にっぽんのじんじゃ・しまね

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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大原郡(雲南市東部):

『出雲国風土記』大原郡の条には、

郡役所の東北十里百十六歩(5.6km)のところの田が十町(11.4ha)ほどの平原であり、名づけて大原という。
昔、ここに郡役所があった。今もなおもとのままに大原という。
〔今、郡役所のあるところは名を斐伊(ひ)の村という〕

と郡名の由来が記されている。
昔、大原に郡役所があったため大原郡といい、
現在は郡役所が斐伊村に移ったが、斐伊郡と改名せずに以前のまま大原郡としている、ということ。

斐伊神社 木次神社 海潮神社
須我神社 阿用神社

斐伊(ひい)神社。

雲南市木次町里方
斐伊川東岸を走っていたJR木次線が東へ折れるところの小高い山に鎮座する。
斐伊川と三刀屋川の合流地点。

『出雲国風土記』大原郡の神祇官登録神社一十三所の一、樋社(ひのやしろ)。
『延喜式』神名式、出雲国大原郡十三座の一、斐伊神社(ひのかみのやしろ)。

斐伊は、大原郡の郡家(郡役所)所在地。『出雲国風土記』には、

  斐伊の郷。郡役所がある。
  樋速日子命(ひはやひこのみこと)がこの地に坐す。ゆえに「樋(ヒ)」という。〔神亀三年、字を「斐伊(ヒ)」に改めた〕

と記される。もとは「樋」という一字表記だったのが、地名は二字を用いるようにとの法令により斐伊と改めたもの。
他の例を国名で挙げると、
「木→紀伊」「和(倭)→大和(大倭)」「泉→和泉」
の一字→二字の改定、また、
「近淡海→近江」「遠淡海→遠江」
という三字→二字改定もある。
三字→二字改定は、出雲国内では「三刀矢」が「三屋」に改められている例がある。
郡役所はもとは大原というところ(大東町)にあったが、この地に移転した。この神社のやや南方にあったらしい。
交通の便がよかったからだろう。
現在も、この地は国道54号線、国道314号線など四方へ主要道路が延びる交通の要衝となっている。

風土記には「樋社」が二社記されており、
『延喜式』神名式では、「斐伊神社」と、
「同社坐斐伊波夜比古神社(おなじきやしろにいますひはやひこのかみのやしろ)」が並んで記される。
8世紀の風土記編纂時代は二つの神社で、10世紀の延喜式編纂時代には同社地にあったようだ。
斐伊神社から出て線路を渡り少し歩いたところに「八本杉」という杉の木で囲まれた一角があり、
ここがもう一社の樋社の旧社地とされ、素戔嗚尊が八岐大蛇を斬ってその八つの首を埋め、
記念に八本の杉を植えたという伝承がある。
中世から地名をとって「宮崎大明神」と呼ばれ、この地方九か村の総氏神として崇敬されていた。

主祭神は素戔嗚尊、稲田姫命、伊都之尾羽張命。最後の祭神は八岐大蛇を斬った剣の名。
斐伊波夜比古神社を合祀し、樋速夜比古命をあわせ祀っている。
『古事記』には、イザナキが火の神迦具土を斬ったときにその血から出現した神の一柱に「樋速日神」を記し、
樋速日子命との関連が論じられている。
『日本書紀』ではその話を異伝として収録し(神名表記は「熯速日命」)、
また他の異伝にはその神が素戔嗚尊の御子となっている(神名表記は「熯之速日命」)。
火、そして剣に関わる神であったか。

古伝では武蔵国一宮・氷川神社(主祭神・素戔嗚尊)はこの神社の勧請であるとするが(氷川は樋〔斐伊〕川の名が移ったものといわれる)、
『先代旧事本紀』国造本紀では、

 无耶志(武蔵)国造。
 志賀高穴穂朝の世(第13代成務天皇治世)に、
 出雲臣の祖、名は二井宇迦諸忍神狭命(ふたゐのうかもろおしのかむさのみこと)の十世の孫、
 兄多毛比命(えたもひのみこと)を国造に定め賜ふ。

