にっぽんのじんじゃ・ひろしまけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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安芸国:

佐伯郡(大竹市、廿日市市、広島市佐伯区、広島市西区の一部、江田島市の一部)

厳島神社
(別ページ)
速谷神社 地御前神社
(厳島神社外宮)

速谷(はやたに)神社。

広島県廿日市市上平良(かみへら)に鎮座。
国道2号線西広島バイパスが下に下りた上平良交差点を北に折れ、
可愛川沿いの国道433号線を山側へ上ってゆくと、鳥居が見えてくる。

『延喜式』神名式、安芸国佐伯郡二座の一。
名神大社で、祈年祭のほか、月次・新嘗祭にて朝廷の班幣(幣帛を分かつこと)に預かっていた。
安芸国二宮。

もともと祈年祭においては、全国の神社のうち、
朝廷から幣帛が出る、つまり国が祭る神社「官社」として登録された神社(神名式はそのリスト)の祝(はふり。神官のこと)が上京し、
神祇官で大量の幣帛を受け取って帰り、それぞれの神社に奉っていた。
しかし辺地の神社は上京に多大な困難が伴い、幣帛の輸送もままならないので、
延暦十七年(798)九月七日、京の神祇官にて幣帛を分かつ神社が定められ、
それ以外の神社はそれぞれの国の国司から幣帛を受け取ることとなった。
これによって畿内以外のほとんどの神社は国司から幣帛を受け取る、合理的な方式になった。
神祇官からの幣帛が出る神社を官幣社といい、国司からの幣帛が出る神社を国幣社といい、
『延喜式』のころには神社に大・小の区分ができていたので、
式内社は官幣大社・官幣小社・国幣大社・国幣小社と分類される。
この区分は戦前の社格制度とはまったく別のもの。
そして速谷神社は、地方の神社でありながら、国司からではなく京の神祇官に出向いて幣帛を受け取る官幣社だった。
山陽道の官幣社は、ほかには畿内の摂津国に隣接する播磨国明石郡の「海神社 三座」(神戸市垂水区鎮座)しかなく、
備中の吉備津彦神社(現在の吉備津神社)、同じ佐伯郡の伊都伎嶋神社(現在の厳島神社)もそうではない。
九州の西海道にもつながる山陽道の要の神社として、朝廷からの崇敬が非常に大であったことがうかがえる。
また、安芸国司が国内の神社を管理するために作った『安芸国神名帳』は、現存するものは巻首が欠失しており、
伊都伎嶋神社の神階従二位の祭神から記されている。
それに続いて多家神社の祭神が記され、速谷神社の祭神がみられないことから、
おそらく神名帳冒頭には速谷神社の祭神が記されていたと考えられ、
古代においては速谷神社が安芸国第一の社という位置づけであったことがわかる。

祭神は飽速玉男命(あきはやたまおのみこと)。
『先代旧事本紀』国造本紀に、

  阿岐国造。
  志賀高穴穂朝(しがのたかあなほのみかど。第十三代成務天皇治世)に、
  天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)の五世の孫・飽速玉命を国造に定め賜ふ

とある初代安芸国造で、安芸国を開拓、統治した功労者を神として祀っている。
ちなみに天湯津彦命は、同じく『先代旧事本紀』天神本紀によれば、
物部氏の祖・饒速日命が天下る際に供奉した三十二柱の神々の一柱に数えられている。
国造本紀によれば、天湯津彦命の子孫は少なからぬ国の国造に封ぜられているが、
それらは東北地方、佐渡島、中国・四国と、拡張期の大和朝廷の最前線であったであろう国々に分布しているのが興味深い。
上古においては武門の家柄であったのだろうか。

国史初見は『日本後紀』弘仁二年(811)七月十七日条、
「安芸国佐伯郡の速谷神・伊都岐嶋神を並に名神の例、兼ねて四時の幣に預からしむ」
と、特に霊験の大なる神である名神に厳島神社とともに指定されている。
『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条に伊都岐嶋神とともに従四位下を与えられた神階授与記事があり、
同じく貞観九年(867)十月十三日条に、伊都岐嶋神とともに従四位上を与えられたことが見えている。
これが六国史での最終神階。
その後、朱雀天皇の承平五年(935)には藤原純友の乱の鎮定に験ありとして正四位下に進んだ。
その後は安芸や周辺の領主の篤い加護を受け、
戦国時代には毛利家、江戸時代には広島藩主・浅野家が神宝社領を寄進して手厚く保護した。
古くは厳島神社より格上の神社であったが、平清盛が厳島神社の隆盛に大いに寄与して以降は立場が逆転したようで、
現在では厳島神社が安芸国一宮、速谷神社が安芸国二宮と称されている。

安芸国の総鎮守の神様であり、生活、産業の神様として崇められる。
また、山陽道を行きかう人は速谷神社に参拝して道中の安全を祈っていたことから「交通安全の神様」として広い信仰を得ており、
「車を買ったら速谷さん」と、自動車のお祓いに参拝する人が非常に多い。

鳥居前。参拝者駐車場は左の道から。
鳥居からの眺め。
丘陵の途中に鎮座しており、瀬戸内海が見渡せる。
鳥居からの参道。
楼門。 楼門をくぐると右手に斎館、左手に手水舎。
正面には神門。
拝殿。
拝殿の向かって右には祓殿、左には直会殿がある。
拝殿の向こうに本殿があり、その左右に稲荷神社・岩木神社の二末社が鎮座。
岩木神社は、この一帯の土地神で、速谷神社鎮座前から信仰されていた「岩木翁神」を祀る社。
ふつう、大きな神社であればその境内にさまざまな末社を勧請していることが多いが、
この神社ではわずかに本殿両側の二社のみ。そのため、境内は非常に簡素。

