にっぽんのじんじゃ・わかやま

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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*伊都郡(かつらぎ町、九度山町、高野町、橋本市)

丹生都比売神社 隅田八幡神社

*伊都郡(いとのこおり)

丹生都比売(にうつひめ)神社

伊都郡かつらぎ町上天野に鎮座。
紀の川から南に山をひとつ越えた、山間の開けた地に鎮座している。

『延喜式』神名式、紀伊国伊都郡二座の一、丹生都比女神社(にふつひめのかみのやしろ)。
特に霊験ある神として名神大社に指定され、
祈年祭に加え月次祭・新嘗祭においても朝廷よりの幣帛に預かっていた、重要な神社だった。
祭神は丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)。
丹(に)とは丹砂のことで、朱色の原料。塗料・染料・顔料、また薬にも用いられた。
さらに、それから精製される水銀のことも指す。
古来、丹を産出するところではこの神を祀っており、
丹生都比売神社はそれらの神社の総本宮となっている。
丹生都比売大神は、神社に伝わる祝詞によると、伊弉諾・伊弉冉二柱の姫神となっており、
天照大御神の妹(あるいは娘)とされる稚日女尊と同一視されている。

創祀は不明。
『日本書紀』神功皇后紀に「天野祝(あまののはふり)」の名が見え、この神社の神官のことと考えられている。
『丹生祝氏本系帳』には、神官家である丹生氏の崇神天皇治世からの祭祀について記しており、
また応神天皇治世、
「東限・丹生川上、南限・阿帝川の南横峰、西限・応神山及び星川神勾、北限・吉野川」
を四囲とする神領を天皇より寄進されたとしている。
丹生氏は紀伊国造家である紀氏と同族。

『釈日本紀』(『日本書紀』の注釈書)が引く播磨国風土記逸文には、
神功皇后の新羅出征において爾保都比売命(にほつひめのみこと)が播磨国造の口を借りて、
「私を祭るならば、私は赤土を出だし、丹波(になみ)をもって新羅を言向けるであろう」
と神託し、その赤土を武器や船や兵士たちに塗って出征したところ、船や軍勢を遮るものはなく、
帰還した皇后は爾保都比売命を紀伊国管川藤代之峰に鎮め祀った、とある。
紀伊国管川藤代之峰は高野山の東方で、丹生神社が鎮座している。この時期、ここから丹が発見され、新たに祀られたものだろうか。
この地方には丹生都比売を祀る神社が非常に多い。
この話が播磨国風土記に収録されていることから、この神の信仰が広範囲にわたっていたことがわかる。
なお、この風土記逸文は現存の『播磨国風土記』にはみえないため、
同書にて欠失している冒頭の明石郡条の一部とみられており、おそらくは「明石(あかし)」の地名起源伝承ではないかと考えられている。

平安初期、真言宗の根本道場の地を求めてこの地を訪れた弘法大師・空海の前に、
黒と白の犬を連れた狩人が現れ、弘法大師を導いた。
この神は狩場明神こと丹生都比売大神の御子神・高野御子大神であり、
弘法大師は天野の地で丹生明神に会ってその神領である高野山を借り受け、
まず山上に明神の社を建て、そのうえで高野山金剛峯寺をひらいたという伝承が『金剛峯寺建立修行縁起』などに記されている。
寺院を建てるにあたってその地の神を鎮守神として祀ることは多く行われており、現在でも寺院内に鎮守社を持っているところは多い。
高野山は丹生都比売大神・高野御子大神を尊崇し、創建時より丹生都比売神社と密接な関係を結んでいた。
高野山に詣でる人はまずここで参拝したあと登山し、金剛峯寺の僧もこの社の祭典に参加して神前読経を行っていた。
かつては神社の周囲に堂塔が立ち並んでいたが、明治の神仏分離により廃された。
しかし現在でも金剛峯寺の僧が参拝を行っており、その結びつきの強さは変わっていない。

これが最短だろう、と県道109号線で急な山を越えていったが、
国道409号線(西高野街道)から回っていったほうが楽のようだ。

険しい山中、というイメージだったけど、山あいの開けたのどかなところに鎮座している。
向こうは高野山。
鳥居前。
丹の神様なので、もちろん境内の諸施設は美しく朱塗りされている。
正面に輪橋。
輪橋を過ぎると、正面に壮麗な楼門。
楼門と、その向こうに並ぶ本殿四座は室町時代の建築で、国指定重要文化財。
楼門に張られている左三つ巴紋の幕は、金剛峯寺からの奉納品。
本殿四座は、向かって右から

