にっぽんのじんじゃ・しまね

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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出雲郡(出雲市の西部、斐川町の一部):

八束水臣津野命(やつかみづおみつののみこと)が、
「八雲立つ出雲」
と詔したことから「出雲」の名がついたと『出雲国風土記』は記している。
近世に入るまでは「杵築大社(きづきのおほやしろ)」と呼ばれていた出雲大社の鎮座する地。

韓竈神社 *鰐淵寺 *猪目洞窟

出雲郡:

韓竈(からかま)神社。

出雲市唐川町後野に鎮座。
出雲大社の北に聳える山塊より発し北流して日本海に注ぐ唐川川とその支流が山中にいくつかの平地を形成し、
そこに別所、唐川、後野の集落が営まれているが、
そのもっとも西である後野の山中に鎮座している神社。

『出雲国風土記』出雲郡の神祇官登録神社五十八所の一、韓銍(からかま)社。
『延喜式』神名式、出雲国出雲郡五十八座の一、韓竈神社。

主祭神は素盞嗚尊で、国狭槌尊を配祀する。
社号の「カラカマ」は、「韓の釜」、つまり朝鮮南部である韓の地から伝わった製鉄釜の意とされている。
鎮座地より奥地の北山山系は古くからの産銅地帯であり、「金堀り地区」という地名や野タタラ跡があることより、
そういった金属文化の開拓に縁の深い神として祀られたと考えられている。

『日本書紀』に収録されている異伝では、
高天原での乱行により追放された素盞嗚尊はまず新羅に天降り、そののち日本に渡ってきたとされており、
その体の毛を種々の樹に変じてそれぞれの木材の使用方法を定め、
その御子神である五十猛神・大屋都姫神・抓津姫神は日本全国を巡って木種を播き、日本を緑の大地としたと伝える。
また、素盞嗚尊は八岐大蛇を斬るが、同じく『書紀』のその部分に収録されている異伝の一つには、
八岐大蛇を斬った剣として「韓鋤剣」(からさひのつるぎ。韓より伝わった小刀の意)の名がみえ、
朝鮮伝来の鋭利な剣を所持していたとされることから、鉄器文化の担い手であるともいわれる。
「林業」「製鉄業」という、一次産業・二次産業の技能を兼ね備えた素盞嗚尊は、
上古の人々の暮らしを支えたスーパースターといえるだろう。

国狭槌尊は、
『日本書紀』において天地開闢の時に生まれた国常立尊(くにのとこたちのみこと)・国狭槌尊・豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)の三神の一。
それぞれ、国土が恒久なものとして存立したこと、生まれたての若々しい土、豊かに汲める沼の表象。
『古事記』にみえる造化三神、天御中主命・高御産巣日命・神産巣日命は、
『日本書紀』では、天地開闢の段に注として収録された六つの異伝の中の第四にその名があらわれる。
『古事記』は天地開闢はすでに起こったものとして「高天原」、つまり天上から語り起こすのに対して、
『日本書紀』はまず「天地開闢」を語り、次いで「地上の国土の成立」をいうのが、両書のスタンスの違い。


風土記で「カマ」をあらわすのに用いられている漢字「銍」(音はチツ)は、「穀物の刈り入れに用いる短い鎌」の意。
あるいは「カラカマ」も出雲国風土記の「韓銍」の用字どおり「韓より伝わった小鎌」の意かもしれない。
諏訪大社では「薙鎌」という奇妙な形状の鎌を神聖視しており、鎌を何らかのシンボルとして祀る例もあったかも。

松江藩の地誌である『雲陽誌』(享保二年、1717)は、この神社について、

  古老が伝えていうには、素戔嗚尊がお乗りになった船であるとして、二間四方ほどの平石があり、これを岩船という。
  この岩は、本社の上へ西方より屋根のようにさしかざしてあるために雨露も当たらず、世俗に「屋形石」という。
  入口は、横一尺五寸(45cm)ばかり、高さ八尺(240cm)ほどの穴があり、奥の方は二間(3.6m)ばかり社までの通路がある。
  岩船の続きに周囲二丈あまり、高さ六間ほどの丸い立岩があり、これを帆柱岩という。

と記されている。
また当社は、近世には「智那尾権現」と呼ばれており、
唐川町別所の鰐淵寺を開いた信濃の智春上人を三人の老翁が船で出迎えたが、
これは唐川の智那尾権現、別所の白瀧権現(諏訪神社。鰐淵寺の北に鎮座)、旅伏山の旅伏権現(都武自神社。旅伏山九合目鎮座)であり、
その船が智那尾権現に岩船として、船の帆柱が白瀧権現の帆柱岩として、船の帆が旅伏権現の帆筵岩として遺ると伝える。

近代の一時期、同じく延喜式内社の「斐代神社」
(ひしろじんじゃ。ただし『出雲国風土記』では「斐堤社」と表記されているので、もともとは「ひで」と読んでいた)
を合祀していたが、先の大戦後に斐代神社の社殿は旧地に復し、当社の飛地境内社となっている。
こちらの社も滝のほとりに鎮座する、雰囲気ある社とのこと。

