にっぽんのじんじゃ・ひろしまけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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備後国:

かつては吉備国の一部で、それ以前には吉備穴国(きびのあなのくに)と吉備風治国(きびのほむちのくに)の二国が置かれていた。
一度吉備国に統合された後、備前・備中・備後の三国に分割され、
明治初年に安芸と備後が統合されて広島県となった。

品治郡(福山市の一部):

第十一代垂仁天皇の皇子、品遅別命(ほむちわけのみこと)にちなんで設置された品遅部(ほむちべ)がその前身で、
二代後の成務天皇の御世に、
若角城命(わかつのきのみこと)の三世の孫、大船足尼(おほふなのすくね)が吉備風治国造に定められた(『先代旧事本紀』国造本紀)。
その後吉備国に統合され、三国分割後は一郡として立てられた。
明治時代に隣の芦田郡と統合して芦品郡となり、現在は福山市および府中市に統合されている。

備後を代表する二社、一宮(いっきゅう)さん・天王(てんのう)さんが鎮座する。

吉備津神社
素盞嗚神社

芦田郡(府中市のほぼ全域、福山市北西部):

往古は品治郡に属していたともいう。
穴海があったころはその西辺の山地一帯に郷村があり、
山の麓は水辺で葦原が多かったことから葦(芦)田郡と名づけられたという。
備後国国府(現在の府中市元町と推定されている)が置かれた当時はまだ海も近く、旧山陽道と石州街道の分岐点であり、
交通の要所として栄えた。
その後、芦田川河口付近の発展にともない、備後の中心は神辺、そして福山に移ってゆく。

甘南備神社 小野神社 南宮神社・
神宮寺
高龗神社

吉備津(きびつ)神社。

広島県福山市新市町宮内に鎮座。

備後国一宮。通称「一宮(いっきゅう)さん」。
備中国一宮、吉備津神社の勧請による社で、吉備の地を平定した大吉備津彦命を主祭神として祀る。
吉備三国の一宮はいずれも大吉備津彦命を主祭神とする。

創祀は平安初期、平城天皇の大同元年(806)と伝える。
しかし、六国史には備中の吉備津彦神社(現在は吉備津神社)への神階授与記事はあっても備前・備後へのそれはみえず、
『延喜式』神名式にも名が見えないことから、分霊を祀ったのは『延喜式』成立以降とする説もある。
ただ、吉備の地でありながらその開拓者である大吉備津彦命を10世紀になるまで祀っていなかったということもまたおかしいので、
それまでは分祀として何らかの小規模な形で備後国府内もしくはその近隣で祭られていて、
『延喜式』成立以降に現在の地に社殿を造営され、一般の崇敬を集めていったとみるのがいいだろうか。
式外社で神階授与の記録もないが一宮であった、というのは、陸奥国一宮の鹽竈神社の例もある。
これは国府多賀城の鎮守社として国府と密接なつながりがあったと考えられており、備後一宮もそのような形態であったかもしれない。
古い言い伝えでは、一宮はもと芦田郡用土村土生(現・府中市土生町。国府推定地から芦田川を挟んで南に位置する山麓の地)にあり、
のちに現在地に遷ったという。

主祭神は、第七代孝霊天皇の皇子、吉備津彦命。
本名は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)で、吉備を平定した功により吉備津彦命の名をもつ。
『日本書紀』では、
第十代崇神天皇の御世に東海・北陸・丹波・山陽の四道を平定すべく派遣された「四道将軍」の一として山陽道を平定し、
また中央で起こった武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱を鎮圧する大功を挙げた。
『古事記』では、孝霊天皇の御世に播磨を拠点にして吉備を平定したと記されている。
吉備の伝承において「温羅」という鬼を討伐したことがよく知られているが、
伊予国・大三島の古社、大山祇神社の古い社伝によれば、大山祇神社の創祀には吉備津彦命が深く関わっているとされ、
また讃岐国でも吉備津彦命を祀る社が散見される。
吉備だけでなく、瀬戸内海周辺で広く信仰されていた勲功の神といえるだろう。
父である孝霊天皇とその皇后・細媛命(くわしひめのみこと)、
そして共に吉備を平定した異母弟・若建吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと)を配祀する。

平安末期から広く崇敬を集めるようになり、
『百錬抄』によれば寛喜元年(1229)に焼失するが、間もなく再建、
弘安十年(1287)には時宗開祖の一遍上人が参詣、境内の様子が『一遍上人絵伝』に記されていて、
その境内には神宮寺があり、社殿のほかに堂、坊、塔などの仏教施設が立ち並んでいるさまが描かれている。
その後、京の六波羅より神領16000貫を拝領し、大いに繁栄した。
しかし鎌倉末の元弘の変(1331)において、赤坂城で挙兵した楠正成公に呼応してこの備後宮内の地でも桜山四郎入道玆俊(これとし)公が挙兵。
一時は他国へ押し出そうかという勢いだったが、他に呼応する者なく、形勢が逆転して徐々に追い詰められ、
最期は赤坂城落城の報を受けてもはやこれまでと、拠点としていた桜山に火をかけて自刃。
この火が延焼し、社殿は灰燼に帰した。この顛末は『太平記』に記されている。
のち永和二年(1376)に再建、室町期にはこの地方を支配した山名氏の庇護のもと復興を遂げ、毛利氏も篤く保護したが、
江戸時代初期、安芸・備後の領主となった福島正則が領内の社寺領を次々と没収していったため、
さしもの一宮の境内も荒廃し、神職の中には一時他国へ生活のつてを求めていった者もいた。
なので、備後地方においては福島正則は悪者扱いになっている。
その後、正則が改易され水野勝成公が福山藩主として赴任すると、勝成公は領内社寺を次々と復興安堵させ、
一宮も慶安元年(1648)に堂々たる社殿を造営、復興させた。これが現在の社殿であり、国の重要文化財に指定されている。

この神社は、「同一参道上に二つの随神門がある」という全国唯一の珍しい配置となっている。
これについては、

  神無月、全国の神々は出雲に集って神政を行うことになっていたが、ただ備後の吉備津宮のみが参集しなかった。
  大国主命は心配し、二度にわたって使者を遣わしたが、その時吉備津宮は大祭のまっただ中であり、
  二度の使者はいずれも手厚い歓待を受けて役目を果たせず、そのまま吉備津宮に仕えて随神となった。
  そのため吉備津宮には随神門が二つあるのである。

という面白い話がある。
旧暦においては、例祭は神無月10月の13~25日にわたって行われ、備後国内の禰宜(神職)が一同に会して祭典・神楽を行い、
市や見世物も立つなど一国を挙げての大祭であった。
新暦になった現在では一ヶ月ずらした11月23日ごろの四日間に行われ、
その規模は縮小されたものの、昔と同じく市が立つことから「市立大祭」と呼ばれている。

