にっぽんのじんじゃ・いばらき

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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*常陸国

鹿島郡:
『常陸国風土記』香嶋郡の条には、
  古老が言うには、
  難波長柄豊前大朝馭宇天皇(なにはのながらとよさきのおほみやにあめのしたしろしめししすめらみこと。第36代孝徳天皇)の世、
  己酉の年(大化五年、649)に大乙上の中臣□子(*□は欠字で不明)、大乙下の中臣部兎子等が総領高向大夫に請うて、
  下総国の海上国造(うなかみのくにのみやつこ)の部内である軽野から南の一つの里と、
  (常陸国の)那賀国造(なかのくにのみやつこ)の部内である寒田より北の五つの里を割いて、別に神郡を置いた。
  その処に鎮座する天之大神社、坂戸社、沼尾社、三処を合わせて、すべて香嶋之大神と称し、それによって郡名とした。
    (*大乙上・大乙下は官位。大乙上は19階中15位、大乙下は16位)
とある。
鹿島の大神の神領として、那賀郡と下総国内の海上国を分割して新たにつくられた郡。
神郡の郡司は例外として世襲が許されていたので、鹿島神宮司とその社家、
つまり中臣氏(大中臣氏、中臣鹿島連)が代々郡司として鹿島郡を治めていた。

鹿島神宮 息栖神社 大洗磯前神社


鹿島(かしま)神宮。

茨城県鹿嶋市大字宮中に鎮座。

『延喜式』神名式、常陸国鹿島郡二座の一、鹿嶋神宮。
名神大社で、祈年祭のほか、月次・新嘗祭においても朝廷の班幣に預かっていた。
常陸国一宮。
天皇が勅使を遣わして奉幣する勅祭社の一。
下総国一宮・香取神宮とともにわが国で最も高名な武術の守護神であり、
道場の壁にはよく「鹿島大明神」「香取大明神」の掛け軸がかかっている。

祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。
記紀にみえる国譲り神話で大活躍する武神。
書紀での表記では「武甕槌(タケミカツチ)」だが(ただし神武東征の段では「武甕雷」という表記)、
古事記の「建御雷(タケミイカツチ)」のほうが元の形と思われ、その意味は、
「タケ(猛々しい)+ミ(御)+イカ(いかめしさ)+ツ(~の)チ(神霊)」
と、猛烈で厳しい神威を帯びた神。
『古事記』では、伊邪那岐命が佩剣の十拳剣(とつかのつるぎ。長剣)で御子である火の神迦具土神を斬った時、
剣の根元に付いた血が聖なる石の群れに飛び散った時に化成した三神のうちの一で、
伊邪那岐命の佩剣の神としての名である天之尾羽張神(あめのをはばりのかみ)、別名伊都之尾羽張神(いつのをはばりのかみ)の御子とされる。
『日本書紀』本文では、稜威雄走神(いつのをはしりのかみ)の子甕速日神(みかはやひのかみ)の子熯速日神(ひはやひのかみ)の子とし、
また一書(異伝)においては『古事記』と類似した話を載せたうえで甕速日神の子とし、「又は」として『古事記』と同じ出自を記す。
いずれも伊弉諾尊の剣の御子、あるいは子孫とされる剣の神霊で、
天安河(あまのやすのかわ)の上流にある天石窟(あまのいはや)に住んでいるとされている。
『日本書紀』における字面から祭儀に用いる「甕」の神であるという説もあるが、
剣・石(鉱物)・火から甕が生まれるという道理はない。甕の原料は埴土です。

『常陸国風土記』には、

  天地が開ける以前に、諸祖天神〔かみるみ・かみるぎ〕が八百万神を高天之原(たかまのはら)に集め、
  「今、吾が御孫命(みまのみこと。御子孫の意)のご統治なさる豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)である」
  と宣言し、高天原から降り来られた大神を香嶋天之大神(かしまのあめのおおかみ)と申し上げる。
  天にては日香嶋之宮(ひのかしまのみや)と号し、地にては豊香嶋之宮(とよかしまのみや)と名づける
  〔土地の人が言うには、豊葦原水穂国をご委任申し上げよと詔された時、
  荒ぶる神等、また石や木や草の一片までもが言葉を喋り、昼は五月のハエのごとく騒ぎ立ち、夜は不気味な火が輝く国、
  これを言向け平定するため、大神は上天より降り、(平定の業に)仕え奉ったという〕。