鳥居までは登山路となっているのでわりと登りやすいが、
鳥居からは、
  ・急角度の自然石の石段を登る
  ・巨岩の縁を伝って登る
  ・岩のスキマを潜る
の三本立て。
チャレンジするにはそれなりの覚悟と服装が必要。
ただしそれらを乗り越えて参拝した帰路には、何とも言えない充足感に満たされる。

県道250号線を走って口宇賀・奥宇賀を抜け、日本海側に出てきたところにある出雲市河下町の河下港。
十六島(うっぷるい)湾内、唐川川の河口に開けている。
海岸線の道路は県道23号線で、西は日御碕に至り、東は一畑薬師を経由して南下し、宍道湖西岸に至る。

唐川川は、『出雲国風土記』出雲郡の山野河川条に、

  意保美(おほみ)の小河。
  源は出雲の御崎山より出て、北に流れて大海に出る〔アユが少しいる〕。

と記される川。
出雲御崎山とは、宇賀から日御碕にいたる巨大な山塊を一つの山とみなしていったもの。
河下町には『出雲国風土記』『延喜式』所載の「意保美神社」が鎮座する。
右手に見える、出雲市十六島(うっぷるい)町の北浜風力発電施設の風車群。
写真の右側外の海岸部にある小津町では、海辺にメガソーラーを建設中だった。
日本海側は冬の間ほとんど曇天で太陽が出ないけど、どれだけ収益が出るものだろうか。
小津町には『出雲国風土記』『延喜式』所載の許豆神社が鎮座しているが、
一見してよい停車場所が見当たらず、時間もないので参拝は断念。
少し西に走ると県道250号線が山側へ折れており、
唐川川沿いに山へと入ってゆく。
「唐川」の地名も、「韓」にもとづくものといわれる。
ここまでは「鰐淵寺」の標示を目印に来れば迷うことはない。
鰐淵小学校のところで三叉路となる。
左が鰐淵寺、右に行くと韓竈神社。ちゃんと標示が出ている。
三叉路奥の建物は鰐淵コミュニティセンター。
右折してまた唐川川沿いにしばらく進み、
「獅子ヶ鼻橋」という小橋を渡るとまた三叉路。
ここでも標示が出ているので、右に行けばよい。
左折すれば「お茶の里唐川館」に向かう。
唐川町はお茶の産地として知られ、各所に茶畑が見られる。
一車線の狭い道路を行く。
採石場を過ぎる。
山あいの茶畑。 なおも往く。
用水施設を過ぎると、韓竈神社の駐車場が見えてくる。
この先の三叉路を右折したところにも、これよりちょっと狭い駐車場がある。
山奥の神社ながら、駐車場所にはさほど困らない。
三叉路の所には「平田生活バス」の後野バス停がある。
旧・平田市の中心である雲州平田駅方面への往復で、月~金の朝と夕方に各一本のみ走っている。
道端には茶畑。

神社へはここから800m。
掲示版。
神社の由緒書やこの地域のパンフレットなども置かれている。
裏には仮設トイレが置かれている。
韓竈神社氏子中である唐川自治会からの、
参拝の皆様への「足下にお気をつけください」の注意書き。
細やか。
しばらくは舗装された道を進む。
自動車の轍跡があるので、
山中での作業等で車が入ることがあるのだろう。
ただし、参拝者は駐車場から奥に乗り入れてはならない。

右手には小川が流れる。

ちなみに携帯はすでに圏外。
並木道を行く。
三叉路となり、今度は道なりに左へ。
ここからは舗装されていない山道に。
ずんずん歩く。
登山道でもあり、道は歩きやすい。
ただし、上り坂。

ここから2分ほど歩くと、右手の小川を橋で渡る。
10分弱歩くと、鳥居が見えてきた。
鳥居。
その向こうには急角度の自然石による石段が立ちはだかる。

なお、ここまで歩いてきた山道はさらに奥へと続いており、
鼻突峠を経由して天台ヶ峰、極楽山、そして弥山へと登ることができる。
弥山から山を下ってゆけば出雲大社方面。
登る。
自然石の石段なので、
一歩一歩しっかりと踏んでいかないと足を踏み外す恐れがある。
足を踏み外したら、最悪急坂を転がり落ちることになるので、
神様への慎みの心をもって、一歩一歩慎重に。
3分ほど登ってゆくと巨岩に行き当たり、参道は右に折れる。
これを行くと、参道はこの巨岩を登って行くべく、
左ヘアピンカーブから急な登りとなる。
岩べりの狭い道を登る。
危険なところなので、手すりも金属製。
真新しいので、最近できたようだ。
それまでは手掛かりなしだったと考えるとけっこう怖い。

なんかもうすぐっぽい雰囲気


右に回り込んでゆくと、小さな手水鉢があり、そして
キタワァ

本殿はこの岩の間をくぐり抜けていった先に鎮座する。
奥に本殿の石垣がちらりと見えている。

すたすた歩いて行ける幅と角度ではないので、
汚れても大丈夫な服装が望ましい。
もちろん、神前に出るのであんまりきちゃない服装でもダメ。
よっ
こら
しょっ
と!
左手の石垣の上に本殿が鎮座している。

