にっぽんのじんじゃ・ひろしまけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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備後国:

深津郡(福山市中心部~東部):

もとは安那郡の一部であったが、養老五年(721)四月に分割設置された郡(『続日本紀』に設置記事)。
現在の福山市市街地にあたる。
古い時代にはほぼ海の底であり、現在の蔵王町・蔵王南町の一帯はかつて「市村」と呼ばれ、
『日本霊異記』に「深津市」とみえる栄えた港町であったと考えられている。
その後、平安海進の終焉と川の土砂堆積によって海岸線が後退してゆき、
山陽道も古くは神辺から府中、御調に向かっていたのが、時代が下ると海の近くを通って尾道へと向かうようになった。
江戸時代になると、福島正則に代わって藩主となった譜代の臣・水野日向守勝成が福山城を建築して神辺城から移り、
その城下町として大きく栄えることとなる。
藩主はその後松平家・阿部家と替わり、
幕末には藩主阿部正弘が老中筆頭となって海外の脅威にさらされる日本の舵を取った。
明治時代には安那郡と合併して「深安郡」となったが、これは「もとの安那郡」に戻った形になる。
現在は福山市となり、広島県第二の都市としてまあそれなりに栄えている。

福山八幡宮 蔵王八幡神社


福山八幡宮(ふくやまはちまんぐう)。

福山市北吉津町に鎮座。
福山城の北に位置する、福山の総鎮守社。

全国にそれこそ数多く鎮座している八幡さんの一社で、そのこと自体は珍しくはないのだが、
この神社の由緒は少々ややこしい。

深津郡野上村(現在の野上町から福山城、福山駅前一帯)には二社の八幡宮が鎮座しており、
それぞれ若宮八幡宮、惣堂八幡宮といった。
これを、戦国時代の天文年中に杉原播磨守盛重が、
若宮八幡宮を松山という山(現在の福山城内北部、備後護国神社が鎮座するあたり)に、
惣堂八幡宮を樫木谷(現在の伏見町の南あたり)という所に遷して造営、ともに社領を寄進した。
その後、江戸時代になって水野勝成公が福山城を建築するにあたり、この二社が城内区画に入るため、
松山の若宮八幡宮をもとの鎮座地である野上口(現在の神輿御旅所)に戻し、
樫木谷の惣堂八幡宮は、神島町下市、現在の延広町「宮通り」の地に遷座した。
宮通りは現在の福山駅前大通りから東に伸びる、大通りに面して朱の鳥居が立っている通り。
江戸時代は「宮の小路」といったが、その名はこの八幡宮に由来する。
(現在、宮通りには「福山神社」が鎮座するが、これは海岸部の埋立開発工事に伴い、昭和三十三年に海岸付近の三社を遷座合祀したもの)
寛文二年(1662)、水野家でお家騒動があり、惣堂八幡宮はその名が「そうどう」であるので、
その響きを忌んで「延広八幡宮」に社号を変更した。
その後、延広町で火事があったため、この神社も旧社地に戻された。
二社の八幡宮はいろいろあったのちともに旧社地に戻ってきたのだが、
水野家第四代藩主である水野勝慶(勝種)公は八幡宮を福山城下の総鎮守社とすることにし、
この二所の八幡宮を福山城北の吉津川のほとり、松廼尾(まつのお)山の麓に遷座して造営。天和三年(1683)八月に竣工した。

ともに八幡宮であるので、一ヶ所にまとめる場合は普通合祀して一社の八幡宮とするのだが、
勝慶公はそうはしなかった。
まったく同じ規模の本殿、拝殿、随身門、総門を備える神社を東西に並立させ、
東の宮が延広八幡宮、西の宮が若宮八幡宮(野上八幡宮)と、それまでと同じく独立した別々の八幡宮とした。
そして、西宮八幡宮を藩臣および野上・多治米の産土神、東宮八幡宮を城下町屋の産土神と、
それぞれの氏子を定めた。
そういう形であったので江戸時代は例祭の日も別々で、
明和六年(1769)に西は八月十七日、東は八月十三日と定められた。
以上は『福山志料』による。


