にっぽんのじんじゃ・ならけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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宇陀の山中には、神武天皇や倭姫命など、伝説に彩られた古社が多い。

宇陀郡:
(宇陀市・宇陀郡)
宇太水分神社 阿紀神社 室生龍穴神社 *室生寺
八咫烏神社 篠畑神社 御杖神社


*宇陀郡(うだのこおり)

宇太水分(うだみくまり)神社。

宇陀市菟田野区古市場に鎮座。
国道370号線に入り、ちょっと進んで川沿いの三叉路で左折して橋を渡り、県道31号線に入ってしばらく田園風景の中を走る。
そして国道166号線に出てちょっと走り、橋を渡ったところに神社がある。

『延喜式』神名式、大和国宇陀郡十七座の一で、宇陀郡唯一の大社。
水の神(速秋津彦命、天水分神、国水分神)をまつる。
「水分神(みくまりのかみ)」は、山から平地へ流れ下る川の流れを配分する神。川の分岐点や水源近くに鎮座する。
農耕に重要な神であり、また水の神であることからこの神に雨乞いも行われた。
『延喜式』祝詞式所収の「祈年祭祝詞」にも名が見える大和の東西南北四方の水分神社の一で、東に位置する。
ちなみに南が吉野、西が葛木、北が都祁(つげ)。
芳野川のほとりにあり、訪れたときは雨上がり、そしてご祭神が水の神様たち(三柱)ということで、とても清冽な雰囲気。
そびえる杉も威圧感ではなく爽やかな印象を与える。気持ちのいいお社だった。

手水舎には、蛙について語る板がかかっていた。

拝殿への参道。
中央に見える太い杉は、幼少の源頼朝が、
「この杉が大きく育つならば、私も大人物になるであろう」
と願をかけた伝説がある「頼朝杉」(二代目)。
拝殿。本殿後方の森に立派な杉の木が幾本も立つ。
拝殿、本殿、森。 夫婦杉。
本殿三座。鎌倉時代の建築で、国宝に指定されている。

阿紀(あき)神社。

宇陀市大宇陀区迫間に鎮座。
国道166号線から大宇陀地域事務所の南の交差点から西へ山を上っていき、山ひとつ越えた山あいの地。

『延喜式』神名式、大和国宇陀郡十七座の一。
小社であるが、朝廷の祈年祭班幣にあっては通常の奉幣品に加えて、
鍬(すき。農具)・靫(ゆぎ。矢を入れて背に負う筒状の道具)が奉られていた。

垂仁天皇の御代になり、前任の豊鍬入姫命に代わり天照大御神の御杖代となった倭姫命は、
大御神の鎮座地を求めて旅立つこととなった。
その経過を、延暦二十三年(804)に伊勢大神宮が神宮の儀式などをまとめて太政官に提出した
「解文(げぶみ。上級部署に提出する公式文書の形式)」である『延暦儀式帳』には、

  次の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)にて天下をお治めになった活目天皇(いくめのすめらみこと。垂仁天皇)の御世、
  倭姫内親王を御杖代(みつゑしろ)とされ、いつき奉った。
  美和の御諸原に斎宮を造り、おいでになってお祭りを始められた。
  その時倭姫内親王は、大神を頂き奉って、大神の願う国を求めて美和の御諸原を出発された。
  その時、御送駅使(はゆまつかひ)として、
  阿倍武渟川別命(あへのたけぬなかはわけのみこと)、和珥彦国葺命(わにのひこくにぶくのみこと)、
  中臣大鹿嶋命(なかとみのおほかしまのみこと)、物部十千根命(もののべのとちねのみこと)、大伴武日命(おほとものたけひのみこと)、
  合わせて五柱の命が使いとして同行した。
  その時、宇太の阿貴宮(あきのみや)に坐し、次に佐々波多宮(ささはたのみや)に坐した。
  この時、大倭国造(やまとのくにのみやつこ)らが神御田と神戸をたてまつった。