岩の隙間をくぐることについては、安産・子授けや危難除けなど「胎内くぐり」と同じような信仰があるらしい。
本殿の上にはごっつい巨岩が覆いかぶさっている。
これが「岩船」と呼ばれるものだろう。
くぐってきた立岩。
門のように聳え立っている。

どうでもいいけど、
上方のスキマの形が木のシルエットと相まって
なにかの動物っぽい
本殿。
社前はきちんと整備されている。
本殿前にも白玉砂利が敷き詰められていた。

最近、いろいろな場所で紹介されるようになったことで参拝者もごっつ増えているようだ。
参拝が終わったころ、下の方で声がし、ほどなく別の参拝者が上がって来られた。
帰るのも大変 急坂なので、
登りで膝が笑っている人は、下りる時にはさらに用心が必要。

鳥居からもう少し登山路を進んだ所に、
素戔嗚尊がこの地を開拓する時に飛んできた「岩船」がこれであるという標示があった。
江戸時代の文献では、岩船は「韓竈神社の上に西からさしかかっている」と記されているので、
この標示板の錯誤か、それとも「岩船」と称するものがいくつかあるということか。


駐車場より、神社方面。
右手の高山は青木平。

浮浪山鰐淵寺(ふろうさん・がくえんじ)

出雲市別所町にある。

天台宗の古刹で、本尊は薬師如来と千手観世音菩薩。
伝承では、推古天皇二年(594)に信濃国の智春上人がこの地にて推古天皇の眼病を癒すために上流の浮浪滝で祈ったところ快癒したので、
天皇が報賽のために創建した勅願寺であると伝える。
「鰐淵」の号は、智春上人が浮浪の滝で修行している時、誤って仏器を滝壺に落としてしまったが、
その時、鰐(わに。ワニザメ)が仏器をえらに引っかけて淵から現れ上人に捧げた、という伝承から発している。
のち、日本天台宗第三代・慈覚大師円仁が帰朝の際に山陰に立ち寄り、
鰐淵寺において薬師・観音の二体の像を刻んで本尊とし、法華堂(釈迦堂)・常行堂を建立し、三台杉を植えて比叡山に帰ったといい、
この縁で最初の延暦寺末寺となったという。

本尊が二体あることについては、
もともと西の唐川に千手観音を祀る寺院、南の山麓の林木に薬師如来を祀る寺院があり、
現在の浮浪滝を中心とする別所の地域が蔵王権現を信仰する修験道のメッカとして天台宗と結びつき発展する中、
これら三つの信仰がひとつの信仰圏を形成して「鰐淵寺」になった、とみられており、
異なる二つの寺院が合併したことからそうなったもの。
唐川の寺は「北院」、林木の寺は「南院」と呼ばれ、
最近の研究では、十二世紀の段階で北院と南院は別所の現在地にまとまって営まれていた可能性が高いとされているが、
まだ両尊を祀る根本堂はなく、境内に「北院」「南院」が両立していた。
平安時代末期になると「鰐淵」の名は中央にも知られており、
後白河法皇の『梁塵秘抄』に収録された今様の中に、

  聖(ひじり)の住所(すみか)は何処何処(どこどこ)ぞ
  箕面よ勝尾よ播磨なる書写の山                
  出雲の鰐淵や日の御碕
  南は熊野の那智とかや
     (*箕面=箕面山瀧安寺、勝尾=応頂山勝尾寺、書写の山=書写山圓教寺)

とある。
ただ、金峯山蔵王権現信仰は平安時代後期になって隆盛をみせてくるもので、
鰐淵寺伝来の仏像・神像の中には蔵王権現像はひとつもなく、むしろ牛頭天王像や女神・童子神の像が見られることから、
元来は素戔嗚尊と習合した牛頭天王を中心とする祇園神信仰があって、
そこから京の祇園社感神院を管理する比叡山延暦寺とのつながりが形成され、
そこに蔵王権現信仰が重なったのではないか、
という説も出されている。

また、杵築大社と深い関係を有して別当寺のような位置を占め、
仏説にもとづいた、記紀神話とは異なる杵築大社中心の新たなる「出雲神話ワールド」を構築。
平安遷都以後没落しかかっていた杵築大社の権威を再び絶大なものとした。
中世、杵築大社は「国中第一之霊神」と称えられ、鰐淵寺は「国中第一之伽藍」と称えられるなど、
出雲国第一の寺院として隆盛を誇った。

鎌倉時代末、元弘の変にて後醍醐天皇は一時隠岐に流されたが、すぐに再起を期された。
この時、南院の頼源大師は御所に伺候して御宸筆の討幕の願文を賜わり、
頼源は天皇の隠岐脱出を助け、以後は南朝に忠誠を尽くした。
ただし、南北朝分裂の際に北院は北朝を支持したことで、鰐淵寺内ではしばらくの間対立が起こったようだ。
のち和解が成り、北院と南院が合併して両尊を祀る根本堂が成立したらしい。