珍しい神事としては、節分の夜に参列者が集まってほらを吹き合うという「ほら吹き神事」が知られている。

JR新市駅前から北に延びる県道を進んでいくと、東、つまり右手に見える御池。
古くは御手洗といい、参拝者はここで禊を行ってから参拝していた。
橋の先(写真左端)には厳島神社の小祠があり、近世までは蛇形の弁才天を祀っていた。
往古、この祠は池のただ中にあったが、江戸時代には池の北半分が埋まってしまっていたようで、地続きとなっている。
ここから西へ向かって参道が延びる。

昔は、池の向こうにも木造の鳥居があったといい、
東の近田村(福山市駅家町近田)に石造の一の鳥居があった、と伝えられる。
家々の中を通る狭い参道の先に石鳥居が立つ。慶安元年造営。
江戸時代のはじめまでは立派な木の鳥居が立っていたが、
福島正則がそれを見て、
「こんな良い木材を鳥居に使っているのは無益なことだ」
と没収し、広島城の大手門の柱にしたという。
とことん罰当りな奴だな。
福山市指定文化財。
下の随神門。
福山市指定文化財。

これをくぐり、石燈籠の並ぶ参道を歩いて石段を上る。
往古は、石燈籠の参道には備中一宮と同じく回廊があったことが
『一遍上人絵伝』に描かれている。
石段の手前の右手には桜山神社が鎮座。
桜山玆俊公ほか、その幕下二十三柱を祀る。
この地は鎌倉末の動乱の舞台であり、
一宮境内は国の史跡に指定されている。
参道左手には大きな広場。公孫樹(いちょう)の大樹が立っている。
往古は、一宮の例祭においては備後国内の禰宜が一同に参集して
祭典を執り行っており、まさに一国を挙げてのお祭りだったが、
その時、御池前とこの広場の辺りに禰宜たちが分かれて集い、
それぞれ祭典を執り行ったという。
現在は主に駐車場として利用されている。

少し前までは、市立大祭においてはサーカスや芝居などの
大掛かりな見世物がここで行われていたが、
人口の減少などもあって現在は行われていない。

写真は境内の高台より撮影。
石段を上ると、上の随神門。 随神門の左右には「楽座」があり、
古くは楽人がここから楽を演奏していた。
奥に見えるのは社務所で、
かつて神宮寺のあった場所になる。

吉備津神社は備後一宮という大社だったので、境内には神宮寺が設けられ、仏事も行われていた。
神池中の島に三重塔(近世には退転)、本殿南には観音堂(備後三十三ヶ所の三十三番札所)や本地堂である阿弥陀堂があり、
境内の南と北には経塚がひとつずつあった。
江戸時代の宝暦四年(1754)、吉備津神社の神宮寺は福山藩の寺社手代・遠藤忠平と癒着して神社の諸事を専断し、
抗議した神職はことごとく禁獄、追放し、ついには神職に黒衣(僧衣)を着ることを強要した。
その後、それまで大いに賑わっていた吉備津宮の例祭はめっきり廃れてしまい、人々は神慮穏やかでない故であろうと言った。
さらに宝暦八年、神池の辺りの家から出火して火事になった際、急を告げる神社の鐘を鳴らしたもののどういうわけかまったく周囲に響かず、
近村より誰も消火に駆けつけてこなかったので、ついに大火となって鳥居より南の人家がことごとく焼失、人々は明神の怒りであると噂した。
のち、この事は遠藤忠平が上をごまかし下を脅して行ったものであると発覚、
その子孫である二つの家はともに不慮のことで断絶したといい、
またあるいは童形の大男がそこかしこに出現してその家の罪を言い触らし、その間、殿中の木像一体が数日の間見えなくなったという。
これは寛政(1789-1801)の初めごろのことであったという。
この一件は福山藩士宮原直倁の書いた『備陽六郡誌』や藩命により菅茶山が記した福山藩の地誌『福山志料』に記されており、
福山藩内ではかなり有名なスキャンダルだったらしい。
仏法が事実上の国教であった江戸時代における社僧の増長ぶりを示す一件だが、
当時の人々の反応からすると、神宮寺の行為に相当の根強い怒りを感じていたことがうかがえ、
このようなところで明治の神仏分離を迎えた際、一宮クラスでは政府の命令で神宮寺破却が行われただろうが、
「喜んで手伝ったらあ」
「そうじゃそうじゃ」
となるのも自然な反応だろう。

随神門をくぐると、神楽殿。
かつては楽座からの楽の音に合わせ、ここで巫女が舞を奉納していた。
広島県重要文化財。

ここには折に触れて生け花が奉納されているのが見られる。
寒桜が植えられている。石段の上には拝殿。
拝殿は福山市重要文化財。

寒桜が植えられているところには、
古くは「神子座」あるいは「巫所」という建物があった。
拝殿の陰より、本殿。
檜皮の屋根の修理中。
拝殿からさらに石段を上ると、本殿。国指定重要文化財。
正面七間という、全国的に見ても巨大な建築。
(神社建築においては、単純に柱の間を一間と数える)
通常、祭典は拝殿もしくは幣殿で行われるが、この神社には幣殿はなく、拝殿も本殿とは離れている。
そのため、祭典はこの本殿内で行われる。
本殿内も他の神社と違い、外陣、内陣の奥にさらに内々陣があり、ここに御神体を納める。
この形式は他の吉備津神社も同様で、吉備津神社ならでは。
本殿内の造りが独特なため、祭典における作法も一般のそれとはいろいろ異なる。
破風の鬼瓦には、造営を行った水野家の家紋、そしてのちに修復を行った阿部家の家紋が見える。
ここからはわからないが、本殿外陣入り口の上には「虎睡山」という大きな扁額が架かっている。
神仏習合時代に神社別当であった神宮寺の山号。
背後の山々が、虎の眠るように丸くなっていることからつけられたという。
東向きの社殿であり、春のある時期には登ってきた太陽の光が真正面から本殿に入り、
内陣に置かれる御神鏡がそれを反射してまばゆく輝く。
そのさまは非常に神々しいという。
虎睡山の額。
本殿の南手前に公孫樹があり、子授け・安産の神、乳房神社の祠が鎮座する。
古いものは枯れて切り株が残り、現在は何代目かが立っている。
境内南の小高いところに鎮座する多理比理(たりひり)神社。
『延喜式』神名式、備後国品治郡一座、多理比理神社に比定。
祭神は息長足姫命(神功皇后)。

