にっぽんのじんじゃ・おおさかふ

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


戻る


摂津国(大阪府北西部、兵庫県南東部):

住吉郡:

住吉大社
(付:大海神社・
浅沢神社・大歳神社)
大依羅神社
(草津大歳神社ほか合祀)
中臣須牟地神社 神須牟地神社
生根神社


住吉大社。

大阪市住吉区住吉二丁目に鎮座。
(マーカーは第一本宮の上)
『延喜式』神名式、摂津国住吉郡二十二座の内、住吉坐神社四座。
名神大社で、祈年祭・月次祭・新嘗祭に加えて相嘗祭、
また、臨時祭である祈雨神祭、八十嶋祭、開遣唐舶居祭においても朝廷の幣帛に預かった。
摂津国一宮。全国の住吉神社の総本宮。

創祀伝承は『日本書紀』仲哀天皇紀にみえる
いわゆる神功皇后の新羅征伐に関連して祀られるようになった神々。
神功皇后の新羅征伐のエピソードにおいて、大阪・山口の住吉神社、兵庫県の広田・生田・長田の三神社など、
多くの有名な神社が創祀された。
『日本書紀』神功皇后紀には、百済から「七枝刀」が贈られたという記事があり、それは奈良県天理市の石上神宮に「七支刀」として収められていた。
その銘文に記された年号や、中国・吉林省の広開土王碑碑文より、4世紀半ば以降、日本は百済と同盟し朝鮮半島へ進出していたことが知られる。
皇后のエピソードがそのまま事実というわけではないだろうが、「神功皇后の時代」は実年代では4世紀半ばごろであり、
この時期から日本は朝鮮半島へ積極的に進出していったことは確か。
(その後は、「倭の五王」が朝鮮における軍事権の公認を中国の王朝に求めていく)
それにあたって、朝廷がいろいろな神の助力を必要としたことがわかる。
天照大御神、稚日女尊、事代主神そして住吉三神は、それにふさわしい強力な霊威をもっているという認識があったのだろう。
社伝によると、創祀は神功皇后摂政十一年辛卯歳の卯月の上卯日と年月日すべてが卯であるので、
手水舎には兎の像があるなど、兎が神使として親しまれている。

社名の起源伝承は、『釈日本紀』が引く摂津国風土記逸文に、

 住吉と称するわけは、
 昔、息長足比売天皇(神功皇后)の御代に住吉大神が御出現なされて天の下を巡幸し、住むべき国を探し求められた。
 その時、沼名椋(ぬなくら)の長岡の前(さき)においでになった〔前とは、今の神の宮の南のほとりがすなわちその地である〕。
 そこで、「ここはまことに住むべきよい土地である」と仰せになって、最後にほめ讃えて、
 「真住吉(ますみえ)し住吉(すみのえ)の国」と仰せになって神の社をお定めになった。
 今の人は略して単に「須美乃叡(すみのえ)」と称する。

とあり、住吉大神の神託により名づけられたとする。
本来は「すみのえ」という名であり、昔は「え」に「吉」という字を当てていたので、「すみのえ」を「住吉」と表記していたが、
その後「吉」を「よし」と訓むことが一般的になり、「すみよし」と読むようになった(今でも「良い」ということを「ええ」と言うのは昔の名残)。
ただ、地名は「住之江(すみのえ)」と、昔の名を残している。

住吉三神と息長足姫命(神功皇后)の四柱を祀り、
年末年始には200万人もの人々が押し寄せるなど、大きな崇敬を集めている。
住吉三神は、『古事記』では黄泉国から戻ってきた伊耶那岐命が、
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(あはぎはら)で禊祓をしたときに水中で化成した神々。
その誕生にちなんで祓えの神、
海の神として航海安全の神として信仰され、
新羅征伐の故事から軍神としても信仰された。
また、神域前の白砂松原の風光明媚によって数多くの歌に詠まれ、
住吉明神もしばしば歌をもって神託を下されたことが古典にみえ、和歌の神としても信仰される。
現在は完全に内陸だが、昔は鳥居の辺りまで海が入り込んできており、
住吉神社の松並木の石垣に波が打ち寄せる情景は素晴らしく、歌人によって様々な歌が詠まれている。