戦国時代後期、山陰では毛利と尼子の激しい戦いが繰り広げられたが、
その中、鰐淵寺の僧・栄芸は一貫して毛利氏を支持、毛利氏の勝利後はその篤い庇護を受けることとなり、
毛利輝元は現在の根本堂を寄進している。

中世後期より杵築大社における仏法の影響力はますます強くなり、
尼子経久の行った仮遷宮時には境内に様々な仏法施設が建てられたことで、ついには仏事が神事を圧迫するまでになった。
出雲国造もついに堪忍袋の緒が切れ、
当時流行していた儒家神道の神仏分離論の潮流にも乗って松江藩に神仏分離の申し立てを行い、
これが認められて鰐淵寺は杵築大社より分離され、大社の隣にあった神宮寺も廃寺となり、
寛文七年(1667)の400年ぶりの正殿式造営において大社境内から仏法施設は一掃された。
それ以降、盛時は三千坊を数えたという鰐淵寺も漸次縮小を余儀なくされ、現在に至る。

山号の「浮浪山」とは、
中世出雲神話世界においては、島根半島は、
「天竺の東方の海に浮浪していた島を、
別名を八束水臣津野命という杵築大明神素戔嗚尊が引いてきて留めたもので、
そのゆえに島根山といい、また浮浪山という」
ということになっており、それに基づく山号。

古刹ゆえ多くの寺宝が伝わっており、
中でも国指定重要文化財の観音菩薩立像には、
「壬辰年五月出雲国若倭部臣徳太利為父母作奉菩薩」
(壬辰の年の五月、出雲国の若倭部臣徳太利〔わかやまとべのおみ・とこたり〕が父母のために菩薩を作り奉る)
との銘文がある。
「壬辰年」は像の作風より持統天皇六年(692)と考えられており、七世紀末の基準作として貴重なものとなっている。
「若倭部臣」は、『出雲国風土記』の出雲郡条編纂者のうちに「郡司 主帳 無位 若倭部臣」とあり
(「主帳」は、郡司四等官の第四、「さかん」。文書作成を司る)、
また青木遺跡出土木簡の中にも名がみえることから、出雲郡北部の豪族であったとみられている。

鰐淵寺へは、道路の至る所に標示が出ているので、まず道に迷うことはないだろう。
紅葉の名所として秋にはかなりの人出があるが、その期間でなくとも、深山幽谷の雰囲気を感じるに良いところ。
ただ人里離れたところにあるぶん、寺院の維持が大変そうな印象を受けた。

駐車場。
この辺りは別所の集落のただ中で、ここから川沿いに道を遡って鰐淵寺に至る。

駐車場には「武蔵坊弁慶修行の地」の碑が立っている。
鰐淵寺の伝承では、武蔵坊弁慶は松江に生まれ、鰐淵寺で学んだのち、書写山、比叡山で修行したといい、
そののち源義経に仕え、壇ノ浦の戦の後は鰐淵寺に帰ったという。
『平家物語』では、弁慶は熊野別当(紀伊の熊野三山を管轄する職)の子とされていることから、
一般には紀伊国出身とされている。
ただし、史実での弁慶は『吾妻鏡』などにちょこっと名が出てくるだけでその事績についてはほとんど不明であり、
また史料においては、何人もの比叡山の悪僧が都落ちの源義経を助けて奥州へと導いた、という記事がみられるので、
あるいは、鰐淵寺で学び比叡山で修行したのち義経に随行し、事終えて鰐淵寺に還ってきた僧の言い伝えがあって、
のちの弁慶伝説の高まりとともにその僧をも「弁慶」と呼ぶようになった、
あるいは、ほんとはこちらの僧が「弁慶」という名前だったが、別の僧兵が義経旗下で大活躍し、
文献に「弁慶」という名前がたまたま残っていたことからそっちの僧が「弁慶」と呼ばれて有名になってしまった、
などなどの可能性もないこともないこともないこともないかもしれないかもしれない。
しばらくは鰐淵川の右岸に沿って参道を進む。
進んでゆくと川を渡り、今度は川の左岸を歩き、
また橋を渡って右岸を歩いてゆく。
清水の渓流。
巨岩もゴロゴロ。
すぐ隣を流れる渓流。
さわやか。

参道の途中には、鰐淵寺に縁の深い僧や人物の簡単な伝を記した絵入りの掲示板がいくつか立っている。
また、「八百屋お七と吉三郎の墓」とかがある。
八百屋お七の墓は全国各地にあるが、ここがその西端、のようだ。
仁王門に到着。
もう一度川を渡る。
川岸はもみじの並木になっている。
本坊と御成門。
御成門は貴人のみが通れる門とのことで、
最近では今の皇太子殿下が通られたという。
本坊はもと松本坊といい、数多くあった僧坊の一つだったが、
現在はこの一坊のみ残っている。
坊内の庭園は名園として有名。

