にっぽんのじんじゃ・とやま

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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*越中国

現在の富山県。
富山湾と立山連峰、そしてそれに挟まれた広い平野と、自然に恵まれた一帯。
国府は射水郡、現在の高岡市にあった。
大伴家持が国守として赴任し、この地で越中の雄大な自然を題材とした多くの歌を歌っている。

 大王(おほきみ)の 遠の朝廷(みかど)そ み雪降る 越と名に負へる 天離(あまざか)る 鄙(ひな)にしあれば
 山高み 河とほしろし 野を広み 草こそ繁き
 鮎走る 夏の盛りに 島つ鳥 鵜飼が伴は 行く川の 清き瀬ごとに 篝(かがり)さし なづさひ上る
 露霜の 秋に至れば 野も多(さは)に 鳥巣だけりと ますらをの 伴いざなひて
 鷹はしも あまた有れども 矢形尾(やかたを)の 吾(あ)が大黒(おほぐろ)に〔大黒は鷹の名なり〕 白塗りの 鈴取り付けて
 朝狩りに 五百(いほ)つ鳥立て 夕狩りに 千鳥ふみ立て・・・・
 (『万葉集』巻第十七・4011、思放逸鷹夢見感悦歌)

*砺波郡(現在の砺波市、小矢部市、南砺市、高岡市の一部):

高瀬神社

*新川郡(現在の富山市の大部分、滑川市、魚津市、黒部市、中新川郡、下新川郡)

雄山神社


*砺波郡

高瀬(たかせ)神社。

富山県南砺市高瀬に鎮座。
北陸自動車道・砺波ICからしばらく南に向かったところに鎮座する。

『延喜式』神名式、越中国砺波郡七座の一。
越中国一宮。

主祭神は大己貴命。いわゆる大国主命、大国さま。
大己貴命が越の国に遠征し、これを平定して出雲に帰るとき、
国の鎮めとして自らの御魂をこの地に分け置いていったのが起源とされ、
創祀は景行天皇治世と伝わる。
能登国一宮・気多大社も主祭神を大己貴命とし、分社が射水郡にも建てられていて(気多神社)、
越国においては大己貴命への崇敬が高い。
『古事記』には大国主命は越の沼河比売を娶ったことが記され、
『先代旧事本紀』には大国主命と沼河比売の子を信濃の諏訪大社の神、建御名方命とする。
また、『出雲国風土記』にも大己貴命と沼河比売の子を島根半島の美保に鎮座する美保須須美命としており、出雲と越との交流を記している。
五十猛命、天活玉命を配祀。
また、相殿に天照皇大神、級長戸辺神(しなとべのかみ、風神)、大宰府天満天神(菅原道真公)を祀っている。

現在の福井県東部から新潟県にわたるべらぼうに広大な越の国は、
のちに越前・越中・越後に三分された(また後に越前から能登・加賀が分国)。
そのうち、越中国においては高瀬神社が中心的な神社となった。
国史によれば、射水郡の二上神社(現在の式内社・射水神社)と双璧をなす神社だったようで、
高瀬神社と二上神社は常に揃って神階を上げていき、
『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条にはともに正三位を授けられている。
また、少し前の『文徳天皇実録』斉衡元年(854)十二月二十七日条には、
高瀬神社と二上神社の禰宜(ねぎ)・祝(はふり)に笏を把ることを許したという記事がある。
現在、神職はみな笏を持っているが、
当時、笏は官人のほかには特別に許された者しか持つことができなかった。
つまり、高瀬神社はそれだけの格がある神社と朝廷から認められていたということになる。
平安末期に砺波郡へ国府が移転していた時期があり、その頃から越中一宮と呼ばれるようになったらしい。
治承四年(1180)には正一位を授けられたという。
中世には神仏習合が進んで三百坊を数える隆盛となり、神社の東方には「勧学院」という字があって往時の社域を示している。
しかし、戦国時代には加賀を支配した一向一揆衆の傘下に入り、戦乱の中で衰微。
加賀藩・前田家の寄進により復興を遂げるも以前ほどの隆盛はなく、
江戸時代の一宮巡拝記には、
「越中一宮は砺波にあると聞くがそれらしい社が見当たらない」(ので、射水の気多神社と射水神社に参拝した)
と記されている。
近代になると氏子崇敬者の熱意もあって国幣小社に列格し、現在は越中一宮としての威儀を整えた境内となっている。