とその祭神が説明されていて、武甕槌命という神名は一切出てこない。
ただ、その業績が記紀に見える武甕槌命と共通しており、国史には「建御賀豆智命」とその神名が明らかに記されている。
風土記では、神の御名を直接記すことを憚って尊称で記したのだろう。
武甕槌命は、『古事記』では案内・伝令役の天之鳥船とともに国譲りに臨むが、
『日本書紀』では、神々の会議で経津主命(ふつぬしのみこと。香取大神)を選出したところへ、
「ちょっと待て!経津主だけが立派な男子(ますらを)で、オレはそうじゃないってのか!」
とごっつい勢いで異論を唱えて(ゴネて)自分もついていく、という役回り。
神武天皇の東征においては、熊野山中にて神の息吹に当たって倒れ伏した皇軍を高天原の天照大御神が御覧になり、
「おまえが行って再び地上を平定せよ」と武甕槌命に命を下したところ、
武甕槌命は、自分が天降る代わりに自らの剣である韴霊(ふつのみたま)という剣を高倉下(たかくらじ)という者のもとに下して軍勢を回復させ、
この剣は今は石上神宮に祀られている、という話がある。

創祀は神武天皇元年と伝えられ、
神武天皇即位の年に中臣氏の祖・天種子命(あめのたねこのみこと)を鹿島に遣わし、大神を奉斎させたという。
『常陸国風土記』には、神託によって第十代崇神天皇が鹿島大神に奉幣した記事があり、
その内訳は太刀、鉾、鉄弓、鉄矢、馬、鞍などの武具であり、早くから武神としての信仰があったと思われる。
この時、神託を鹿島大神のものであると判定したのが大中臣氏の祖である神聞勝命(かむききかつのみこと)であったとし、
中臣氏と鹿島神宮との古いつながりを記している。
上に挙げたように大化五年(649)には神郡としての鹿島郡が定められ、
また風土記には、同じ世にそれまで八戸であった神戸に五十戸が加えられて五十八戸となった、とある。
さらに「淡海大津朝(あふみのおほつのみよ。天智天皇治世)に初めて朝廷より使いを発して神の宮を造らせ、
それより以来、修理することが絶えない」といい、朝廷主導による社殿造営が行われていた。
中世までは伊勢、住吉、鹿島、香取の四社は朝廷によって、つまり国費で式年造替がなされていた。
『延喜式』伊勢大神宮式には伊勢大神宮の式年遷宮について細かに記し、また臨時祭式には、

  凡そ諸国の神社は破るるに随ひて修理せよ。
  但し摂津国の住吉、下総国の香取、常陸国の鹿嶋等の神社の正殿は、二十年に一度改め造り、
  その料は便に神税(神郡からの税収。鹿嶋においては鹿嶋郡の)を用ひよ。如し神税無くば、即ち正税を充てよ。

とある。この三社の式年造替は弘仁三年(812)六月五日の格にもとづく。
また臨時祭式には、鹿嶋神宮司の季禄は従八位の官に准ずる、と記されている。
鹿島神宮の宮司職は朝廷の祭祀氏族であった大中臣氏がつとめており、
奈良時代、藤原氏は枚岡大社に祀られている一族の祖神・天児屋根命とその妻神である比売神に加え、
鹿島の神と香取の神をあわせた四柱を春日の地に勧請し、春日大社を創祀した。
このころには鹿島の神は「朝廷の委任により祭る神」から「氏神」へと変わっていたようで、
関東におけるその奉仕の期間が非常に長かったことがうかがえる。
鹿島神宮には土着の祝(はふり)の家系もあって、彼らは「中臣鹿島連(なかとみのかしまのむらじ)」の氏姓を賜わり、
中世以降は大中臣氏に代わって神宮を管掌するようになった。
また、鎌倉時代より平氏の流れをくむ武家の鹿島氏が鹿島郡の地頭となって神宮に影響力を持つようになり、
室町時代には幕府より「鹿島神宮惣大行事職」に任じられ、これを世襲して神宮の保護経営にあたっていたが、
戦国時代に佐竹氏に敗れて没落。その後江戸幕府により鹿島惣大行事家として再興し、以後は神職として神宮に仕えている。