本坊の参道向かいに滴翠館があり、
入山受付を行っている。
入山料は大人500円、
中・高生300円、小学生200円、団体割引(20名以上)あり。
過疎化で地元の人口も少なく、
しかも普段はあまり人の来ないような所の大伽藍や境内を
維持しなければならないので、これは致し方ない。


石段を登ると参道は右へ折れ、
さらに登っていくと右手に宝蔵が見える。
なおも石段を登ると根本堂に至る。

参道右脇に見えるお堂は十王堂。
十人の閻魔王を祀る。

是心院跡。

近世の絵図では、根本堂に至る石段の右手には浄観院、恵門院、覚城院、
左手には是心院、洞雲院、等澍院、現成院、密厳院という子院が建ち並んでいた。
また、現在では入山受付を行っている「滴翠館」の敷地には、かつて巌王院という子院があった。
これらは明治時代まではなお存していたが、現在はすべて廃されている。
是心院はつい最近まで残っており、その庭園は名園として知られていたが、
建物の老朽化により平成十八年(2006)に解体され、今は礎石が残るのみとなっている。



鰐淵寺根本堂。本尊の薬師如来と千手観世音菩薩を祀る。
現在の建築は毛利輝元の寄進。
左手に水盤舎、右手に香炉がある。

天台宗なので、真言にて拝む。
薬師如来真言は「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」、
千手観音真言は「オン バサラ ダルマ キリ ソワカ」。
千手観音の種字である梵字「hrih(フリーヒ)」は、真言宗では「キリク」、天台宗では「キリ」と読む慣例となっており、
真言宗系の寺院では「オン バサラ ダルマ キリク (ソワカ)」となる(「ソワカ」を省略するものもある)。

根本堂の向かって左後方には「弁慶硯水」という井戸があり、
弁慶が学僧時代に硯の水を得ていた井戸と言い伝えられている。
右手の狛犬と燈籠。
燈籠を亀が負っており、狛犬とともに阿形。
左手の狛犬と燈籠。
狛犬・亀ともに吽形。
横から見ると、こう。
根本堂右手(北)にある鐘楼。

鐘楼にかかる銅鐘は、壇ノ浦の戦いから戻ってきた武蔵坊弁慶が、伯耆大山寺より一夜にして持ち帰ったものと伝えられている。
鐘には「寿永二年」(1188)の銘があり、国の重要文化財に指定されている。
弁慶が持ち帰ったかどうかの真偽はさておき、もとは大山寺の鐘であったことは銘文より確実とされており、
ともに天台宗の修験の地ということから、両寺の間に深い親交があったことがうかがい知れる品となっている。
本堂の向かって右、つまり北に南面して建つ釈迦堂。
右脇(屋根だけ見えている)には夜叉羅神の祠がある。

ここから北にあった建物はことごとく退転し、
開山廟および開山堂のみがやや位置を変えて再興されている。
根本堂左手には阿弥陀如来像が剥き出しで安置してある。
かつてはこの場所に「護摩堂」があった。
常行堂、奥に摩陀羅神社。

摩陀羅神社は天台宗において祀られる神・摩多羅(またら、まだら)神を祀る社で、
念仏三昧を修する常行堂の守護神であるので、常行堂に隣接し接続されている。
常行堂には、第十八代天台座主である慈恵大師良源が祀られている。
その命日(一月三日)からの通称「元三大師」でよく知られる人。
一見すると、摩陀羅神社とその拝殿のように見える。

伝承では、慈覚大師円仁が唐から引声念仏の行法を相伝して帰朝の際、船中において中空より声が聞こえ、
「わたしは摩多羅神という者で、障礙神である。わたしを祀らなければ、往生の願いを遂げることはできない」
と告げたので、常行堂に摩多羅神が祀られるようになったという。
円仁は承和十五年(848)に比叡山に常行堂を建てたと伝えられ、以後念仏三昧の守護神となった。
しかし、比叡山において摩多羅神に関わる祭儀は早いうちに退転してしまい、いかなる神であるのか一切不明となった。
『塩尻』という書には、この神は阿弥陀如来の教令輪身(きょうりょうりんしん)であり、常行三昧の時の守護神であって、
叡山の教学が乱れた時、禅宗の「公案」を模倣して「玄旨帰命壇」という道場を設け、
この神を秘密の本尊として仰ぎ灌頂を行って以降、特に尊崇されるようになった、とある。
江戸時代、この「玄旨帰命壇」は邪教であるとして批判の対象となり、廃絶となっている。
  (教令輪身・・・仏が、いくら説いても耳をかさない強情な衆生を力づくで教化するために忿怒相をもって折伏する時の姿で、
  いわゆる「明王」。たとえば一般に大日如来の教令輪身は不動明王、阿弥陀如来の教令輪身は大威徳明王とされている)