砺波のあたりは一面の田園地帯で、周囲はどこを見ても同じように見え、
さらに道も緩やかなカーブの道路が微妙に入り組んでいてちょっとした迷路状になっており、
ぼーっと走っているとすぐに道に迷ってわけがわからなくなる。
気を付けよう。

主要幹線(国道156号線方面)からやってきた参拝者を迎える大鳥居
砺波ICで下りて、国道156号線方面を南下していく場合、ここを曲がって行くのがいちばん近道となるが、
その道を走ってゆくと正面にあらわれる。
その三叉路には信号がないのでわかりづらいが、いちおう100m手前に標示もある。
境内鳥居前。
周囲は一面の水田。
神社すぐ東の字は神子畑、その南の字は大宮司田という。往古は社領だったのだろう。
神社の前を流れる東大谷川(大門川)。 南を望む。白川郷はこの山々のはるか向こう。
境内に入る。
砂利が深く敷き詰められていて、木々の緑とあいまってとてもさわやか。
右手に手水舎、左には社務所。
奥の鳥居の前には、交通安全祈願の車が停まっている。
手水舎。岩の上で龍が水を吐いている。
この大岩は崇敬者からの寄進によるもので、
また手水舎の建物は、伊勢の神宮の式年遷宮時に神宮の古い手水舎を拝領し移築したもの。
拝殿。
拝殿前には小さな池があり、川が流れている。
石段があって川辺まで下りることができる。
手を清めていいのかな?
拝殿の東にある土俵。
奉納相撲があるのか。
境内の東に鎮座する末社・稲荷社。
京都の伏見稲荷大社の勧請。
茶筅塚。
古い茶筅への感謝と、茶道の普及発展を祈って置かれており、
毎年、神社では献茶祭が行われている。

神社周辺にはその昔荘園があり、その管理棟跡が神社南方の近いところから発見されていて、
国の史跡に指定されている(高瀬遺跡)。

史跡・高瀬遺跡(石仏地区)。
この敷地に、掘立柱の主殿が三棟、コの字型に建てられていた。
史跡公園として整備され、敷地内の資料館では発掘成果が展示されている。
この南東300mには穴田地区の遺跡(県指定史跡)があり、ここは地方豪族の集落跡とみられている。
砺波の地には利波臣(となみのおみ)という豪族がおり、
『古事記』では第七代孝霊天皇の御子、日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと。吉備津彦命の実兄)の末裔とされていて、
奈良時代の利波臣志留志(しるし)という者は東大寺建立に多大な寄進を行って無位から一気に外従五位下の官を授かり、
のちには伊賀守の職を与えられたことが『続日本紀』にみえる。
この地方は現在の風景を見てもわかるとおり穀倉地域であって、利波臣はそれを背景にしてかなりの勢力を持っていたと思われ、
また荘園を設定するにもうってつけの所だった。

*新川郡
新川とは、現在の常願寺川の古名。
神通川以東、越中国の東半分を占める。

雄山(おやま)神社。

「前立社壇(まえたてしゃだん)」が、立山を望む常願寺川の河畔、富山県上新川郡立山町岩峅寺(いわくらじ)に鎮座。
「中宮祈願殿」が立山の麓、上新川郡立山町芦峅寺(あしくらじ)に鎮座。
そして「峰本社」が中新川郡立山町立山峰、雄山頂上に鎮座する。
この三社をもって雄山神社と称する。

『延喜式』神名式、越中国新川郡七座の一。
越中に冠たる霊峰・立山を祀る神社。
大伴家持が越中国守としてこの地に赴任したとき、越中の自然を題材にした歌をいくつも残しているが、
『万葉集』には、立山を詠った「立山の賦」という歌が収録されている。
天平十九年(747)四月二十七日に作られたもの。

 立山賦一首 〔并に短歌 此の立山は新川郡に有り〕 (巻第十七、4000-4002)

 天離(あまざか)る 鄙(ひな)に名懸(なか)かす 越の中 国内(くぬち)ことごと  
 山はしも 繁(しじ)にあれども 川はしも 多(さは)に行けども
 皇神(すめかみ)の 領(うしは)きいます 新川(にひかは)の その立山(たちやま)に 
 常夏に 雪降りしきて 帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕(あさよひ)ごとに たつ霧の 思ひ過ぎめや
 あり通(がよ)ひ いや年のはに 外(よそ)のみも 振り放(さ)け見つつ 
 万代の 語らひ草と いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて 羨(とも)しぶるがね