国史初見は『続日本紀』養老七年(723)十一月十六日条で、
「下総国香取郡、常陸国鹿島郡、紀伊国名草郡等の少領已上は三等已上の親の連任を聴(ゆる)す」
と、郡司四等官の上位である大領・少領について、「神郡」においては特例として世襲を認めるという法令。
「神郡」とは、その郡の収入が特定の神社の維持経営に充てられる、まさに神に寄進された郡のこと。
香取郡は香取神宮、鹿島郡は鹿島神宮、名草郡は日前・国懸神宮の神郡。
伊勢神宮は度会郡・多気郡の二郡が神郡であり、のち飯野郡がこれに加わって「神三郡」と呼ばれた。
ほかには、安房国安房郡が安房神社の、出雲国意宇郡が熊野大社・出雲大社の、筑紫国宗像郡が宗像大社の神郡となっていた。
郡司は地元の者を登用するので、神郡においては宮司が大領となり、まさに祭政一致で郡の運営が行われていた
(ただし、平安時代になると宮司が大領になることが禁じられ、祭政の分離が行われた)。
同じく『続日本紀』宝亀八年(777)七月十六日条には、
「内大臣従二位藤原朝臣良継、病す。其の氏神鹿島神を正三位、香取神を正四位上に叙す」
との神階授与記事。
『続日本後紀』収録の弘仁三年(812)六月五日の格にもとづき朝廷による二十年ごとの式年造替が行われることとなり、
承和三年(836)年五月九日条には、
「下総国香取郡従三位伊波比主命(いはひぬしのみこと)に正二位、
常陸国鹿島郡従二位勲一等建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)に正二位、
河内国河内郡従三位勲三等天児屋根命(あめのこやねのみこと。中臣・藤原氏祖神)に正三位、
従四位下比売神(ひめがみ。天児屋根命の妻。以上の二柱は河内国一宮・枚岡大社)に従四位上を授け奉る」
と、春日祭神四座への神階授与記事があり、
そして『文徳天皇実録』嘉祥三年(850)九月十五日条、春日大社への天皇の詔(宣命体)の中に、
建御賀豆智命、伊波比主命二柱に正一位、天児屋根命に従一位、比売神に正四位上を授け奉ることが記されている。
遠く東国にあって、最高の格を有する神社だった。

弘仁十一年(820)年八月二十四日条には、
「常陸国鹿島神社の祝・禰宜を把笏せしむ」
と、現在の神職は誰もが持っているが、当時は官人もしくは特別に許された者でなければ持てなかった笏の所持が許されている。
『延喜式』を見ても鹿島の神官にはさまざまな特典があり、いかに重んじられていたかがわかる。
古くから朝廷の祭祀氏族であった中臣氏が祭祀を行っていたことから、
中臣氏から分かれ、政治の中枢を担うようになった藤原氏の庇護もあり勢力を伸ばしていったのだろう。

「鹿島神宮の当初の祭神は天之大神であって、のち中臣氏が鹿島神宮を支配するに至り、9世紀に武甕槌命に変更された」
というような説があるが、
それでは藤原氏が最も重んずべき一族の祖神である天児屋根命をさし置いて、
8世紀中期に春日大社の第一殿に「どこから」「どういう理由で」武甕槌命を勧請したのか説明できない。
また、鹿島郡の設置、神戸五十戸の寄進、国家による社殿造営は7世紀中期から行われており、
『常陸国風土記』信太郡条には、

  榎浦の津には、すなわち駅家を置く。東海道の街道、常陸路のはじまりである。
  このゆえに伝駅使(はゆまづかひ)が初めて国に入る時には、まず口をすすぎ手を洗い、
  東に向かって香嶋大神を拝んで、その後に入ることができる〔以下は省略〕。
    (*〔 〕内は原文にある。筆写した人が、以下は省略して筆写しなかったということを明示したもの)

とあり、急使である駅使でさえ身を清めて鹿島大神を拝まなければ常陸路に入れなかったほど畏敬されていた。
まだ記紀編纂の詔も出ていない頃から朝廷よりそれほどの扱いを受けていたのならば、当然記紀のうちにその神が登場してしかるべきであり、
同じく国家による社殿造営が行われていた伊勢・住吉・香取の神は登場しているのに鹿島の神だけ現れないというのは理屈に合わないので、
事績が同一である天之大神と武甕槌命が同一の神であるというほうが自然。
出雲の熊野大社の祭神は『出雲国造神賀詞』にあるように「加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろき・くまののおほかみ・くしみけののみこと)」といい、
「おかっぱ頭(童子)の男神、熊野の大神、櫛御気野命」の意だが、
この神を『出雲国風土記』では「熊野大神」「熊野大神加牟呂乃命」とまでしか記しておらず、具体的な神名をあらわすことはしていない。
それと同じことだろう。
たとえ元は別の神であったとしても、「大物主神=大国主神」のように、記紀の時代にはすでに同一視されていたと思われる。
もっとも、『風土記』に盛り込む案件として「神社の由緒や祭神」は含まれていないので、
鹿島郡が神郡であるという理由があるにせよ、一神社についてここまで記しているのはきわめて異例な事。
『出雲国風土記』でさえ、ここまでのことはしていない。
また、他の風土記が「高天原」について記さない中、
『常陸国風土記』のみが権威の源泉であるところの高天原について語るのは、この風土記の大きな特徴となっている。
『常陸国風土記』は当時の常陸国守であった藤原宇合(不比等の三男、式家の祖)によって編纂されたとみられており、
王権と鹿島神宮、ひいては中臣・藤原氏との強い結びつきを特筆したのだろう。