*住吉社にうたふべき求子の歌とて神主経国よませ侍りけるに  藤原定家
   住吉の松が根あらふしき浪に いのる御かげは千世もかはらじ  (続後撰和歌集)
*本社にさぶらひてよみ侍りける  津守国平
   わが君をまつの千とせと祈るかな 世々につもりの神の宮つこ   (続後撰和歌集)
      ・・・津守氏はその創祀より住吉神主職をつとめる。自らの氏族名「津守」と歴史の「積もり」を掛けた。
*建保三年(1215)六月二日和歌所歌合に松経年  衣笠前内大臣
   住吉の岸のみづがき神さびて その世も知らぬ松の色かな  (続古今和歌集)
*歌  太上天皇
   神よかみ猶すみよしと見そなはせ わが世に立つる宮柱なり  (続古今和歌集)
      ・・・昔は住吉も伊勢と同じように朝廷の主宰で式年遷宮造替を行っていた。その遷宮にあたって。
         「住吉」と「住み良し」を掛けるのは、摂津国風土記逸文にみえる住吉大神の神託にもとづく。
*家の百首歌の中に神祇  後法性寺入道前関白太政大臣
   波立てばしらゆふかかる住吉の松こそ神の榊なりけれ  (続拾遺和歌集)
      ・・・白い波しぶきのかかった松の木を、白木綿をかけた榊になぞらえた。
*住吉にまうでてよめる  西行法師
   すみよしの松がねあらふ波の音を 梢にかくる沖つしほ風  (続拾遺和歌集)
      ・・・上の定家の歌の本歌取り。

マイナーどころをちょっとあげてみた。
かつては海辺だった神社も、土砂の堆積でどんどん内陸部になっていき、
今では、周囲には阪堺はともかくとして南海とか阪神高速とかばんばん走ってて建物も立ちまくりなので、
境内の松並木に往時をわずかにしのぶのみ。

また、住吉大社は農業神としても大きな崇敬を集めている。
住吉大社は古くから神域周辺だけでなく各地に神領をもっていたが、
そのうち播磨国には賀茂郡に「住吉酒見社」という分社をもち(兵庫県加西市北条町鎮座)、その神社附属の神戸三戸をもっていた。
さらにその東方の端鹿山(加東市東条町。住吉神社が数多くある)の九万八千余町(一町は約1ha)が神領であるなど、
賀茂郡は住吉大神の地ともいえるところだったが、
『播磨国風土記』賀毛郡河内里(加西市河内町)条には、

 河内の里(加西市河内町)。土は中の下である。
 右、川により名とする。この里の田は草を敷かずに苗の子を蒔く。
 そうするわけは、住吉の大神がのぼっておいでになった時、この村で食事をなされた。
 そして御供の神たちは、人が刈っておいた草を敷き散らして御坐の敷物とした。
 その時、草の持ち主(の村人)は大変心配して大神に訴えた。(*苗代のために刈っておいた草を取られてしまったので)
 (大神はそれを)お聞き分けになって仰せになるには、
 「おまえの田の苗は、草を敷かずとも草を敷いたように必ず生えるであろう」
 と仰せになった。ゆえに、その村の田は今でも草を敷かずに苗代を作る。

との伝承を伝え、また『住吉大社神代記』の山河寄進本記には、

 時に大和の忍海刀自(忍海は現在の奈良県葛城市忍海。刀自は女の戸主、女主人の意)は親族を率いて大神に申し上げて言うには、
 「この水を分けていただきたい」と乞い申し上げた。
 よって、智原萱野の水を分けていくばくかを賜った。
 喜んでその賜わった水を引き、溝を穿ち作ったが、水が満ちることは無く、耕作に不便な地であることを侘しく思った。
 大神はお教えになって、「保木・上木・葉榊を集め、土樋を造って水を越せ」と仰せになった。
 その御教のとおりにし、ついに水を通わせて田を潤した。ゆえに、その地を水分・水越(奈良県御所市、水越峠。葛木水分神社あり)という。

との伝承を記し、住吉大神は古くより農業神としても広く信仰されていた事が知られ、
その信仰は現在も住吉大社境内の神田で行われている御田植祭に受け継がれている。
連歌師として知られる宗祇は、これほど多彩な住吉大神の神徳について、
「住吉明神は文武を守り給へり、此の道は両輪の如し、国家を治めむ人は、此の御神の心を観ずべき事とぞ覚え侍る」
と記している。

