県度会郡大紀町錦に比定している。また三重県南牟婁郡荒坂村二木島に当てる説もある)

熊野夫須美大神を主祭神とし、
拝殿後方には、向かって右から、
第一殿:瀧宮(那智大瀧の神、大己貴神)
第二殿:証誠殿(家都御子神)
第三殿:中御前(速玉神)
第四殿:西御前(夫須美神)
第五殿:若宮(天照大神)
の、上四社に瀧宮を加えた五社殿が南向きに並び、そこで山に突き当たってしまうために左に折れ、東向きで、
第六殿:八社殿(中四社・下四社の神々)
があり、那智においては「十三社権現」と呼ばれていた。
また、八社殿の隣には、武角身命および稲荷大神を祀る御縣彦社が鎮座している。
武角身命は、いわゆる八咫烏のこと。
『一遍上人絵伝』にも同じような配置で描かれており、鎌倉時代からこの形であったらしい。
神域には如意輪堂をはじめとする多くの堂塔があったが、
江戸後期の紀州藩や明治初年の明治政府による神仏分離により、如意輪堂をのぞくすべての仏教施設は破却され、
仏像や仏具は主に補陀落山寺に移された。
如意輪堂が残されたのはひとえに西国三十三ヶ所のスタート、一番札所であったからで、
信者たちの熱意によって破却だけは免れ、寺院としてはしばらく廃寺となっていたが、
明治七年に青岸渡寺として復興し、現在はかつての規模ほどではないが、堂塔を備えた寺院となっている。

那智といえば瀧。
瀧があってこそ、この地は霊場となった。
「那智の瀧」は、もともと那智山中で修行に用いられていた四十八瀧のことをさしていたが、
現在は「一の瀧」を一般に「那智の瀧」といい、特に「那智大瀧」と呼ぶ。
落差は133mで、これ自体は日本12位ではあるが、直瀑(一段の瀧)としては日本最大であり、
白い瀑布と後光のように広がる岩壁、そして周囲の原生林が生み出す景観の荘厳・霊妙さは観る者の言葉を失わせる。
実際に目の前で見れば、この瀧に千手観音が示現したというのも、なるほど実際そう見えたに違いないと納得できるだろう。

那智は千手観音の補陀落浄土とみなされた一方、
この地から南海のはるかかなたにあるとされた観音菩薩の居所、真の南海補陀落浄土へ小船で船出する「補陀落渡海」が多く行われた。
那智勝浦の浜近くにある補陀落山寺がそのメッカとなり、全国で記録に残されている40件のうち、25件までがここから出航している。
四方に鳥居のついた小船に一か月分の食料とともに渡海者を入れ、その上から屋形を被せると釘打ちして密閉し、
北風の吹く十一月、渡海船を伴船で沖合まで曳き、綱を切って南方へと放つ。
那智勝浦からの補陀落渡海は、当初は発願者が行っていたが、次第に補陀落山寺住職が行う慣例となっていった。
室町末期の永禄八年(1565)、金光坊という僧が補陀落渡海に出たが、死の恐怖に耐えられず途中で脱出して付近の島に上陸するという事件があった。
金光坊は役人に捕らえられて海に沈められたとも、島人に捕らえられて再び海上に押し出されたともいう。
この無惨な事件以後、江戸時代には入寂した補陀落山寺住職を補陀落渡海形式で水葬する、という形に改められた。
補陀落渡海、また即身仏、火定など、中世には現代からすると自殺行為としか思えない行が多く行われた。
「唯心の浄土、己身の弥陀」という言葉があるように、そのような行をせずとも心身を修養すればそれでよいのではないかと思われるが、
それでは到底救済が実現されない、命をかけた荒行に訴えるしかない、というのが中世のシビアな現実世界であり、
そこから醸成された中世の精神世界なのだろう。
その混沌、そして豊かさは今もなお解明され尽くしていない。