とあり、最初に大神の宮を定めたのが「宇太乃阿貴宮」であると記されていて、
その阿貴宮がこの阿紀神社に比定されており、「元伊勢」のひとつとされている。
平安末期~鎌倉初期成立と見られる『倭姫命世記』では、この地で四年間大神を奉斎したといい、この時倭国造が神田を奉ったという。
『太神宮諸雑事記』に「大和国宇陀神戸十五戸」とあるのがこの地のこととされ、
のちにこの一帯は「神戸(かんべ)村」と呼ばれ、神社は「神戸大明神」と呼ばれた。

社伝では、それより以前、神武天皇がここ阿貴野の地(旧郡制では宇陀郡神戸村阿貴野)に天照大神を祭り、
それから磯城の地へ進撃していったとし、須佐之男命の子孫・秋比賣命(あきひめのみこと)がこの地を開拓、
この地に天照大神を祀ったのが創祀としている。

主祭神は、もちろん天照大神。
相殿神として、秋比賣神、瓊瓊杵尊、天之手力男命、八意思兼神の四柱。
秋比賣神は、『古事記』によれば、
須佐之男命の子である大年神の子、羽山戸神(はやまとのかみ)が、大気都比売神(おおげつひめのかみ、食物を司る)を娶って生んだ神の一柱で、
若山咋神、若年神、妹若沙那売神、弥豆麻岐神、夏高津日神、秋毘売神、久々年神、久々紀若室葛根神と、八柱の兄妹の六番目。
この神群は、山から田の神が下りてきて、稲の種をまき、作物が夏の日差しで成長し、秋に収穫、茎の立った稔りの稲を新嘗の室に奉る、と、
農耕の一連のプロセスを神格化したもの。
ここでの秋比賣が、その秋比賣神なのか、単に「アキ」という土地の土地神であるのかはわからないが、
周辺は水田であり、秋の収穫を司る神であるのは間違いのないところだろう。
瓊瓊杵尊と八意思兼神は、『古事記』の天孫降臨の段に、
「この二柱の神は、さくくしろ伊須受(いすず)の宮を拝(いは)ひ祭りたまひき」
とあるように天照大神を祀る存在であり、伊勢内宮の相殿神とも考えられた時期もあった。
現在の内宮の相殿神は『延暦儀式帳』に従い、天之手力男命と万幡豊秋津姫。

この阿貴野(阿騎野)の地は皇族・貴族の猟場であり、『万葉集』巻第一(45~49)には
軽皇子(のちの文武天皇)が阿騎野に宿したときに随行していた柿本人麻呂の歌が収められているが、
その中の一首があまりにも有名な、

  東野炎立所見而反見為者月西渡

の十四字で記される歌。
この歌はもともと、
「あづま野のけぶりの立てる所見てかへり見すれば月かたぶきぬ」
と読まれていたが、賀茂真淵によって
「東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」
と読まれ、その情景の鮮やかさから人口に膾炙することとなった。
真淵の読みは文法的におかしく不審なのだが、
その言葉の流れがあまりにも美しいため、研究者もなかなか手が出せないという状況らしい。
この歌にちなみ、近隣に「かぎろひの丘万葉公園」がある。

国道から山ひとつ越えた、
山間の静かなところ。
神社の前には宇陀川支流・本郷川が流れており、
ゲンジボタルの幼虫放流地となっている。
神社の前には「阿紀の宮橋」が架かる。

鳥居前。
鳥居は伊勢式。
現在本殿の修復中とのことで、
境内には木材が積まれている。
境内にある神楽殿、ではなく能舞台。
大坂の陣が終息した元和元年、
徳川家康は織田信雄に宇陀松山三万一千石ほかを与え、
宇陀松山の地は信雄の五男・高長が継承した。
その子、宇陀松山藩三代目の織田山城守長頼が寄進したのが
この能舞台。
織田信雄は武将としては三流であったが風流人であり、
ことに能の名手として知られていた。
能舞台の奉納も、その血統によるものだろうか。