江戸時代に書かれた福山藩の地誌である『福山志料』は、
吉備津宮の宝物のうちに「多理比大明神」という銘のある金幣があり、
あるいは多理比理神社を廃してその器物をここ(吉備津宮)に納めたのだろうか、と記している。
ただし『福山志料』の説としては、
多理比理神社を福山市駅家町上山守鎮座の八幡神社(当島八幡宮)に比定している。
それより前に書かれた備後国の地誌『西備名区』には、「吉備津宮に古い金幣の御串があって、銘に太理比大明神とある」
と記し、品治郡服部本郷村(福山市駅家町服部本郷)に「神子原」という字があり、
大坂の神子町に息長足姫を祀って神子神と崇めていること、
『古事記』には息長足姫命の弟に息長日子王があり、吉備品遅君の祖とされていることから、
神子原が多理比理神社の旧地であり、その宮が廃れたのち吉備津宮に金幣が移されたのでは、と考証している。
大正末に編纂された『芦品郡志』には、この金幣の写真と、銘文についての記載がある。
金幣は二柄あり、同形で、それぞれに

   大永二壬午
   檀越同州  西條保
   備後一宮大明神
     十月十七日   敬白


   大永二年〔壬午〕
   備後太理比大明神
       藤原朝臣盛次
       十月十七日敬白

と記されている。大永二年は西暦1522年。
同形で同日寄進であるので、
この時点で本殿内に一宮大明神とともに太理比大明神が祀られていたことは確かなことのように思われる。

建物の造りは仏堂のそれであるので、明治の神仏分離後に建物を破壊せず、
多理比理神社を本殿よりここへ遷座したものだろう。
『備陽六郡誌』には、本殿の南には観音堂と阿弥陀堂があったと記している。
多理比理神社の背後からは、
十二神社および吉備津稲荷神社への参道が延びる。
十二神社は吉備津彦命の御親族十二柱をお祀りしている。
十二神社は拝殿を備え、
「十二神」として『備陽六郡誌』に名が見えている。
また大名持命(大国主命)も配祀しており、
石鳥居には「大名持神社」とある。
厄除けの神様として信仰されている。
多理比理神社前の石段を下りると、
山雷神社、真名井神社の小祠が鎮座。
真名井神社の前には井戸がある。
本殿北後方に鎮座する十麻里二柱(とまりふたはしら)神社。
社名は「とお(10)あまり(余り)ふた(2)はしら(柱)」、
つまり十二柱という意味。昔の数の数え方。
吉備津彦命の直近の御親族十二柱を祀る。
『備陽六郡誌』には、「十二所権現 瓦葺 本社の後ろにあり」
とあり、古くから鎮座していた。
交通安全の神様として信仰される。


通常、十二所権現といえば
紀伊の熊野三山に祀る熊野十二社権現のことだが、
ここも元々は熊野権現を祀っていたのかどうか、
それはわからない。
江戸時代の社家の文書では熊野十二権現説を否定し、
吉備津彦命の御親族を祭神であると考証している。

十麻里二柱神社の下、本殿北に並ぶ末社。
奥より、少彦名命を祀る疱瘡神社、武内宿禰を祀る武内神社、
聖徳太子を祀る厩戸皇子神社、吉備津天満宮、
祖神社・彰徳宮・白髪神社の三社の合祀神社。
『備陽六郡誌』には、

道祖神 杮葺   黒尾 杮葺   太子 同

この三社は本社の北にあり。

とあり、道祖神が少彦名命に交代し、
天満宮以下の社が新たに鎮座したほかは
昔よりほぼ同じ配置であったようだ。
九州には黒男(尾)神社が多く、
その大部分は武内宿禰を祭神としており、
黒尾とはすなわち武内宿禰の社。
古代におけるこの地方の豪族、品治氏は武内宿禰の子孫とされ、
品治氏がその祖神を祭った神社と考えられる。
かつては中須の黒尾谷というところに鎮座しており、
その後、一宮境内に遷座したといわれる。

天満宮は、『福山志料』には「天満天神社 黒尾社の下にあり」とあり、
『備陽六郡誌』編纂後に勧請された、
あるいは近隣の天神社が遷座したものだろうか。
白髪神社は、『備陽六郡誌』によれば当時は坂の下に鎮座していた。
猿田彦命を祀る。

雪の日の一宮さん。

かつて、十一月下旬の市立大祭の時にはかならず雪が降っていたといい、
自分も小さい頃のかすかな記憶では、雪が解けてぬかるんだ土の上を歩きながらいろいろな露店を見て回った記憶があるが、
現在ではその時期に雪が降ることはまずない。

神楽殿に生け花が飾られていて、雪とよく合っていた。
広場の公孫樹。 桜山神社。
石段前。 石段途中左手に鎮座する大山祇神社と神馬舎。
大山祇神社は山の神だが、近世では「大仙社」として、
この地方では広く牛馬の守護神として信仰されていた。
これは伯耆大山の大山智明大権現信仰に基づくもの。
石段途中右手に鎮座する秋葉神社、四所神社。
秋葉神社は火除けの神様、
四所神社は、厳島さんなどの四明神を合わせ祭る。
本殿前。
大池の対岸に鎮座する、二本木荒神社。
備後地方には神社が多いが、その中でも荒神社がものすごく多く、
それもあって明治末年の神社合祀政策が行われるまでは、広島県が全国一位の神社数を誇っていた。
備後地方における荒神社は、村の中のさらに細かい区域である小字の地域を守る神として、
その小字内で一番の有力者(庄屋など)の敷地内に祀られ、その小字内の人々が皆で奉斎していた。
だいたい七年ごとに神楽奉納などの大掛かりな祭りを行い、これを「七年申し(しちねんもうし)」という。
かつては嬰児が生まれるとまず荒神社に連れて行って奉告を行うなど、もっとも身近な神様として親しまれていた。



素盞嗚(すさのお)神社。

福山市新市町戸手に鎮座。
神谷川の東岸近く、JR福塩線、上戸手駅のそば。
境内の北辺は古代山陽道に接している。

『延喜式』神名式、備後国深津郡一座、須佐能袁能神社(すさのをのかみのやしろ)に比定。
現在の鎮座地は品治郡にあたり、深津郡は安那郡から分割されて生まれた郡で現在の福山市街地~市街地北部にあたるので、
歴代の研究者も「古代は深津郡がこの地方まで張り出していたか」と考察したり、
「ここはどう考えても品治郡であるので、祭神は同じではあるが式内須佐能袁能神社とは別の社ではないか」と考察したりしている。
この神社は古くより江熊牛頭天王社(えのくまごずてんのうしゃ)と呼ばれ、
鞆祇園社(福山市鞆町、沼名前神社)、小童(ひち)祇園社(三次市甲奴町、須佐神社)とともに
備後の三大祇園社の一として大いに崇敬を集めており、現在でも「天王さん」として親しまれ、
戸手・相方・新市(以上、現在の福山市新市町南部)・中須(府中市中須町)の産土神として多くの氏子をもち、信仰されている。