JR紀勢線・紀伊勝浦駅前。
名古屋、大阪それぞれから等距離にある駅で、
JR西日本管轄ではあるが、名古屋発の特急「南紀」の一部も
この駅に入ってくる。
港町で、駅から少し南に歩けばすぐに海。
海辺らしく、太陽がぎらぎらと照りつけてくる。
山のほうは雲で覆われていた。

駅前のバスステーションで切符を買ってバスの来るのを待ち、ゴー。
この時は晴れていたが、山を登るにつれて天気が悪くなり、
那智大滝に着いたときには豪雨だった。

勝浦漁港。
駅からすぐ南が港なので、
こちら方面に行けば新鮮な海の幸を味わうことができる。
マグロとか。
これは那智山から下りてきたのちの天気。
駐車場より。
那智大瀧が見える。昨日よりの雨のため水量が多い。
時間に余裕のある人は、
もう一つ手前の「大門坂」でバスを下りて、
少しだけではあるが熊野古道を上り、
巡礼気分を味わうことができる。
かつてその場所には楼門(二王門)があり、
表には金剛力士、裏には随身が安置されていて、
額には二行で「日本第一大霊験所 熊野三所大権現」とあった。
先に那智大社を。

大瀧のところからまたちょっと上がっていくと、旅館やお土産物屋が並んでいるが、その中、右手に石段がある。
これが熊野那智大社および那智山青岸渡寺への参道。
上っていくが、472段の石段は伊達ではなく、雨天ということもあって非常に疲れる。
周囲では、ここと金比羅さん(香川県・金刀比羅宮)の石段とどっちがキツいかと言う話がたびたび聞かれた。
途中には、息を切らして休憩中のおばさんとかもいた。
休憩用にと、道中何箇所にラムネ売り場があった。
ひたすら上る
ついたー
ラストの石段。

熊野那智大社拝殿。この向こうに社殿が建ち並んでいる。
拝殿前にはお清めの護摩木を焚く香炉がある。

『中右記』では、

1.証誠殿に奉幣、拝礼。奉幣は礼殿にて行う
2.両所御前に奉幣、拝礼
3.若宮王子ならびに諸眷族御前に奉幣、拝礼。一社あたり幣帛三。
4.礼殿にて経供養
5.御明・誦経
6.しばらく礼拝
7.小念誦

と参拝している。
この頃は、本宮・新宮・那智とも証誠殿を主祭神として一番に奉幣を行っていた。
那智大社の神木、那智の大樟。
熊野造営使の小松内大臣重盛のお手植えと伝えられている。
根元は空洞化していて、「胎内くぐり」を行うこともできる。

奥の門をくぐれば、青岸渡寺。



ほとんどの社殿は拝殿に隠れて見えないが、拝殿の向かって左には八社殿と御縣彦神社が鎮座しているのが見える。
奥に第六殿の八社殿が鎮座するが、玉垣で遮られているために直接の参拝はできない。
拝殿から他の五殿とあわせて参拝することになる。
拝殿にて祈願を上げるなど特別な機会があれば、拝殿より玉垣内に出て、直接六殿を拝礼させていただける。

手前に摂社・御縣彦神社。
八咫烏たる建角身命、稲荷大神を祀る。
こちらは直接参拝可能。
八咫烏は、この熊野から宇陀まで神武天皇を先導した。
奈良県宇陀市には、八咫烏を主祭神として祀る延喜式内社、八咫烏神社が鎮座している。

護摩の煙が立ち上る。 霧にけぶる那智の山々。

青岸渡寺。

那智山青岸渡寺。
天台宗、本尊は如意輪観世音菩薩で、西国三十三所の一番札所。
熊野詣で熊野権現を拝んだ人々は、今度はここから上方観音さん廻りをスタートさせていた。
西国三十三所は、もともとは長谷寺を一番札所としていたようだが、平安末期の熊野信仰の高まりに合わせ、那智山が一番と変更されたらしい。
江戸時代になると、坂東三十三ヶ所・秩父三十四ヶ所と合わせて「日本百観音」と呼ばれるようになったことで、
百観音コンプを目指した関東からの巡礼者が増え、「伊勢→熊野→西国三十三ヶ所→帰る」の巡礼コースが誕生した。
ちなみに二番は紀三井寺(和歌山市)、三番は粉河寺(紀の川市)で、そこから奈良や大阪や京都や滋賀や兵庫をぐるぐる廻り、
最後の三十三番札所は岐阜県揖斐郡揖斐川町の華厳寺という、東へと帰りやすい親切設定。
禁止されたコンプガチャと違って、歩きさえすれば確実にコンプできる。ありがたい。
旅費は要るけど。

