にっぽんのじんじゃ・いしかわ

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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*加賀国

石川郡(現在の金沢市、野々市町、白山市):

白山比咩神社


白山比咩(しらやまひめ)神社。

白山市三宮町に鎮座。
国道8号線から鶴来バイパス(国道157号線)を南下していったところ、
手取川がつくった扇状地の根元、山地への入口に鎮座している。
ここから30kmあまり南の白山を祀る。
白山の頂上には奥宮が鎮座する。

『延喜式』神名式、加賀国石川郡十座の一。小社。
加賀国一宮で、全国各地に鎮座する白山神社の総本宮。

岐阜県との県境に聳える霊峰・白山の女神、白山比咩大神を祀る神社。
創祀は崇神天皇七年と伝えられ、当初は現鎮座地より北の船岡山に鎮座していたが、
応神天皇二十八年に少し北方の手取河畔、現在の水戸町の十八講河原に遷座。
しかし社地がたびたび水難に遭ったため、霊亀二年(716)、元正天皇の詔により東南の地、安久濤(あくど)の森に遷座した。
その後、文明十二年(1480)の大火災によって本殿が炎上、三宮の地であった現鎮座地に仮遷座。
本殿の再建が図られたが果たされることなく、そのまま三宮の地に鎮座して今に至る。
加賀一宮なのに鎮座地名が「三宮」なのは、もともと白山比咩神社の三宮の地であったから、ということ。

その霊験は古代より中央に聞こえ、六国史内(9世紀中頃まで)では神階正三位まで授けられており、
その後の経過は不明も、『源平盛衰記』などによれば、その当時(12世紀末)までには正一位を授かっていたことが知られる。
白山頂上の奥宮は養老元年(717)の修験道の僧・泰澄大師創建。
最高峰・御前峰(ごぜんがみね)頂上に奥宮が鎮座して白山比咩大神を祀り、
大汝峰(おおなんじみね)に摂社大汝神社が鎮座して大己貴命を祀り、
別山(べっさん)には摂社別山神社が鎮座して大山祇命を祀っている。
泰澄大師の登嶺の後、加賀・越前・美濃の三つの馬場(登山路)が開かれ、
それぞれ白山寺(本宮内)・平泉寺(福井県勝山市平泉寺町平泉寺)・長滝寺(岐阜県郡上市白鳥町長滝大門)の
三神宮寺が建立された。
白山比咩大神の本地は十一面観世音菩薩とされ、大神は白山妙理権現と呼ばれた。
修験道の広まりと共に白山信仰は全国的に広まり、白山比咩大神は各地に勧請されて信仰され、
現在、全国各地に鎮座する白山神社の数は三千社といわれる。

白山の神宮寺ははじめ法相宗だったが、その後天台宗に改宗したことで比叡山延暦寺と深いつながりをもち、
比叡山に白山妙理権現が出現したという伝承から日吉神社境内にも「客人宮(まろうどのみや)」として祀られている。
比叡山と結んだことで神社の勢威はますます盛んとなり、延暦寺と同じように衆徒が神輿を立てて強訴に及ぶことも多く、
国府や地頭のもとに押し出したことは数知れず、延暦寺も京へ白山の神輿の動座を要請したことがあるほどだった。
武家の崇拝も篤く、源平の争乱において木曽義仲が倶利伽羅峠の戦いで平氏軍を破ったのち神馬を奉納、
源頼朝も神領を寄進した。
源義経が奥州へ逃亡する途中にも参拝し、安宅関において義経が疑われたとき、
弁慶は義経を白山の修験者であるといった。

室町後期になると加賀の一向一揆衆が勢威を増して白山の権益が侵されるようになり、
一向一揆の徒によって近隣の社寺が焼かれて白山の衆徒は離散流浪、白山長吏は越前に亡命するほどとなった。
そして、一向一揆制圧のために織田信長が差し向けた柴田勝家が手取川を渡った際、
またも戦いに巻き込まれて社殿が兵火にかかった。
このように神社はいったん衰微したが、社人が正親町天皇より社頭復興の綸旨を受け、
前田利家が慶長元年(1596)に社殿を造営して再興、以後加賀藩主前田家が社殿修造・寄進を行った。
また奥宮など山頂の神社については勝山藩、福井藩など、越前の藩が寄進を行う例となったが、
のちに白山が天領となった後は幕府、次いで平泉寺が修造を行うこととなった。