当社の祭神は、素盞嗚尊、稲田姫命、八王子命。
『釈日本紀』が引く備後国風土記逸文に、創祀にかかわる伝承が記されている。

  備後国風土記にいう。疫隅(えのくま)の国社(くにつやしろ)。
  昔、北海にいらっしゃった武塔神(むとうのかみ)が南海の女子を娶りに出かけたとき、日が暮れた。
  その地に蘇民将来(そみんしょうらい)・巨旦将来(こたんしょうらい)という二人が住んでいた。
  兄の蘇民将来はとても貧しく、弟の巨旦は裕福で、家屋や倉は百を数えていた。
  ここに武塔神は宿を借りようとしたが、巨旦は食料を惜しんで宿をお貸しせず、兄の蘇民は宿をお貸しした。
  その時、粟がらをもって神の座とし、粟飯などをもって御饗(みあえ)を奉った。
  神はこれをお受けになり、出立された。
  のちに年を経て、神は八柱の子を率いて南海から帰り来て、詔されるには、
  「わたしは将来のために報いをしよう。おまえの子孫は家にいるか」
  とお尋ねになったので、蘇民将来が答えて言うには、
  「わたしの娘とこの妻がおります」
  と申し上げた。そこで神が詔されるには、
  「茅の輪をもって腰の上に着けさせよ」
  と詔されたので、着けさせた。
  その夜、神は蘇民とその妻娘二人を除いたことごとくの人間を殺し滅ぼされた。その時に詔されるには、
  「わたしは速須佐能雄神(はやすさのをのかみ)である。後世、疫病があれば、『われは蘇民将来の子孫である』といって、
  茅の輪を腰に着けよ。この詔のとおりに着けさせれば、その家の者は疫病を免れるであろう」
  と詔された。

これがここ素盞嗚神社の起源伝承であり、また全国の祇園社の起源でもある。
現在、全国の素戔嗚尊(祇園さん)を祀る神社の氏子がその門前に「蘇民将来子孫之家(あるいは門)」と記したお札を張り、
六月末に「夏越の祓」として神社境内の大きな茅の輪をくぐるのは、この伝承を起源としている。
この伝承は時代が下ると仏法の牛頭天王信仰と習合し、「祇園牛頭天王縁起」としてさらに発展拡大カオス化していくことになる。
また、旧約聖書・出エジプト記に見える「過ぎ越しの祭り」の起源、
「主なる神が、夜のうちに戸口に所定の印をつけたイスラエル人以外、エジプトのすべての家の長子を殺した」
という話との共通性に言及する論もある。

神社境内は巨旦屋敷跡と言い伝えられ、かつて境内周囲は竹薮に囲まれ、社前には松・杉が繁り、「早苗の森」と呼ばれていた。
かつては幹が複雑に曲がりくねった三本の松が並んで生えていて壮観であったが、現在は一本も残っていない。
ここの木は老木になると次々に倒れるので古来より大木はなく、
巨旦が植え置いた苗が森となったのでその根は深くなく、ゆえに倒れるのだ、と言われた。
現在は周囲が住宅地となり、鉄道も敷かれたために竹薮もなくなっている。

創祀は天武天皇の御世と伝えられる。
牛頭天王信仰が広まるとこの神社でもそれを取り入れ、江熊牛頭天王社、戸手牛頭天王社とも呼ばれるようになった。
神仏習合したのちは神宮寺である「早苗山天王寺」ができ、境内には観音堂と鐘楼があったが、
その他には仏教建築はなく境内は比較的簡素であり、現在の境内とさほど変わらなかったようだ。
北からの神社への入り口となる楼門は、戦国時代の山城であった相方城の城門を移築したもので、当時の建築様式を知る資料となっている。
これは、神宮寺であった天王寺の住持が相方城城主の有地氏出身であり、そのため廃城となった相方城の城門と櫓を移築させたという。
相方城の石垣は江戸末期までほぼ完全な姿で残っており、それは天王寺が石を持ち出すことを固く禁じていたからとも、
そこから石を持ち出せば必ず怪我をすると言い伝えられていたからともいう。
現在は山の頂上にテレビ送信塔が立てられているが、まだ当時の石垣がかなり残っている。
神社の北を東西に走る道路は古代の山陽道で、東は神辺から来て、西は府中の備後国府へ向かっている。

福山藩主水野勝慶公が江戸屋敷に数奇屋を作り、そこに置く手水鉢を探してなかなか気に入ったものがなかったが、
この社に参拝した際、境内にあった苔むして古びた手水鉢をいたく気に入り、頼み込んで入手し江戸屋敷へ送った。
その代価として、境内周囲の石垣と石橋とを永代御上普請とした、という逸話が残っている。

旧暦の6月中旬、現在は7月中旬に例祭・祇園祭が行われ、
その最終日には戸手・相方、新市、中須三地区の三体神輿が境内で激突する「けんか神輿」で大いに賑わう。
この激突は激しいもので、負傷者が出ることは珍しくなく、
終戦間もなくのころにはこの神輿が連れ立って闇市を襲撃し、GHQが飛んでくる騒ぎになったこともあったという。
『備陽六郡誌』は、

  祭礼は六月十四日より十五日。新市の町外れの山に御旅所がある。
  神輿行幸、還幸ともに老人らは扇・笠など持って躍り上がり飛び上がり囃し立てて供奉し、その格好はまことに珍妙である。
  祭りの後、今年まで達者に先導を供奉することができためでたさよ、と互いに祝いあう。
  毎年祭礼の節には神輿を川原へかつぎ出し、氏子が東西に分かれて喧嘩し争い、互いにつかみ合い打ち据え、
  川原の石をつぶてに投げあい、負傷するものが多い。

と、その盛況と荒々しさを書き留めている。警備をつとめる福山藩の役人もほとんど死ぬ覚悟でやって来ていたという。
この荒々しい神事ののちの深夜、神社では「無言の神事」と呼ばれる不思議な神事が行われる。
備後一宮の吉備津神社の神職が神社を訪れてともに供奉する祭典で、
参向から祭典にいたるまで、祝詞・大祓詞奏上以外には一切言葉を発しない。
この神事は、往古の素盞嗚神社社領の中に吉備津神社が勧請されたため、
吉備津神社の神がこの神社の祭神・素盞嗚尊に挨拶に来た行事が毎年の神事として慣例化されていったものではないか、
と考えられている。