ちなみに、熊野十二社権現の内で如意輪観音を本地とするのは、
中四社、五所王子の一で、第七殿(那智では第八殿)の児宮、彦火火出見尊。
皇孫・瓊瓊杵尊(第六殿、聖宮)の御子で、いわゆる「山幸彦」。神武天皇の祖父にあたる。
那智大瀧の上流にある「二の瀧」も、「如意輪の瀧」と呼ばれていた。

境内では、三重塔と那智大瀧のツーショットが抜群の撮影スポットとなっている。

那智大瀧。

那智大瀧は、熊野那智大社別宮。
古来「飛瀧権現」と称していたが、神仏分離により「飛瀧神社」と社号を改めている。
有名な「那智の火祭り」もここにおいて斎行される。
神社入り口。
しばらく 下る。
正面の広場が飛瀧大神の拝所。
瀧自体が神体であり、本殿はなく、拝殿もない。
この場所から直接瀧を振り仰いで拝む。
左手にお滝壺拝所入口があり、瀧壺近くまで参入できる。
参入には300円を納める。
参入してしばらく歩いていくと、お滝壺拝所へ。

『中右記』には、那智権現に参拝した翌朝、

1.瀧殿に参り、奉幣。御明を供え、心経一巻をたてまつることは王子に同じ。
2.次に千手堂に参る。瀧の傍らの堂。

とあり、かつては那智大瀧の前と傍に瀧殿・千手堂があって、那智権現への参拝後、那智大瀧の参拝が行われていた。
これを終えた後、再び証誠殿に参り、熊野より下向する由を申し上げて帰途に着いたとある。

那智大瀧。
那智四十八瀧の「一の瀧」。
古来「飛瀧権現(ひろうごんげん)」として、瀧そのものが神として信仰されていた。
那智四十八瀧は山岳修行者の修行場であり、彼等は神のもとで厳しい修行に明け暮れていた。
飛瀧大神こと、大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る。
大己貴命は大国主命のこと。
本地は千手観音菩薩とされていた。

落ち口の岩盤には三つの切れ目があり、瀧が三本になって落ちていることから、「三筋の瀧」ともいう。
落ち口の上には注連縄がかけられ、紙垂が下がっている。
かつては瀧の中ほどに出張った石があり、そこで水の激するさまは言いようもない見ものであったそうだが、
江戸時代、地震によって落ちてしまった。
ただ、それによって、絹を織り出すかのような美しい瀧となっている。
瀧の向かって右手は「那智原始林」として国の天然記念物に指定されている。
南方熊楠が粘菌採取を行ったのもここ。
熊楠によれば、明治時代にその原生林を濫伐したために岩石が落下し、
滝壺が三分の一ほど埋もれてしまっているとのこと。



この上流に「二の瀧」「三の瀧」があり、青岸渡寺境内から山を登っていくと見ることができるが、
那智山は熊野那智大社の神域であり、かつては修験者が修行していたところであるので、
みだりに立ち入ってはならない。
那智大社への事前連絡ならびに許可が必要。
その場合は、那智大社でお祓いを受け、那智勝浦町のガイドさん同行で行くことになる。
あるいは毎年春頃に行われる、那智勝浦町主催のウォークイベント「熊野古道神秘ウォーク」に参加すれば確実。
こちらのルートは、