能楽は大正期まで興行されていたが一時中絶、
平成四年に復興した。
毎年六月中旬、「あきの蛍能」として開催されている。
森閑の夜に行われる薪能で、
演目の最中には炎が消されて暗闇の中に数百の蛍が放たれるという。
なんとも幽玄なひとときを過ごせるようだ。
全国から愛好家が集まり、境内は座席でぎっしり埋まるらしい。
阿紀神社本殿。
伊勢神宮と同じ、唯一神明造で建てられている。
南向きに立っており、
境内入口から見ると横を向いた形。
拝殿はなく、
門の外から拝礼を行うのは、お伊勢さんと同じ。
本殿前の境内末社。 社務所・神饌所。
これもかなり古い建物。
鎮守の森も気持ちいい眺め。
境内の万葉歌碑。
『万葉集』巻一の柿本人麻呂の歌、

「阿騎乃野爾 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念爾」
(阿騎の野に宿る旅人打ち靡き 
      寐〔い〕も宿〔ぬ〕らめやも古〔いにし〕へ念〔おも〕ふに)

が刻まれる。
「東の野に~」の二首前の歌で、
この地での狩猟を好んでいた軽皇子の父、草壁皇子を偲ぶ歌。
神社から川ひとつ隔てたところに「高天原」と呼ばれる丘があり、
こんもりとした森となっているが、ここは阿紀神社の式年造替の際に
仮遷座を行う場所であったと伝えられている。
神社前の風景。

室生龍穴(むろうりゅうけつ)神社

宇陀市室生区室生に鎮座。
国道165号線(初瀬街道)の室生寺入口交差点から県道28号線を室生川沿いに南下し、
室生寺を過ぎて間もなく。
あるいはその交差点のもう一つ東の信号交差点から南下し、室生トンネルをくぐって出てきたところ。
簡単に言えば室生寺の近く。

『延喜式』神名式、大和国宇陀郡十七座の一。
山中の渓流沿いにある洞穴を「龍穴」として祭る神社。
祭神は高龗神(たかおかみのかみ)。水の神であり、「雨」「龍」の組み合わさった漢字を当てられたように、龍神。
高龗神は、『日本書紀』神代巻の伊弉諾尊・伊弉冉尊が三貴子を生むくだりに付随する十一の異伝のうち、第七の異伝に名が見える。

  ある書にいうには、伊弉諾尊は剣を抜いて軻遇突智(かぐつち。火の神)を斬って三段になさった。
  その一段は雷神(いかづちのかみ)となり、一段は大山祇神(おおやまつみのかみ。山神)となり、一段は高龗となった。
  またいう。軻遇突智を斬られた時、その血がほとばしって、
  天八十河中(あまのやそかはら。天の数多くの川の河原)にある多くの磐の群れを染めた。
  それによって神が化成し、名を磐裂神(いはさくのかみ)という。
  次に根裂神(ねさくのかみ)と、その児磐筒男神(いはつつのをのかみ)。
  次に磐筒女神(いはつつのめのかみ)と、その児経津主神(ふつぬしのかみ)。
 
『日本書紀』の本文では伊弉冉尊が亡くなる描写はないが、
異伝においては『古事記』にもみられるような伊弉冉尊の死にまつわる様々な伝承が語られている。
その中には、火神・軻遇突智を生んだために火傷によって神去った妻を悼んだ伊弉諾尊が、
怒りの余りに息子である軻遇突智をずたずたに切り刻んだところ、その斬られた体と血から様々な神々が化成したということが、
いくつもの異伝に記されている。
自然界のものがいかにして生まれたのか、この物体や現象がこういう性質を持つのは何故なのかと、
古代の人が様々に考えていたことがわかる箇所。
『書紀』の同所の第六の異伝では、軻遇突智を三段に斬った時、剣の柄から滴った血がほとばしって、
「闇龗(くらおかみ)」「闇山祇(くらやまつみ)」「闇罔象(くらみつは)」の三柱が化成したといい、
『古事記』では、迦具土神の首を斬った時、その十拳剣の柄元に集まった血が指の間から漏れ落ちて化成した神を
「闇淤加美神(くらおかみのかみ)」「闇御津羽神(くらみつはのかみ)」といい、
「闇龗」は高龗と同体、あるいは「山の龍神・谷の龍神」のように対応する神であるとされる。