祀り始めたおおもとで祀られなくなり「謎の神」となった摩多羅神は大黒天、あるいは荼吉尼天と同体とみなされ、
臨終の時にこの神が死体の肝を食らうことでその者が往生できる、
あるいは死者を食らおうとする奪精鬼(荼吉尼天)を大黒天が調伏することによって死者が往生できる、
などなど、天台系諸流派において様々な解釈がなされた。
また素戔嗚尊・牛頭天王などと習合して行疫神となったり、
また山岳宗教の世界にも飛び出していって天狗や天魔と結び付けられるなど、
もとは念仏の守護神でありながら中世には呪術の神として変容していき、
比叡山もそれを逆輸入して「山王権現=金比羅神&大黒天=摩多羅神」という図式を生み出した。
また、その持ち物に鼓があること、その祭儀には念仏や踊り狂う所作がともなうことから、芸能神としても信仰された。
このように多彩に展開しながらも、あまり表の場には出ることのない秘儀の神であったため、
現在も摩多羅神についての奇説・珍説・怪説が絶えない。

鰐淵寺の摩陀羅神社は、もとは出雲大社の後方、現在の唐川町後野の北陀という地にあり、
のち現在地に遷ったという。


摩多羅神は慈覚大師とのエピソードから旅行、特に船旅の守護神として、
そして中世に行疫神とされたことから風邪の神様として信仰されている。
常行堂に祀られる慈恵大師には、
流行する疫病を掃うために自ら鬼の姿に化して(大鏡の前で禅定に入ると、鏡に映る姿が骨皮のみの鬼の姿となった)
その姿を写し取らせ、それをお札に摺り上げさせて加持し、それらを家々の戸口に貼らせたところ、たちまち疫病は終息した、
という「角大師」の伝説があり、風邪の神様についてはそちらからかもしれない。
「角大師」で画像検索すれば、たいていの人はその図像をどこかで見たことがあるはず。


寺のとなりにこんな大きな神社があって、神仏分離は行われなかったのか、と思われるかもしれないが、
明治初年の神仏分離政策において発せられた「神仏判然令」は、
「その宗教施設が神社なのか寺なのか判然(はっきり)させなさい」
「神社なら、その境内から仏法に関する施設は除きなさい」
「神社の祭神には菩薩や権現、天王などの仏法にもとづく神号は禁止です。訂正しなさい」
という「神社から仏法を分離する」ことが目的であったので、
「うちは寺です」と言ってしまえば、その境内に神社があろうが陰陽道の施設があろうがノータッチで、
神社では禁止された「牛頭天王」「八王子」など、仏法にもとづく神号もそのまま用いられた。
なので、寺の境内に鎮守社などが残っているのは、別に神仏分離を免れたというわけではなく、ごく普通の事、なのだが、
出雲や隠岐はけっこう廃仏毀釈めいたことが行われたところであり、
鰐淵寺では、かつて出雲大社の別当寺であったこと、そして摩陀羅神が素戔嗚尊や大国主命と同体であると称していたことから、
「鰐淵寺はもとは出雲大社の別当寺であり、境内には大国主命を祀る神社が鎮座している。
よってその神地は大社に返還し、僧は放逐し寺は破却すべきである」
ということになりかけた。
とはいえ無茶苦茶な理屈なので、
「摩多羅神は天台宗の神であって、日本古来の神ではない」
「耶蘇教の脅威に対抗するには仏法の力がもっとも必要であるのに、その力を削ごうとするとは何事か」
と寺僧が強硬に抗議して、この話は無しになった。
キリスト教がダシに使われていることから、
キリスト教の解禁に対して明治初期の日本宗教界が相当な危機感を抱いていたことがわかる。

摩多羅神の原形として、摩迦迦羅天(マハーカーラ、大黒天)と同一視されたことからインドのシヴァ神とみるのが一般的だが、
ゾロアスター教のミトラ(イラン語のミフル、ミスラ)神ではないかとする説がある。
単なる名前の類似(mitra→matara)だけでなく、
ゾロアスター教の方形拝殿(チャルタク)が仏教に取り入れられ、その方形仏堂では初期浄土教の儀礼がおこなわれており
(中央アジアの西域南道からは両者が混淆状態であったと推定される遺跡が発掘されている)、
それが中国で常行三昧堂に発展して日本にもたらされたが、
元々方形拝殿で祀られていたミトラ神もそのまま方形仏堂そして常行三昧堂の守護神として祀られ続け、
それが日本へと入ってきたものである、という。
摩多羅神が鼓を持っているのも、ミトラ神の持っていた「小型拝火壇」が、それが何であるか知らない者によって再解釈されたものであり、
摩多羅神が死者の肝を食らい往生させる、と伝えられたのも、
死穢が自然を汚さぬようにと死体を鳥葬にし、そのうえで魂が冥界に生ずることができる、というゾロアスター教の信仰がもとになっている、とする。
また、 京都太秦の広隆寺では「牛祭」という摩多羅神を祀る儀礼があるが、
ミトラ信仰においては聖牛を屠って共餐する儀礼があること、
奈良時代にはシルクロードの終着点である日本にもイラン系の渡来人が多かったと考えられることから、
イラン系渡来人によるゾロアスター教信仰が摩多羅神信仰にも影響を与えたのではないか、ともいっている。