  補陀落山寺~(この間バス)~熊野古道・大門坂~那智大社~青岸渡寺~二の瀧~三の瀧~一の瀧

これを一日で歩いて廻る。
総行程は5kmだが、山中の5kmは結構きつい。
さらにこの辺りは天候が不安定で、雨が降ったり下が濡れていたりは当たり前なので、しっかりした準備が必要。
敬虔な心も忘れずに。
初めて参拝した時は、前日からの雨で水量が物凄く、
滝の飛沫と雨がない交ぜになった水しぶきが霧となってどんどんこちらに吹きかかってきており、観る人は皆言葉を失っていて、
「・・・すごい」
という呟きの言葉くらいしか聞こえてこなかった。
生まれてこのかた、自然を見てこれほど戦慄したことはなかった。
峻厳。圧倒的。
某虎眼流師範のように、

わしなど米つぶじゃ
のみじゃ

と思った。
この飛沫を浴びれば延命長寿を授かるという。

瀧はものすごい勢いで流れ下っていく。
『大祓詞』にある、
「さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬」
とはこういう情景をいうのだろうか、と思った。

                          式乾門院御匣
  那智の山はるかに落つる瀧つ瀬にすすぐ心のちりも残らじ
                                 (続古今集、神祇歌、737)


熊野牛王宝印。

熊野牛王宝印・熊野本宮大社。
八十八の烏により描かれる。
熊野牛王宝印・熊野速玉大社。
四十八の烏によって描かれる。
熊野牛王宝印・熊野那智大社。
熊野牛王宝印(くまのごおうほういん)は、熊野三山で配布されている特殊な神札。
一般的には火難・盗難・病魔除けや乗り物酔いを防ぐための護符として使用されるが、
中世より起請文(誓約書)として使用されたことでも知られる。
裏に誓いの言葉を書くとそれは熊野権現に誓ったこととなり、これに違約すれば熊野の烏が一羽死に、
同時に約束を破った者も血を吐いて死に、地獄に落ちる、と信じられた。
誓紙を焼いてその灰を水に溶かして飲み、決して違約しないことを誓う儀式「一味神水」も、
熊野牛王宝印を用いることが多かった。
白を切る罪人を問い詰める際、
「無実と言い張るのならばこの熊野牛王宝印にその旨を書いて誓い、その灰を飲め!」
と言うと、たいていの罪人はあっさりゲロったという。

花の窟(はなのいわや)神社

三重県熊野市有馬町に鎮座。
熊野街道(国道42号線)沿い、
鬼ヶ城、獅子巌を過ぎて少し進むと「花の窟神社」交差点があるが、その右手の岩場がそう。
三重県鎮座だけど、旧紀伊国牟婁郡なのでこっちに。

『日本書紀』神代巻、第五段一書第五に、

 一書に曰く、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、火神(ひのかみ)を生みたまふ時に、灼(や)かれて神退去(かむさ)ります。
 故(かれ)、紀伊国の熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる。
 土俗(くにひと)、此の神の魂(みたま)を祭るには、
 花の時には亦(また)花を以ちて祭る。又、鼓(つづみ)・吹(ふえ)・幡旗(はた)を用(も)ちて、歌い舞ひて祭る。

とこの地方の習俗についての記事があり、
『日本書紀』編纂当時にはすでに伊弉冉尊の祭祀が長く行われていた。
その祭祀形態は海辺の崖に露出した巨大な岩を祀るという原初的なもので、その祭祀の歴史の古さをうかがうことができる。
古い伝統をもつ場所であるが、『延喜式』神名式には朝廷が祈年祭班幣を行う神社として記載されていない。
ここは「神の社」ではなく「神の墓所」と認識されていたためだろう。
現在にいたるまで社殿はなく、巨岩を神体として祀っている。

今日の例祭では、地上45mの巨岩の上から境内南端の松の木まで、
下部に種々の季節の花々や扇子等を結びつけた約10mの三旒の幡形を吊るした170mにも渡る縄を渡す、
「お縄掛け神事」が行われている。
旧暦では二月と九月の二日に行われていたが、新暦では一ヶ月ずらして行われている。
この形態は江戸時代には行われていて、『紀伊国名所図会』にはその模様が描かれており、この地を訪れた本居宣長も、