朝廷も古来住吉大社を重んじ、国史には『日本書紀』より幾度も奉幣の記事が見え、
遣唐使の派遣前には「開遣唐舶居祭」が行われていた。
航海安全だけでなく、雨乞いのための奉幣も盛んに行われており、農業神としての信仰が大きかったことがここからもわかる。
住吉大社の神主には、原則として官人にしか許されていない把笏(はしゃく。笏を持つこと)が許され(延暦二十年〔801〕二月四日)、
弘仁三年(812)には、住吉・香取・鹿島三社の正殿を二十年に一度造替する(いわゆる式年遷宮)ことが定められた。
神階は、六国史内で従一位勲三等。その後、正一位の極位を授けられた。

住吉明神は老翁の姿であらわされることが多い。これは浦島太郎にも共通する、海の神のイメージなのだろう。
謡曲や能における住吉明神は老翁の姿で示現し、
古くは備前国風土記逸文にも、神功皇后の御船の行く手を遮った牛鬼を、老翁の姿の住吉明神が投げ倒したとある。
ただ、『日本書紀』神功皇后摂政前紀には、住吉神のことを、

  日向国(ひむかのくに)の橘小門(たちばなのをど)の水底(みなそこ)に居(ま)して、
  水葉(みなは)も稚(わか)やけく出で居す神

と、若々しいイメージで描いており、
また安曇氏が奉斎していたワタツミの神は『日本書紀』では「少童神」と表記されていることから童子神であったと思われ、
上代の日本では海の神の姿について「ショタ少年派」と「老翁派」の二大勢力があり、のちには老翁とするのが一般的になったようだ。

江戸時代後期に発行された『摂津名所図会』によると、
当時は神社前から砂浜まで一面の松原で、その中を住吉街道が走っており、
やや北には住吉新家(現・住吉区東粉浜)があって料理屋・料亭などが並び、住吉詣での人々でにぎわっていた。
松原を西に抜けると遠浅の砂浜が広がっており、松原を出るとすぐに見える浜ということで「出見浜」と呼ばれ、
そこには日本最初の灯台ともいわれる「高灯篭」があり、
人々はこれに登って東の金剛山脈から北の六甲・摩耶、西の淡路・阿波そして南の紀州をぐるり遠望して楽しんだ。
人々は潮干狩りに打ち興じ、とくに三月三日には住吉から堺の浜まで、浜も磯も沖もどよめくほどの人出だったという。

鳥居正面。住吉さんは燈篭の数と大きさがすごい。
太鼓橋修理のレッカーが停まっている。
どーんと。 反橋(太鼓橋)。このときは工事中で渡れず。
昔はここまで浪が打ち寄せていた。
池と鳥。 住吉鳥居前。並ぶ灯篭。
住吉鳥居。石造り。
柱は四角という珍しい形。
額字は有栖川宮熾仁親王の筆による。
中に見えるのは表筒男命を祀る第三本宮。
神功皇后を祀る第四本宮。
向こうに見える第二本宮、さらに奥の第一本宮は参拝当時修復中で、
御神体は第三本宮に仮遷座している。
第三本宮。
社殿はすべて西向きで、第一(底筒男命)・第二(中筒男命)・第三本宮が縦一列に並び、第四本宮が第三本宮の隣に立つ。
この配置は住吉大社にしかみられない独自のもので、一列に並んで航行する船団を想起させる。
昔は海辺であったこの地から、難波を出航する船を見送り、また帰ってくる船を出迎えた。
遣唐使もここで安全を祈願して海へと旅立って行った。

本殿はいずれも国宝に指定されている。
第一本宮のみがほかの三宮から離れて建っているが、
これは『摂津名所図会』に描かれているように、昔は第一本宮のみが瑞垣に囲まれていたため。


表筒男、中筒男、底筒男の三神の神名の「ツツ」については古来いろいろな説があるが、定まっていない。
*港の「津」説。「底つ津の男」→「底筒男」
*船を漕ぐ櫂、楫の類の槌状の棒の古名に基づくのではないかとする説
*筒柱(船霊を納める柱)にちなんだとする説
*星の古名によるとする説
*対馬に「豆酘(つつ)」という地名があり、ここの海人族の祀っていた神が住吉に遷ったとする説