ミトラ神は、ほかには弥勒菩薩(マイトレーヤ)の原型ともされている。

根本堂と摩陀羅神社の間に建つ、
三台杉。
慈覚大師お手植えと伝えられる。

三本の杉の巨木が整然と屹立するさまは
実に壮観。
摩陀羅神社の外側には、
稲荷社が鎮座している。
摩陀羅神社前から見る山奥の雰囲気がスゴクいい。


上流、「鰐渕寺川起点」の標示が立っているところに渡瀬があり、これを渡って「浮浪の滝」へ向かう。
しばらく石段を登ると道は左折し、
何かのお堂の脇を抜けて渓流沿いの細道をゆく。
江戸時代の絵図では「七仏堂」が描かれているので、
元は比叡山の山王七社を祀る所だったのだろう。
明治時代の書物には境内建物の内に「祇園山王北野合社及拝殿」があり、
この建物はおそらくそれを再興したものなのだろうが、
お寺というよりは道教か新興宗教っぽい建物になっていて、
若干怪しい雰囲気になっている。


江戸時代の絵図には道の右手に「馬頭観音堂」や「勝手明神社」が
描かれているが、現在はない。
自然石の石段を登ってゆく。
この石段を登りきると、拝殿に達する。
拝殿からはもう少し石段が上へ続く。
この辺りはひっそりとして、滝の流れ落ちる音のみが聞こえてくる。


正面の高台には、昔は「子守明神社」が祀られていたが、
現在はない。
谷の一番奥まった静かなところに、浮浪の滝が細く流れ落ちている。
崖の中ほどにある巌窟には、蔵王堂が建立されている。
蔵王堂は修験道の守護神である蔵王権現を祀る。

蔵王権現、そしてかつてはここへ来るまでの道端に鎮座していた子守・勝手の両明神はともに大和国の吉野山の神であり、
蔵王権現は金峯神社、子守明神は吉野水分神社、勝手明神は勝手神社の神。
「投入堂」で有名な伯耆の三仏寺(鳥取県東伯郡三朝町三徳)はこの三神を「三所権現」として勧請し祀っている。
この蔵王堂も投入堂のように高所の巌窟に建てられている。

かつてはその滝壺にワニザメが棲むと伝えられたように水量も多かったのだろうが、
現在は細々と流れ落ちている。


蔵王堂の向かって右の岩壁から流れ落ちている湧水は「竜眼水」と呼ばれ、
推古天皇の御眼をお癒し申し上げた霊水であると伝わる。


江戸時代の絵図では、この滝の後方の峯を「熊成嶽」と記している。
熊成嶽とは、『日本書紀』の素盞嗚尊の八岐大蛇退治の段に収録されている異伝において、
素戔嗚尊が住み、根の国へ入られたとされている所。
鰐淵寺のすぐ北に鎮座する諏訪神社は、智春上人を導いた三老翁の一、白瀧権現の鎮まる所とされているが、
ほかの老翁の鎮まる地、智那尾権現・旅伏権現はそれぞれ韓竈神社・都武自神社と、
出雲国風土記および延喜式に記載のある古社。
よって諏訪神社も古社と考えられ、出雲国風土記および延喜式における「出雲神社」「同社韓国伊太氐神社」に比定する説もある。
『延喜式』神名式記載の出雲国諸社の社名順はおおよそ鎮座地順になっており、出雲郡においては、

  (前略)
  印波神社(美談町、美談神社に合祀)
  都武自神社(国富町)
  宇加神社(口宇賀町)
  美努麻神社(奥宇賀町)
  布勢神社(奥宇賀町、奥宇賀神社に合祀)
  意保美神社(河下町)
  出雲神社
  同社韓国伊太氐神社
  斐代神社(唐川町唐川)
  韓竈神社(唐川町後野)
  (後略)

と、杵築大社と摂社を記したのち出雲御崎山の山麓を東に進み、山塊を東からぐるりと回り込むように記されており、
この並びでいえば出雲神社が別所町の白瀧権現こと諏訪神社である蓋然性は高く、
さらに風土記では、「出雲社」「御魂社(おそらく韓国伊太氐神社)」は出雲郡の四番目・五番目と、
杵築大社とその摂社に次いで記されるほど優先度の高い神社だった。
そして韓国伊太氐神社は多くの場合、素戔嗚尊と五十猛命を祀る。
この比定が正しければ、この地は杵築大社に次ぐ重要な神社の鎮座する地であったことになり、
ここが修験道の地となり鰐淵寺が創建されたのも、実にこの地が古くからの霊地であったから、ということになる。
出雲では古社の背後の高所に山寺を建てる例が多いことから、
鰐淵寺もその例によって創建されたのだろうか。
鰐淵寺には牛頭天王像や男神像、女神像、童子像などの神像が多く伝わり、
男神・女神・僧形神の三神鏡像もあることから祇園信仰があったとみられているが、
その元来の信仰は出雲神社の祭神にもとづくものであったかもしれない。