『西備名区』には、当時の祇園祭の行事について記されている。

6月1日  御田植神事。
6月12日 福山沖の松が淵において垢離掻き。
       別当、神官ほか神幸供奉の者はことごとく出で立って垢離を取り、帰りに「土産藻」といって藻を取って帰る。
       これは、この日差し障りがあって垢離しなかった者が、祭の時に頭にかけて出る。
6月13日 神官・神人集って御祓い。
       古来神殿の鍵を預かり持つ、神殿御扉開の社人である万能倉村の大舞某が来る。これは蘇民将来の子孫という。
       早朝より諸村の産子が群参し、夜通し踊り遊ぶ。
       神前の側に商家があり、家ごとに小さな赤い紙幟を竹串に付けた物を出す。参詣の者は求めてお守りとする。
       神事中、また常に「蘇民将来子孫之家」と書いた小符を出す。除疫の御守りである。これもまた各人が乞い求める。
6月14日 戸手村より家ごとに幟入を行う。
       午後から神前に至って「神いさめ」を行う。
6月15日 新市より幡入を行う。
       午後、神輿が中須村の御旅所へ渡御。四村(戸手・新市・相方・中須)の産子は武器・神器等の陣具を携えて神輿の先に供奉。
       夜、府中の神職である五弓(ごきゅう)氏が御旅所に候する。
6月16日 未明、一宮吉備津宮へ酒を献ずる。
       中須村より幡入を行う。
       午後、神輿還御。行事は渡御に同じ。
       夜、吉備津宮より奉幣使あり。
        社僧の正仁坊が御幣使となり、
        大幣一本、そして幣十二本(閏月がある年は十三本)、
        さらに御箸十二膳(閏月がある年は十三膳)を持って参向する。
        この夜、この御幣使に逢ったりこれを見たりすると災いに遭うとして、この間、通筋の人家は戸を閉め、外へ出ない。
        天王社鳥居前で下馬、御幣使と随行の所司らは各々拝殿に着座し、随行の所司一人が箸を捧げて御膳に供える。
        神饌は、御飯、田に生えるナギ、真桑瓜、そして神酒。
        また別の所司が神酒を供え、正仁坊が祝詞を読み、正仁坊と両所司が中臣祓を読む。
        終って直会。馬別当が金銭を給わり、退出する。
6月17日 一宮にて「神酒ひらき」。馬別当が辨じ、料は天王社より出る。

吉備津宮奉幣使を見てはならない、とされていたことは、これが神の渡御と同じ意味を持っていたということか。

なお、「けんか神輿」は、負傷者が多いために警察のチェックが入り、
現在は神輿が一対一で二度ぶつかるだけの形式的なものになっている。
江戸時代においては、民衆は幕府の統制政策によって贅沢ができないなどいろいろ制限を加えられていたが、
ただ、神祭の日のみは日常の縛りから解放されて思うままに振舞うことができた。
そのため祭りは日頃のうっぷんを思う存分晴らすはけ口となっており、
祭りになると人々は思い切り贅沢をしたり華やかに着飾ったり賑やかに騒ぎ立てたり、時には荒事に及んだりしていた。
現在では日常生活にお上の規制が入ることはなく、うっぷん晴らすにも様々な方法があるので、
祭に異常なまでのエネルギーが投入されることは少なくなり、そのため祭が感情的なものから形式的なものになっていくのはやむを得ないが、
少しさびしい気もする。

鳥居前。鳥居には元禄七甲戌年(1694)と寄進の年が彫られている。
随神門。
手水舎。
先代?の手水鉢を福山藩主水野侯が譲り受けて
江戸屋敷に持っていった話は上に記す。
神楽殿。

もとは拝殿。
備後地方では、一宮の吉備津神社にならい、
本殿から少し離れて拝殿を建てる形式が標準だった。
その後、明治になって整えられていった神社祭式においては、
拝殿・幣殿・本殿が直列の形式の祭場が想定されていたため、
多くの神社がそれにならって本殿に接続する幣殿と拝殿を増築し、
それまでの拝殿は神楽殿となった。
拝殿前。
祇園社は神仏習合色が強かったので、主要な建物はみな瓦葺になっている。
拝殿、幣殿と本殿。

幣殿南にある蘇民神社(奥の建物)。
蘇民将来を祀る。
本殿北に鎮座する境内末社、戸手天満宮。
明治初年までは観音堂だった。
北の門。
もとは、現在テレビ送信塔が建っている城山頂上にあった、
相方城の城門。
かつては「早苗の松」で京にも知られた天王さんだが、
現在、境内には桜が植えられている。

かつて境内に生えていた三株の松は「早苗の松」と呼ばれ、幹や枝が曲がりくねる奇観を呈していた。
宝暦六年(1756)、神宮寺である天王寺の僧がこの松の図を持って都に上ったところ、故あって三井御門跡の御覧を賜わった。
御門跡はこれをはなはだ称美されると、その丹青の妙手をもって三株の図を模写されたが、
これがまた九条殿下の御覧を賜わり、

 早苗山いく千代あふぐ神垣の松のめぐみの影もさかえむ

との御讃詠を賜わったと伝えられる。  


甘南備(かんなび)神社。

広島県府中市出口町に鎮座。

『延喜式』神名式、備後国葦田郡二座の一、賀武奈備神社(かむなびのかみのやしろ)。

備後国国府があった府中市の市街地の北西のはずれ、山陰の石見へ続く古い街道沿いの三室山の麓に鎮座する。
創祀は和銅元年(708)。
この年疫病が流行し、備後国守佐伯宿禰麻呂がそれを鎮めるため、出雲国島根郡の美保神社を勧請したという。
佐伯宿禰麻呂は文武天皇四年(700)に遣新羅使を務めた人物で、
和銅元年三月に備後守に任じられたことが『続日本紀』に見える。

『日本三代実録』貞観九年(867)四月八日条に神階従五位上から正五位下に進んだ記事があり、
さらに元慶二年(878)十一月十三日に正五位上を与えられており、
六国史内では備後国で最高の神階をもっていた。
国府(府中市元町にあったとみられる)から最も近い官社であったため、
その創祀に国司が関わっていたこともあって、国司からの崇敬がもっとも篤かったのだろう。
現在、備後国の一宮として崇敬されるのは福山市新市町鎮座の吉備津神社だが、
吉備津神社は備後国の官社には入っておらず、神階授与記事もみられない。
ちなみに、備後国において六国史内で神階授与記事のある官社(式内社)は、
甘南備神(賀武奈備神社)、
高諸神(高諸神社。沼隈郡。福山市今津町鎮座)、
天別豊姫神(天別豊姫神社。安那郡。福山市神辺町鎮座)
の三社。
また、官社ではない神社で、
大蔵神、神田神、大神神、天照真良建雄神、隠嶋神
が従五位下を与えられている。これらの神社は比定は行われているものの、決定的な物証がなく社地不明。
応仁の乱から続く百年にもわたる戦乱の世の中、各地の社寺は戦火にさらされ、その祭祀が絶える所も多かった。
この辺りも山名氏が支配しており、いわゆる東軍と西軍の争い、その後は毛利・尼子の争乱の舞台となった。
徳川の世になると、安芸、備後においては、領主となった福島正則が領内の社寺を復興させるどころかその社寺領を次々に没収していった
(かわりに扶持米支給となった)ため、戦国の世に衰微していた社寺の多くが致命的なダメージを受けた。
備後国においてはその後水野勝成が藩主となり、領内の社寺の復興造営が行われている。