「津」説は一番簡明だが、神名で連体助詞と名詞をひとつの漢字にまとめる例はないことから疑問とされ、
「星」説は、星をツツと読む例が「夕星=ゆふつつ」のひとつしかないことから物証少なく疑問とされる。
船具説も、実証するものがない。
筒柱説は神祭りということにおいて一番無難だが、一本の柱が底・中・表(上)に三分割されるところに疑問が残る。
地名説は、発掘などで実証がなされなければ(豆酘で三神の祭祀施設跡が発見されるなど)ならない。
はたして。
語源がわからないということは、それだけ古い神であるといえるだろう。

ただ、「津」説に対して「神名で連体助詞と名詞をひとつの漢字にまとめる例はない」という反論があるが、
海の神、塩土老翁(しほつちのをぢ)の神名も「しほ(塩、潮)」+「つ(~の)」+「ち(霊、あるいは道)」と解釈されており、
火の神である「カグツチ」も『古事記』では「火之迦具土神」と、いずれも「つ(~の)」「ち(霊)」を「土」でまとめており、
例がないわけではない。

おみくじ所。
がらんがらんと振って棒状の籤を出し、その番号のおみくじをいただく。
最初に参拝したときには見事に大凶。人生初大凶だった。
続いて引いた人も同じ番号で、大凶。
大凶出やすいな、この神社・・・と思った。
「ごまかさずはっきり言ってくれる」神様ということか。
「平」があるのも特徴。
修復中。

第一本宮の南に一本の杉の木が石玉垣に囲まれて立っているが、これは「五所御前」といい、
住吉大神が最初に降臨されたところという。
社伝では、大神の鎮座地を求める神功皇后がこの地を訪れたところ、
三羽の鷺が飛んできてここの樹に止まったので、ここが大神の御心に叶うところとお思いになり、
この地に社をお定めになったという。
その隣には若宮八幡宮が鎮座し、神功皇后の御子で八幡神たる応神天皇と、その臣である武内宿禰を祀る。

第四本宮の南、斎館の西には船玉神社と市戎大国社が鎮座する。
船玉神社は、『延喜式』神名式、摂津国住吉郡二十二座の一に名がある古社。
祭神は天鳥船命・猿田彦神で、船の守護神として古来信仰されている。
『住吉大社神代記』によると、船玉神は住吉大神の子社(摂末社)として記されており、

  船玉神。今にいう、斎き祀るのは紀国の紀氏神、志麻神、静火神、伊達神の本社である。

と、紀伊国の国造家である紀氏の奉斎する三社の本社としており、
また、住吉大社神官家であった船木氏の由来を記した部分には、

  それから気長足姫皇后(*神功皇后)の時、熊襲二国ならびに新羅国を誅し、また征された。
  その時大田田命(*船木氏の祖)と神田田命(*大田田命の子)は自らの領するところの山の峰の樹を伐り取って、
  船三艘をお造り申し上げた。
  木の本から造った船には皇后ならびに大神の臣八腹を乗せ、
  次に木の中腹の赤にて造った船には日御子等を乗せ、
  次に木の末にて造った船には御子等ならびに大田田命・神田田命を共に乗せて渡り征せられた。
  まさに御幸されるときに天神地祇にお祈り申し上げて験があった。
  御幸還り上られると、その御船を武内宿禰に命じてお祭りさせた。
  志麻社・静火社・伊達社、この三前の神である。

と、神功皇后新羅征伐の時に用いられた三艘の船を祀ったのが船玉神であるとしている。
『延喜式』神名式では、紀伊国名草郡十九座のうちに伊達神社、志磨神社、静火神社の名がみえ、
いずれも名神大社指定。
この三社は国史においても常に三社同時に神階を授けられており、六国史内では従三位まで授けられ、のちに正一位を授けられたという。