明治になると神仏判然令にもとづく神仏分離が行われ、
本宮の本地堂は破却されて仏器は除かれ、山頂の奥宮からも仏像・仏器が下ろされて西麓の白峰村・尾口村に託された。
美濃の神宮寺である長滝寺は神社と寺院に分離し、越前の平泉寺は神社であることを選んで白山神社となった。
上知令によって神社の領地はすべて国に上知され国有地となり、神社も国の管理下に入っていたが、
先の大戦後、神社が国の手を離れて宗教団体として再出発する際、その境内地を国から無償で払い下げられることになった。
そこで境内地の申請を行うことになったのだが、本宮境内は何の問題もないものの、
奥宮境内であった白山頂上一帯の1689.8ヘクタールについては本宮より遠く離れておりあまりにも広大で、
近世は越前平泉寺の管理下にあったことから認められるかどうかは難しい状況だった。
しかし努力の結果、昭和26年に白山頂上一帯も境内地と認められて国から無償払い下げがなされ、
神体山の祭祀を昔どおり執り行うことができるようになった。

白山の神、白山比咩大神は、『日本書紀』に名の見える菊理媛尊(くくりひめのみこと)とされる。
『日本書紀』の神代巻第五段は伊弉諾尊・伊弉冉尊が山川草木を生み、次いで天照大神ら三貴子を生むくだりで、
本文では『古事記』と違って伊弉冉尊が死ぬ描写がないものの、この箇所には「一書に曰く」という異伝が実に十一も収録されており、
その中で伊弉冉尊の焼死と葬送、黄泉国のエピソードが様々に語られているが、菊理媛はこの十番目の異伝の中に登場する。


  一書にいう。
  伊弉諾尊は後を追って伊弉冉尊のいらっしゃる所に至り、語って、
  「おまえを悲しんでやってきたのだ」
  と仰せになった。伊弉冉尊は答えて、
  「族(うがら。血のつながった親族)よ、わたしを見ないで下さい」
  と仰せになった。伊弉諾尊は従わず、なおご覧になった。伊弉冉尊は恥じ恨んで、
  「あなたはすでにわたしの様子を見てしまわれた。わたしもまたあなたの様子を見ましょう」
  と仰せになった。それで、伊弉諾尊も自らを恥じられた。そして、出て帰ろうとされた。
  そのとき、ただ黙ってお帰りにならず、盟(ちか)って、
  「族離れなむ(親族よ、離縁しよう)」
  と仰せになった。また、
  「族負けじ(親族よ、負けないぞ)」
  と仰せになった。そして(盟いのしるしの)唾を吐かれた時に生じた神を、名付けて速玉之男(はやたまのを)と申し上げる。
  次いで(黄泉国との関わりを)払われた時に生じた神を、泉津事解之男(よもつことさかのを)と申し上げる。
  合せて二柱の神である。
  その妻と泉平坂(よもつひらさか)に相闘うに及んで、伊弉諾尊は、
  「はじめ族のために悲しみまた慕ったのは、わたしが弱かったのだ」
  と仰せになった。その時、泉守道者(よもつちもりひと)が
  「伊弉冉尊のお言葉がございます。『わたしはあなたとすでに国を生み終えました。どうしてさらに生きることを求めましょうか。
  わたしはこの国に留まりましょう。ともに帰ることはいたしません』と仰せになりました」
  と申し上げた。
  この時、菊理媛神も申し上げることがあった。伊弉諾尊はお聞きになってお褒めになり、かくて去って行かれた。
  (後略。この後、伊弉諾尊は橘之小門で禊を行い、大地海原の神を吹き生す)


