にっぽんのじんじゃ・ならけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


戻る


金剛山系、そして吉野の山に鎮座する諸社。

葛上郡:
(御所市)

葛木御歳神社 葛城一言主神社 葛木水分神社 高鴨神社
葛下郡:
(大和高田市、香芝市、葛城市、北葛城郡王寺町、上牧町)
葛木倭文坐天羽雷命神社 *飯豊天皇陵
忍海郡:
(葛城市の一部。
旧新庄町の一部
葛木坐火雷神社

*葛上郡(かづらきのかみのこおり)

葛木御歳(かつらぎみとし)神社

御所市東持田に鎮座。
和歌山へと向かう国道24号線から東に外れた御年山の麓に鎮座する。

『延喜式』神名式、大和国葛上郡十七座の一。名神大社で、祈年祭・月次祭・新嘗祭において朝廷よりの幣帛に預かっていた。
『延喜式』祝詞式に収録の「祈年祭祝詞」には、
五穀豊穣を祈る対象である「御年皇神(みとしのすめがみ)」に、
「白馬(しろきうま)・白猪(しろきゐ、豚のこと)・白雞(しろきかけ、ニワトリのこと)」
を奉ることが述べられているが、『延喜式』四時祭式の祈年祭条には、
「御歳社」には規定の幣帛に加えて「白馬・白猪・白雞各一つを加えよ」とあり、
その御歳社がこの神社のこと。
『古語拾遺』には、白馬・白猪・白雞を御歳神に奉ることについての由来伝承が記されている。
創祀は不明だが、『新抄格勅符抄』によれば、天平神護元年(765)には大和に三戸、讃岐に十戸の計十三戸の神戸を持っており、
六国史終了時の神階は従一位と、朝廷より非常に重んじられていた。

主祭神は御歳神(みとしのかみ)。
「とし」とは元々五穀の稔りを意味する言葉で、のちにそれが年期をあらわす言葉になったもの。
その御名どおりの、五穀豊穣の神。
『古事記』の神統譜では、須佐之男命の御子で、これも五穀豊穣の神である大年神の御子神となっている。
御歳神社においてはその父神である大年神、そして高照姫命を配祀し、
全国の御歳神・大年神を祀る神社の総本社とされている。
高照姫命は、大国主神の姫神である下照姫命と同体とされる神で、
『先代旧事本紀』地祇本紀には、
「高照光姫大神命、倭国葛上郡御歳神社に坐す」
とみえる。
また、高鴨神社の通称「高鴨社」、鴨都波神社の通称である「下鴨社」に対して「中鴨社」と通称されており、
ともにこの地方の古豪である葛城鴨氏が奉斎する神々だった。

大年神や御歳神などの農業神もそうだが、
皇祖神・天照大神も天孫降臨にあたって稲穂を皇孫に授けており、農業神としての属性を持っている。
またそれゆえ、その子孫である皇室は代々農業を重んじており、
律令制で定められた国家祭祀は豊穣祈願の「祈年祭」と新穀感謝の「新嘗祭」を柱として構成されていた。

『日本三代実録』貞観八年(866)二月十三日条に、
「大和国三年神にはもとは神主がいなかったので新たに置いたところ、祟りがあったのですぐに取り止めた」
という神祇官からの奏言記事がある。
古くは神主(今でいう宮司)を置かない神社だったようで、
その後はこの一帯が興福寺・春日大社の荘園となった関係で春日大社の傘下に入っていた。
江戸期には春日大社の式年遷宮にともない、その第一殿が移築されて本殿となっている。
もちろん現在は独立しており、宮司さんもいらっしゃる。

境内前。
鳥居の前に電柱が立っている。
拝殿前の鳥居。 拝殿。

御歳神社本殿。
近世に春日大社の本殿第一殿を移築したもの。
春日大社は式年遷宮にあたって傘下の神社に古殿を移築することがあり、
大和国内にはもともと春日大社の本殿であった建物を本殿としている神社が多くみられる。
境内摂社。
祭神に縁の深い出雲系の神々を祀る。




