にっぽんのじんじゃ・さいたま

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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*武蔵国

現在の東京都・埼玉県および神奈川県の一部。
上古には无耶志国(むざしのくに、武蔵国)・知知夫国(ちちぶのくに、秩父国)の二国があったが、
大化の改新時に統合された。
当初は東山道に所属していたが、交通の発達とともに東海道所属の国となっている。
国府は多磨郡、現在の東京都府中市宮町に置かれていた。
武蔵国総社である大國魂神社はその区域内に鎮座する。
『先代旧事本紀』国造本紀には、
无耶志国造は出雲国造家の一族である兄多毛比命(えたもひのみこと)が任じられ、
知知夫国造には八意思金命(やごころおもひかねのみこと)の十世の孫、知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)を任じたとあり、
同書・天神本紀には、饒速日命の降臨に供奉した三十二柱の中に
八意思兼神の児の表春命(うははるのみこと)・下春命(したはるのみこと)の二柱があり、
表春命は信濃阿智祝部等の祖、そして下春命は武蔵・秩父国造等の祖とある。

*足立郡(東京都足立郡、北区の一部、板橋区の一部、
 埼玉県川口市、蕨市、上尾市、桶川市、北本市、伊奈町、戸田市の一部、草加市の一部、さいたま市の大部分、鴻巣市の一部):

氷川神社


氷川(ひかわ)神社。

埼玉県さいたま市大宮区高鼻町
大宮駅北東の大宮公園の森に鎮座する。
「大宮」の地名は、この神社が鎮座することにちなんでいる。

『延喜式』神名式、武蔵国足立郡四座の一。
霊験著しい神社として「名神・大」に指定され、祈年祭のほか、月次・新嘗祭においても朝廷の班幣を受けており、
それらの幣帛は武蔵国司からではなく京の神祇官から頒布されていた。
武蔵国内で「名神・大」に指定されているのは、ほかには児玉郡の金佐奈神社(金鑽神社)だけであり、
こちらは「月次・新嘗」の官幣は受けていないため、氷川神社が武蔵国で最も尊重される神社であったことになる
(この周辺で祈年月次新嘗の官幣を受けていたのは、ほかには伊豆三嶋神社、安房坐神社、香取神宮、鹿島神宮のみ)。
その故を以て、「武蔵国一宮」を称している。
ただ、『神道集』や武蔵国総社である大國魂神社では一宮を国府所在地である多摩郡の小野神社とし、氷川神社を三宮としている。
総社は国衙の域内あるいは隣地にあって国内神社を一括して祭る神社であり、
一宮、二宮、三宮・・・は国司が国内の神社を巡拝する際の一番目、二番目、三番目・・・の神社であったという説があるので、
平安時代までは国府に一番近い小野神社が一宮とされていたが、
律令制の崩壊とともに国司の権力が失われ、
もともと「名神」として霊験著しい神社である氷川神社を関東武士たちが足立郡やその周辺各地の自領へ次々と勧請していくにつれ、
一般の認識は「氷川神社が武蔵国一宮である」と変わっていったのだろう。
明治になり東京奠都が行われると、明治天皇が氷川神社を武蔵国総鎮守、勅祭社とお定めになり、親ら祭儀を執り行われた。
以降、祭典においては勅使が発遣されており、
また昭和天皇、皇太子時代の今上陛下がそれぞれ二度ずつ御参拝されている。
これによって、現在の武蔵国一宮は大宮の氷川神社であるといえるだろう。

祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命の三座。出雲系の三柱を祀る。
『延喜式』神名式では一座と記されているので、時代の経過とともに増えたようだ。
『先代旧事本紀』国造本紀には、

  无耶志(むざし)国造。
  志賀高穴穂朝(しがのたかあなほのみかど。第十三代成務天皇)の世に、
  出雲臣の祖、名は二井宇迦諸忍神狭命(ふたゐのうかもろおしのかむさのみこと)の十世の孫、
  兄多毛比命(えたもひのみこと)を国造に定め賜ふ。