創祀は不明も、室生寺の創建伝承には、
「光仁天皇の御世、皇太子山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒を室生の地で祈願したところ、
龍神の加護により験があったので、室生の地に寺を建てた」
とあり、室生寺は室生龍穴神社の神宮寺として創建されたとみられるので、
それより前から信仰を集めていたことは間違いない。
国史には、『日本紀略』弘仁七年(818)七月十四日条(『日本後紀』逸文)に、

  使いを山城国貴布禰神社・大和国室生山上竜穴等の処に遣わした。雨を祈ったのである。

とあるのが初見で、翌年六月二日条にも、

  律師伝灯大法師修円(*興福寺の僧)を遣わして室生山に雨を祈った。

とある。
のち『日本三代実録』貞観九年(867)八月十六日条に、

  周防国の正五位上出雲神、石城神、比美神に並びに従四位下を、従五位上剣神、二俣神に並びに正五位下を、
  豊後国の従五位上火男神、火売神に並びに正五位下を、
  大和国の従五位下室生竜穴神に正五位下を、従五位下武雷神、保沼雷神に並びに従五位上を授く。

また、『日本紀略』延喜十年(910)八月二十三日条に、

  大和国宇多郡の龍穴神に従四位下、丹波国桑田郡の出雲大神に正四位上、讃岐国多度郡の大麻天神に従四位下を授く。

という神階昇叙記事があり、祈雨神として安定した信仰を集めていたと思われる。
時代が下ると両者の立場が逆転し、江戸時代には、
「室生寺の僧が龍王を解脱させたため、龍王は喜び、室生寺の鎮守となった」
という伝承が生まれた。


山の麓の川沿いに神社が鎮座し、そこから後背の山中にある龍穴の神を祭っており、
祈雨にあたっては現在も龍穴の前で祭典を行っている。
現在、山中には舗装された道路が走っているので、龍穴へは徒歩でも車でも登って行くことが可能。

境内前。

県道28号線を南下すると「伊勢本街道」である国道369号線に出るが、
初瀬街道と伊勢本街道をつなぐ道路であるせいかとにかくライダーが多くて、
この神社の前は格好の休憩所になっているようだ。
それはともかく森がすごい。
境内。右手に連理杉が立っている。
とにかく森が圧倒的に迫ってくるような感じ。
境内の森。
拝殿。額には「善女龍王社」とある。
善女龍王とは空海が神泉苑で雨乞いを行ったときに現れて雨を降らせた龍王とされ、
この神社が古来雨乞いに効験あったことから、
貞観9年(867)朝廷より「善女龍王」の神号を賜った。
神仏習合の一例といえるだろう。
向かって左に伸びる廊下は神饌所に続く。
祭典(とくに例祭)の時には神饌を神饌所から神前に献ずる。
連理杉。
二本の杉が根本でひとつになっている。

山中の龍穴へ。

林道ができ、車でも近くまで登っていけるとのことで、
レッツゴー。
途中にある「天の岩戸」。
古くは、岩の窪みや裂け目に神が宿るとする「磐座(いわくら)信仰」が
あったかともいわれる。
さらに登る。
神社からは1.5kmほど上がったところ。
あった。
龍穴の名は「吉祥龍穴」という。
急な階段を下りていく。 着いたー
簡素な拝殿がある。