とはいえ江戸時代の絵図の「熊成嶽」が『日本書紀』の「熊成峯」にあたるとまでは言い切れず、
中世杵築大社の祭神とされた素戔嗚尊の奥の院という意味合いで『書紀』から借りてきたにすぎないかもしれないが、
ただ、この地にもともと素戔嗚尊が祀られていた可能性は高い。
ちなみに別所町の諏訪神社の現在の祭神は、社名通りの建御名方命と、八束臣津野命の二柱。
滝の水量は少ないが、竜眼水の流れを合わせ、
まとまった水量となって流れ下ってゆく。

下の方にみえるのが拝殿。


国史跡・猪目洞窟(いのめどうくつ)。

出雲市猪目町にある。
猪目は、『出雲国風土記』出雲郡条に「井呑(いのめ)の浜」と記されている。

出雲市北部の海岸部は出入りの激しい岩場が続き、その中の所々の湾に鷺浦・鵜峠・猪目などの小さな漁師町が形成されている。
古くは杵築大社領を総称して「杵築十二郷七浦」と呼んだが、
七浦は「杵築浦」「黒田浦」「宇竜浦」「免結(めい)浦」「鷺浦」「鵜峠(うど)浦」「井呑浦」を指し、
これらの浦からは大社の神饌となる魚介類を貢進し、また宇竜浦・鷺浦・杵築浦は物資集散の港としての機能を有していた。
これらのうち「井呑」が現在の「猪目」であって、杵築大社領の東端だった。
この猪目の西方の岩壁に、東に向かって開口している洞窟がある。
昭和23年、この岩壁に設けられていた漁港の改修工事をおこなった際、入口の堆積物を取り除いていったところ、遺跡が発見された。
堆積物を取り除いていった結果、洞窟は幅30m、奥行き30mあり、
中からは縄文時代中期の土器片少々、そして弥生時代から古墳時代に至る埋葬された人骨13体以上や生活用品が見つかり、
「猪目洞窟遺物包含層」として国の史跡に指定された。

『出雲国風土記』出雲郡宇賀郷条には以下のような記述がある。

  さて、北の海の浜に磯がある。名は脳(なづき)の磯。高さ一丈ばかり。
  上の方に生えている松は繁って、磯まで届いている。
  そのさまは村人が朝夕に往来するようであり、また、木の枝は人が引っ張ったもののようである。
  磯より西方に窟戸(いはやと)があり、高さ・広さとも各六尺ばかりである。
  窟の内に穴があり、人は入ることができず、その深浅をはかることはできない。
  夢にこの磯の窟のほとりに至れば、必ず死ぬ。
  そこで、土地の人は古より今に至るまで、黄泉の坂・黄泉の穴と呼んでいる。

これが猪目洞窟を指しているとみられており、「脳磯」はゲンザガ鼻という突出部を指しているとされる。
埋葬の場であった猪目洞窟の記憶が「黄泉の坂・黄泉の穴」というイメージにつながったものか。
この窟戸については、大社町鷺浦の「大国主命の室屋」に当てる説もある。
島・浜・岬条には「脳島(なづきしま)」が記されており、これが記述順から鷺浦の柏島に当てられていることなどから。
ただ、柏島は「磯」のような岩塊ではなく立派な島であり、また鷺浦は宇賀郷ではなく杵築郷に属しているため、
風土記が書かれた当時、鷺浦が宇賀郷に属していたことを証明しなければならない。

埋葬された人骨には、鹿児島や沖縄などの南海で採れる貝「ゴホウラガイ」で作った貝輪をはめたものや、
舟材で造った木棺墓に葬られたもの、稲籾入りの須恵器を副葬したものなどがある。
このうち、ゴホウラガイの貝輪をつけた被葬者が葬られたのは弥生時代後期とみられているが、
島根県の弥生~古墳時代の遺跡から南海産の貝輪が出土した例はわずか三例しかなく、
これほど貴重な物品を装着していた被葬者は単なる集落の首長クラスではなく、祭祀を掌る身分ではなかったかと考えられている。

猪目洞窟遠景。
洞窟の前には鵜峠方面から岩をくりぬいて道路が通じており、
入口には多数の漁船が待機している。
山から地層のプレートが海へ突っ込んでいるような奇観。

写真を撮った所は砂浜で、海水浴場となっている。
道路上から、洞窟内。
中はそこそこ開けているが、昭和23年の船着き場拡張工事と遺跡発掘によって拡張しているのだろう。
見上げると、切り立った崖。
下りてゆく。
奥には小祠が鎮座している。
「魚見社」とあり、漁の守護神として祀ってあるのだろう。
洞窟開口部。港の風景。
波止場で釣りをしている人の姿もあった。
洞窟奥。ぐっと狭くなり、まだ奥へと続く。陽の光は届かない。


猪目の西の港町、鵜峠の東のはずれより。目の前の岩場を突きぬけた先が猪目。
島根半島北岸はこのように出入りの激しい岩場続きで、河口などでわずかに開けたところが町となっている。

遠くには、出雲市十六島(うっぷるい)町の北浜風力発電施設の風車群が見える。

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