同一境内に同じ社号の神社が並立するという形は非常に珍しい。
武士の氏神、町人の氏神を同じ規模で並べるというのは、
三十代以降の働き盛りを放浪生活で庶民の間で暮らし、
そこで知った民の生活や心というものを藩政に活かした初代藩主・水野勝成公(徳川家康公の従兄弟)の遺徳というものか。
彼は善政の秘訣を尋ねられたとき、
「わしは昔(放浪時代)虚無僧をしていたので、下々のことはよくわかっている」
と答えたといわれている。
戦においては武田勝頼戦を初陣とする歴戦の猛者で、
いいかげん歳を取った大坂夏の陣でも、大和路方面の先鋒大将に任ぜられているにもかかわらず一番槍で突撃したほどの「鬼日向」、
極めて短気で、行く先々でトラブル起こしてすぐ出奔するハチャメチャな性格、
でも藩主となってからは流浪時代の経験を活かして名君となり、
だがおとなしくなったわけではなく、島原の乱の時には九州以外の大名で唯一の出陣要請に、
「この歳になって、まだこんな働きの場があろうとはな!」
と、当時はすでに隠居していたにもかかわらず、自ら指揮していた溜池の普請をほっぽり出して子と孫を引き連れ出撃と、
勝成公は戦国武将の中でもひときわエキセントリック。
それはさておき、近代になっても両社は別の神社として活動していたが、
昭和四十四年(1969)に合併、現在の「福山八幡宮」となった。

祭神は応神天皇、神功皇后、比売大神。
比売大神は宗像三女神のこととする。
また境内には、初代福山藩主水野勝成公を祀る聡敏神社が鎮座する。
聡敏神社は、もとは東西両宮の中間に鎮座していたが、
東西合併によって両宮の間に総拝殿を造営したため、西御宮の後方に遷座している(もとは西宮の境内社扱いであったため)。

平成二十一年に御鎮座三百二十五年の式年祭(福山八幡宮は二十五年ごとに式年祭を行う)が行われ、
それに伴って西御宮には造営当時を思わせる華麗な彩色が施されている。

神社前の吉津川。 橋を渡ると東御宮入口。
東御宮参道。
西御宮参道との間は広大な駐車場になっている。 参道右手には東御宮の東参集殿がある。
もちろん、反対側には西御宮の西参集殿がある。
東御宮石段。上には随身門がある。 東御宮拝殿。
東御宮拝殿および本殿。
昭和四十四年の延広八幡宮・野上八幡宮の
合併によって新たに造られた総拝殿。
西御宮拝殿および本殿。
手前から東御宮拝殿、総拝殿、西御宮拝殿。
現在は、一般の祈願は総拝殿で行っている。
西御宮随身門。 式年祭に伴い補修され、
造築当時の彩色が復元された西御宮本殿。
西御宮後方に鎮座する聡敏(そうびん)神社。
福山藩初代藩主・水野勝成公を祀る。
勝成公卒去ののち、その御魂は福山城内に祀られていたが、
その後阿部家が入封したこともあり、享保五年(1720)に東西両宮の中間に遷された。
昭和44年の両社合併によって総拝殿が造営される時、現在地に遷座。

勝成公は、武将としては「鬼日向」と呼ばれるほどの猛将で、常に戦闘の最前線に立ち、
大坂の陣では家康公から大和方面軍の先鋒大将に任じられ、
彼の性格をよく知る家康公から「いいか!絶対先陣には立つなよ!絶対だぞ!」とフラグ、もとい釘を刺されたにもかかわらず、
道明寺における後藤又兵衛との戦いでは一番槍で突撃し首級を挙げるなど、どうにもこうにも血の気の多い人間だった。
官職の「日向守」も、これが明智光秀の官職だったので「縁起が悪い」と誰も受けようとしないのを、
勝成公は笑い飛ばして自ら日向守を所望したという。
十六歳の初陣の相手は武田勝頼で、そののち小牧・長久手の戦にも参戦し、
関ヶ原では本戦には出られなかったがそれに先立つ曽根城防衛戦で島津軍を退け、続いて大垣城攻略に参加。
大坂夏の陣でも大和・天王寺方面で奮戦、前述の後藤基次や真田信繁、明石全登を破り、
さらに大坂城突入の際は一番旗を立てた。
この時、剣豪として知られる宮本武蔵は水野軍中にあって、御供騎馬武者の一として勝成公の子・勝俊公の護衛を行っている。
そして最後の戦いは島原の乱(九州以外の大名で唯一参戦した)と、
百戦錬磨の武人だった。
ただ、三十~四十代の働き盛りにはトラブル続きで出奔放浪を繰り返し、
仙石秀久、佐々成政、小西行長、加藤清正、黒田長政・・・と仕えながらも長続きせず、その後はおもに中国地方を放浪していた。
それでも、その間に民衆の間で暮らし、彼らの心や生活の有様を身をもって知ったことが、
藩主となったときにその施政へと存分に活かされた。
民の生活のための政策を次々と打ち出して福山十万石の地を繁栄へと導き、「聡明、俊敏」と称えられ、
卒去後は朝廷より「聡敏大明神」の神号を与えられた。
水野家の統治期間には一揆は一度も起こらず、小作人もほとんどいなかったと伝えられる。
最終官職は従四位下日向守だったが、のち大正八年(1919)に従三位を追贈されている。