市戎大国社は、ご存じ「えびす・大黒」様。商売の町・大阪には欠かすことのできない神様でおます

境内南にある御神田。
住吉大社の御田植祭は日本三大御田植祭のひとつに数えられており、
住吉さんは稲作の神としても信仰を集める。

『摂津名所図会』には、華麗な植女(うえめ)の行列が描かれている。
御田植え式には早乙女にあたる「植女」が奉仕するが、これは、
神功皇后が長門国から植女を召し、神田に田植えをさせたことを起源とする。
江戸時代には住吉社領であった堺の乳守町の遊女が奉仕し、
明治以降は大阪新町の芸奴が担当。
萌葱色の絹張りの市女笠に綿の花を模した黄色の造花をあしらい、
赤だすきを掛けた美しい衣装をまとう。
古くは植女が田植えを行っていたが、
近世になると苗を渡すだけで田植えはしなくなった。
また、名所図会には鎧兜をつけた風流武者たちによる合戦の儀礼も描かれており、
いずれも現代にまで伝えられている。
境内の松が涼やか。

 

境内北辺に鎮座する、境内摂社・大海(だいかい)神社。

『延喜式』神名式、摂津国住吉郡二十二座の内、大海神社二座。
注に、「元の名は津守氏人神」と記されている。
昔は「おほわたつみのやしろ」と読んでいたと思われるが、現在は音読み。

多くの写本の注記にはこの神社の元の名を「津守氏人神」とするが、古写本のうちには「津守安人神」とするものがあり、
住吉社に伝わる神代記には、
「津守安必登神(つもりのあひとのかみ) 二座 海神(わたつみ)と号す
とあるので、「津守安人神」の方が正しいと考えられている。
現在は豊玉彦命・豊玉姫命の海神二柱を祀るが、
神社の元の名からすると、もともとは住吉社を任される以前からの津守氏の元来の奉斎神を祀っていたのだろう。
現在は住吉大社境内にあるが西からの参道と鳥居を備えており、独立した神社といった趣。
『摂津名所図会』には、周囲を松並木に囲まれ西からの広い参道に鳥居、神門をそなえ、
南北にも門を構えていた堂々たる境内の姿が描かれている。

昔は海がすぐそこまで迫っており、浜辺からやや高くなったところに鎮座していた。
神功皇后が凱旋時この神社の前で新羅の宝物を民に見せた、という伝説もある。


ここへ参拝するには社務所と吉祥殿の間を抜けていくことになるが、
社務所のあるところには明治初年までは神宮寺があった。
神仏分離により破却され、しばらくは畑になっていたが、現在は社務所、住吉文華館、駐車場、神苑となっている。
吉祥殿のあたりは近代に入ってもなお大海神社境内前の松原だった。

神宮寺跡は大阪市の史跡に指定されており、その東辺には末社が並んでいるが、
そのうちの招魂社は護摩堂であった建物をそのまま用いており、大阪府指定文化財となっている。
代々神事をつかさどった社家や崇敬者など、住吉大社に縁の深い人々の霊を祀る社で、
その隣に並ぶ末社たちも、創祀より長く住吉大社の神主や神官を務めた津守氏の人々を祀っている。
もと神宮寺そして津守氏氏寺であった地の伝統を継ぐお社たちといえるだろう。

大海神社の隣に鎮座する境内摂社・志賀神社。
『古事記』では住吉三神と同時に化成した、
底津少童命(そこつわたつみのみこと)・中津少童命(なかつわたつみのみこと)・表津少童命(うへつわたつみのみこと)を祀る。
(表津少童命の読みについては、『古事記』〔上津綿津見と表記〕には「上」は「ウヘ」と読めという訓注がついている)
福岡市の志賀海神社(延喜式、筑前国糟屋郡、志加海神社三座)の勧請。
この三柱は阿曇氏の奉斎する神々。


境外南東に鎮座する、
住吉大社境外末社・浅沢神社。
巨大な石灯籠が目印。
祭神は市杵島姫神。
こういった例に漏れずにもとは弁財天を祀っており、
「弁天さん」と呼ばれている。
芸能・美容の神として親しまれ、
住吉に参拝する女性は必ず参拝する慣わしがある。

古来カキツバタの名所であり、『万葉集』には、

墨吉(すみのえ)の 浅沢小野のかきつはた
 衣(きぬ)に揩(す)り著(つ)け衣(き)む日知らずも

(巻七、1361)

