にっぽんのじんじゃ・おかやまけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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備中国:

後月〔しつき〕郡(井原市の一部)

諏訪神社
袖神稲荷大明神
(永祥寺境内社)
*那須与一公墳

諏訪(すわ)神社。

井原市西江原町戸倉に鎮座。
興譲館の東、
旧山陽道・国道486号線の井原警察署東交差点から北に延びる県道166号線を北に上がっていくと、左手に見えてくる。

源平の合戦の山場、屋島の合戦において扇の的を射抜いたことで知られる那須与一宗隆(長じたのちは資隆)は、
戦後の論功行賞により全国各地の五庄を得たが、そのうちのひとつが、この備中国後月郡荏原庄。
しかし、与一はこの地に来ることなく早逝し、弟の那須宗晴が建久三年(1193)に着任した。
宗晴は備中に下向する途中、信濃諏訪の諏訪大社に参詣し、
武運長久を祈るとともに建御名方命と八坂刀売命の祭神二柱を分霊。
荏原庄に到着すると、この地に諏訪社を造営して二柱を鎮祭し、以来那須氏の氏神として崇拝された。
荏原那須氏は足利尊氏が一時九州へ落ちのびたときにこれを饗応したことから、のちに下野国中新郷を与えられ、中新井と改姓。
戦国期には毛利氏に仕え、江戸時代になると福島正則に仕えたが、その改易後は帰農した。
それ以降、神社は地元の産土神、農耕の守護神として奉斎され、今に至っている。

本殿の下の土を畑に振りまくとモグラが寄ってこないと伝えられており、いかにも農業の神様といった感じ。

神社前。

山を背にし、
ささやかながらも並木の参道を備える。
そばには水田があり、のどかな感じ。
小さいながら、気持ちのいい雰囲気の神社。

注連縄は蛇を模しているっぽい。
参道。 拝殿。
社殿は二重の石垣の上にある。
本殿と末社二社。 本殿南に鎮座する荒神社。

袖神稲荷大明神。

井原市西江原町の禅洞山永祥寺の境内社。

永祥寺は曹洞宗。本尊は聖観世音菩薩。
荏原那須一族の菩提寺。
その境内に鎮座している。
那須与一が屋島で扇の的を射る際、邪魔になるので右袖を破り捨てたが、
それを拾った郎党が日頃与一が信仰していた稲荷神に必中を祈念、見事扇を射当てたことから、
のちに那須宗晴がこの地に地頭として赴任したとき、
居城とした小菅城(寺の南西800m、小菅城山)に稲荷神を祀り、この袖も安置したことから「片袖稲荷」と呼ばれた。
そのうち「袖神稲荷大明神」と呼ばれるようになり、小菅城が廃城となったこともあり永祥寺内へ遷座した。

那須与一の故事から祈願必中の社として古くから信仰され、
近年では学業成就、志望校合格祈願の神社として受験生からの信仰を集めている。
別名、一発稲荷。
すぐ近くの檀家さん?の家で絵馬を受け、祈願を書いて寺に納めるか、直接那須与一公墳へ願掛けに行くことになる。

近隣には名勝・道祖渓もあり、風光明媚なところ。

永祥寺山門前。
「大本山総持寺直末 那須与一公菩提寺」とある。
那須資道、資英父子が南北朝さなかの元中四年(1387)、能登総持寺を開いた峨山紹硯の高弟・実峰良秀を招き、開山した。
この寺院は備中地方初の曹洞宗寺院。
本堂。でっかい。
向かって左手に袖神稲荷大明神。
袖神稲荷大明神。
いかにもお稲荷さん。
ついでに鐘楼。

*那須与一公墳。

井原市野上町余次。
永祥寺から東北に400mほどの山中にあるが、地図には特に道が見当たらないので、こっちからは無理っぽい。
県道166号線から表示板があるところを西に入り、600mほど道なりに走っていったところにある。

荏原に赴任した那須一族が、その祖である与一公を偲んで建てた供養墓。
なので、与一公の亡骸や骨が埋まっているわけではない。
古くより、扇の的一射必中の故事にあやかり、願い事がかなうと伝えられてきた。
近年では学業成就祈願の信仰があり、
墳墓のかたわらにある絵馬所には多くの祈願絵馬がかかっている。

ここを入って行く。
ずっと道なりに。 進みます
着きましたー
駐車場(の空き地)もいちおうある。
これを上れば。
駐車場からも上がれる。

那須与一公の墳墓、というよりは供養塔、というべきか。
左手には数多くの合格祈願絵馬がかかっている。
墳墓前。





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