とあり、初代の武蔵国造は出雲臣(出雲国造)の家系としている。
当時の国造は国内の祭政を取り仕切る存在であり、国造の奉斎神も出雲から武蔵へと移動したことも大いにありうることなので、
この伝えもあながち牽強付会とは言い切れないものがある。

風土記には、素戔嗚尊と八岐大蛇に関する伝承は記されていない。
斐伊郷には城名樋(きなひ)山という山があり(妙見山の南隣)、それに関して以下の伝承が記されている。

  城名樋山。郡役所の真北一里一百歩。
  天下をお造りになられた大神、大穴持命が八十神を討つために城(き)をお造りになられた。
  ゆえに城名樋(きなひ)という。

風土記においては、この一帯は大穴持命が兄の八十神と戦ったときの戦闘的伝承で彩られている。
この交通の要衝において古代、出雲の覇権をかけた大規模な戦があった記憶が反映されているのだろうか。

八本杉。
斐伊波夜比古神社の旧社地といわれるが、
現在では素戔嗚尊と八岐大蛇の古戦場としての伝承で知られている。
斐伊神社の飛地境内地になっているようだ。 
鳥居前。鳥居は西向きだが、この石段の上で左に折れており、社殿は南向き。
拝殿。 本殿のかたわらには、
明治四十年に遷座してきた日宮八幡宮が鎮座。
本殿東の高台に鎮座する末社、稲荷神社と火守神社。 高台からの境内の眺め。




来次(きすき)神社。

雲南市木次町木次に鎮座。旧・大原郡木次町木次。
木次と安来をつなぐ県道45号線沿い。木次線の踏切のそば、久野川のほとりの山麓。

『出雲国風土記』大原郡の神祇官登録神社一十三所の一、支須支社。
『延喜式』神名式、出雲国大原郡十三座の一、来次神社。

祭神は大己貴神。大国主命のこと。
『出雲国風土記』大原郡来次郷の条には、

  来次の郷。
  天の下造らしし大神命(大己貴神)が、
  「八十神(やそかみ。大己貴神の兄神たち。大己貴神を妬んで何度も殺すなど、邪悪な心を持つ)は、
  青垣山の内(青い山々に囲まれた出雲の地)には居させまい」
  と詔して追い払ったとき、ここまで追いかけて追いつき(きすき)なされた。ゆえにキスキという。

という地名起源伝承が記されており、その由緒にしたがって大己貴神を祀っている。
出雲の民にとっては、ここから南が「山の向こう」という認識だったようだ。
また、大原郡における大己貴神の伝承には武神のイメージが強い。
のちに武御雷命を配祀、誉田別尊(応神天皇、八幡神)を合祀。
当初はここより上流の宇谷の地に鎮座しており、その後現在地より100mほど西に遷座したが、
衰微したために現在地に勧請されていた八幡宮に合祀された。
旧社地は「跡の城(じょう)」と呼ばれて石の祠が残っている。
明治になり、式内社ということで社号が八幡宮から来次神社に変更され、
主祭神が八幡神から大己貴神になり、八幡神が合祀、と立場が逆転した。
八幡神の勧請は鎌倉時代で、このとき出雲国の八ヶ所に勧請されたためにそれらは「出雲八所八幡宮」と呼ばれたが、
ここはその一社。

鳥居と社叢。堂々とした雰囲気。
写真の右外に石碑があり、これが靇(おかみ)神社。
鳥居正面。 石段途中の燈籠。
窓に日・月があしらわれている。
文化年間の奉献らしい。
他の神社にも同じようなものが見られるので、
この時期のトレンドだったのだろうか。
随神門。
随神門と拝殿が屋根でつながっており、その屋根の天井に絵馬がかかっているというけっこう独特な形式。
本殿。装飾を凝らした、立派な社殿。熟練の宮大工を投入した崇敬の高さがうかがえる。
ただ、元が八幡宮だったため、大社造ではなく流造になっている。
本殿右手。境内社が多い。 本殿左手。
何かの工事中で、重機がいる。