葛城一言主(かつらぎひとことぬし)神社。

御所市大字森脇に鎮座。

『延喜式』神名式、大和国葛上郡十七座の一、葛木坐一言主神社(かづらきにいますひとことぬしのかみのやしろ)。
名神大社で、祈年祭・月次祭・新嘗祭に加えて、相嘗祭においても朝廷より班幣があった。
『文徳天皇実録』嘉祥三年(850)十月七日条には
「大和国(中略)石上神、及大神大物主神、葛木一言主神等に並に正三位を進(たてまつ)る」、
『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条には
「正三位勲二等葛木一言主神、高天彦神、葛木火雷神に並に従二位を授け奉る」
とあり、朝廷より重んじられた神だった。
また、祈雨においても奉幣された記録がある。

一言主神は、『日本書紀』雄略天皇四年二月条にその名がみえる。

  天皇が葛城山で狩猟された時、長身の人が谷の向こうに現れて、その姿は天皇に似ていた。
  天皇は、これは神であろうと思われたが、ことさらに問うて、
  「どちらの公(きみ)か」
  と仰せになると、長身の人は、
  「現人之神(あらひとがみ。人の姿をとって現れた神)である。まず王の御名を名乗りなさい。そののちに言おう」
  と仰せになった。
  天皇は答えて、
  「わたしは幼武尊(わかたけるのみこと)である」
  と仰せになった。
  続いて長身の人は名乗って、
  「わたしは一言主神である」
  と仰せになった。
  ついにともに狩りを楽しみ、一頭の鹿を追って、矢を射るのを譲り合い、轡を並べて馳せられた。
  言葉は恭しく慎みがあり、仙人に逢ったようであった。
  日が暮れて狩は終わり、神は天皇をお送りして来目川まで来られた。
  この時、人民はみな、「有徳の天皇である」と申し上げた。

『古事記』にも同じような話が収録されており、
そこでは、互いの従者が矢をつがえて対峙する事態になったので、
天皇が、「そちらの名を名乗れ。互いに名を名乗ってから矢を放とう」と提案した時、
「わたしは、悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離(はな)つ神、葛城の一言主の大神である」
と神が名乗ったので、天皇は相手が神であったことをさとり、
恐れ畏んで弓を下ろさせ、大御刀や弓矢、従者の服をことごとく脱がせ、拝礼して献上したところ、
神は手を打ってその贈り物を受け、天皇を長谷の山の入口までお送り申し上げた、とある。
『古事記』のほうが天皇の神に対する畏敬の念が強く表れており、
『古事記』と『日本書紀』における天皇と神との関係の違いがみられる箇所となっている。
神名は、良いことも悪いことも一言でズバッと言っちゃう託宣の神であることをあらわす。
婉曲に言ってくれないぶん、怖い神様かもしれない。

地元では、願いを一言だけ叶えてくれる「いちごんさん」として親しまれている。
葛城山麓ののどかな田園を見下ろす見晴らしのいいところにあり、眺めているとなんかほっとする。

遠景。並木の参道、その向こう、大木の林立する中に社殿が見える。
参道。 御由緒を記した板。
駐車場。
境内より参道を見下ろす。葛城ののどかな田園風景。
境内の大銀杏。こぶがすごい。