と歌われている。
もとは清水の湧き出るもっと広大な池で、
そこに咲き誇る杜若は非常な美しさであったが、
昭和に入って清水も枯れ、
それからは明治神宮の花菖蒲を移植していた。
しかし平成九年、地元の要請により、
この地に新たな水脈を加えて各地より杜若の原種を集め、
「浅沢小野の杜若」が復活した。

社の周囲の池には杜若がびっしりと植えられている。
5月には美しい光景が見られるのだろう。

境外末社・大歳神社。
浅沢神社の南に鎮座する。
稲の稔り・収穫を司る神で、
ここは大阪商人たちからとくに「集金の神様」
として信仰を集めた。

境内の右側に「おいとしぼし社」があり、
そこには「おもかる石」という三つの石がある。
願を掛けて石を持ち上げ、軽く感じれば可、
重く感じれば否であるという。

大依羅(おおよさみ)神社。

大阪市住吉区庭井2丁目に鎮座。
大和川北岸、阪南高校のグラウンドにぐるり取り囲まれた感じで鎮座している。
「依羅」で「よさみ」と読むことで「?」となる人もいるかもしれないが、
「羅」は「あみ(網)」を意味する漢字(言葉)であり、漢和辞典でも「あみ」の項に載っているし、ワープロソフトの変換でも出る。はず。
よって「依羅」は「よす+あみ」で、「よさみ」となる。

『延喜式』神名式、摂津国住吉郡廿二座の内、大依羅神社四座。
四座ともに名神大で、祈年祭・月次祭・新嘗祭に加えて相嘗祭、
また、臨時祭である祈雨神祭、八十嶋祭においても朝廷からの幣帛に預かっていた。
この地方では住吉大社に次ぐ尊崇を受けていた神社で、朝廷からもとくに祈雨神として重んじられており、
『日本三代実録』元慶元年六月十四日条には、
「幣を石清水八幡大菩薩宮并びに賀茂御祖、別雷、松尾、稲荷、木島、乙訓、大依羅、垂水、広田、生田、長田神社に奉る。甘雨を祈る也」
とあり、二年後の同日六月十四日条には、
「使を大和国の広瀬、竜田、摂津国の住吉、大依羅等四神社に遣わし、神財を奉る」
と、その崇敬の高さがうかがえる。

かつては神社の南に依網池(よさみいけ)という大池があり、周辺の田畑を潤していた。
しかし江戸時代の大和川流路変更工事で川が池の中央を貫通する形になり南北が分断、
南部は庭井新田となり、北部はその機能を失いながらも命脈を保ったが、
阪南高校のグラウンド、また大阪市営野球場になり昭和50年過ぎに姿を消した。
『古事記』『日本書紀』には崇神天皇が依網池を作ったとあり、
また『古事記』では仁徳天皇も依網池を作ったという記事があり、これは土砂沈殿による再掘削と考えられている。

祭神は、『古事記』に見える第九代開化天皇の皇子・建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ)と住吉三神の四座。
『記』には建豊波豆羅和気王の子孫のうちに依網之阿毘古(よさみのあびこ)を挙げており、
神功皇后の新羅出兵に際して依網吾彦男垂見(よさみのあびこ・をたるみ)が住吉三神を祭る祭儀の神主となったことが
『日本書紀』神功皇后摂政前紀に記されていて、
神功皇后の帰還後、依網吾彦の一族がこの地にて住吉三神と自らの祖先である建豊波豆羅和気王とを祀ったのを創祀とする。
「吾彦(あびこ)」は皇室と密接な関連を持つ地方官的な古い伴造(とものみやつこ)で、姓(かばね)の先駆的なもの。
近隣の「我孫子」という地名は依網吾彦に由来している。
『日本書紀』仁徳天皇四十三年秋九月一日には、依網屯倉の阿弭古(あびこ)が異鳥を捕らえて天皇に奉ったという記事があり、
この鳥は鷹であると記されていることから、この記事は日本における鷹狩の起源伝承となっている。