第一殿 丹生都比売大神
第二殿 高野御子大神
第三殿 大食都比売大神
第四殿 市杵島比売大神

をまつる。
第三殿・第四殿の祭神は鎌倉時代に行勝上人が気比神宮および厳島神社から勧請し、
このとき北条政子が社殿を寄進したと伝わる。
第四殿のさらに左に若宮が鎮座し、行勝上人を祀っている。
楼門左手に佐波神社の小祠が鎮座する。
佐波神社は、政府による明治末の神社合祀政策を受け、
上天野地区の諸社を合祀した神社。
和歌山県は神社合祀が厳格に行われた県のひとつであり、
そのために県内の神社数は激減した。
楼門と周囲の木々。 木々も色づいてます。
輪橋遠景。きれいなアーチ。
池にも映えて、非常に美しい光景。
駐車場から見た社叢。

ちなみに「天野祝」が出てくるエピソードは、『日本書紀』神功皇后摂政元年二月条にみえる。

新羅から帰還する神功皇后は筑紫で皇子・誉田別尊(応神天皇)を生んだが、
それを聞いた大和の地の異母兄、麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)は皇子を亡き者にしようと叛旗を翻した。
二人は摂津に進出すると叛乱の行く末を占う祈狩(うけひがり)を行ったが、麛坂王は赤い猪に食い殺されてしまい、
恐れた忍熊王は後退して住吉に駐屯した。
それを聞いた神功皇后は軍を二手に分け、重臣の武内宿禰と皇子は南海を回って紀伊水門(和歌山港)に向かわせ、
自らは瀬戸内海を真っ直ぐに進み難波を目指した。この途上、広田・生田・長田の三神社が創祀される。
忍熊王はさらに宇治へ退却したので、皇后は紀伊に向かい、日高(紀伊国日高郡)で皇子らと再会した。
そして忍熊王を討つべく北上し小竹宮(しののみや)に遷った時、昼が夜のような暗さになり、それが何日も続いたので、人々は
「常夜(とこよ)行くなり」
と言った。
皇后は紀直(きのあたい。紀伊国造家)の祖・豊耳(とよみみ)にこの現象はどういうことかと問うたが、そのとき一人の老翁が答えて、
「伝え聞くところによれば、このような怪は阿豆那比(あづなひ)の罪というそうです」
皇后がどういう意味なのか訊くと、老翁は答えて、
「二社の祝(はふり)を一所に合葬されたのではないでしょうか」
そこで村人に尋ねさせると、
「小竹の祝と天野の祝は仲のよい友人でしたが、小竹の祝は病で死んでしまいました。
天野の祝は激しく泣いて、『私は生きているときにはよい友人であった。どうして死んでからも墓穴を同じくしないことがあろうか』
と言い、遺体のそばに伏して自殺いたしましたので、合葬いたしました。おそらくはこのことでしょう」
とのことだったので、早速墓を開くとそのとおりであった。
そのため棺を改めてそれぞれ別所に葬ったところ、日の光が照り輝き、昼と夜とのけじめがついた。

という、『古事記』にはない奇怪な挿話。
「阿豆那比(あづなひ)の罪」とはいったい何なのか、語義不詳のためにわかってはいない。
一般には男色の罪といわれるが、老翁は男色ではなく「二社の祝を一所に合葬した」ことが原因と答えているので、
それには当てはまらないだろう。いわゆる「国つ罪」にも、母子相姦や獣姦は挙げられているが男色はみられない。
また日食の記事とも言われるが、闇が数日続いたことからそれも有力ではない。
この話が正史のこの部分にあるということは、もともとの伝承にあったのか、何かの理由があってこの箇所に挿入したのか。
地上が闇に包まれることは「天の岩屋戸神話」と同じであり、それは素戔嗚尊が「天つ罪」を犯したためだった。
「天つ罪」は農耕妨害罪で、農耕を主とする共同体生活を脅かすものとして最も重い罪だった。
それと同じく、「異なる社の祝を一所に合葬する」ということも共同体生活に対する重大なタブーとされていたのか。
また、天の岩屋戸事件を決定的に引き起こしたのは、素戔嗚尊が天斑馬の皮を剥いで機織殿に投げ込み、
稚日女尊がそれに驚いて死んでしまったことだった。
稚日女尊が丹生都比売と同一とすると、これは天野祝の奉斎する神であり、
その祝の自殺と合葬によって日が隠れる事件が引き起こされた、となると、
両者の伝承の間には何か共通するものがあるのだろうか。