葛木水分(かつらぎみくまり)神社。

御所市関屋に鎮座。
御所市内から大阪府の千早赤阪村に抜ける国道309号線の旧道沿い、
葛城山と金剛山の間の谷間、そこを流れ下る水越川の川辺の高台に鎮座する。

『延喜式』神名式、大和国葛上郡十七座の一。
名神大社で、祈年祭・月次祭・新嘗祭において朝廷よりの班幣に預かっていた。
六国史内では神階正五位下まで授けられている。
『延喜式』祝詞式収録の『祈年祭祝詞』には、大和の地の水利を司る東西南北四水分神の一(西の水分神)に挙げられており、
農耕祭祀のうえで重要視されていた神社。
神名式では、特に霊験のある神として「名神」に指定されており、これは水分四社の中で唯一だが、
名神を列記する臨時祭式名神祭条では名が挙がっていない。
ほかにもそういう神社はあり、これには書写の際の誤写、
あるいは時代が下ってから名神に加えられたが臨時祭式名神祭条に反映されなかった、などの説があるが、
よくわかっていない。
水の神であるため、臨時祭である祈雨神祭八十五座のうちに入っており、これはほかの三社も同様。
祭神はほかの水分社と同じく、天水分神・国水分神。

神社のすぐ側を流れ下る水越川。
このすぐ右手の高台に神社が鎮座している。
参道と鳥居。 拝殿へ。
境内はほかの水分社と比べてずいぶんと簡素だが、
水音がさやさやと鳴っていて心地いい。
本殿。 森の木々。

高鴨(たかかも)神社。

御所市大字鴨神に鎮座。
県道30号線をひたすら南へ走り、御所市に入る。一言主神社を右に見つつさらに南下、30号線が二手に分かれるところを左に入り、
山を上り下りして下っていく途中にある。

『延喜式』神名式、大和国葛上郡十七座のうち、高鴨阿治須岐詫彦根命神社(たかかものあぢすきたかひこねのみことのかみのやしろ)四座。
四座とも名神大で、祈年祭・月次祭・新嘗祭に加えて、
官社3132座中71座しか指定されていない相嘗祭においても朝廷よりの班幣があった。
『古事記』では大国主神と宗像三女神の一柱・多紀理毘売命との子とされ、
「今 迦毛(かも)大御神と謂す者なり」と記されている、
天照大御神と同じ「オオミカミ」という最高の尊称を得ていた、味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)を主祭神とする。
古代に隆盛を誇った葛城鴨氏の氏神で、『日本書紀』では、
「光儀華艶(よそおひうるは)しく、二丘二谷(ふたをふたたに)の間に映(てりかかや)く」
と表記されている美男の神様。
その光り輝く姿から雷神ともいわれ、「アジスキ」というその名から農業神ともいわれる。
『出雲国造神賀詞』では、

  ・・・乃ち、大穴持命(おほあなもちのみこと)の申し給はく、
  「皇御孫命(すめみまのみこと)の静まり坐さむ大倭(おほやまと)の国」と申して、
  己(おの)れ命の和魂(にきみたま)を八咫(やた)の鏡に取り託(つ)けて、
  倭(やまと)の大物主櫛瓺玉命(おほものぬしくしみかたまのみこと)と名を称(たた)へて、
  大御和(おほみわ)の神奈備(かむなび)に坐(ま)せ、
  己れ命の御子、阿遅須伎高孫根命(あぢすきたかひこねのみこと)の御魂を葛木(かづらき)の鴨(かも)の神奈備に坐せ、
  事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈堤(うなて)に坐せ、
  賀夜奈流美命(かやなるみのみこと)の御魂を飛鳥(あすか)の神奈備に坐せて、
  皇孫命(すめみまのみこと)の近き守り神と貢(たてまつ)り置きて、八百丹杵築宮(やほにきづきのみや)に静まり坐しき・・・

と天孫を守護するために大国主神が大和に鎮座させた四柱の神のうちの一柱で、
自らの和魂に続く第二の存在としている。

『続日本紀』天平宝字八年(764)十一月七日条に、

  高鴨神を再び大和国葛上郡に祀った。
  高鴨神について、法臣(*僧位)の円興とその弟の中衛将監従五位下の賀茂朝臣田守らが言上して、
  「昔、大泊瀬天皇(*第二十一代雄略天皇)が葛城山にて猟を行われました。
  その時、老夫があって、その度ごとに天皇と獲物を競い合いました。
  天皇はこれを怒り、その人を土左(*土佐)国へ流されました。
  これは先祖が祀るところの神が化して老夫となったものであり、この時に放逐されたのです」
  と申し上げた〔今、以前の記録を調べたが、この事は見当たらなかった〕。
  ここにおいて、天皇(*第四十七代淳仁天皇)は田守を(土佐国に)遣わし、これを迎えて元の所に祀らせた。