と、出雲国造一族が武蔵国造に任命されたと記されており、
武蔵に出雲の神が祀られているのはきわめて自然なこと。
出雲国造の祖は天穂日命で、この神は須佐之男命が天照大御神との天安河での誓約によって成した五柱の神の一であり、
天照大御神が自らの児として引き取ったが、須佐之男命の子孫といってもよく、
出雲国造の奉斎神であった出雲国意宇郡の熊野大社の祭神は須佐之男命とされているため、
氷川神社のもともとの祭神は須佐之男命であっただろうか。
出雲国大原郡の斐伊神社の勧請であるという説もあり、
同郡の神原神社(本殿下にあった古墳から「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が出土したことで知られる)の社伝には、
「斐伊神社を武蔵国へ勧請する際、神原神社の神宝の宝剣ほかを供出した」
とある。
氷川神社の社伝では、第五代孝昭天皇三年四月の創祀と伝えている。

往古、神社の東には「見沼」という広大な沼があり、
おおよそさいたま市北区・大宮区・見沼区・緑区および川口市の一部に、Y字形に広がっていた。
江戸時代の地図にも規模は縮小したもののなお記されており、現在境内にある神池はその名残。
氷川神社は、見沼のY字左辺中央付近にあった深い入江のほとりにあったとみられており、
見沼の神を祀ったのが神社の創祀ではないかという説がある。
この見沼の水辺に、氷川神社・中山神社(簸王子社)・氷川女体社の三社がほぼ一直線上に鎮座し、
もとは三社で一体の信仰をもっていたとされている。
見沼には古来龍神伝説が伝わっているが、
もとは水神である龍(蛇)を祀っていたところへ、
武蔵国造として八岐大蛇退治の素戔嗚尊を奉じる出雲国造一族がやってきたと考えると実に適切な感じがする。

旧中山道(現・県道164号線)沿いに立つ、氷川神社一の鳥居
ここから神社まで十八丁(約2㎞)の直線の参道が延びる。
かつてこの参道は中山道の一部だったが、
参道と街道とが一体では神に対し不敬であるとして、江戸時代に現在の旧中山道を新たに造成して町家を移転し、
この道は純粋な参道となった。
かつては見事に茂った松並木だったが、明治時代に欝蒼とした杉並木に変えられ、
現在は公害に強いケヤキやスダジイの並木となっている。
『江戸名所図会』には「氷川宮大門先」と記されており、
氷川参道と中山道に挟まれた区画には「万日堂」という阿弥陀堂や観音堂、鐘楼などがあったが、明治時代に破却された。

現在、二の鳥居までの参道は北への一方通行の車道と歩道となっている。
2㎞の直線道路で、また並木道で涼しいことから、ウォーキングやランニングの人が多い。

徒歩、自転車、自動車と、多くの人が行き来する(車は一方通行だけど)。
車道は先の交差点までで、
その先からは石畳の参道になる。
さらに歩いていくと、氷川神社入口交差点。また道路を渡る。その先に、二の鳥居。
二の鳥居はもと明治神宮の鳥居で、昭和51年に移築されている。

交差点手前の東側参道脇には、氷川神社末社の天満神社が鎮座している(あとで知った)。
御祭神はもちろん、菅原道真公。
二の鳥居をくぐれば、神社までもうすぐ。
呉竹荘・勅使斎館が見えれば、神社は目の前。
氷川神社三の鳥居。くぐれば境内。
右に行けばほどなくNACK5スタジアム、左は神社会館(参拝当時は埼玉県神社庁)。

入ってすぐ右手に、神楽殿・額殿。 左手、社務所の前には力石が並べられている。
力石には持ち上げた人の名と石の目方が刻まれる。
右に摂社・天津神社。
少彦名命を祀る。
左の方に末社六社。
 山祇神社(祭神:大山祇命)
 石上神社(布都御魂命)
 愛宕神社(迦具土命)
 雷神社(大雷命)
 住吉神社(底筒男命・中筒男命・上筒男命)
 神明神社(天照大御神)
を一社殿に祀る。