 立山に 降りおける雪を 常夏に 見れども飽かず 神(かむ)からならし
 片貝の 川の瀬清く 行く水の 絶ゆることなく あり通ひ見む
 
  四月廿七日、大伴宿禰家持作る。


歌の原文は一字一音の万葉仮名表記で、立山は「多知夜麻」と表記されており、当時は「たちやま」と呼んでいた。
当時からすでに神の住む山として知られていたようだ。
この歌に、翌日、越中掾大伴池主が和して歌った歌も収録されている。(巻第十七、4003-4005)
(掾は国司四等官、守〔かみ〕・介〔すけ〕・掾〔じょう〕・目〔さかん〕のうちの第三。越中守である家持が越中国のトップで、池主はナンバー3)


 朝日さし 背向(そがひ)に見ゆる 神ながら 御名に負ばせる 白雲の 千重を押し分け 天(あま)そそり 高き立山
 冬夏と 別(わ)くこともなく 白たへに 雪は降り置きて 古(いにしへ)ゆ 在り来にければ 
 凝々(こご)しかも 巌(いは)の神さび 玉きはる 幾代経にけむ 立ちて居て 見れども霊(あや)し
 峯高(だか)み 谷を深みと 落ち激(たぎ)つ 清き河内(かふち)に 朝離(さ)らず 霧立ち渡り 夕されば 雲居たなびき
 雲居なす 心も萎(しの)に 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音も清(さや)けく 万代に 言い継ぎゆかむ 川し絶えずは

 立山に 降り置ける雪の 常なつに 消(け)ずてわたるは 神(かむ)ながらとそ
 落ち激(たぎ)つ 片貝川の 絶えぬごと 今見る人も 止まず通はむ

  右、掾大伴宿禰池主和す。〔四月廿八日〕

家持は、もう一首、立山を詠み込んだ歌を作っている。(巻第十七、4024)

 新川郡、延槻川(はひつきかわ)を渡りし時に作る歌一首
 立山の 雪し来(く)らしも 延槻の 川の渡り瀬 鐙(あぶみ)漬かすも 

社伝によれば、創祀は文武天皇の大宝元年(701)。
景行天皇の後裔である越中国司佐伯宿禰有若の子、有頼少年が白鷹に導かれて熊を追い、
岩窟に到って雄山大神の顕現に遇い、
「我、濁世の衆生を救はむがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、
この霊山を開かせむがためなり」
との神勅を受けたことにより創祀されたという。
この縁起はやや仏教色が入っており、立山を神の山として祀ることはもちろんそれよりもはるか以前から行われていただろう。
祭神は伊弉諾神と天手力雄神の二柱で、伊弉諾神は立山大神、天手力雄神は立山若宮と呼ばれる。

国史によれば、『日本三代実録』貞観五年(863)九月二十五日条に神階正五位上を授けられた記事があり、
その後、『日本紀略』寛平元年(889)八月二十五日条に従四位下を授けられた記事が見える。
一般からの崇敬も高く、数多くの人がこの霊山を目指した。
地元・富山の男子は十五歳にして立山に登っていなければ男とはみなされず、嘲弄されたという。
南北朝時代の『神道集』などの書物は越中国一宮を「立山権現」と記しており、越中を代表する神社だった。
武家の崇敬も篤く、建久年間に源頼朝公が本殿を再建、
その後明応元年に室町将軍足利義稙公が、天正十一年には佐々成政公が改修を行い、
江戸時代には加賀藩前田家が祈願所として厚く保護した。