  紀の国や花の窟にひく縄のながき世絶えぬ里の神わざ
   (紀伊国、花の窟に引き渡されている縄の長さのように、永き世にわたって絶えることのない里の神祭りであることだ)

と詠んでいる。
旧暦二月は五穀豊穣祈願の「祈年祭」が行われる月であり(現在も二月)、
旧暦九月、伊勢の神宮では初穂を神にささげる「神嘗祭」が行われていた(現在は十月。一般の神社は11月に「新嘗祭」を行う)。
この祭祀も、伊弉冉尊の鎮魂とともに五穀豊穣を祈願し、その年の稔りを神に感謝する祭りであっただろうと考えられている。
伊弉冉尊は山川草木やあまたの神々を生み出した、いわば大地母神ともいえる神であり、
神話には「殺された食物神から様々な穀物ほかが生まれた」というものがあるように、
「死んだものから新たなものが生まれる」という「死と再生」の信仰がここにあって、
それがのちの熊野信仰につながっていったのかもしれない。
伝承によれば、伊弉冉尊はここから西方の産田(うぶた)神社の地にて神去られたのち、ここに葬られたという。
産田神社境内には、一定区画に石を敷き詰めて神祭りの聖域とした古代の祭祀施設「磐境(いわさか)」の跡があって、
花の窟とセットで古くから信仰されていたと推定されている。(磐境跡は熊野市指定文化財)
花の窟も別名を「産立ての窟」といい、
伊弉冉尊が葬られたところでありながら、山川草木や神々を生み出されたその生産の力も祈られた所だった。

平安時代の紀行文『いほぬし』にこの花の窟を訪れた時の描写があり、
それによると、花の窟は弥勒菩薩のための「埋経」の場となっており、
また、苔に埋もれた卒塔婆があったという。
埋経は、五十六億七千万年の後に弥勒菩薩が出現して世界を救済する時、
弥勒菩薩に見つけて用いてもらうために写経して埋めるものであり、
それによって、その時どのような状況であっても自らを救ってもらえることを期待して行われた。
卒塔婆があったということは墓所として機能していたということであり、
神仏習合のもとにあっても、死と再生の信仰が生きていたことがみられる。

国道42号線より。
ここからもう少し北の木本から七里御浜が始まる。
浜が見えれば新宮まではもう少し。

境内入口。 参道。
境内には稲荷社も。 神門。
くぐれば、ご神体である岩の前へと出る。
御神体の巨岩。
岩の上から御縄掛け神事で渡された縄がのびている。
岩の下が参拝所になっている。
花が捧げられているのは、
『日本書紀』に「花を以て祭る」と書かれており、
またこの地が伊弉冉尊の墓所であるからだろう。
背後には軻遇突智尊の拝所もある。
火神・軻遇突智は、
妻を失って怒りに燃える伊弉諾尊に斬り殺された。
そのため、ここにも社殿はなく、
墓所のような祀り方をしている。
熊野灘に臨む「七里御浜」。木本から新宮まで続く。
『紀伊国名所図会』には、

 右の方は並木の松原百数十町連なり、左は東南の蒼海渺渺として白浪磯に打ちよせ、向こうに新宮の岬を見る。
 沖を走る大舟釣おり、海士の小船などの風景言語に絶す。実に旅中第一の景地というべし。

と記される。
伊勢参宮を終え、さらに熊野詣に向かう人々は、この景勝を目にしつつ新宮(熊野速玉大社)を目指した。
この地を訪れた西行法師は、

 み熊野の御濱によする夕波は花の岩屋のこれぞ白木綿(しらゆふ)
   (熊野の御浜に寄せ来る夕波、これこそ花の窟に捧げられた、窟を飾る白木綿である)

と歌っている。
花の窟神社のやや北方にある、獅子岩。
海岸へ突き出している山の突端。
元は「阿の岩」といったが、
うずくまる獅子が海へ向かって咆哮するような姿であるため、
獅子岩と呼ぶようになった。


もう少し北方には「熊野の鬼ヶ城」がある。
inserted by FC2 system