主祭神は事代主神で、大己貴神、少彦名神を配祀。
創祀においては疫病鎮圧に験ありとされたが、以降は祈雨に験ありとされ、
毛利元就、水野勝成をはじめとする歴代の領主がたびたび雨乞いを行っており、
近年でも旱魃において雨乞いが行われた。

鳥居前。北の山間部へ向かう街道沿いにある。
この街道は、中世から近世にかけて石見銀山で採掘された銀を運ぶために用いられたもので、
「石州街道」「銀山街道」と呼ばれる。
ちなみに「街道」といっても、車での運転も大変なすごい山道になるので注意。

二の鳥居前。新緑。 長い石段を上ってゆく。
随神門。 さらに上ると、拝殿。
拝殿。奥に本殿。
左手には摂末社が立ち並ぶ。

小野(おの)神社。

府中市元町に鎮座。
元町は近世には「町村」といい、中古の府中町の跡ということで名づけられたといわれている。

備後国国府が置かれていたとみられている元町の産土神。
小野神社の由来については、江戸時代後期に書かれた備後国の地誌『西備名区』に、

  産社、小野〔コヤ〕神社

  俚諺にいう。
  昔、いつ頃のことであろうか、伊勢の国から軍兵が来て八尾の城を攻めた時、敗軍して軍陣守護の神璽を捨て置き逃げ帰った。
  里人は小屋を営んで遷し祭り、ついにこの地の氏神としコヤ大明神と称した。
  その昔は在家の屋敷の中にあったが、金龍寺の後ろの山に遷し、その後、今の地に遷したという。
  軍神のいずれを祭った爾ともわからない。

とあり、当時は「コヤ」と読んでいたようだ。
伊勢から軍兵が来て八尾城を攻めたということについては、
戦国時代だと毛利氏や尼子氏絡みなので、あったとすれば南北朝の時か明徳の乱の時かだろうが、記録上、該当するような事件はない。
何かの言葉が訛ったのか、攻撃した者が「伊勢守」などの職にあったのか、
それとも、『福山志料』によれば金龍寺背後の山の旧鎮座地の字を「イセイヂ」といっていたので、そこから連想されたものか。
祭神についても当時すでにわからなくなっていたようだ。
「コヤ」という名からすると、あるいは天児屋根命だったのだろうか。
もとは在家の屋敷の中にあったということは、いずれかの社家がその祖神を自邸に祀っていたとも考えられる。
『水野記』には、承和六年(839)に小野恒柯(おののつねえだ)が京より当地に来て当社を崇敬したという言い伝えを記している。
恒柯は小野篁の従弟で、能筆として当時一世を風靡した人物。
承和二年に少内記に任じられ、のち大内記に昇進して美作掾・近江大掾を兼任し、その後承和八年に式部大丞に任じられているので、
承和六年に備後に下る暇はなかなかなかったと思われるが(ただ、蔵人所が設置されて以降、内記はヒマな役職になってはいた)、
どうだろうか。
現在の祭神は押媛命(おしひめのみこと)で、吉備武彦命を配祀。
押媛命は第六代孝安天皇の皇后で、大吉備津彦命の父君である第七代孝霊天皇の母君にあたる方。
押媛命を主祭神とする神社はここのみではないだろうか。
吉備武彦命は大吉備津彦命の弟である稚武吉備津彦命の孫。
日本武尊東征に副将として随伴し、越国を平定した。
ということで、現在は実に備後国にふさわしい神を祀っていることになる。

小野神社は江戸時代の貞享五年(1688)に町村(現在の元町)の産土神としてこの地へ遷座してきたが、
この地には昔から「惣社大明神」が鎮座していた。
これは、往古、国庁の中もしくは隣地で祭られていた「総社」のことで、
国内の官社、もしくはすべての神社を勧請して祭っていた神社。
つまり、総社の近くには国庁があったということになる。
そして、この小野神社の鎮座する丘の下からは、近年、奈良~平安時代の建造物の遺構、土器や緑釉陶器、
また「賀□私印」(□の字は不詳)と刻まれた青銅製印鑑などが発見されており、
元町が備後国庁の地であった可能性が高まっている。
この辺りは住宅地であり、なかなかその全容をつかむことは難しいが、
全国的にも国庁の位置がはっきりしている例は少ないので、
もしそれと認定されるような遺構が発見されれば、大きなニュースとなるだろう。

江戸期に造営された社殿が老朽化したため、昭和九年に造替が行われたが、
この時の造営費は、氏子が「一人一日一銭」の貯蓄を三年間励行してまかなった。
また、近年にはすぐ北の岡地に「桜ヶ丘団地」が造成され、団地と市内中心部を繋ぐ二車線道路が神社の山を削って造成されたが、
それに伴い、本殿や境内も造替・改修が行われている。

元町を流れる音無川東岸の道に立つ、小野神社の標柱。
正面には栄明寺が見える。右折すれば小野神社へ。 
小野神社境内入口。
以前、この辺りには小道と細い参道があるだけだったが、
北に造成された住宅地、桜ヶ丘団地へ向かう広い道路が造成され、
参道はほぼなくなり、神社の鎮座する山はごっそりえぐられている。
石段を登ると鳥居があり、左に90度曲がってまた石段。
角度は相当急。
上には神楽殿が見える。
神楽殿。
小野神社拝殿、その左右には数多くの末社が並ぶ。
小野神社の向かってすぐ右手に鎮座しているのが総社神社で、その右には総荒神社。
向かって左には熊野神社。

団地へ向かう道路の造成に伴って神社や境内の造替・改修が行われており、
以前よりもさらに整備されさっぱりした境内になっている。
総社神社。備後国内の神々を祀る。
もともとこの土地は総社の社地であり、そこへ町村(現在の元町)の産土神として小野神社が遷座してきた。
手前の小祠は天神社ならびに白鬚神社。
境内東南には、
ここより東南に鎮座する木野宮神社の遥拝所がある。
木野山神社は、この地域の地主神であると伝えられる。
金盛稲荷神社および砂留荒神社。

備後地方では、荒神社は村内の組内の有力者の屋敷ごとに鎮座していて、その組内の守護神として祀られ、
組内の人間はそこに集って定期的に祭祀を執り行い、さらに主に七年ごとに神楽や様々な芸能を催して大々的に祭っていた(「七年申し」という)。
そのため、一村のうちには荒神社が何社も鎮座しており、鎮座地の字名や屋敷の屋号をつけて区別されていた。
明治末期の神社合祀政策が行われるまでは広島県が全国一の神社数を誇っていたのは、これが一因。
(あと、一村に一社といっていいほど八幡神社が多いのが安芸・備後の特徴)
現在でも、山間部では合祀されずに各組内に荒神社があり、それぞれで祭りを執り行っている。