聡敏神社は、同じく水野家が治めた結城藩(茨城県結城市)の結城城内にも文化十三年(1816)に勧請され、
現在もその城跡に祀られている。
聡敏神社前の狛犬。
「願主大阪博労町吉田屋徳兵衛」と彫られている。
聡明俊敏神社の右手、
両宮本殿裏に並ぶ末社たち。

八幡神社(蔵王)

福山市蔵王町5丁目
山陽自動車道・福山東ICおよび福山市民病院の南に鎮座。

蔵王町の産土神。
祭神は応神天皇・神功皇后・三女神(宗像)。
創祀は不明だが、中世には祀られており、慶長十九年(1614)三月に現在地に遷座された。
往古は海蔵寺という寺の鎮守社であって「弥陀八幡宮」と呼ばれており、社領二十貫を有していたが、
毛利元康によって削られたと伝えられる。
  毛利元康は元就の八男。山陰地方の戦で功を挙げ、末次城主となったことから末次氏を名乗り、
  その後、急死した兄の元秋を継ぎ、椙杜氏となって出雲国の月山富田城主となった。
  天正十九年(1591)に吉川経言が月山富田城に封ぜられると、備後国神辺城に移って備後国東南部を領し、
  文禄・慶長の役には当主・輝元の名代として朝鮮に赴き、碧蹄館の戦いで明軍を撃破するなどの功を挙げ、
  関ヶ原の戦の直前には、徳川と石田のどちらに付くべきか揺れる家中をまとめ、外部との折衝に当たっていた。
  現在も広島市内にかかっている「元安橋」の名は、彼にちなんでつけられたといわれている。
毛利氏は基本的に社寺へは篤い保護を加えていたが、朝鮮出兵時にはその莫大な戦費を捻出するために社寺領の収公が行われた。
その時には出雲大社領さえ大幅に没収されたので、一般の社寺は推して知るべし。

この海蔵寺は近世にはすでに廃絶していた寺であり、
『福山志料』深津郡・市村廟墓条には、八幡宮は「海蔵寺という所にある」とあり、地名として残っていた。
『備陽六郡志』後得録・深津郡の「市村海蔵庵の事」には、

  往古、海蔵寺という寺があった。当村の産土の八幡は海蔵寺の鎮守であったという。
  そのため、海蔵寺の廃跡が八幡の境内にあって、礎が今に残っている。(後略)

と、海蔵寺の跡が八幡の境内にあると記している。
この寺跡は現存しており、昭和25年から昭和51年まで四度にわたる発掘調査が行われた結果、
海蔵寺は南面して東に塔、西に金堂を配置する、いわゆる「法起寺式伽藍配置」の寺であったことが判明している。
中門や回廊、講堂などほかの建造物の存在は確認されなかったが、
これらは丘陵斜面という敷地の制約上、設けられなかったと考えられている。
出土遺物は瓦類が主で、7世紀末から9世紀前半の軒丸瓦や軒平瓦、
また塼仏残欠、金具類、土師器、須恵器などが出土している。
瓦の中には文字を記した文字瓦があって、塔跡土壇北側からは、
「紀臣和古女」「栗栖君」「軽部君黒女」「・・・粟麻呂」「・・・部臣飯依女」などの12点が見つかっており、
女性の名が多いことが特徴で、これらは造営関係者もしくは寄進者の名とみられている。
これらの出土した瓦類は、福山城博物館にて展示されている。
この寺跡は昭和44年に「宮の前廃寺跡」として国の史跡に指定され、その後環境整備事業によって復元・保存が行われている。
「宮の前」とは、当地の字による。