拝殿の前の両側には「左近の桜、右近の橘」が立つ。
拝殿の西にある車祓所(右)、儀式殿(左)。
車祓所には祓戸大神(はらえどのおおかみ)を祀り、交通安全祈願において自動車の祓えを行うところ。
儀式殿では研修や集会などが行われる。
境内西の神池。 神池背後の森。きれい。
駐車場から。
厳島神社の華麗さに比べると、ほんっとに簡素。
祭神のご神徳が広大で、ほかの神様をお呼びするまでもないということなのだろう。

地御前(じごぜん)神社。

広島県廿日市市地御前5丁目に鎮座。
宮島口フェリーターミナルへと向かう広島電鉄宮島線・地御前駅の南、海辺を走る国道2号線・地御前神社前交差点の西。
ここから海を隔てること真南へ4.5kmほどの宮島の浜辺に厳島神社が鎮座する。

古くから厳島神社の外宮と呼ばれていた。
厳島神社の鎮座する宮島は「神の島」であり、神聖であるために人はみだりに立ち入ることはなく、
人が多く住むようになった現在でも、人が亡くなるとそのお骨は対岸の本土に葬られ、宮島に墓は一基もない。
そのため、厳島神社の神官はこの地にて日々の勤めを行い、祭典があればここから船で宮島へ向かい、
もし海上が荒れて宮島で祭典が行えない場合はこちらで祭典を行った。
また、一般の人間はここから厳島神社を遥拝していた。それゆえ、地方(ぢかた)の御前の社、地御前神社と呼ばれる。

祭神は厳島神社と同じく、市杵島姫命を中心とする宗像三女神。
向かって右側の大宮本殿に祀られる。拝殿の階段・賽銭箱の正面。
また、本殿の向かって左に並ぶ御客人宮には、厳島神社摂社・客神社の五男神が祀られる。
現在の本殿は宝暦五年に焼失したものを宝暦十年(1760)に再建したものだが、
平安末期の仁安三年(1168)に官庁へ提出された解(げ。上級官庁へ提出する公式文書の形式)である
「伊都岐嶋社神主佐伯景弘解」に記された社殿の平面形式と一致しており、
当時の形式を忠実に伝えているものとされる。当時は社殿社屋十九宇を数えていたらしい。
かつては厳島神社と同じく神仏習合の一大施設であり、境内には神宮寺などを備えていたが、
現在はそれらの施設は無く、神社の前後をJR山陽本線と広島電鉄の線路に挟まれるなど、
本殿・拝殿とその周囲一帯のごく小さな社域となっている。
当時を偲ばせるものとして、近隣の釈迦堂に神宮寺に祀られていたと思われる釈迦如来の丈六坐像が、
また遠く離れた福山市沼隈町下山南の西光寺に、天文十三年(1544)に大内義隆が寄進した地御前神社の梵鐘が残っている。
宝暦十年の再建時に用いられなかったものを、幕末の外国船来航に伴う大砲鋳造の為に梵鐘を供出していた西光寺が買い求めたもので、
広島県重要文化財に指定されている。
鐘楼は、現在の地御前小学校の地にあったという。

神社の由緒にもとづき、厳島神社の管絃祭においてはこの神社の前の砂浜に池を掘り、
厳島神社から御座船がその池に渡御して祭典が行われる。
また、旧暦五月五日には御陵衣祭として、御旅所渡御、舞楽奉納、流鏑馬神事が行われている。

弘治元年(1555)の厳島合戦において、毛利元就はここ地御前に布陣、夜半の風雨を突いて宮島へ渡り、陶晴賢を急襲しその軍勢を殲滅した。
このときに地元の漁師たちはこぞって元就に協力したため、元就は彼らに「見渡す限りの海」の漁業権を与えたといい、
そのゆえに現在も地御前の漁業域は広いという。

地御前神社前。
鳥居のすぐ前を広島電鉄の線路が走り、そのすぐ外に国道2号線が走る。
2号線の外はもう海。
もともとは鳥居から浜辺まで開けていたが、現在では通常そのようなことはできない。
ただ、祭典においてはフェンスが開き、通行できるようになっているようだ。
西広島バイパスを通る車が多いのでこちらの交通量は少なめだが、
それでも結構な数の車が行きかう。
広電の電車はしょっちゅう行き来するので、
踏み切りはさかんにカンカン鳴っている。
瀬戸の海。ただいま干潮。
線路を渡って鳥居前から。
鳥居の扁額には、こちら側は「厳島外宮社」、向こう側は「地御前神社」と記されている。
その向こう、道路を隔てて大きな拝殿があり、その奥に大宮本殿と御客人宮が並ぶ。
拝殿。祭典においては舞楽奉納が行われる。
側面に一本、途中切れになったような柱があるが、
これはかつて拝殿のすぐそばまで海であったころ、舟を繋ぐために用いられていたもの。
大宮本殿。向こうに御客人社が並ぶ。 境内には末社が鎮座している。
その向こうにJR山陽本線の線路が見える。
拝殿内部。様々な絵馬がかかる。 拝殿と御客人社。
表を広電が通過ー 裏を貨物車が通過ー
地御前神社前は砂浜になっている。
厳島神社の例祭である管絃祭においてはここに堀と池を作り、御座船を引き入れて祭典を行う。
正面に宮島を望む。
地御前神社からは直接厳島神社を見ることはできない。
港のほう、牡蠣業者さんの敷地ギリギリのところまで行ってから南を見れば、遠くに朱色の大鳥居を見ることができる。
この写真でもかすかに確認できるけど・・・晴れていればなあ。
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