室生龍穴神社の奥宮とされる龍穴。

奈良の猿沢池に住んでいた善達龍王が、
采女の入水自殺によってその池を嫌って春日の香山に移ったが、
そこもじきに死体捨て場となったのでこの穴へと移ってきた、という伝説がある。
古来、雨乞いの儀はこの龍穴の前で行われた。
室生火山群の造り出した柱状節理の
切り立った崖下に、龍穴はある。
拝殿と龍穴の間には、
龍穴川が流れる。
この谷の名は闇加利(くらがり)谷という。
とりあえず、岸壁が圧倒的。
拝殿で拝礼し頭を下げているとき、
穴のほうから「何か」出てきやしないかと
ちょっと恐ろしくなった、
それぐらいくるものがある。
拝殿。
ここから対岸の龍穴を拝む。
土足禁止になっていて、
スリッパが備え付けられている。
伝説では穢れを嫌うきれい好きの龍王様なので、
拝殿も汚さないようにしたいところ。
神仏習合の名残で、
ろうそくも立てられていた。

室生寺。

奈良県宇陀市室生区室生にある。

真言宗室生寺派大本山。本尊は釈迦如来。
境内にある五重塔は国宝で、歴史の資料集には必ずといっていいほど掲載される超有名な建築物。
室生龍穴神社とは深いつながりがある。
光仁天皇の御世、皇太子・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のためこの室生の地で延寿法を修したところ、
龍神の加護により平癒したため、興福寺の僧賢璟(けんきょう)に寺を造るよう勅命が下り、これが創建と伝えられる。
創建の経緯により興福寺とは縁が深く、興福寺が法相宗であったので室生寺は長らく法相宗寺院だったが、
江戸時代に独立して真言宗寺院となった。
女人禁制の高野山とは違って女人参詣を許したため「女人高野(にょにんこうや)」と呼ばれ、これが通称となっている。

伊勢本街道、国道369号からの風景。
川岸にかかしが立っていたので、思わず停車して一枚
室生寺到着。
有名なお寺なので、駐車場に心配はない。

太鼓橋の上より。
川を渡る風が非常に心地いい。
夏でも涼しいそうだ。
順路に従い石段を登っていくと、左手に弥勒堂、正面に金堂がある。
弥勒堂は重要文化財。中には弥勒菩薩像と釈迦如来像が置かれ、それぞれ国の重要文化財、国宝。
金堂は国宝。中には十一面観音菩薩、文殊菩薩、釈迦如来(本尊)、薬師如来、地蔵菩薩、十二神将が安置され、いずれも国宝か重要文化財。

いよいよ五重塔だー
ちっさ!
初重の一辺の長さは2.5m。ホントに小さい。
だが、石段の下から見るとけっこう大きそうに見える。

国宝もしくは国指定重要文化財である木造五重塔のうち、
屋外にあるものとしては日本最小とのこと。
ただし、古さは法隆寺のものに次いで二番目の古さ。
8世紀末~9世紀初頭の建築とされている。

本堂。国宝。
灌頂の儀式に用いており、
如意輪観音菩薩(重要文化財)を安置する。
修復中だった。
奥の院へと続く石段。



八咫烏(やたがらす)神社。

宇陀市榛原区高塚に鎮座。
榛原駅方面から県道31号線を南下していくと右手の山の麓に見えてくる。

『延喜式』神名式、大和国宇陀郡十七座の一。
小社であるが、朝廷の祈年祭班幣にあっては、小社への規定の幣帛に加え、
鍬(すき。農具)・靫(ゆぎ。矢を入れて背に負う筒状の道具)が奉られていた。
『日本書紀』に続く正史『続日本紀』の慶雲二年(705)九月九日条に、

  八咫烏の神社を大倭国宇太郡に置き、これを祀らせた。

と、その創祀記事がみえる。
古代に創祀された神社で、その創祀年月日が確実にわかる神社は稀有であり、その数少ない例。
八咫烏とは神武天皇の東征を助けた巨大なカラスのことで、
山城国の賀茂氏の祖神、賀茂建角身命(かものたけつのみのみこと)の化身とされる。
この神は京都の下鴨神社の祭神であり、『新撰姓氏録』山城国神別天神の賀茂県主の項には、「神魂命(かみむすひのみこと)の孫」とされる。
また、『釈日本紀』が引く山城国風土記逸文には、
はじめ日向の曾の峰に天降り、神武天皇の先導をつとめた後は大和の葛城山の峰に宿り、
そこから移動して山城国に到ったとする。
   