境内の東は公園となっており、車で参拝の場合はこちらに駐車することになる。
公園の西端、境内後方には祠と石碑がある。
石碑は、ここから下流に至る五か村へ用水を引く工事を成就させた念西上人を顕彰したもの。
振り向くと、府中駅前一帯が見渡せる。
神社の西には真言宗の栄明寺、東には曹洞宗の潮音寺がある。
潮音寺は、その昔は天台宗の大刹であったといい、境内は現在よりも広く、
境内には蓮池があり、寺前には松原があって字の名となったと伝えられている。

教王山栄明寺(きょうおうざん・えいみょうじ)。

真言宗、本尊薬師如来。
かつては仁和寺の御室門跡末寺だった。
古くは尾道の西国寺・上下の仏心院・中条の広山寺とともに備後四箇院跡の一として大いに栄え、
三十六の末寺を有していたが、戦国の世に没落し、天文年間には一時廃跡。
現在地に場所を移して毛利氏の庇護のもと活動していたが、安芸・備後領主となった福島正則に知行をすべて召し上げられて再び衰微。
しかし江戸の元和年間に再興され、この地方の十四ヶ寺を末寺とし、
備後一宮・吉備津神社の神宮寺も栄明寺末寺であり、正月晦日護摩供養法令修行には栄明寺から参加するなど、
芦田・品治郡の真言寺では随一の存在だった。
元禄四年に鋳造された梵鐘があり、府中市の指定文化財となっている。

栄明寺前。
門前を通っているのが古い道路で、現在はすぐ南に桜ヶ丘団地に続く二車線の道がついている。

すぐ西を南北に「音無川」が流れ、栄明寺のすぐ西に架かる橋は「熊野橋」といい、
もうひとつ南の橋は「密語橋(ささやきばし)」と呼ばれる。
かつて栄明寺の裏には熊野神社が鎮座しており、
熊野本宮の町にある音無川と耳語橋(ささやきのはし)になぞらえたものと思われる。


南宮(なんぐう)神社。

府中市栗柄町に鎮座。
県道府中松永線から栗生(くりぶ)小学校の脇を山のほうへ上がっていった先に鎮座。

創祀は大同二年(807)と伝えられる。
備後一宮・吉備津神社(福山市新市町宮内)の創祀翌年になる。
社名は、備後国衙の南にあったことから「南宮」というとも、
または備後一宮がかつて土生の地、南宮神社の北方にあり、その南に位置していたゆえ「南の宮」というとも、
あるいは、美濃から流れてきた人がこの地で財を成した後、美濃国一宮・南宮大社を勧請したとも言われる。
美濃一宮の南宮大社は金属の神・金山彦神を祀るが、
この近隣にも「鍛冶屋敷」という字があり、古代は製鉄が行われていた一帯。
古くは東の高木・中須の地までが氏子区域であったためこの地域一帯の氏神として大きな勢力をもっており、
一宮・南宮・真宮(福山市新市町常)の備後三大社に数えられる神社であった。
栗柄の地名については、古くは「倶梨伽羅」の表記であったことから、
往古この辺りのどこかに倶梨伽羅不動明王を祀ったのが「栗柄」の地名の元と推定されている。
寺跡であったと伝える所が多く、寺町という字があり、ここからは瓦が出土すること多かったといい、
新市町の安養寺、中須町の本覚寺、そして南宮神社神宮寺も元は栗柄の鴫谷にあったという。

主祭神は孝霊天皇、伊邪那岐神、伊邪那美神、金山彦神の四座。
左脇座に宗像三女神と大屋津比売命・抓津比売命の女神五座(すべて素戔嗚尊の姫神)を、
右脇座に速玉男命、事解男命、意都加牟都美命(江戸末期の明細書にそう記されているが、おそらく意富加牟都美命の誤記)、
そして岐神と、穢れを祓い防ぐ境界の神々の四座(いずれも伊弉諾命が化成、また命名)を配祀。
孝霊天皇は、広大な吉備国を平定した彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)、通称吉備津彦命の父君で、第七代天皇。
神社のすぐ北には、孝霊天皇御陵と地元で古来言われてきた「孝霊塚」がある。
近隣には孝霊天皇神社あり、またこれも近隣の御門神社に納められていた神像は孝霊天皇とその皇后とされていたなど、
この地方では孝霊天皇に対する崇敬が非常に篤かった。

社伝では永承六年(1051)に従三位の神階を賜り、
また境外に多数の末社を持ち(南宮末社七社)、神田も五十町を有していたが、源平の戦乱の中で神宝・旧記を散失、
いったん衰微したが、応永六年(1399)に社殿を造営。
それまでは本殿と左右別宮の三社殿であったが、このときに一殿にまとめられたという。
この再興にともない御調郡木梨城主・杉原又太郎が四十二貫の土地を寄進したが、
慶長初年に福島正則によって社領を没収され再び衰微。
しかし元和五年(1619)、福島正則が信州に移されたのちに入ってきた水野勝成公が神田を寄進、
のち第四代勝種公が寛文九年(1669)に社殿を造営。
あるいは慶安年間(1648-52)の造営ともいう。
現在の本殿はその時のもので、文久二年(1862)、慶応四年(1868)、明治二十二年と改修が行われており、
府中市の有形文化財に指定されている。
また延宝六年(1678)に鳥居を、貞享四年(1687)に随神門・釈迦堂が造営され、鐘を宝永六年(1709)に造った。
本殿や脇座、随神門に祀る十数体の神像の中には平安期に遡るものもあり、由緒の古さを物語る。

往古は大規模な神社であり、境内には神宮寺を備え、神前にて大般若経の転読が行われていた。
明治初年の神仏分離により神宮寺は分割され、そのまま神社の下に位置している。
神仏分離といえばどこでも廃仏毀釈が行われたと思っている人がいるが、
法的な手続きで境内地を分割して別の土地とすれば何ひとつ壊す必要はなく、
そうして神仏分離を行っている神社も多い。
神宮寺には応永二十九年(1422)に京都の相国寺から奉納された大般若経六百巻が保管されており、
これは広島県の重要文化財に指定されている。
古くは毎月十三日に大般若経転読が行われており、その慣例が絶えてからも、
一般の人々は長い間毎月十三日を参詣日としていたことが江戸時代の地誌に見える。

府中市木野山町に鎮座する高木神社とは何らかのつながりがあったようで、
古老の伝承には、高木社の神と南宮社の神が大同二年に御降臨の際、荒谷の山にて別れてそれぞれの鎮座地に赴き、
北の木野山に鎮座した神は明見宮と称し、南の栗柄に鎮座した神は南宮と称した、という。

神社入口。
標柱の向こうに鳥居が見える。
右手の堤の向こうは池で、古くは御手洗池であり、池の中に弁才天、池のほとりに厳島神社があった。
反対側からの眺め。
現在はため池になっている。
長い参道。標柱が立ち並んでいる。
参道の右に面して神宮寺がある。
参道右手にある、神宮寺。真言宗。
境内に多くのあじさいを植えており、「あじさい寺」の通称で知られる。
正面奥に本堂。
石段が見えてきた。背後の森が美しく、堂々としている。 石段前。