とあるのが国史初見。
この記事は、雄略天皇とともに狩をしていた老人の姿の高鴨神が天皇の怒りを買って土佐国に流されていたのを、
元の地に再び祀ることにした、というものだが、
これは『日本書紀』にみえる雄略天皇と一言主神に関するエピソードに似ているがその結果が異なっており、
『続日本紀』編者も「今、前記を検するに、此の事見えず(今、以前の記録を調べたが、この事は見当たらなかった)」と記している。
味耜高彦根神はこの記事以前に成立した『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』には鴨に鎮座すると明記されており、
記紀においては若々しい美貌の神として描かれていて、その神が老人の姿を取るとも思えず、
『古事記』において「今、迦毛大御神と謂す」とまで書かれた神が土佐に流刑中であるとはとても思われない。
また、これが一言主神であるとしても、『古事記』『日本書紀』とも雄略天皇は一言主神に非常に丁重に接したと記しており、
この記事と合わない。
土佐国一宮である土佐神社は一言主神と味耜高彦根神を祀っているが、
これは『釈日本紀』が引く土佐国風土記逸文に、

  郡家の西に去ること四里、土左高賀茂大社(とさのたかかものおほやしろ)がある。その神の名は一言主尊である。
  その祖(おや)は未詳である。一説にいうには、大穴六道尊(おおあなむちのみこと。大国主命)の子、味鉏高彦根尊であるという。

とあるのに基づく。
「ムチ」に「六道」という字を当てる土佐国のセンスはなかなかにロック。
これによれば、元々大和国の高鴨に鎮座していた一言主神が何らかの理由で土佐に遷座して「土左高賀茂大神」となっていたのが、
天平宝字八年に再び大和国高鴨に還った、ということになるだろうか。
神名式の大和国葛上郡条にて、高鴨神社は「名神大・月次・相嘗・新嘗」という社格ながら一番どんじりに記されており、
葛上郡の神社の中でもっとも官社登録が遅かったことを示している。
味耜高彦根神や事代主神といった出雲の神々を祀る大和の古豪・鴨氏には、祭神に関する何か複雑な事情があったということか。

天平五年(733)成立の『出雲国風土記』意宇郡賀茂神戸条には、

  賀茂神戸。郡家の東南三十四里である。
  天の下をお造りになった大神の命(大国主命)の御子、
  阿遅須枳高日子命(あぢすきたかひこのみこと)が葛城賀茂社(かづらきのかものやしろ)に鎮座している。
  この神の神戸である。ゆえに鴨という〔神亀三年に字を賀茂と改めた〕。
  正倉がある。

と、出雲国意宇郡に「葛城賀茂社の阿遅須枳高日子命」のための神戸があったと記されている。
(平安時代、意宇郡から能義郡が分置されると、能義郡域に入った)
また、『新抄格勅符抄』所載の「大同元年牒」(806)には、当時の全国の神社の神戸(神社の封戸)が記されているが、
高鴨神については、

  高鴨神  五十三戸 〔大和二戸 伊与三十戸 天平神護二年(766)符。 土佐二十戸 天平神護元年(765)符〕

とあり、大和国遷座の翌年に土佐に二十戸、また翌年に伊予に三十戸、そして大和に二戸の神戸を与えられており、
四国と非常に縁が深かった神社であることがうかがえるが、ここに賀茂神戸は含まれていない。
では賀茂神戸の収入がどこに編入されていたかといえば、