海潮(うしお)神社。

雲南市大東町南村に鎮座。
大東町から熊野大社、東出雲町へ向かう県道53号線沿い、三笠山の南麓、赤川上流の海潮川沿い。

『出雲国風土記』大原郡の神祇官登録神社一十三所の一、得塩社。
『延喜式』神名式、出雲国大原郡十三座の一、海潮神社。

海潮という名だが、海辺にあるわけではなく、宍道湖から10kmほども内陸部。
なぜそのような名がついているかというと、『出雲国風土記』大原郡海潮郷の条に、

  海潮の郷。
  古老の言うには、宇乃治比古命(うのぢひこのみこと)が御祖(みおや)の須我禰命(すがねのみこと)を恨み、
  北方の出雲の海潮を押し上げて御祖神を漂わせたが、その海潮がここまで来た。
  ゆえにウシホという。

という地名起源伝承があり、それにもとづいている。
出雲の海潮とは、宍道湖のこと。ダイナミックな神話だ。
息子をそこまで怒らせるなんて、どんな大人気ないことしたの。
風土記は続けて、

  さて、(郡役所の)東北の須我の小川(現在の赤川)の湯渕の村の川の中に温泉〔名はない〕がある。
  また同じ川の上流の毛間の村の川の中に温泉〔名はない〕が出る。

とあり、大東町中湯石には現在も「海潮温泉」が湧き出ている。

中世以降は鎮座地の字名から「大森大明神」と呼ばれて地元の崇敬を受け、
また背後の三笠山に城を築いてこの一帯を領した尼子氏の家臣・牛尾氏が祈願社として篤く崇敬。
社地社領の寄進を行い、また明治初年までは毎年社領米の寄進があった。

社前。背後に三笠山が聳える。
周囲は水田で、非常にのどか。
鳥居前。
山の下に鎮座しており、非常に日当たりがいい。
境内社。
拝殿、本殿と三笠山。
社殿はどちらかといえば簡素だが、三笠山の景観が神社に威厳と清々しさを与えている。
境内には三笠城址からの落石が置かれている。


海潮温泉。
赤川沿いの、ささやかな温泉街。

神社から2kmあまり西にある、
海潮温泉入口に立っている碑。
赤川の流れ。

須我(すが)神社。

雲南市大東町須賀に鎮座。
大東町から松江市内へ向かう県道24号線沿い、八雲山の南西麓。
八雲山を東へ超えると、そこは熊野大社の神域となる。

『出雲国風土記』大原郡の神祇官未登録神社一十六所の一、須我社。
出雲国神仏霊場第十六番。

『古事記』には、速須佐之男命が「八俣のをろち」を退治して草那芸剣(草薙剣)を得、
それを姉の天照大御神に奉ったのち、宮を造るべきところを出雲の国に探し求めたが、

  須賀の地に到ったときに詔して、
  「あれここに来て、あが御心すがすがし」
  と詔し、そこに宮を作って住まわれた。ゆえにその地は今に須賀(すが)という。

須賀に到って心が清々しくなり、その地に宮を作って住まわれた、その須賀がここのこと。
八雲山も、『出雲国風土記』によれば古くは須我山と呼ばれていた。
『古事記』には続いて、

  大神(須佐之男命)が須賀の宮をお造りになった時に、その地から雲が立ち上った。
  そこで御歌をお作りになった。その歌にいうには、

   八雲立つ 出雲八重垣
     妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

と、日本初の和歌とされる「八雲神詠歌」の伝承を記す。
この伝承は『日本書紀』にもほぼ同じ形で記されている。
ここにおいて、素戔嗚尊はかつて高天原で罪を犯した要因となった心の曇りがすべて無くなり、
清明な心で奇稲田姫と宮を営んだのち、かつて父の伊弉諾尊と約束したとおり根の国へと去り、その国を統治することになる。

祭神は素戔嗚尊で、
妃神の奇稲田姫命と、
御子神の清之湯山主三名狭漏彦八嶋野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまののみこと)を配祀。
天文年間(1532-54)、地頭職として信州からこの地に赴任した神中沢(みわなかざわ)豊前守が、
氏神である武御名方命を勧請、近世は諏訪大明神として信仰され、
村名も須我村から諏訪村と改められていたが、明治になって祭神・村名とも旧に復し、今に至る。