現在、蔵王町の前に広がる深津町以南は完全な陸地となっているが、
古代において、瀬戸内海は蔵王山や天神山の麓まで入り込み、深い入江を形成して「深津」と呼ばれていた。
『万葉集』巻第十一に収録されている「寄物陳思」の歌(物に寄せて思いをのべる歌)の中に、

  路後(みちのしり) 深津島山(ふかつしまやま) 暫(しま)しくも 君が目見ねば 苦しかりけり 〔2423〕

という歌が収録されている。
「みちのしり」とは「吉備の道の後(しり)の国」、つまり「備後」のこと。
「ほんの少しの間でも、あなたの目を見なければ心が苦しくなってしまうのだ」という恋の歌の、
「暫しくも」という言葉の頭の「しま」を引き出す、その序詞として「備後の深津島山」が用いられている。
これは、深津の港が広く中央の人々にも知られていたということであり、
さらに、歌としては深津島山を「君」として呼びかける形でもあることから、
おそらくは愛すべき風光明媚の地として認識されていたと思われる。
また、備後は中央からみれば遠隔地であることから、その恋する人とは容易に会えない状態であることも想像される。
この深津には市が立てられており、
『日本霊異記』下巻第二十七、
「髑髏(ひとかしら)の目の穴の笋(たかんな)を掲(ぬ)き脱(はな)ちて、以て祈(ねが)ひて霊(くす)しき表(しるし)を示しし縁」は、
備後国葦田郡および深津郡が舞台となっている話だが、そこでは宝亀九年(778)のこととして、
年末に備後国葦田郡の人が正月元日の物を買うため「深津郡深津市」に出かけるということが記されており、
そこでは「讃岐国の人に馬を売った」という記述もあって、
諸国の人が集い、いろいろな物品が集散する活発な市であったことがうかがえる。
また、「法隆寺縁起并流記資材帳」には「深津荘」という名がみえ、かなりの集落が営まれていたとみられる。
この港は備後国府の外港として機能していたと考えられ、
養老五年(721)に安那郡より深津郡が分置されたのも、この港町の管理の必要性が大であったためだろう。
この深津市があったことから、のちにこの一帯は「市村(いちむら)」と呼ばれるようになった。
「海蔵寺」という寺号も、7世紀の創建当時には眼下に広がっていたであろう美しい入江の景色、
それを一望のもとにする、蔵するという意で名づけられたか。
出土文字瓦の中にみえる「紀臣」は紀伊国造家一族である紀氏。
紀氏は海洋民であり、上古は吉備海部(きびのあまべ)氏らとともに海上交通や朝鮮との外交などで活躍した。
ここに紀臣の名が見えることは、紀氏と吉備海部氏の関係の深さを示し、
海蔵寺創建においても紀氏の援助があった、ということになるだろうか。

ちなみに、『備陽六郡誌』によれば、
江戸時代初期の元和・寛永の時においても深津村(現在の東深津町・西深津町)のあたりまではまだ海だった。
その後、深津村の沖合に「千間土手」という長大な堤を築いて干拓が行われ、寛永十八年(1641)に成就。
この開拓事業は難航したため、浜辺に鎮座していた塩崎神社(東深津町2丁目鎮座)に祈願したところ順調に進んだといい、
当時はその辺りまで海であったらしい。
千間土手は現在も国道2号線の「千間土手(西)」「千間土手中」という交差点、またバス停にその名を残す。
この千間土手は、そののち手城村(福山市手城町)が開拓された後も、手城の土手が決壊した時の二段構えの土手として存続していた。