  鴨神  八十四戸 〔大和国三十八戸 伯耆十八戸 出雲二十八戸

と、「鴨神」のところにみえる。
これは、『延喜式』神名式、大和国葛上郡の筆頭に記される「鴨都波八重事代主命神社」のこととされており、
『出雲国風土記』『大同元年牒』はともに公式文書であって誤りがあるとは考えられないことから、
平安時代初期において、味耜高彦根神の神戸は「鴨都波八重事代主命神社」に附属していた、
つまりその社の祭神であったということになる。
次に高鴨の神が国史に名がみえるのは、『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条。

  ・・・大和国の従一位大己貴神に正一位を、
  正二位葛木御歳神、従二位勲八等高鴨阿治須岐宅比古尼(たかかものあぢすきたかひこね)神、従二位高市御縣鴨八重事代主神、
  従二位勲二等大神大物主神、従二位勲三等大和大国魂神、正三位勲六等石上神、正三位高鴨神に並びに従一位を、
  正三位葛木一言主神、高天彦神、葛木火雷神に並びに従二位を、
  従三位広瀬神、竜田神、従三位勲八等多坐弥志理都比古神、金峰神に並びに正三位を・・・・授け奉る。
  
この時、「阿治須岐宅比古尼神」は高鴨に鎮座しているが、ほかに「高鴨神」という別の神がいて、
阿治須岐宅比古尼神のほうが格上の神だった。
おそらく、この時までに鎮座地が「葛城賀茂社」から「高鴨社」に遷り、高鴨社の主祭神となったものと思われる。
土佐国風土記逸文の記述によれば、味耜高彦根神は「高鴨神=一言主神」の祖神とされていることから、
高鴨神の上位に置かれたものだろう。
「鴨都波八重事代主命神社」は、神名式では葛上郡の筆頭にあり、
「名神大」に指定され、「月次・相嘗・新嘗」の班幣があったにもかかわらず、
国史において一度も神階授与記事がみられなないどころか、社名すら出てこない。
これも、「阿治須岐宅比古尼神」に対して神階が与えられていたためと思われる。

総合すると、
はじめ、高鴨には「高鴨神」こと一言主神が祀られていたが、
その社もしくはその奉斎勢力が雄略天皇といざこざを起こし、その結果、高鴨一言主神は土佐へ流された。
一言主神とその奉斎勢力は雄略天皇に恭順し、大和国においては「葛木一言主神社」を立てて祭祀を続けることが許されたが、
その顛末の前半部は国史に収録されず、後半部が国史に収録されたエピソードのもととなった。
『日本霊異記』には、賀茂氏出身の役行者が言う事を聞かない一言主神を呪縛したというエピソードがあり、
一般にも「一言主神はやられ役」なイメージがあったと思われる。
また、味耜高彦根神は葛城賀茂社の祭神であり、『古事記』に「迦毛大御神」と呼ばれるほど尊崇されており、
出雲国意宇郡には味耜高彦根神のための賀茂神戸が定められていた。
高鴨神の流刑から約300年が経過し、奈良時代になってようやく高鴨社の復帰が認められると、
高鴨神の祖神である味耜高彦根神が葛城賀茂社から迎えられて主祭神となり、
味耜高彦根神が遷座した後の葛城賀茂社の主祭神は高市御縣より分霊された八重事代主神となった・・・
ということになるか。
「鴨都波八重事代主命神社」は、最古の『延喜式』写本には「貞改号」と注があって、
「貞観年間に社号を変更した」ことが示されており、この時に「都波八重事代主命」の社号を冠したのだろう。

あるいは、味耜高彦根神はもともと高鴨に祀られていたが、
高鴨神(一言主神)の流刑に伴って高鴨の社地が破却されたため葛城鴨に遷座して祀られるようになり、
のち高鴨神の復帰とともに元の鎮座地へ還った、ということかもしれない。
「鴨都波八重事代主命神社 二座」の祭神は、現在では八重事代主神と下照姫神となっているが、
八重事代主神以前の祭神が味耜高彦根神であったとすると、兄妹神を一社に祀っているという自然なことになる。