江戸時代にはこの広い区画に「本宮」が建ち、
簸王子宮と称して大己貴尊を祀っていた。
この本宮は明治十五年の改修時に男体宮に合祀された。
神池のほとりに鎮座する末社・松尾神社。
大山咋命を祀る。
大山咋命は山の神様だが、
「松尾明神」となると一般的には「酒の神様」として知られる。
その場合は京都の松尾大社の勧請。
境内西、神池の南に鎮座する末社・稲荷神社。
稲の神霊である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀る。
稲荷神社と西参道を挟んだ向かいの神池内に鎮座する、
摂社・宗像神社。
多起理比売命・市寸島姫命・田寸津比売命の宗像三女神を祀る。

神橋。 神池と宗像神社。

氷川神社楼門。くぐればいよいよ御神前へ。
楼門をくぐると、正面に舞殿、その向こうに拝殿。
向かって左奥に神札授与所及び祈祷受付所がある。
氷川神社拝殿。左端には神饌所が見える。
拝殿およびその向こうの幣殿・渡殿?はすべて石土間で、祭典はすべて立礼で行うのだろうか。
その向こうに本殿が鎮座する。

江戸時代には、この区画には「奥の社」として男体宮・女体宮の二社殿が建っており、
男体宮に素盞嗚尊、女体宮に奇稲田姫尊を祀っていたが、
明治十五年の改修時に本宮と女体宮を廃して男体宮に三柱を祀るようになり、
のち昭和十五年の改修時に現在の姿となった。
本殿のすぐ東は発掘調査中となっていた。
この「氷川神社遺跡」やもう少し東の「氷川神社東遺跡」からは9世紀中葉から10世紀にかけての掘立柱建物跡が発見され、
また平安時代の口琴・銅鈴・鉄斧・墨書土器などが見つかっており、足立郡の郡衙所在地ではないかといわれている。
境内東に鎮座する、摂社・門客人神社(左)と御嶽(みたけ)神社(右)。
御嶽神社は、もとは大和国吉野金峯山の蔵王権現を祀っていた社で、
神仏分離に伴い大己貴命・少彦名命を祭神としている。
ちなみに、「おんたけ」と読んだ場合は、木曽・御嶽山の木曽御嶽神社の信仰にもとづく神社となる。
門客人神社は、稲田姫命の御両親である足摩乳命・手摩乳命を祀る。
『江戸名所図会』には、祭神は同じだが社名は「荒波々幾(あらはばき)社」となっている。
「アラハバキ」とは東日本で広く信仰されていた極めて古い神であり、
聖域の土地神、鎮守神として祀られていたようだ。
東楼門。
舞殿より、拝殿。

 

神社の後背に広がる大宮公園は、かつては氷川神社の神領だった。
明治時代に神社は国家のものであるとして社領がことごとく上知されたのち、
明治十七年に公園として造成され、市民の憩いの場となっている。
大宮公園内、氷川神社のすぐ東にあるサッカー専用スタジアム、NACK5スタジアム大宮。
Jリーグ所属、大宮アルディージャのホームスタジアム。
大宮駅方面から来る人は、駅前の商店街を抜け、氷川神社参道を通ってくる。
専スタなので、選手たちの会話やぶつかり合いを間近で感じることができる。
ただ、現状のキャパはやや小さめでアウェイ側席がごく限られていて、アウェイ席売り切れってどういうことだってばよ。
おかげでホーム側バックスタンド指定席でオレンジに囲まれ、こっそり心の中でサンフレッチェを激応援。これぞ埋伏の毒。
で、接戦を制して勝利(大宮1-2広島)。

アルディ君は雨の中にもかかわらずセグウェイで営業していた。
ミーヤちゃんみたいに雨具も着れないし、お疲れ様です

ちなみにこの年、サンフレッチェ広島はJ1リーグ優勝。
大宮駅前の商店街。
ホームの大宮アルディージャと、
対戦相手のサンフレッチェ広島の旗がなびいている。



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