『日本書紀』雄略天皇二十一年条に、天皇が高句麗によって滅ぼされた百済を再興させた記事があり、
さらに二十三年条には高句麗を攻撃した記事があるが、
欽明天皇十六年二月条には、新羅との戦いによって百済の聖明王が戦死したという報告に来た百済王子に対して蘇我稲目が、
「大泊瀬天皇(雄略天皇)の御世、百済は高麗に圧迫されて累卵の危うきにあったが、
天皇は神祇伯(かむづかさ)に命じて策を授かるよう天神地祇に祈願させられた。
その時、祝(はふり)が神語(かむごと)を託宣し、
『建国の神を請い招き、行って滅亡しようとする主を救うならば、必ず国家は鎮静し人民は安定するだろう』
と申し上げた。これによって神を招き、行って救援させられた。よって国家は安寧を得た。
そもそもその元を尋ねれば、建国の神とは、天地が割け分かれたころ、草木が言葉を喋っていた時、
天より降り来て、国家を造り立てられた神
である。
近頃聞くところによれば、おまえの国はこの神を祀っていないと聞いている。
今、先の過ちを悔い改めて神の宮を修理し神霊をお祭りすれば、国は栄えるだろう。忘れてはならぬ」
と忠告した記事がある。
ここにみえる「建国の神」の事績は、
『常陸国風土記』に記す鹿島大神および普都大神(ふつのおほかみ。香取大神経津主命)の事績についての文句が似ており、
  (『常陸国風土記』信太郡高来里条、「古老の言うには、天地の始め、草木が言葉を喋っていた時、
  天より降り来られた神の名を普都大神という。葦原の中つ国を巡行され、山河の荒ぶる神の類を言向け平定された
・・・」)
あるいは百済救援のために招請した「建国の神」とはこれらの神々であったかもしれない。
またあるいは、斉明天皇・中大兄皇子による百済救援の時にもこれらの神を招請したが敗れてしまい、
藤原鎌足が遺言の中で「生きて則ち軍国に益なし」と歎じたのもそれによったものかもしれない。

鹿島の神は蝦夷討伐にあたっての守護神でもあり、
平安時代中期には東北地方へ至る各地に鹿島御子神社などの分社三十八社が鎮座していた
(『日本三代実録』貞観八年(866)正月二十日条)。
『続日本紀』延暦元年(782)五月二十日条には、陸奥国からの言上として、
「鹿島神を祈祷し、凶賊を討撥す。神験、虚に非ず。位封を賽げんことを望む」
とあり、鹿島神に勲五等と封戸二戸を奉る勅が出ている。
また、鹿島社には多くの神賤(神社に仕える賤民)がいた。
時代とともに次々と増えてたびたび朝廷に神戸編入を申し出ており、朝廷もこれを許していたが、
宝亀十一年(781)十二月二十七日条にはなんと神賤774人の神戸編入申し出があり、朝廷もよく調べて、
「今回は認めるが、神司はみだりに良民と知りながら計画的に神賤とし、朝廷の規則を乱している。今後申請しないように」
とお達しを出した。そして、延暦七年(788)の蝦夷討伐においてはその全員が真っ先に兵士として徴発された。
その本殿が北を向いているのは蝦夷へ睨みをきかせている意味ともいわれる。
ただ、その神座は90度そっぽを向いた東、つまり海のほうを向いている。
これは出雲大社と同じであり(出雲大社本殿は南面、神座西向、海の方角)、
海に近い神社には何か共通するものがあるのだろうか。
古い形式をよく保存しているのは、朝廷主導で行われた式年造替により、
余計な意匠が入らず、以前の形のまま建て替えられ続けてきたからだろう。

鹿島神宮には古くより亀卜をおこなう卜部(うらべ)がおり、
『常陸国風土記』にも、
「神の社の周囲に、卜部が住んでいる」
と記されている。
彼らのおこなう占いの結果は朝廷や幕府にもたらされることがあり、
またのちには物忌(未婚の童女)による託宣を神人(神社に仕える人)が各地を廻って触れ回るようになり、
これを「鹿島言(事)触れ(かしまことぶれ)」といった。
託宣は旧暦の春正月七日に行われ、それから各地に触れ回っていったことから、
かつて「鹿島事触れ」は春の風物詩のひとつであり、新年の季語にもなっていた。
江戸時代には鹿島の神人を真似た流しの事触れが増え、
託宣めいたことを口走りながら芸能を行って物乞いする者が多かったという。
その後事触れは廃止されたが、今も鹿島神宮のおみくじには「事触れ」と記してあり、
託宣の神としての伝統を伝えている。