蔵王八幡神社の秋の例祭の前夜祭、および例祭当日には、「はね踊り」という太鼓踊りが奉納される。
旧福山藩内の地域には太鼓踊りが広く伝えられているが、
この形態の踊りは旧沼隈郡を源とし、深津郡・安那郡南部など福山藩内の海沿いの地域に伝わっているもので、
かつては祭礼時のほか雨乞いの時にも踊られていたが、現在は祭礼時のみに行われる。
「道行」「宮巡り」「せぐり」「打ち込み」の四種の曲調があり、鉦・諫鼓(かんこ)・大胴(おおど)の三種の打楽器を用いて演奏する。
「せぐり」「打ち込み」では、踊り手は円陣を組んで楽器を奏でながら、跳ね上がるような所作を交えて踊るが、
この所作から「はね踊り」の名で呼ばれている。
「打ち込み」においては中唄も歌われる。
蔵王八幡神社のはね踊りは、その隊形や所作が江戸時代後期の形態をよくとどめていることから、
「蔵王のはね踊り」として平成20年2月28日、県の無形民俗文化財に指定されている。
「はね踊り」は、ほかには福山市沼隈町のもの、福山市田尻町の田尻八幡神社のものが県指定無形民俗文化財となっている。

この「はね踊り」は、勇猛で鳴らした水野勝成公が福山入封ののち、
この踊りが勇壮で活気に満ち、士気を鼓舞するとしてこれを奨励、
各村々に鉦鼓を給付し、雨乞い・虫送り・祭礼などの諸行事において行わせたことから広く盛んになったといわれ、
『福山志料』には、このはね踊りは「沼隈郡柳津村」を本とすると記されている。
また同書には、当時(19世紀初頭)のはね踊りの唱歌も収録されている。

  〔音頭〕あらめでたや地からもわいて
  〔同音〕空からもふる
  〔音頭〕地からもわいて空からもふらば
  〔同音〕五こくもみのる
  〔音頭〕五こくみのりて豊な御代や
  〔同音〕これも代さかり
  〔音頭〕これの代さかりに七からたてて
  〔同音〕貢納めてかしつけもする

五穀豊穣を祈り、また感謝する踊り。

この地はかつて市として栄えた港町だったが、
現在も国道182号線が走り山陽自動車道・福山東ICがすぐ北にある、交通の要衝となっている。

蔵王山と天神山の間を通る国道182号線の、さらに山陽自動車道福山東ICに近い、
交通量の多いところから山を上っていったところに鎮座する。
境内には様々な木が植えられていて、大変きれい。
一段高い所にのぼる。
この両脇に「宮の前廃寺跡」がある。
東にある塔跡。西北隅から東南方面を見る。

基壇は一辺12.6mの正方形で、面積みと小口積みにした塼で化粧し、北を除く三面に階段を設けている。
現存礎石と抜き取り穴から、柱間2.22m、方三間の塔が立っていたと考えられる。
東北隅・西北隅の東隣・西南隅の東隣・中央、の四つの石が遺存礎石で、残りの石は復元のための補充礎石。
遺構保存のために基壇は埋め戻され、礎石のみ見えるようになっている。

向こうの丘に社が見えるが、これは「松葉佐(まつばさ)神社」。
通称は松葉佐権現といい、近世にはすでに鎮座していたが、由緒は不詳。
西にある金堂跡。

金堂の基壇は東西25.3m、南北15.5mで、四囲を塼積みと乱石積みで化粧しており、
その寸法から、桁行7間、梁間4間程度の建物であったと推定される。

金堂や塔は奈良時代最初期に建てられており、平安初期以降の遺物がないことから、
これらの施設は早いうちに焼失したと考えられている。
ただ、「海蔵寺」という寺号が地名として残っていたこと、そして八幡社がその鎮守としてあったということから、
海蔵寺はその後も何らかの形でこの地に存続しており、おそらく鎌倉時代以降に八幡社が鎮守社として勧請され、
海蔵寺が廃絶した後、寺の鎮守社にすぎなかった八幡社が市村の産土神として奉斎されることとなって現在地に遷座し、
立派な社殿を建てるに至ったものか。
手水を取って石段を上ると、随神門。
石段の上に拝殿が見える。
拝殿。
八幡神社本殿。三間社入母屋造、向拝・千鳥破風・唐破風付。
現在の社殿は明和六年(1769)再建のもの。
備後地方の神社本殿はおおむねこのような造りになっているが、
これは備後一宮である吉備津神社の様式に倣ったもの(ただし吉備津神社は七間社とデカい)。
吉備津神社は本殿より一段下の離れた場所に拝殿があるが、これも概ねの神社がそれに倣っており、
本殿より少し離れたところに拝殿あるいは舞殿を建てていたが、
明治になって統一された神社祭式が定められた時、そこでは拝殿と本殿を繋ぐ「幣殿」にて祝詞奏上などを行うことになっていたため、
多くの神社では幣殿を増設して本殿と拝殿を連結したり、
本殿と拝殿の間が離れすぎているところでは新しく拝殿・幣殿を建てて、元の拝殿を「神楽殿」としたりしている。
『備陽六郡志』には、八幡社の境内設備について
 