神武天皇の東征において、
摂津難波の内海より川を遡上して河内草香村(東大阪市日下)に上陸した天皇軍は、生駒の山を越えて大和に入ろうとした。
しかし、饒速日命(にぎはやひのみこと)を奉ずる長髄彦(ながすねひこ)がこれを孔舎衛(くさえ)の坂において防ぎ、進むことができなかったので、
天皇は一旦草香まで退却すると、太陽を背に負って進軍するために船団にて紀伊半島を迂回し、
熊野にて上陸すると内陸へと進撃した。
『日本書紀』神武天皇即位前紀にはこうある。

  そこで、天皇の軍は中洲(うちつくに。内陸部)に向かおうとした。
  しかし、山中は険阻で、行くべき道もなかった。そのために進退に惑い、山を越え川を渡る所もわからなかった。
  その夜、天皇は夢を見られたが、そこで天照大神が天皇にお教えになって、
  「わたしは今、頭八咫烏(やたからす)を遣わそう。それを道案内にしなさい」
  と仰せになった。
  はたして頭八咫烏が天から飛び降ってきた。
  天皇は、
  「この烏が来たことは、瑞夢にかなっている。
  なんと偉大で、盛んであることか。わが皇祖、天照大神が鴻業を助けようと思召されるのであろう」
  と仰せになった。
  この時、大伴氏の遠祖日臣命(ひのおみのみこと)は大来目(おほくめ)を率い、兵車の将として山を踏み道を開き、
  烏の向かう方向を尋ね、仰ぎ見て後を追った。
  そうして、ついに菟田(うだ)の下県(しもつあがた)に到達した。
  そこで、その到着した地を名づけて、菟田の穿邑といった〔穿邑、ここでは于介知能務羅(うかちのむら)という〕。
  その時、勅して日臣命を誉めて、
  「おまえはまめまめしく、かつ勇ましい。また、よく軍を導いた功がある。これより、おまえの名を改めて道臣(みちのおみ)としよう」
  と仰せになった。

現在は『古事記』の表記に従って「八咫烏」と表記するが、『書紀』では「頭八咫烏」であり、これは「頭の寸法が八咫」という意味。
「八咫」は漠然と「大きい」という意味だが、それにしても並外れて大きいイメージを抱かせる。
『古事記』の「八咫烏」は、道案内をする事は『書紀』と同じだが、
遣わしたのは天照大神ではなく「高木大神」、つまり高御産巣日神(たかみむすひのかみ)となっている。
『古事記』ではまた、宇陀の土着の豪族である兄宇迦斯(えうかし)・弟宇迦斯(おとうかし)の兄弟のもとへ、
天神の御子に帰順するかどうかを問う使者としても遣わされており、兄宇迦斯はこれを鳴鏑を射て追い返した。
ただ、弟宇迦斯は天皇に帰順して兄の陰謀を明るみにしたので、伝令は成功したといえるだろう。

その創祀が国史に載せられていることから、国のバックアップにより建てられたのだろう。
当時は『日本書紀』の編修事業が少しずつ進んでおり、
この頃に神武天皇紀が編修され、その東征の顕彰のために創祀されたのだろうか。
神武天皇紀は巻第三だが、
『日本書紀』は、本文研究によって巻第十四の雄略天皇紀から書き始められたことが確実視されており、
おそらく巻二十七の斉明天皇紀までが第一期として書かれ、それ以前はその後に書かれたと考えられている。
巻第十三以前の暦法には文武天皇二年(698)より単独施行された儀鳳暦が用いられているので、時期的にはだいたい合いそうな気も。

境内入口。
右手は社務所。
境内。右手に拝殿。
きれいに整えられ掃除された、気持ちのいい境内。
拝殿正面。
本殿は奥に見える階段の上、木々の中に隠れている。
特にすごい建物があるわけではないが、
清冽な雰囲気がいい。
拝殿には「やたがらす」というお酒が奉納されていた。
木々の中に、かすかに春日造の本殿が見える。
境内にあるヤタガラスの像。
日本サッカー協会のシンボルマークを意識したつくりで、
頭にサッカーボールを載せている。
ユーモラス。