武神の宮である鹿島神宮には古来「鹿島の太刀」という兵法(武術)が伝承されていた。
中臣氏の祖・国摩大鹿島命の子孫である国摩真人が仁徳天皇の御世に神の啓示によって授かったと伝えられ、
古くは東国より九州へ防人として旅立つ者へと伝授されたといわれている。
中世には神宮大行事職の武家・鹿島氏のもとでこの剣を伝える卜部の吉川家が「鹿島中古流」として再編し、
この吉川家出身で、下総一宮香取神宮の兵法「香取神道流」を伝える塚原家の養子となった塚原新右衛門高幹(卜伝)は、
鹿島・香取の剣を極め、その剣をもって生涯不敗だった。
彼が伝えた剣は「鹿島新当流」として現在に伝わっている。

古代、霞ヶ浦や北浦は現在よりもずっと広大で、
鹿島神宮は鹿島灘と霞ヶ浦・北浦をつなぐ水道の突端、水上交通の要衝に鎮座していた。
鹿島神宮と香取神宮では十二年に一度、それぞれの神輿を御座船に乗せて出航し、
両神が水上で出会うという「御船祭(おふなまつり)」が行われているが、
『常陸国風土記』には、「毎年七月に舟を造って津宮(つのみや)に納め奉る」
という、その祭礼の原型となる行事が記されており、鹿島大神は水上を渡る神、船の神でもあった。
武甕槌神は「国譲り」においても稲佐の浜の海上に剣を逆しまに突き立ててその上に降臨しているように海と縁のある神であり、
神座が海を向いているのもそのためだろうか。
風土記にはまた、南の若松浜から鉄を、安是湖からは砂鉄を産していたといい、
国司はそれらをもって剣を作っていたと記しており、
鹿島はまことに剣の神霊である武甕槌神に相応しい地といえるだろう。

鳥居。
鳥居前には土産物屋や食堂が立ち並ぶ。
これは二の鳥居。
写真の鳥居は平成二十三年の東日本大震災において倒壊しており、
平成二十六年に木造鳥居として再建される予定となっている。

一の鳥居はこの鳥居前から小道を抜けていった先の大船津の沖、北浦湖上に立つ。
護岸工事のために昭和五十年より陸上に移されていたが、
平成二十六年の「御船祭」に先立つ平成二十五年六月、水上に再建された。
水上鳥居としては国内最大で、安芸一宮・厳島神社の大鳥居をも凌ぐ。
参道。

楼門の手前、向かって左側には、
 津東西社(祭神:高龗神・闇龗神)
 祝詞社(太玉命)
 熊野社(伊弉諾尊・事解男命・早玉男命)
 須賀社(素戔嗚尊)
が鎮座。
また、沼尾社・坂戸社の遥拝所がある。

楼門。
寛永十一年(1634)、初代水戸徳川藩主頼房公の奉納。
日本三大楼門のひとつにも数えられるとのこと。
扁額の文字は東郷平八郎元帥のもの。

津東西社は、もとは津(船着き場)の東西に鎮座しており、
現在の鹿嶋市大船津にあたる。
『常陸国風土記』には、毎年七月には津宮に鹿島大神のための舟を奉納していた、とある。

沼尾社・坂戸社は、かつては天之大神社(本社)と合わせて「香嶋之大神」と呼ばれた、
本社とともに鹿島神宮を形成していた二社。
沼尾社は鹿嶋市沼尾に鎮座。祭神は、武甕槌大神とともに国土を平定した香取神宮の大神、経津主神。
坂戸社は鹿嶋市山之上に鎮座。祭神は中臣氏・藤原氏の祖神である天児屋命。

なお、鹿島大神の降臨地で、大神が奈良の春日に勧請された時に出立された地と伝えられる場所は「跡宮」となっており、
鹿嶋市神野に鎮座する。祭神はもちろん武甕槌大神。

境内。
正面奥に高房社が鎮座する。

境内には鹿島アントラーズ奉納の大絵馬があり、各選手の祈願が書かれていた。
正直、サッカーが上手いのはいいけど習字も習ったほうがいいのでは・・・と思ったのが約一名いたけど、
誰かは言わずにおこう
高房社。
常陸国二宮である静神社(祭神・建葉槌神)の勧請で、
本殿参拝の前にまずこちらに参拝する慣わしとなっている。

建葉槌神は「倭文神(しつおりのかみ)」とも呼ばれる織物の神だが、
国譲り後の国土平定において、まつろわぬ星神の香香背男を征伐した武神でもある。
その隣にある仮殿。
本殿の修理などで仮遷座の必要がある場合、こちらに神御が一時遷座する。
仮殿前の注連縄を張ってある区画は祓所で、祭典にあたってはまずここで祓えを行う。