『続日本紀』天平勝宝二年(750)八月十六日条に、
摂津国住吉郡の住人で外従五位下の依網我孫忍麻呂(おしまろ)ら五人に依網宿禰姓を、
神奴意支奈(かんやっこ・おきな)、祝長月(はふり・ながつき)ら五十三人に依網物忌の姓を賜った、とあり、
  (*神奴・・・一般的には神社に仕える賤民のことだが、住吉社の神人、また中臣須牟地神社神主家をもさす)
依網氏が神社の運営を行っていたことがわかる。
『新撰姓氏録』摂津国皇別の依網宿禰の項には、「日下部宿禰と同祖、彦坐命の後なり。続日本紀合へり」
とあり、彦坐命は同じく開化天皇の皇子ではあるものの、祖先が『古事記』の記述と異なっている。

神社は南北朝期に奉斎氏族である依網氏が衰微するとともに衰え、祭神も不明となり諸説紛々するほどになる。
神宮寺の大聖観音寺(あびこ観音)の別当に管理がゆだねられたあと、長らく住吉大社の摂社となっていた。
現在は、主祭神のほかに近世の祭神であった大己貴命・月読命・垂仁天皇・五十猛命もあわせ祭っている。太っ腹。
また、明治の神社合祀により、
式内社である草津大歳神社(くさつおおとしじんじゃ。小社。鍬・靫)や
同じく式内社である奴能太比売神社(ぬのたひめじんじゃ。小社)など五社を合併しており、大所帯の神社となっている。

神社北側、境内入口鳥居。
以前は南側が表参道だったが、昭和44年の火災に伴う再建時に変更されたらしい。
境内。
木々が繁り、境内をほぼ覆い隠している。
拝殿。
もともと社殿は南向きだったが、
昭和44年の火災に伴う再建時、表参道を北側にする関係で
東向きに変更された。
もとは表参道だった南門の前。
こういった門は神仏習合の名残だろう。
南の鳥居。
隣は阪南高校。
鳥居のすぐ前にある、依網池址の碑。
往古はここに広大な池が広がり、
その北に隣接する深い森の中に神社が鎮座していた。
依網池址碑の向こうには線路が走っている。
これは2004年7月に休線となり、
2009年3月31日をもって廃線となった阪和貨物線。
10月より線路の撤去が始まっているようだ。
大和川土手から見た社叢。 大和川。
宝永年間の流路変更工事により、この辺りの情景は一変、
人々の生活も大きく変わったのだろう。
現在の長瀬川が元来の大和川の本流で、
大和川はもともと八尾・久宝寺、そして淀川方面へと流れていた。
古代においてはその方面が大きな内海になっていたため。
境内には大きな楠があり、
神木として大切にされている。
庭井の址。

昔はここに清水が湧き出ており、
斎庭井(ゆにわい、聖なる場所の井戸の意)の清水と呼ばれていた。
周辺の人々はそれにより恩恵を受け、この地を庭井と呼ぶようになり、
今に地名として残っている。
泉はその後枯渇し、その址が残っていたが、
再建工事による整地の際、それも埋まってしまった。
それを偲んで立てられたもの。

中臣須牟地(なかとみすむち)神社。

大阪市東住吉区住道矢田2丁目に鎮座。

『延喜式』神名式、摂津国住吉郡廿二座の一。大社で、祈年祭・月次祭・新嘗祭、
そして臨時祭である八十嶋祭において朝廷の幣帛に預かった。
祭神は中臣須牟地神。神須牟地神、須牟地曽祢神、 住吉大神四座を配祀。
須牟地とは、現在の地名である「住道」(現在の読みは訛って「すんじ」)が示すように、道路の神様。
昔は、住吉大社の南の住吉津から八尾方面へ続く、ほぼ現在の長居公園通りにあたるところに磯歯津路(しはつみち)という道路があり、
外国からの使者を迎える道路になっていたが、その要所に「住道神」が祀られていた。
この神社はそのひとつで、唯一の大社であり神階従五位上を授けられていることから、その中で最も重要視されていた。

『延喜式』玄蕃寮式には、新羅の客が入朝した際は神酒を給うことになっており、それを醸造するための稲は、
難波で饗応する時は大和国の賀茂・意富・纏向・倭文の四社、河内国の恩智の一社、和泉国の安那志の一社、
摂津国の住道・伊佐具の二社から各々三十束、計二百四十束を住道社に送り、神部に酒を造らせ、
中臣一人を差遣し難波館で神酒を給わせることとしている。
この酒を造るところが中臣須牟地神社だったという。
異国の使節が入朝した際は様々な祓えの行事が行われており、これもその一環であるとされている。
中臣氏の差遣があったということからこの神社の祭祀も中臣氏によって行われていたと思われ、ゆえに社名に「中臣」を冠するのだろう。