『延喜式』における高鴨神社の祭神は「四座」となっているが、
現在の高鴨神社の本殿に祀られる神は、
阿治須岐高日子根命、事代主命、阿治須岐速雄命、下照姫命、天稚彦命の五座となっている。
事代主命は主祭神の異母弟神で、国譲りにおいては大国主神の国譲りの言葉を代弁している、託宣の神。
また朝廷の神祇官において祀られていた「宮中八神」の一であり、高く崇敬されていた。
下照姫命は主祭神の実の妹神。天より国譲りのために遣わされた天稚彦命と結婚した。
天稚彦命は下照姫と結婚したことで大国主神の後継者になろうと思い天上に復命せず、
天上よりの使いを射殺したことから命を落とすことになった。
天稚彦命は主祭神と親交を結んでおり、また主祭神と姿形がそっくりであったとされている。
阿治須岐速雄命(あじすきはやおのみこと)については不明。
祭神については古来様々な説があったようだ。

大和を西から見下ろす金剛山系の麓近くに鎮座しており、
空には雲が湧き、そびえる葛城の山々とあいまって、なにか迫ってくるような空気を感じた。

鳥居。 境内。右手に社務所、左手に池。
池。 拝殿。国の重要文化財。
拝殿の向こうの本殿の丘を取り囲むように、
左右には摂社末社が立ち並ぶ。
主祭神の出自上、出雲の神々がほとんど。
中には稲荷神社もあり、小祠まで朱色の鳥居が立ち並んでいた。

*葛下郡(かづらきのしものこおり)

葛木倭文坐天羽雷命(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみこと)神社。

葛城市加守に鎮座。
国道165号線を走ってゆき、近鉄南大阪線・二上神社口駅のあたりで山のほうへ折れ、登っていった先、
二上山の麓。

『延喜式』神名式、大和国葛下郡十八座の筆頭に記されている。
大社で、祈年祭・月次祭・新嘗祭において朝廷の班幣に預かった。
倭文(しとり、しつり、しどり)とは倭の文、つまり日本古来の文様を持つ素朴な織物のことで、「倭文織(しつおり)」がつづまった言葉。
どういうものであったかについては諸説あるがなおわかっていない。
祭神はこの倭文の神であり、倭文部の祖。
『日本書紀』に見える建葉槌命(たけはつちのみこと)、『古語拾遺』に見える天羽槌雄神(あめのはつちをのかみ)と同一視される。
『古語拾遺』によれば、天羽槌雄神は天岩屋戸神話において「文布(しつ)」を織った神で、倭文の遠祖であると注されている。
『書紀』神代紀第九段本文の異伝には、
国譲りにおいて最後まで従わなかった星の神・香香背男(かかせを)を「倭文神建葉槌命」を遣わして服従させたという伝承があり、
機織の神であると同時に武神であったことがわかる。
伊勢神宮の内宮の相殿神の一柱は高皇産霊尊の姫神である万幡豊秋津姫命で、これもその神名から織物の神といわれるが、
その神体は『皇大神宮儀式帳』によれば「剣」とされる。
古代においては織物と武とが密接に結びついていたらしい。
織物の文様に敵を屈服させる呪力があると見られていたのだろうか?
倭文神は主に東海道から山陰道にかけての地域に幅広く祀られていて、この神社がその総本社とされている。

創祀は不明。
『新抄格勅符抄』収録の「大同元年牒」には大同元年(806)時点での全国の神社の神戸(神社付属の封戸)が記されているが、
そこには「倭文神廿三戸」とあり、このときにはすでに鎮座していたことがわかる。
現在、社殿は三殿ある。
中央に鎮座するのが葛木倭文坐天羽雷命神社。
向かって右には加守(かもり)神社が鎮座。祭神は天忍火命(あめのおしひのみこと)。
『古語拾遺』によれば、
彦瀲尊(ひこなぎさのみこと。神武天皇の父、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊〔ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと〕のこと)が生まれるとき、
海浜に産屋を立てたが、その時天忍火命は箒を作って蟹を掃い、また敷物を掌ったという。
その子孫はそれを職とし、蟹守氏となった。後世には掃守氏、掃部氏とも記したが、その蟹守氏の氏神。
この土地の大字は加守であり、宮司家も蟹守家がつとめている。
左に鎮座するのは葛木二上神社。
二上山頂上に鎮座する葛木二上神社の分祀社とも元宮ともいわれる。
祭神は豊布都霊神(とよふつみたまのかみ。建御雷神の別名)と大国御魂神(おおくにみたまのかみ。素戔嗚尊の孫とされる)。