菊理媛神の名は他の伝承には見えず、どのような神なのか不明で、
神名も「漏(くく)り」あるいは「括り」からきているといわれるが、定かではない。
この伝承でも菊理媛神の申し上げた内容が記されておらず、ほとんど謎の神ではあるが、
黄泉国との境にあること、言葉によって黄泉国との交流をおこなうらしいことから、
恐山のイタコのような、死者との交流を行うシャーマンの神格化かといわれている。
菊理媛神の申し上げた言葉によってその場が円満におさまったとみられることから、
現在では男女の仲を取り持つ縁結びの神として信仰されている。
菊理媛さんのやったことって離婚調停じゃあ・・・とか深く考えるな。
感じろ。
この伝承により、現在の白山比咩神社は菊理媛尊に加えて伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っている。
ただ、『延喜式』の時代には祭神は一座であり、
古代においては白山比咩大神はあくまで白山比咩大神であって、
菊理媛尊に比定されたのは平安後期になってかららしい。

歴史ある古社であって、山間の地ながら参拝者は多く、修験道系と見られる人もちらほら見られる。
境内はそう広いというわけではないが、
山と深い森、すぐ西を流れる手取川の流れと、景観・雰囲気が素晴らしい。
山間の地でとても静かなので、心も静かに参拝できるだろう。
参拝したときは残暑の頃でセミの鳴き声がけたたましかったが、
それが逆に静けさをいや増していて、なんとなく「静けさや・・・」の松尾芭蕉の気分になった。

駐車場と鳥居。
左手には茶屋兼お土産店。
何か訊けば本当に親切に教えてくださいます。
鳥居。 鳥居をくぐると参道はすぐに右に折れて、橋を渡る。
山を登ってゆく。 奥に鳥居が見える。
その脇に手水舎があり、また石段が続く。
参道左手には小さな滝があり、
右手には巨大な神木が立っている。
石段を上りきると、鳥居。
左手に神門があり、この中に拝殿・本殿。
正面の社は荒御前神社。大神の御前に控える神々を祀る。
鳥居の後ろの大木も神木。説明不要なまでにでかい。
神門。 荒御前神社。
拝殿および本殿。
朝方で、正面から日が照り来るので回り込んで撮影。
緑に囲まれ、蝉の声しか聞こえない、とても静かでさわやかな境内。
白山の三峰、御前峰・大汝峰・別山の遥拝所。
私服だったがおそらく修験道であろう方が熱心に祈られていた。
神馬庫の裏に、
祭礼において男たちが持ち上げて力を競った大石が置かれている。
授与所前から。 松尾芭蕉の句碑。

風かをる越の白嶺を國の華

旧鎮座地、安久濤(あくど)の森は道路を隔てた手取川のそばにあり、「古宮公園」となっている。

駐車場の道向かい、
蔵のとなりにあるこの小道を抜けていく。
抜けると、線路に出てくる。右手には廃駅。
これは北陸鉄道石川線・加賀一の宮駅跡。
鶴来駅~加賀一の宮駅間は平成21年10月31日に廃止された。
古宮公園。この一帯が前の鎮座地だった。
1996年、隣接する白山管理センター敷地内の発掘で大量のかわらけ(素焼きの土器。小皿)が一ヶ所から発見され、
その状況がこの公園に移設保存されている。真ん中に見える木柵の中がそう。
祭事に用いたかわらけの廃棄所とみられている。
古くは、一度用いた祭具は二度と用いず、すぐに廃棄していた。
祭事には清浄が求められ、神様の使うものに使い古しを用いることはなく、常に新しいものを用いた。
現在でも、伊勢の神宮は土器調製所において自前でかわらけを製作し、一度用いた後は土に返しており、
古儀を伝えている。
こんな感じで保存されている。 向かいには加賀一の宮駅跡。
かつては白山比咩神社参拝者で大いに賑わった。
廃駅はわびしい雰囲気を漂わせる。
現在、古宮公園には町内を潤す七ヶ用水の守護神として
水門の神、水戸明神が祀られている。
速秋津比子(はやあきつひこ)、速秋津比女(はやあきつひめ)の二柱を祀る。
水門・河口の神であり、また祓えの神でもある。
手取川。
上杉謙信VS柴田勝家で有名だけど、それはもっと下流の話。
鶴来バイパス、国道157号線の一の宮大橋がかかっている。
この一帯は河畔とはいえ一段高いところで、流失の心配はあまりなかったのだろうか。
公園に隣接する白山管理センター。
かわらけが出土したところ。境内の端っこだったのだろう。
加賀一の宮駅舎。
神社拝殿を模したつくりとなっていて、入口には向拝を設けている。

白山に連なる山々。
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