石段を上ると、随神門。
随神門には左右二体ずつ随神が鎮まっている。
往古は鳥居の内側にも随神門がありそれぞれに随神がいたが、
そちらの門がなくなったためにこちらに収められたという。
となると、その形式は一宮と同じであり、一宮に準ずる大社であったことがうかがえる。

随神門からの石段は左右に分かれる。
その上に拝殿がある。
拝殿からさらに石段を上がったところに本殿がある。
この形も一宮と同じ。


南宮神社本殿。正面五間の堂々たる造り。府中市指定文化財。
その建築は備後一宮・吉備津神社のそれと酷似しており、ミニチュアといってもいいほど。
吉備津神社を造営した職人集団が、吉備津神社竣工後、引き続きこちらを建てたともいわれている。
一宮に次ぐ備後第二の大社であったことを示す社殿といえるだろう。

本殿内の造りも一宮とほぼ同じ(ただし簡略化されていて狭い)。
大絵馬が何枚も奉納されている。
境内三末社。
貴船神社、厳島神社、出雲神社。
もとは境外に鎮座していたが、社殿の朽損などの理由で遷座してきた。
鐘楼。府中市指定文化財。
神仏習合の施設。
昔、福島正則がここの鐘を没収して広島へ運ぼうとしたが、
尾道の沖で海に落ちたという。
その後新たに寄進されたが、
幕末、諸外国への備えのための大砲を造るためにまた徴発された。
それ以来、神仏分離もあって長い間鐘はなかったが、
先年鐘が寄進され、元の姿に戻った。
鐘楼より外側は神宮寺の敷地になる。
ここはもと釈迦堂があったところで、
行基菩薩作の六尺の釈迦像が祀られていた。
元禄(1688-1703)のころ、盗人がこの釈迦像を盗み出し、
分解して菰に包み、馬に乗せて備前の西大寺まで行ったが、
突如乱心し、
「備後国芦田郡栗柄村の者じゃ、そこまで送り返してくれえや」
(方言適当)
と口走ったので、そのまま送り返され、正気に戻って仰天したという。

幕末に書かれた神宮寺由来書には、
寛文年中(1661-72)にこの釈迦堂が破損したので、
釈迦像と脇立の文殊・普賢菩薩像を神宮寺本堂に安置していたが、
文政六年の火事で仏像は焼失、
釈迦堂は追々修復して現在はある、と記されている。
神社の東の山の中腹にある孝霊天皇御陵伝説地。
それと記した文書もなく、ただ、
地元の樵がそうであると言い伝えてきた塚。
天皇は『日本書紀』に大和の地に葬られたことが記されており、
いったい誰が眠っているのか、それはわからない。
一段下は神宮寺境内であり、墓地が広がっている。
墓参の人は多く、常に誰かお参りしている。
神宮寺。
神宮寺境内。正面奥に南宮神社鐘楼が見える。 弘法大師のお堂。

高龗(たかおかみ)神社。

福山市新市町藤尾に鎮座。
地元では名滝として知られる「藤尾の滝」の手前の山に鎮座する。

藤尾はほとんどが山で、江戸時代の地誌『西備名区』の藤尾村の条にも、

  この村は高山多くして田畑少なく、土地が甚だ広く道路四里余に及ぶ。
  ゆえに山林の樹木を炭としてこれを四方に売る、村民の半ばはこれを生業とする。

と記されている。
銀山があって一時期隆盛したが、落盤事故があって坑道が埋まってしまい、また閑散としてしまったともいう。

水神である高龗神を祀る。
この神は当てられている漢字から蛇の姿であるとみなされており、
仏教の八大龍王と習合した。
この社も、近代に至るまでの長い間「八大龍王社」と呼ばれていた。
いずれも水神であり、祈雨の神。
社伝によれば、創祀は延暦十八年(799)三月、初めて社殿を建てたという。
このとき、『延喜式』神名式、備後国葦田郡二座の一として記される国高依彦神社を合祀。
弘仁四年(814)六月二十四日、空海がこの地を訪れ、雨乞いを行って大いに雨降り天下が潤ったことから、
この社を八大龍王と称した。
文永三年(1268)八月に国高依彦神社を分祀して新たに社殿を造営したが、
寛正三年(1462)三月に国高依彦神社は火災により焼失、再び龍王社に合祀された。

上流に、この地方の名滝として知られる「藤尾の滝」があり、
古くは、旱魃の時にはこの社で雨乞いを行った後、藤尾の滝にて御祓を行い吉凶を占った。
滝壺に蛇が浮かべば雨が降り、カワヘビが浮かべば雨なし。
藤尾の滝は三段あり、まず一段目で吉凶を占い、験なければ二段目で占い、
さらに験なければ三段目で占い、それで験なければ大旱来るとされた。
この三段の滝(それぞれ一の降〔ふり〕、二の降、三の降と呼ばれた)のそれぞれにも神が鎮まるとされ、
一の降には罔象女神(みつはのめのかみ。水の女神)、
二の降には豊玉姫命(海神の姫神。水の神)、
三の降には長津彦神(風神であるシナツヒコ・シナツヒメ)
を祀る。
地元には、吉備地方を平定した吉備津彦命がこの地を訪れ、
この滝の神々に会ってこれを鎮め祀ったという伝承がある。
雨乞いの神事は、近年にも行われている。

県道は新市町と神石高原町を結んでいる。一車線、渓流沿いの狭い道。
新市方面からだと、藤尾の滝の表示が目印。
ここから神社の鎮座する村まで延々と山中を走ってゆく。

一宮さんからさらに北に向かう県道26号線から右折し、藤尾の滝方面へ入ってゆく。
藤尾の滝方面へ走る途中、左手山側の道端にある「白滝の名水」。
日照りにも枯れることがないので、
日照りの時には人々はこぞってここの水を汲みに来たという。
現在でも汲めるようになっている。
周囲が開けたところに集落があり、
この上の父尾山に神社が鎮座している。
集落に入ってすぐ左手の参道入口に社号標がある。
登っていきやす
山道 小川がある。
木が倒れまくってるけど、小川。
途中この川にかかる丸木橋を渡る。
つっこめー えーと道はどれだ
鳥居!
私は間違っていなかった!(道を
しかしまだ急坂
参道がぐるりと旋回し、石段、そして随神門が見えた。
やっときたー
随神門。
随神門からさらに石段を上ると、拝殿が見えてくる。 拝殿。さらに石段を上った先に本殿が鎮座。
本殿。社殿こそ小さいが、装飾などかなりの力が入っている。
本殿の装飾。 本殿から拝殿方向を見る。
周囲は険しい山々。


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