長居公園通りから湯里6丁目交差点を600mほど南、住道8丁目交差点の一角に鎮座する、こぢんまりとした神社。
ただ、森はよく繁っている。
駐車場はなく、近くにはコインパーキングしかない。
神社正面鳥居。
正面は閉じられており、入ることはできない。
左手のほうにもうひとつ鳥居があり、そこから境内に入る。
境内参道。
拝殿。 拝殿前の境内末社・楠社。
楠を神木として祀っているようだ。
ほかにもいくつかの境内社が鎮座する。
拝殿上部の彫刻。 境内の木々。

神須牟地(かみすむち)神社。

大阪市住吉区長居西2丁目に鎮座。
阪和線長居駅から西に200mほどのところに鎮座している。

『延喜式』神名式、摂津国住吉郡廿二座の一。小社だが、祈年祭の幣帛には通常のものに加えて鍬・靫が奉られていた。
また、臨時祭である八十嶋祭においても朝廷の幣帛に預かった。

祭神は神産霊大神、手力男命、天児屋根命で、そのほか多数の神を配祀する。
もともとの祭神は住道神だったが、外国の客を迎える磯歯津路の神という漠然とした神格だったために、
その習慣がなくなると様々な神を祀るようになったものだろう。
現在の主祭神は社名との語呂合わせでそうなったものか。

神社正面鳥居。
駅前の住宅街の中。
夕方なので暗く、携帯写真もピントが合わない。
境内。 拝殿。
現在の社殿は、
慶長の戦災により焼失したものを、元和四年に再建したものといわれる。

生根(いくね)神社。

大阪市住吉区住吉二丁目に鎮座。
住吉大社の北100mのところに鎮座する。

『延喜式』神名式、摂津国住吉郡二十二座の一。
大社の指定を受けている神社で、祈年祭のほか、月次・新嘗祭においても朝廷の班幣を受けていた。
祭神は少彦名命。大国主命とともに国土経営を行い、様々な医薬・呪術の技を定めたという。
体が非常に小さく、大国主命との初対面時には『古事記』では名を聞かれても答えなかったり、
『日本書紀』では大国主命が掌の上で弄んだらその頬に噛み付いたりと、ユーモラスかつ一筋縄ではいかないトリックスター的な神様。

創祀年代は不明で、近隣の住吉神社が天平年間に太政官に提出した文書とされる『住吉大社神代記』にも名が見えない
(昔は住吉神社とは関係がなかったか)が、社伝では住吉大社より古い社とする。
延喜式内大社ということで、少なくとも平安時代には大きな崇敬を集める神社だったことは間違いない。

『延喜式』神名式によれば大和国城上郡に忍坂坐生根神社が鎮座しており(奈良県桜井市忍坂)、
同じく少彦名命を祀る。ここの生根神社と同じく大社に分類されている。
西成区玉出西二丁目に鎮座の生根神社は、ここから勧請された神社。
近世には住吉神社の傘下に入り摂社となっていたが、明治になって独立した。
祭神が医薬の神・少彦名命であることから「住吉の淡島明神」と呼ばれ
(淡島神は少彦名命の別名とされる。粟嶋から常世国に渡ったことから)、
また境内に天満宮があることから、「奥の天神」とも称される。

『摂津名所図会』には、
一面の水田の中から抜きん出た高台に、垣に囲まれて本殿、拝殿、末社の小祠が一社、そしてお堂が描かれており、
「奥の天神」と書かれている。

境内入口。
振り向けば、すぐ向こうに住吉大社。
この参道をまっすぐ南に向かうと、大海神社の北門に達する。
堂々たる構えの拝殿。
この拝殿と本殿は淀殿による造営。
淀殿はこの社を崇敬すること大であったという。
大阪府の有形文化財に指定されている。
本殿。
西向きの住吉大社や大海神社とは違い、南向きに立つ。
本殿の後方に摂末社が並ぶ。
一番奥の朱塗りの社殿が、天満宮。
inserted by FC2 system