古語で「罰する」ことを「つみなふ(罪・なふ)」というように、「なふ」は名詞を動詞化する接尾語であるので、
「あづなひ」は、「あつ」という名詞が動詞化された「あづなふ」が、
「あつ」がもともと名詞であったことが忘れられたのち、「あづなふ」が名詞化されて「あづなひ」となったものだろうか。
「あつ」は、動詞では「当てる、ぶつける」のほかに「ある状態に直面させる」という意味があり、
その場合は多くの用例で「罪に陥れる」というニュアンスを含んでいる。
あるいはそれらの意味に関わる言葉だろうか。
『日本書紀』にはその言葉への注も何もないので、当時すでにその言葉の意味が解らなくなっていたか、
あるいは当時の人にとっては注釈するまでもない常識的な言葉だったか、のどちらかだろう。


隅田(すだ)八幡神社。

橋本市隅田町垂井に鎮座。
神社後背の丸高山の麓を橋本道路が走っており、
神社のすぐ東に橋本東ICがある。

「隅田」は現在「すだ」と読むが、『万葉集』 (巻第三、雑歌、298)には、

   弁基の歌一首
 亦打山 暮越行而 廬前乃 角太河原爾 独加毛将宿
   (真土山〔まつちやま〕 夕越え行きて 廬前〔いほさき〕の角太河原に 独りかも寝む)
     〔右は、あるいは、弁基とは春日蔵首老(かすがのくらびと・おゆ)の法師名であるという〕
         (*真土山・・・大和国と紀伊国の境の山。待乳峠)
         (*廬前・・・真土山の西麓の地をさすとみられる)
         (*弁基、春日蔵首老・・・『続日本紀』大宝元年〔701〕三月十九日条に、
         「僧の弁紀を還俗させて、春日倉首という姓と老という名を与え、追大壱の位を授けた」という記事がある)

のように「角太」と表記されていることから、元は「すみだ」という名だった。
中世になると「須田」という表記がみえ、この頃には「すだ」となっていたようだ。
紀伊国と大和国の国境にあたり、国境にあたる真土山は、古来多くの歌に詠まれている。

主祭神は、
誉田別尊(ほむだわけのみこと、第十五代応神天皇)
足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと、第十四代仲哀天皇。応神天皇の父君)
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと。仲哀天皇皇后、神功皇后。応神天皇の母君)
の三柱で、
政府の神社合祀政策によって明治四十三年に丹生都比売命・瀬織津比女命を合祀している。

伝承によれば、神功皇后が新羅遠征より帰還された時、
筑前より紀伊の衣奈浦(日高郡由良町)を経て大和へ帰られる途中にこの地に滞留されたと伝えられ、
その縁を以て貞観元年(859)、この地に八幡宮が勧請されたのを創祀とする。
寛和二年(986)に摂政藤原兼家が石清水八幡宮の三昧堂の料所として紀伊国伊都郡隅田村を寄進して隅田庄が成立、
石清水八幡宮の社領となると、その後は国役を免ぜられた国免庄となり
延久元年(1069)の荘園整理令において石清水八幡宮の荘園として認められた。
石清水八幡宮が男山に建てられたのは貞観二年(860)であり、それ以前にこの地に八幡宮が勧請されたとは考えにくいので、
実際の八幡宮の勧請は隅田庄成立後になるだろう。
以後は「隅田別宮」として石清水八幡宮の社領のひとつとなり、
古くは那賀郡郡司を務めていた古豪の長氏(のち藤原氏、隅田氏)が八幡宮の俗別当兼隅田庄の公文(庄官)となって神社と隅田庄を経営した。
隅田荘は、当初は免田二十町というわりと小さな荘園だったが(一町は約1ha)、
平安後期の十二世紀前半より続いた大伝法院領相賀荘との堺相論を通じて一円領域的な荘園へと発展し、
中世には百三十余町という広大な社領を有した。
隅田氏は中世には地頭職も兼ねて聖俗両面から隅田の地を治め、
また、惣領家から分かれた分家は八幡宮の宮座を通じて有力農民を一族に取り込み「隅田党」という武士団を構成した。
鎌倉幕府が滅亡した元弘の変において、隅田惣領家は折悪しく六波羅の検断および軍奉行を行っていたために北条氏とともに滅ぼされ、
その後の一族は南北朝の動乱において不安定な時期が続いたが、
このころ、隅田氏は隅田庄を押領して石清水八幡宮の支配から脱し、地方の小領主的な立場になると、
後醍醐天皇の綸旨により紀ノ川以南の南隅田荘が高野山領になった縁もあり、高野山領官省符荘の政所一族と連携して行動するようになった。
惣領家を失った一族はそのうち同盟的機構を形成するようになったが、それは集団としての一貫した行動を欠くことになり、
室町時代にはうっかり南朝に味方して大敗したり幕府内の抗争に巻き込まれたりしたが、
その中でも紀伊国守護に忠勤を励んだりして力を蓄え、
名草郡(現在の和歌山市)にも進出したり、氏寺の利生護国寺(現在の護国寺)で三百名参加の能を催したりしていた。