隣に宝物館。
刀身225cmの巨大な直刀「黒漆平文大刀拵」を見ることができる。
平安期の作とみられており、国宝に指定されている。
本殿及び拝殿。
ここからは見えないが、拝殿からは幣殿が伸び、幣殿と本殿の間には「石の間」という石敷きの渡り廊下がある。
本殿と祭祀用の社殿を接続する、江戸時代の神社建築の主流である「権現造」の一種。

元和五年(1619)、江戸幕府二代将軍、徳川秀忠公の奉納。
東西に走る参道の右手に鎮座し、本殿は北を向いている。
北を向くのは、古代の日本にとって最大の脅威であった蝦夷に睨みを利かせるためといわれているが、
参道の直線上に本殿を置かないという古代の礼法であるともされている。

鹿島神宮は、もとは伊勢神宮と同じように拝殿を持たず、本殿の前で庭上(ていしょう)祭祀をおこなっていた。
 *庭上祭祀:沓(くつ)を履いて行う祭祀で、基本的に屋外で行われる。
それは徳川秀忠公の拝殿・幣殿寄進後も変わらず、江戸時代は拝殿の前で庭上祭祀をおこなっていたが、
明治時代に祭祀の改革が行われ、殿上で祭祀が行われるようになった。

本殿の右脇(向かって左脇)には三笠社が鎮座。
社殿の背後の杉の木は樹齢千二百年といわれる。
東御門跡。奥参道へと続く。
奥参道は「奥馬場」とも呼ばれ、流鏑馬神事が行われるところ。
木々の迫力がすごい。
鹿園。
鹿が飼われている。
『古事記』の国譲り神話にて、
建御雷神を呼びに行く使いに立った天迦久神(あめのかくのかみ)は
鹿(か)の神ともいわれ、ゆえに鹿が建御雷神の神使となった。
長い奥参道。

この辺りにはかつて鹿島神宮の神宮寺があった。
創建は天平勝宝元年(749)と伝えられ、当初は境外にあったが、鎌倉時代には境内に移転し、神前読経が行われていた。
鹿島神宮や神宮寺には数多くの書物や経典が収められており、親鸞聖人も一切経を見るために神宮を訪れたことがあって、
またその時に鹿島大明神の帰依を受けたという言い伝えもあり、鹿園の脇には親鸞聖人の碑が立っている。
近世になり、宗門人別改の制などで仏法が事実上国教化されるようになると、
神宮寺の権力がさらに大きくなって神事を圧迫するようになったので、
延宝五年(1677)、大宮司の訴えによって当時境内にあった神宮寺と護国院は境外へ移転させられた。
護国院は鹿島神宮の前、鹿嶋市宮中に現在もあるが、神宮寺は明治の神仏分離にともない廃寺となっている。

春日大社の第一殿の本地は不空絹索観音菩薩もしくは釈迦如来とされており、
鹿島でも当初は釈迦如来が本地とされていたと思われるが、
中世以降、鹿島神宮と香取神宮の本地はともに十一面観音であるとされ、
神宮寺は十一面観音を本尊としていた。
『鹿島問答』では、神宮寺本尊のほかにある「釈迦堂(安居院)」「大日堂」「根本寺(本尊薬師如来)」もみな鹿島明神の本地である、としている。

『神道集』は、鹿島神宮の祭神は武甕槌神ではなく「天照大神の第四の御子である天児屋根命」としており、
金の鷲に乗って常陸国に天降ったとし、その時に銀の鷲に乗って随従した者の子孫が藤原鎌足内大臣であるとする。
中世には、『神道集』の説のほかにも、
「鹿島明神は伊弉諾尊、香取明神は伊弉冉尊であり、夫婦神である」
などのような説もあって、悪い言い方をすれば「神社があれば中身は何でもいい」的な状態だった。
「最上級国産和牛ステーキ」と称していて確かにすごく美味なんだけど、実際はその時々でいろんな肉を使ってました、というような感じで、
そこらへんのいい加減さが中世の特色。
祭神の本地は、中世には十一面観音であり、
奥宮の本地が不空絹索観音、
南八龍神は不動明王、北八龍神は毘沙門天(現在の津東西社)、
沼尾社は薬師如来、坂戸社は地蔵菩薩、
息栖三所は釈迦如来・薬師如来・地蔵菩薩・不動明王・毘沙門天、
手子后神社は釈迦如来、とされていた。