霊山ということで修験僧が山に入るようになり、神仏習合が早くから進んだ。
本地垂迹説が浸透すると、立山大神・伊弉諾神の本地は阿弥陀如来、立山若宮・天手力雄神の本地は不動明王とされた。
前立社壇は立山の遥拝所として成立したが、その周囲には僧坊が立ち並んで大宮立山寺と呼ばれ、
のちには岩峅寺と呼ばれる。
立山登拝の人々はここの宿坊に泊まって立山を目指し、
坊僧は晩秋から初春にかけて各地の檀那場に赴き、布教活動を行った。
年中の活動が可能なため、雄山神社の活動のメインといえる場所。
立山の麓に鎮座する中宮祈願殿は開祖・佐伯有頼公が出家して慈興上人となり、晩年を過ごした地とされる。
もとは中宮寺と呼ばれており、のちには芦峅寺と呼ばれ、立山登拝者はこの周囲に住む人々に導かれて山頂を目指した。
現在でもこの周辺に住む方々が登山ガイドをつとめている。
立山は女人禁制だったが、この神社までは登ることができた。
中宮寺信徒は「一山会」という結社を作り、諸国の檀那廻りを行って布教に努めたが、
その際に薬を配布し、翌年に代金を受け取っていた。
これが有名な「富山の薬売り」の起源ともいわれている。
岩峅寺・芦峅寺ともに明治の神仏分離によって境内から仏教色を排除し、『延喜式』記載の雄山神社という社名に復した。
また、太政官布告によって立山の女人禁制が解除され、誰でも立山に登れるようになった。

立山は三つの峰からなり、北から富士ノ折立、大汝山、雄山と名づけられているが、
その南の雄山に峰本社が鎮座する。
三間造の社殿で、社務所もあり、夏の登山期間は神職が詰め、参拝者への応対を行う。

前立社壇の大鳥居。
右に見えるのは日本屈指の暴れ川として知られる常願寺川。
木曽三川分流工事で知られるオランダ人技師ヨハニス・デ・レーケは、常願寺川の流れを視察して、
「これは川ではない、滝だ」
と言ったという。
古名は新川で、郡名のもととなった。その河畔の高台に鎮座する。
立山への入り口、という場所。
対岸、写真右奥に見えるのは、上滝発電所。
大正13年に完成した県営発電所が前身で、国の登録有形文化財(国土の歴史的景観に寄与しているもの)
に指定されている。

富山市内の川は高峰から一気に富山湾に流れ落ちる急流で、市内の西を流れる神通川もかなりの暴れ川。
境内へ。 石段を上がると参道は左折。
表神門。右手前に手水舎。
境内の反対側には裏神門がある。
拝殿。
本殿が五間社という幅広の造りなので(一般の神社本殿はおおむね三間社)、
拝殿もそれに見合った、本殿以上の幅を備えた大きなものとなっている。
本殿。源頼朝公再建、その後足利義稙公、佐々成政公改修。
もとは杮(こけら)葺きだったが、のちに桧皮葺に葺き替えられた。
五間社であり、その規模は北陸地方最大であり、国の重要文化財に指定されている。

本殿周囲には川原石が敷き詰められており、伊勢の神宮の御正宮を髣髴とさせる。
立派な姿だが、拝殿に隠れてその意匠を見ることはほとんどできない。
神様のお住まいなので、そうそう丸見えにするわけにはいかないということか。
湯立の釜。
この社では四月八日の春季例祭において五穀豊穣・無病息災祈念の湯立神事が行われており、
江戸時代には前田家がその釜を寄進する慣例となっていた。
この釜は弘化二年(1845)に加賀藩第十三代藩主・前田斉泰公が寄進したもので、
高岡の鋳物師・金森彦兵衛が鋳造した。
古くは、立山登拝者が熱湯をもって身の穢れを祓ったといわれている。

釜の内側には立山大神の本地・阿弥陀如来、立山若宮の本地・不動明王の種字が記される。
右が阿弥陀如来の種字・キリーク(フリーヒ)、左が不動明王の種字・カーン(ハーン)。
拝殿に連結する神饌殿と、
写真左には、向かって右から稲荷社・刀尾(たちお)社・八幡宮。
刀尾社は刀尾天神こと伊佐布魂命(いさふみたまのみこと)を祀る。
佐伯有頼少年が白鷹を追っているとき、その居場所を教えた老翁がこの神であるといい、
立山の土地神とも剣岳の神ともいう。
その由来により、前立社壇本殿が修理の時は、この社に仮遷座を行う。
ゆえに御仮殿ともいう。
八幡宮は、それまで文武天皇、稲背入彦命(景行天皇皇子で佐伯直の祖。かの弘法大師空海の祖でもある)、
佐伯有頼公、菅原利家公(前田利家のこと。前田家は菅原氏の末裔といわれることから)を祀っていた霊廟を
明治になって応神天皇・神功皇后をあわせ祭り改称したもの。
昭和十五年に、破損した多くの摂末社を合祀している。