篠畑(ささはた)神社。

宇陀市榛原区山辺三
近鉄大阪線が沿って走る国道165号線、
古代において大和と伊勢をつなぐ最古の道路であった「初瀬(はせ)街道」を見下ろす山の麓に鎮座する。

『延喜式』神名式、大和国宇陀郡十七座の一、御杖神社の論社。
『日本書紀通証』が引く大和国風土記逸文に、

  風土記にいう、宇陀の郡。篠幡の庄。御杖の神の宮。祭神は正魂霊(おほみたま)ではない。

とあり、御杖神社が篠幡(ささはた)にあった、と風土記に記すのを根拠とする。
現在の祭神は天照皇大神。ただ、上に挙げた大和国風土記逸文には、
「祭神は正魂霊ではない」と記されており、これは「祭神は天照大御神の神霊ではない」と解釈されるので、
当時の祭神は社号の通り「御杖の神」つまり道路の神・境界の神を祭っていたのだろう。

この篠畑の地が天照大神と結び付けられるのは、
大和国から伊勢国に遷座した天照大神が一時ここに留まられたと伝えられていることによる。
『日本書紀』垂仁天皇二十五年条に、

  二十五年の春二月の丁巳朔(ついたち)の甲子(*八日)に、
  阿倍臣の遠祖武渟川別(たけぬなかはわけ)、和珥臣の遠祖彦国葺(ひこくにぶく)、中臣連の遠祖大鹿島(おほかしま)、
  物部連の遠祖十千根(とをちね)、大伴連の遠祖武日(たけひ)の五人の大夫(まへつぎみ)に詔して、
  「わが先帝、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにゑのすめらみこと。崇神天皇)は叡明であり、諸事に通じておられた。
  聡明で心が広く行き渡って深くへりくだり、無心にして恭謙であった。よく政治を整え治め、天神地祇を敬い祭られた。
  己に克ち身を修め、一日一日を慎まれていた。
  これによって人民は富み栄え、天下は太平であった。
  今、わたしの世にあって、天神地祇を敬い祭ることにどうして怠りがあってよいものか」
  と仰せになった。
  三月の丁亥朔の丙申(*十日)に、
  天照大神を豊耜入姫命よりお離しになり、倭姫命に託された。
  ここに倭姫命は、大神の鎮座の地を求めて菟田(*宇陀)の篠畑に赴かれ〔篠は、ここでは「佐佐(ささ)」という〕、
  さらに引き返して近江国に入り、東方の美濃国を廻り、伊勢国に到られた。
  この時、天照大神は倭姫命にお教えになって、
  「この神風の伊勢国は、海のかなた常世の国の波がしきりに打ち寄せる国である。大和の傍らの美しい国である。
  この国に居たいと思う」
  と仰せになった。
  そこで、大神の教えの通りに、その祠(ほこら)を伊勢国に立て、
  そのために斎宮(いつきのみや)を五十鈴川のほとりに建てられた。これを磯宮(いそのみや)という。
  すなわち、天照大神が初めて天よりお降りになった処である。
 
と、神祇崇拝の詔に続いて天照大神の伊勢国遷座が記されているが、
崇神天皇皇女の豊鍬入姫命が天照大神を祭っていた倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)を出た倭姫命が最初に立ち寄ったのが
「菟田篠畑」とされる。
伊勢大神宮が延暦二十三年に朝廷に提出した祭祀の報告書である『延暦儀式帳』には、

  次の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)にて天下をお治めになった活目天皇(*いくめのすめらみこと。垂仁天皇)の御世、
  倭姫内親王を御杖代とされ、いつき奉った。
  美和の御諸原に斎宮を造り、おいでになってお祭りを始められた。
  その時倭姫内親王は、大神を頂き奉って、大神の願う国を求めて美和の御諸原を出発された。
  その時、御送駅使(はゆまつかひ)として、阿倍武渟川別命、和珥彦国葺命、中臣大鹿嶋命、物部十千根命、大伴武日命、
  合わせて五柱の命が使いとして同行した。
  その時、宇太の阿貴宮(あきのみや)に坐し、次に佐々波多宮(ささはたのみや)に坐した。
  この時、大倭国造らが神御田と神戸をたてまつった。