奥宮。
鹿島大神の荒御魂を祀る。
慶長十年(1605)に徳川家康公が造営した時の本殿を、元和五年(1619)の徳川秀忠公造営時に移築したもの。
「江戸スタイル」の華麗な本殿と異なり、古式を伝える社殿。
奥宮左脇から要石へ。 カシマスタジアムへ2.7km。
ここを通ってスタジアムへ行く人はどれくらいいるのか。
森林道の交差点に鹿島さんとナマズの像が。 深い森。
到着
神宮社家の中臣氏の建てた標柱が立っている。
鹿島の要石は凹形。
香取の要石は凸系で、対になっている。
奥宮から要石の反対側へ歩いていく。
坂を下りていくと・・・
澄んだ泉が。
ここは御手洗(みたらし)で、神職・参拝者の潔斎の池。
昔は、参拝者はここで身を清めてから参拝していたという。
奥のほうに、水を汲める場所がある。
この一帯は御手洗公園と呼ばれ、茶屋もある。 小さな社も鎮座する。
たしか、大黒社。



息栖(いきす)神社。

茨城県神栖市息栖に鎮座。
鹿島神宮境外摂社。
鹿島神宮、香取神宮とともに東国三社と称せられ、
これらの三社に参ることを「東国三社参り」という。

『延喜式』には記載がないが、『日本三代実録』仁和元年(885)三月十五日条に
「常陸国正六位於岐都説神(おきつせのかみ)に従五位下を授く」
という神階授与記事があり、これが息栖神社のこととみられている。いわゆる国史見在社。

祭神は久那戸神(くなどのかみ)。相殿に天乃鳥船、住吉三神を祀る。
久那戸神は岐神(ふなどのかみ)と同一とされ、国譲りにおいて経津主神・武甕槌神を案内して国内を平定したとされる道案内の神であり、
また悪いものが道を通って入ってこないように遮る道祖神。
天乃鳥船も同じく国譲りにおいて同行した神であり、道案内また伝令として活躍した。
鹿島・香取との関連において祀られるようになったものだろう。
住吉三神は海上交通の守護神であり、中世には鹿島明神と同体とする説もあった。

創祀は応神天皇治世と伝えられる。
もとは下流の日川の港に祀られていたが、大同二年(807)に現在地に遷座したといわれ、
国史の社名(おきつせ=沖つ瀬)から当時は沖洲に鎮座しており、その後陸続きになったものと思われる。
「おきつせ」が「おきす」と訛り、その後「息栖」と表記されるようになって以後、「いきす」と変わったのだろう。
鹿島・香取との関係は深く、その祭礼には鹿島から神官が参加していた。
『神道集』には「息洲三所」とあり、
鹿島大明神の妹神であるとされ、本地は釈迦如来・薬師如来・地蔵菩薩・不動明王・毘沙門天王とされていた。
本地仏は本社の武甕槌神(当初は釈迦が本地だった)・沼尾社の経津主神・坂戸社の天児屋根神・
現在の鹿島神宮摂社・津東西社にあたる南北八龍神と同じであり、
あるいは、当初は鹿島三所および津宮の分社として成立した社であったかもしれない。
江戸時代になって利根川の流路が変わるとさらに参拝者が増え、東国三社として大いに隆盛した。

往時は川中(海水)に一の鳥居が立っており、その前に真水が湧き出す泉があって、忍潮井(おしおい)と呼ばれていた。
江戸時代には有名となり、伊勢の明星井、伏見の直井とあわせて日本三所霊水のひとつに数えられた。
現在は河川改修工事のために堤防が築かれたりしたために位置が変わり、一の鳥居周囲の風景も様変わりしたが、
人々が利根川下りで宮参りしていたかつての姿を偲ぶことはできる。

堤防と常陸利根川の流れ。 一の鳥居と、その両側の鳥居の下に忍潮井。
塩水の中に真水が湧き出していたことから、
潮を忍ぶ井戸ということでその名がついたという。
一の鳥居から歩いていくと、二の鳥居。
参道。左右の森は深い。
力石。
近隣の若者たちがここで重い石を持ち上げ、
大力を競ったと伝えられる。
拝殿前。参道右手には末社が並ぶ。

大洗磯前(おおあらいいそさき)神社。

東茨城郡大洗町磯浜町
茨城港大洗港区、大洗マリンタワーを過ぎた先、那珂川河口南の大洗岬に鎮座する。

『延喜式』神名式、常陸国鹿島郡二座の一、大洗磯前薬師菩薩神社(おほあらひいそさきのやくしぼさつのかみのやしろ)〔名神・大〕。
ひたちなか市磯崎町に鎮座する酒列磯前(さかつらいそさき)神社と対になる神社。
ともに「薬師菩薩」という仏教的な名前がついているのは神仏習合思想によるもので、朝廷が授けたもの。
平安時代初期には、大きな神社に僧を遣わして神前読経させることなどが普通に行われていた。
菩薩号のある神として有名なのは八幡神の「八幡大菩薩」であり、これも朝廷が授けた神号。
神名式の西海道筑前国那珂郡には「八幡大菩薩箱崎宮」(筥崎宮)、豊前国宇佐郡には「八幡大菩薩宇佐宮」(宇佐神宮)とあり、
これらの名が『延喜式』に載っているということは、延喜式成立の10世紀にはオフィシャルな社名として定着していたということ。