  社〔三間四面〕 舞殿〔二間・六間〕 随神門〔一間・三間〕

と記しており、このころにはまだ幣殿はなかった。
また、現在は正面三間・側面二間の社だが、『六郡誌』執筆当時(明和六年より以前)は三間四面の社だったようだ。
神社を運営する者としては、

  神主 〔当村〕善三郎  
  禰宜 〔同〕 土屋丹後守
  社僧 〔同〕 医王寺

との名がある。
中世から近世、この地方では、神主(今でいう宮司)にはその村の村長あるいは村長クラスの実力者がなり、
神職は禰宜として神主の下で祭祀を執り行っていた。
また、規模の大きな神社では近隣の寺院が祭祀や経営に関わっており、
当社では近隣にある真言宗の医王寺が社僧となっていた。
境内西の末社。

「はね踊り」は、この広場にて踊られる。
境内東の末社群。
廃寺跡より南を望む。
正面左奥には引野町・大門町の山々が見えるが、ここと向こうに挟まれた部分が入江となっていたのだろう。
手前右には深津町の小山、王子山が見えるが、『万葉集』に「深津島山」と詠まれているのはこれではないかともいわれている。
もっとも、海から見た時の陸地の山はすべて「島山」というので、たとえば蔵王山を「島山」と呼んだ可能性も高い。
この王子山には、毛利元康が文禄・慶長の役より帰還後、神辺城から移して本拠とした「王子山城」があった。
内陸部の神辺から当時は海辺の岬であった王子山に居を移したのは、
のちに水野勝成が福山城を築いたのと同じく、海上交通の便を重要視したものだろう。
あるいは、海路補給がおぼつかず難儀した朝鮮での経験が大きかっただろうか。

はるか右奥には沼隈半島が見える。
裏参道の駐車場のところにある石仏。 すぐ近くには山陽自動車道の福山東ICがある。
この辺り、朝夕は超絶混む。

現在、町名を「蔵王」というのは当社の西向かいに聳える蔵王山に基づくが、
ではこの蔵王山にかつて蔵王権現を祀っていたのか、というと、祀ってはいなかった。
『西備名区』深津郡市村・同新涯沼田条には、

  八大龍王社  当社を里俗は蔵王権現と称する。旱魃甚だしい時は、有司が藩内の雨乞いを行うと、必ず雨が降る。
   (*現・高龗神社

とあり、また、

  蔵王山下城  この山に八大龍王が鎮座しており、ザオウ山という。
            東麓は千田村にかかっており、千田分に平賀の城跡がある。かの村の由緒に伝える。

とあって、龍王の社を一般人は蔵王権現と呼んでおり、その鎮座する山を蔵王山といっていた、ということになる。
蔵王権現=八大龍王という例はないので、
ある一時期、龍王社に修験者が滞在して蔵王権現を祀り修行していた、というようなことがあって誤り伝えられたのだろうか。
蔵王山は今でも登山スポットで、ロッククライミングのできる岩壁もあり、修行にはうってつけの山だっただろう。
この蔵王山の山頂には、大内義隆の将・平賀隆宗が尼子に与した神辺城の山名理興(ただおき)を攻めるために築いた城跡がある。
また、山頂近くの医王寺旧跡と伝えられる所から奈良時代の瓦が出土していることから、
『日本書紀』養老三年(719)十二月十五日条に、
  
  備後国安那郡の茨城と葦田郡の常城を廃止した。

とある、白村江の敗戦後、外寇に備えて西日本各地に築かれた城のうちの「茨城」がこの蔵王山にあったのではないかという説がある。
深津郡が安那郡から分割されたのは二年後の養老五年(721)なので、この地を安那郡と表記することに矛盾はないが、はたして。



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