正面に二上山。
山頂付近には葛木二上神社が鎮座し、また大津皇子の墓がある。
神社の社叢。奥に手水舎と石段がある。 手水舎と石段。
石段を上がると拝殿。 燭台がある。
すぐ西北には明治初年まで薬師堂や庫裏があったようで
(現在も四天王堂あり)、神仏習合の名残だろう。
奥にはみっつの社殿。
木々が繁っており、境内は昼でも薄暗い。 二上山へ登る道。
登山者の方が登ってゆかれていた。

飯豊天皇埴口丘陵。

葛城市新庄町北花内にある。
第22代清寧天皇崩御後の空位期間に執政した飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)の陵。
記紀では飯豊青皇女を天皇の列に加えていないが、
『扶桑略記』など後世の史書では「飯豊天皇」として天皇の列に加えているものもある。
また『日本書紀』でも、天皇の列には加えないもののその死を「崩」、その墓を「陵」と表記し、天皇と同等の扱いをしている。
そして『古事記』は、下巻冒頭に同巻収録の天皇の数を「十九」と記す写本があるが、
第十六代仁徳天皇~第三十三代推古天皇の十八人より一人多い。
この一人多いのは、飯豊青皇女をその数に加えたものであろうとされている。

けっこうな大きさの前方後円墳。


*忍海郡(おしみのこおり)

葛木坐火雷神社(かつらきにいますほのいかづちじんじゃ)。

葛城市笛吹
御所市と葛城市の境の丘陵地に鎮座。

『延喜式』神名式、大和国忍海郡三座の内、葛木坐火雷神社二座。
二座とも名神大で、祈年祭・月次祭・新嘗祭に加えて、相嘗祭においても朝廷より班幣があった。
相嘗祭の班幣に預かるのは大和南部から紀伊に至る七十一座のみであり、
大和朝廷初期からの崇敬が篤かった宮と考えられる。
『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条には
「正三位勲二等葛木一言主神、高天彦神、葛木火雷神に並に従二位を授け奉る」
との神階授与記事が見える。

別名(で通称)は笛吹神社で、
火雷大神と、笛吹連(ふえふきのむらじ)の祖神・天香山命(あめのかぐやまのみこと)の二柱を祀る。
『新撰姓氏録』の河内国神別の条には、

  笛吹〔連〕。火明命(ほあかりのみこと)の後である。

とあり、天孫・瓊瓊杵尊の兄弟で尾張氏の祖である火明命を始祖とする。天香山命はその御子神。
崇神天皇の御世、建埴安彦(たけはにやすひこ)という者が反乱を起こした時、
笛吹連の祖・櫂子(かぢこ)はこれを矢で射殺し、その功によって天皇より笛を下賜され、笛吹連の姓もともに授かった、という伝説があり、
笛吹連は代々音楽・芸能をもって天皇に仕えたということから、この神社は火除けと音楽の神様として信仰される。
火雷大神は八雷神の一柱ではなく、火産霊神もしくは迦具土神のこととされている。

鳥居。かなり暗くなってから訪れたので携帯写真ではキツい。 手水舎と石段。
この日は瓦の葺き替え工事の途中ということで拝殿には上がれず、
下からの遥拝となっていた。
境内には日露戦争での鹵獲品であるロシアの大砲が置かれていた。
火雷大神を祀る神社にはふさわしい、といっていいのか。
丘陵地から大和三山方面を望む。



inserted by FC2 system