祭神については、『出雲国風土記』大原郡須我山の条には記紀にある伝承が見られず、
記紀にも記された由緒の地で素戔嗚尊が祭神にもかかわらず神祇官登録神社(官社、のちの式内社)になっていないことから、
本来の祭神は海潮神社の由緒にも登場する須我禰命(すがねのみこと)ではなかったかという説もある。
ただ、著述方針の異なる『古事記』『日本書紀』の両書が、ともに根拠のない作り話をでっちあげたところその内容が完全に一致しました、
などとということはまずありえないので、なにかもとになる資料があったことは確実だろう。
現行の『出雲国風土記』は『日本書紀』よりものちの天平五年(733)の撰であることから、
『日本書紀』に書いてある伝承は重複になるため編集段階で削った、とも考えられる。

八雲山山中には巨岩・夫婦岩があり、小祠を建て奥宮として信仰されている。
また、諏訪大社を勧請して以来、鹿を獲って神前に奉る「鹿食之神事」が行われていた。
現在では鹿を用いず、茄子を鹿頭になぞらえて神前に奉り、神職が共食、祝杯を挙げる。
祭典においては、宮司は前日に稲佐浜(昔は意宇郡天満沖)に赴いて塩凝(海水による禊)、
祭典期間は別火(普段の生活とは別に聖別した火を用いる)、社籠(神社に籠る)を行い潔斎につとめる。

県道を走っていると、大鳥居と看板が見えてくる。
背後には八雲山。
境内前。 素戔嗚尊の事績に基づいた、
「日本初之宮 和歌発祥之遺跡」の碑。
境内。旧縣社だが、いかめしいところはない。
正面に拝殿、左は授与所。
拝殿。
本殿。
本殿東隣の海潮神社。
明治の神社合祀により、近隣の神社四社を合祀した神社。
社名の「海潮」は、この一帯が昔は「海潮郷」であったことからで、
式内社の海潮神社とは関係ない。
海潮神社東の境内社。
本殿西の虚空社。
虚空蔵菩薩を神として祀っている。
その向こうは高野山真言宗の鏡智山普賢院。本尊は聖観世音菩薩。
室町期にこの地に移転し、以後須我神社の神宮寺として神社別当職をつとめていた。
明治の神仏分離により神社別当職を廃止され、寺院として独立。
分割はされたもののとくに垣根があるわけでもなく、自由に行き来できる。
神仏習合の姿をとどめている風景。
とはいえ別々の宗教団体なので、山門はちゃんとあります 社前の池。

阿用(あよう)神社。

雲南市大東町東阿用に鎮座。
磨石山北西麓。県道25号線、阿用小学校から山側へ上り、蓮花寺へと向かう道の途中を右折し、上がっていったところ。
こぢんまりとした社地で、ちょっと見つけにくい。

『出雲国風土記』大原郡の神祇官未登録神社一十六所の一、阿用社。
祭神は素戔嗚尊、国常立尊。

『出雲国風土記』大原郡阿用郷の条には、

  阿用の郷。郡役所の東南十三里八歩(7.1km)。
  古老の言い伝えによれば、昔、ある人がここに山田を作って耕作していた。
  そのとき、目一つの鬼が来て、その人の息子を食った。
  そのとき、息子の父母は竹原の中に隠れていたが、竹の葉が動(あよ)いだ。
  そのとき、食われている息子が、
  「動動(あよあよ)」
  と言った。ゆえにアヨという。

という地名起源伝承が記されている。
なぜそうなった、という説明が一切なく、さも当然のように鬼が出現して人を食うという、淡々とした語り口が理不尽ともいえる凄惨さを際立たせる。
息子の言葉は、今際の際に竹の葉が動いていることを見ての感動詞、
あるいは、「竹の葉が動いているよ、見つからないように身動きしないで!」と父母に警告する言葉とも解釈されている。
この「一つ目の鬼」は、山間部に住んでいた鍛冶職、採鉱・冶金に携わる人間への畏怖心から生まれたものであろうとされる。
鍛冶職の人間は火を覗き込み、たたらを踏むために片目片足が不自由になるためで、
山の神も、多く「一つ目・一本足」の姿であると認識されていた。
この地方の山中にもそういう職人が多く住んでいて、農業を営む人々との交流や衝突の中でこういった話ができていったのだろうか。

神社前。 境内。
拝殿。



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