とやや具体的になっている。
つまり、この篠畑の地は「元伊勢」であり、大神が留まられた「佐々波多宮」がこの神社といわれる。

鳥居。
本来は初瀬街道、現在の国道165号線
(写真右外側。右に見えている道路の下を通る)
から参道が伸びていたのを、おそらく写真右の道路が
拡張舗装されたために参道が切られてしまい、
こんな感じになってしまったのだろう。
石段を登る。

拝殿と本殿。
本殿は神明造。
境内。
摂社・佐々波多姫(ささはたひめ)神社。
『倭姫命世記』で、
倭姫命が「私の行く手に良い事があるのなら、
童女に遇え」と誓約(うけひ)して進んだとき、
この篠幡の地で「宇太乃大禰奈(うたのおおねな)」
という童女に逢い、彼女は倭姫命に従った、とあり、
この童女を佐々波多姫として祀っている。

御杖(みつえ)神社。

奈良県宇陀郡御杖村神末
古代において大和から伊勢へと向かう主要道路であった伊勢本街道、現在の国道369号線からやや南に入った川沿いに鎮座する。

『延喜式』神名式、大和国宇陀郡十七座の一、御杖神社の論社であり、
久那斗神(くなどのかみ)・八衢比古神(やちまたひこのかみ)・八衢比女神(やちまたひめのかみ)の三柱を祀る。
この三柱は、『延喜式』祝詞式に収録の「道饗祭(みちあえのまつり)祝詞」にその名が見える。
久那斗神は、『古事記』では黄泉国から帰ってきた伊耶那岐命が禊を行った際に投げ捨てた杖から生まれた神であり、
杖は占有・領域を示す物であることから、悪いものが入ってこないように守護する境界神とされる。
八衢比古神・八衢比女神は記紀にはその名が見えないが、その名の「八衢」は「八方へ分かれる道の分岐点」を意味する。
古代においては、すべてのものは道路を介して行き来すると考えられ、それは悪霊、邪神も同様とされた。
(ゆえに、境界も道路周縁にしか存在せず、民間においては「境界線」という概念も明確になかったといわれる)
それゆえ、道路を司る神に祈れば村の外からやってくる災いを防ぐことができると考えられていた。
村々の入口に見られる「道祖神」はその類。

室町時代は上津江之御宮、江戸時代は牛頭天王社と称するなど、社名はいろいろ変遷したようだ。
この辺りは祇園信仰が盛んであり、江戸期にはそれを採り入れたものだろう。現在も7月14日に祇園祭を行っている。
伝承では、垂仁天皇の皇女・倭姫命が天照大御神の御杖代(みつえしろ)として大御神をその身に担い、
鎮座地を求めて旅をする途中、この地にとどまった故事により、その御杖を祀ったのが創祀と伝える。
御杖神社の論社としては、宇陀市榛原区山辺三に鎮座する篠畑神社がある。
どちらがそれ、というのは置いといて、ここはいかにも田舎のお社、という感じで、気持ちよくのんびりできるいい所。
お参りすれば、すがすがしい気分になれるだろう。

鎮守の森の遠景。
神社入口。 道路を挟んで川が流れる。
手水舎。カエルがいる。
宇陀の神社カエル好きですね。
斎館。
祭典にあたってはここで身を清める。
直会や総代さんたちの会議もここで行うんだろうか。
拝殿。
両側に立つ神木、
「上津江杉(かみつえすぎ)」は、
樹齢600年と伝わる。
本殿は、拝殿の後方一段高いところに鎮座。
倭姫命の伝説に従い、伊勢の神明造で建てられている。
本殿下には合祀によって移転してきた山神が並べられているとのこと。
境内摂社。ひとつの社殿に八座を祀る。

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