ここから立山へ上っていくと、少しく登った麓の位置に中宮祈願殿が鎮座している。
前立社殿の授与所で訊くと、簡単な地図をいただけます。
立山開祖・佐伯有頼の晩年の地といわれ、立山登拝のスタート地点。
周辺にはその子孫である佐伯姓の人が多く、昔から登拝の手引きを行っていた。
森の中の社であり、雰囲気がある。

県道6号線を富山地鉄立山線といっしょにぐいぐい登っていくとやがて立山線とは別れるが、
そこからもう少し(車で)走ると、左手に玉垣と社叢が見えてくる。ここが中宮祈願殿。
かつては中宮寺と呼ばれていた。
境内の杉林は全国有数で、直径2m越えの木が120本を数える。
その樹齢は400~500年といわれ、県の天然記念物に指定されている。
境内前。 右手に手水舎。
手水舎正面には不動明王。 奥へ。
参道右手の末社。


祈願殿。
かつては芦峅大講堂という建物だったが、
神仏分離後は祈願殿と改称し、祭典・神楽を行う場となった。
奥の本殿には雄山大神と立山山中の三十六社の神々を合祀している。

講堂とは、寺院において僧侶が経典を講義したり、説教を行ったりするための建物。
講堂の向かって左奥へと進む。
祈願殿の西後方に鎮座する立山大宮。
立山権現である伊弉諾大神を祀り、
相殿に文武天皇・佐伯有若公を祀る。
もとは芦峅寺の末社だった。
かつては本殿・拝殿を備えていたが、
明治初年の落石により破壊。
現在は一間社の本殿のみとなっている。
祈願殿の東後方に鎮座する若宮。岩の上に鎮座する。
刀尾天神(ここでは天手力雄命とする)を祭神とし、
稲背入彦命、佐伯有頼公を祀る。
武門の崇敬が高く、必勝不敗・災難避けの神として
信仰された。
また立山登拝者は必ず参拝する慣わしだった。
立山開山御廟。
中宮に隣接する立山博物館横に、かつて登拝者を宿泊させた宿坊のひとつ、教算坊がある。

立山頂上まではちょっと時間がなかったので、
せめて称名滝(しょうみょうだき)までは、と頑張って登る。
だんだん険しくなってくるので、軽だと途中からスピードがまるで出なくなって難儀した・・・

のぼれー
流れ下っているのは常願寺川の支流、称名川。
こういう風景を見ると、ビバ自然!という気持ちになる。
悪城(あくしろ)の壁。
火山である立山の噴火により成った溶岩地が称名川に削られてできた渓谷へ、
度重なる雪崩が加わってできた奇観。
車は途中までしか登れない。
駐車場に停めて、てくてくと山道を登る。
舗装されているので、足元に心配は要らない。
称名川と渓谷。
あぢー 水しぶきが!
落石などの計測器が道端に。 土嚢と、落石注意の警告標示。
道端の湧水。

空が青い もうちょい。
川を渡ったところに展望台がある。
きたー
350mの落差を誇る、日本一の落差の滝。国指定の名勝・天然記念物。
日本の滝百選の一。
紅葉の美しさで知られる弥陀ヶ原台地から一気に落ちかかってくる。
音が凄い。日照り続きだったこの時でさえこれなら、雨の後とかどうなることだろうか。
ふりかえる 滝壺からの流れ。
人との対比その1 その2
称名滝の向かって右側の稜線にちょっと欠けたところがあるが、
春の雪解け時や雨の多い時などにはここからも滝が流れる。これをハンノキ滝といい、その落差は実に500m。
日本一の落差の滝ではあるが、つねにあらわれている滝ではないので、一般的には日本一とは認められていない。

雨が続いたときなどは、もうそこかしこから滝が十数本も流れ下って物凄いことになるらしい。

称名橋の上から。きれいな水。
橋の上に立っていると風に乗って水しぶきが飛んできて、暑さと疲れを癒してくれた。
称名橋の少し下流にかかる飛龍橋から延びている
登山コースの一、八郎坂。
弥陀ヶ原方面へ向かう。
途中、ヒカリゴケの生えている岩穴があるとのこと。
大日岳への登山口。
では立山にG(ジャイアント)・さらば!
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