戦国時代には当時の紀伊国守護・畠山氏に与するものの、畠山氏が内部抗争に明け暮れたことで隅田党も分裂し、
そのうち四国からは三好三人衆がやってきて、
永禄三年(1560)二月には隅田氏の本拠ともいえる岩倉城(神社の後背の丸高山にあった)が松永久秀の攻撃を受け、
そのあおりを受けて社殿は焼失した。
畠山氏の没落の後、隅田氏は織田信長に仕えて高野山攻めにも参戦したが、
豊臣秀吉の紀州攻めの後に行われた太閤検地によって隅田荘が消滅したことで、活動の基盤を失うことになった。
戦乱の収まったのち、豊臣氏の世である慶長年間に社殿の再建が成ったが、一族はもはや武士団を維持することはできず、
江戸時代において一族のほとんどは帰農し、一部の者は紀伊徳川藩に仕えた。
八幡宮は旧隅田荘十六か村の産土神として多数の氏子に支えられて繁栄し、紀州徳川藩も累代篤く崇敬。
江戸時代の文政二年(1819)に社殿焼失するも、三年後の文政五年に再建されて現在に至っている。
戦前の旧社格は県社であり、今なお県内有数の神社。
秋祭りにおいては、大人約百人で担ぐ県下最大級の屋台(担ぎだんじり)による御旅所への渡御が行われており、
厳粛な行列と勇壮な屋台を見物する多くの人々で賑わう。
この祭礼は「秋まつり」として、県無形民俗文化財に指定されている。

神社の社宝として「人物画象鏡」が伝えられており、国宝に指定されている。
日本史の教科書や資料集にはだいたい載っている、有名な鏡。
鏡の背面の内区には人物や騎馬像をあらわした画像文が描かれ、
外区には、鏡鋳造の由来を記した四十八文字からなる銘文が鋳出されている。
冒頭に「癸未年」という干支が記されており、これは西暦383年、443年、503年にあたる。
この鏡は、外国から輸入された舶載鏡(はくさいきょう)を手本として造られた国内産の鏡「仿製鏡」(ほうせいきょう。仿は「倣う」の意)とみられており、
原型とみられる大阪府八尾市の郡川古墳等より出土の舶載鏡とは図像の構図が逆転し逆回りになっていることから、
原型の鏡をそのまま鋳型にとって鋳造したものと考えられている。
原型の鏡が出土している古墳は5世紀後半から6世紀初頭にかけてのものと考えられているので、
「癸未年」は西暦443年もしくは503年であろうとされている。
銘文は、
 
  癸未年八月日十大王男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此鏡

というものだが、漢字の比定には異説もあり、その解釈も一定をみていない。
当時のものとされる遺物は現在まで多く見つかっているが、その中に漢字を記したものはごくまれであり、
当時は大和朝廷、あるいはその強い影響下にあった人物のみが漢字を用いていたと考えられている。
そのような鏡がなぜ当社に伝わっているのかはまったく不明。
記録によれば、江戸時代中期にはすでに重宝として伝わっており、「神功皇后の御鏡」であると言い伝えられていた。