祭神は主祭神を大己貴命とし、少彦名命を配祀。
国作りを行ったコンビの二神を祀る。
創祀は斉衡三年(856)。
『文徳天皇実録』斉衡三年十二月二十九日条に、常陸国からの言上として、

  「鹿島郡大洗磯前に神が新たに降った。
  郡民に海水を煮て塩と為す者がおり、彼が夜半に海を望むと、海が光り耀いて天を照らしており、
  夜が明けると両つの不思議な石があって、次の日には二十個に増えており、
  二つの石に仕えはべっているようだった。その時神がかりになった人がおり、
  『我は大奈母知(おほなもち)・少比古奈命(すくなひこなのみこと)である。
  昔この国を造り終わって東海に去ったが、今、民を救うために再び帰り来たのだ』
  と言った」
    *大奈母知・・・他の表記は大名持命、大己貴命など。いわゆる大国主神のこと。
    *少比古奈命・・・少彦名命。大国主神とともに全国を経巡って「国作り」を行った。

という神異を記している。
このふたつの不思議な石を大洗・酒列にて別々に祭ったのが、
大洗磯前・酒列磯前両社の創祀。
もとは大洗に大己貴命を、酒列に少彦名命を祀ったと考えられている。
翌天安元年(857)八月七日には大洗磯前・酒列磯前の両神は官社の列に加えられて祈年祭班幣に預かる社となり、
十月十五日には大洗磯前・酒列磯前の両神に「薬師菩薩名神」の称号を賜った。
創祀から一年足らずで官社入りしたばかりか名神にまで指定されるとは破格の待遇。
大洗磯前神社を息栖神社・手子后神社とともに鹿島神宮の三摂社とする所伝があり(手子后神社社伝)、
早い時期から鹿島神宮と密接なつながりがあったと考えられており、
官社・名神へのスピード指定にも鹿島神宮の肝煎りがあったのだろうか。
戦国時代、永禄年間(1558-1569)の兵火で社殿ことごとく焼けて衰微したが、
江戸時代になり水戸徳川藩の徳川光圀公が再建に着手、
水戸徳川藩第三代の綱篠公が享保十五年(1730)に現在地に遷座再興し、今に至る。
社殿は県の指定文化財になっている。

両神社が「薬師菩薩」という名号を賜わったのは、
大己貴命・少彦名命が全国を巡って「国作り」を行う過程で、
人や家畜のための医療の法や、虫害を防ぐまじないの法を人々に教えた、とされているためだろう。
『日本書紀』にはその伝承が収録されている。
記紀の伝承では、大国主神は出雲に隠れ、少彦名命は海のかなたの常世国に去った、とされているが、
国史に記されている両社の創祀伝承においては、両神は国作りののちともに東海へ去っていた、とされていた。
常陸の国には、記紀の伝承とは異なる両神の伝承が語り伝えられていたということだろうか。
いわゆる「日本昔話」も全国に広まって地方ごとに様々なバリエーションがみられるが、
神々の伝承についても同じことがいえるのだろう。
この伝承にも、太平洋岸に住む人々の「東海」「南海」の彼方への憧憬を汲み取ることができるだろうか。

最近は、大洗が某戦車道アニメの舞台となったことで参拝者がすごく多い。
「聖地巡礼」の人ももし余裕があれば、対になる神社である酒列磯前のほうにも参拝してみては。

海沿いの高所の上に鎮座。社殿は海のほうを向いている。
風が強いときで、境内に海鳴りのごうごうという音が響いてものすごい迫力だった。

交差点にかかる巨大な一の鳥居。
交差点名も「大洗鳥居下」となっている。
昔はここから社域であったという。
坂を上がると駐車場がある。 坂の途中にも神社が。
境内末社の茶釜稲荷神社。
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)をまつる。
社殿正面を下る石段と二の鳥居。正面は海。
風が強く、磯に砕ける波の音が境内に響く。
この先、
石が漂着した磯辺にもうひとつ「神磯鳥居」が立っているとのこと。
yahoo!地図の写真で確認できる)

水戸光圀公は大洗の情景を見て、

  あらいその岩にくだけて散る月を一つになしてかへる月かな

と詠んでいる。
神門。
神門横の風景。 随神さんが控える。
拝殿。堂々たる建築。
拝殿の側にカエルの像が三体。
カエルは少彦名命の神使とされる。
本殿。
いちおう流造にはなるのだろうが、屋根がアンバランスなまでに大きい、ユニークなつくり。
美しい境内。
境内末社。 石垣に大黒様やえびす様の像が並んでいた。
駐車場付近に鎮座する、烏帽子岩を祀った烏帽子厳社。



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