また平成9年、本殿の裏の神功皇后遺物塚として伝えられてきた場所から「経塚」が発見され、
経筒・外容器・長寛二年(1164)書写の経典・銅鏡・短刀・合子・小壺・銭貨等が出土し、
いずれも平安後期の様式であり、経塚も平安末期に造られたものと推定され、
出土品は平成17年5月31日に県の有形文化財に指定されている。

境内入口、随神門前。
随神門前から伸びる並木の参道。
『紀伊名所図会』によれば、往古は参道の先、
大和と紀伊をつなぐ大和街道(現在の国道24号)に面して
随神門があったが、
現在は随神門は境内入口に移され、
並木の始まるところに石鳥居が立っている。
随神門天井には龍の図が描かれている。
随神門から石段を登ると、客殿の中央の吹き抜けを通って本殿前へと出てくる。
客殿は、もとは割拝殿だったのだろうか。
隅田八幡神社拝殿、東西神楽殿および本殿。
『紀伊名所図会』には拝殿は描かれていないので、近代に入って付加されたのか。
拝殿といっても小さく、一般参拝者が拝礼するくらいのスペースで、どちらかというと神門といったほうがしっくりくる。
祈願がある場合は、祈願者は神楽殿に候することになるのだろうか。
国宝記念碑。
人物画象鏡を象っている。

後方の藤棚の下は「放生池」となっている。
神社の西北に隣接する、高尾山大高能寺。高野山真言宗。
かつては隅田八幡宮の別当寺であった寺。
本尊は、八幡神の本地仏であった阿弥陀如来。
隅田八幡宮は当寺を別当とし、その下に六坊家と呼ばれる供僧六人が置かれていた。
『紀伊名所図会』には「アミダ堂」とあり、
また、神社を出て東から北に向かう道筋周辺に、首坊・中坊・杉坊・辻坊・小坊・角坊(あってるかな)の六坊の名がみえる。
小坊と角坊の間には薬師堂があったが、薬師堂や僧坊は明治の神仏分離の時に廃止された。

社と寺の間には壁も何もなく、自由に往来ができる。
左端の建物は社務所で、社務所の裏には「阿伽井(あかい。閼伽井)」がある。
本殿の後方には末社そのほかが並ぶ。
奥の大きな倉は神輿庫で、その手前には八坂神社が鎮座する。
その手前、門と塀が廻らされているところが、神功皇后遺物塚と伝えられていた経塚。本殿の真裏にあたる。
その手前に一言主神社、その手前の朱色の祠が大将軍神社・山王神社・天満神社の合殿。

神功皇后遺物塚の上には元中二年(1385)銘の宝篋印塔が立っており、
八幡神社の正遷宮にともなう境内整備の際、塚の周囲の土塀を修繕していたところ、
宝篋印塔の下から破損した経筒が発見された。
急遽調査が行われた結果、三つの経塚が発見され、
その中に常滑焼甕(平安末期の様式)を外容器として、青銅製経筒や海獣葡萄鏡、中国製青白磁小壺などを収めたものがあった。
経筒には八巻の法華経が残されており、それらはコウゾ紙による紙本経で、
その第一巻の巻末には「長寛二年(1164)九月六日書写」とあり、
また、「為女藤井氏現世安穏後生菩提也所生愛子安穏太平」とも記されていることから、
平安時代末期、藤井氏が娘や子孫の安穏を願って納めたものと推定されている。
また、海獣葡萄鏡は八世紀ごろのものとみられており、経塚から鏡が出土することはきわめて稀。
この経塚は鎌倉時代や南北朝時代に改修や拡張が行われたことも確認されており、
経塚の基本資料として貴重なものとなっている。
三社合殿に続いて、
向かって左から若宮、厳島神社、松尾宮が鎮座。
松尾宮に続き、
境内の東側に西を向いて
住吉神社、春日神社、諏訪神社、
そして若一王神社・八王子神社合殿が鎮座。
客殿の東に鎮座する、恵比須神社。
脇には恵比須神社専用の授与所がある。
毎年正月九日~十日には「すだえびす」という、
いわゆる十日戎の祭礼がある。


境外末社として、
神社後背の丸高山に鎮座する丸高稲荷神社・琴平神社、
神社前からやや東に行ったところに猿田彦神社が
鎮座している。





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