にっぽんのじんじゃ・いばらき

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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那賀郡:

『常陸国風土記』那賀郡の条には、「大櫛(おほくし)の岡には昔きわめて大きな人が居て、岡の上からハマグリを採って食っており、
その貝殻が積もって岡となった。時の人は大朽(おほくち)の意味を取って今は大櫛の岡という・・・」
という伝承が記されており、これは大串貝塚(水戸市塩崎町)のことといわれている。
また、女性のもとに夜な夜な神が訪れ、女は蛇を生んだ、という神婚説話が記される。

酒列磯前神社

久慈郡:

『常陸国風土記』には、郡衙の南にある丘が鯨に似ており、
それによって倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと。この書では日本武尊を天皇として扱う)が「クジ(久慈)」と名づけた、
と記される。
また猿に関する記述が目立ち、猿が多い土地だったようだ。
東の山に石鏡あり、昔、魑魅(おに)がいて、萃り集って鏡を弄び見たところ、いなくなってしまい、
世の人は「疾鬼(おに)も鏡に面(むか)へば自滅(つひ)ゆ」と言ったという。

静神社


*那賀郡

酒列磯前(さかつらいそさき)神社。

ひたちなか市磯崎町
那珂川河口北、阿字ヶ浦を見下ろす海辺の高台に鎮座する。

『延喜式』神名式、常陸国那賀郡七座の一、酒列磯前薬師菩薩神社(さかつらいそさきのやくしぼさつのかみのやしろ)〔名神・大〕。
東茨城郡大洗町磯浜町に鎮座する大洗磯前(おおあらいいそさき)神社と対を成す神社。
「薬師菩薩」という仏教的な名前がついているのは神仏習合思想により、朝廷から与えられた社号。

祭神は主祭神を少彦名命とし、大名持命を配祀。
国作りを行ったコンビの二神を祀る。
創祀は斉衡三年(856)。
『文徳天皇実録』斉衡三年十二月二十九日条に、常陸国からの言上として、

  「鹿島郡大洗磯前に神が新たに降った。
  郡民に海水を煮て塩と為す者がおり、彼が夜半に海を望むと、海が光り耀いて天を照らしており、
  夜が明けると両つの不思議な石があって、次の日には二十個に増えており、
  二つの石に仕えはべっているようだった。その時神がかりになった人がおり、
  『我は大奈母知(おほなもち)・少比古奈命(すくなひこなのみこと)である。
  昔この国を造り終わって東海に去ったが、今、民を救うために再び帰り来たのだ』
  と言った」
    *大奈母知・・・他の表記は大名持命、大己貴命など。いわゆる大国主神のこと。
    *少比古奈命・・・少彦名命。大国主神とともに全国を経巡って「国作り」を行った。

という神異を記している。
このふたつの不思議な石を大洗・酒列にて別々に祭ったのが、
大洗磯前・酒列磯前両社の創祀。
もとは大洗に大己貴命を、酒列に少彦名命を祀ったと考えられている。
翌天安元年(857)八月七日には大洗磯前・酒列磯前の両神は官社の列に加えられて祈年祭班幣に預かる社となり、
十月十五日には大洗磯前・酒列磯前の両神に「薬師菩薩名神」の称号を賜った。
創祀から一年足らずで官社入りしたばかりか名神にまで指定されるとは破格の待遇。
大洗磯前神社は早い時期から鹿島神宮と密接なつながりがあったと考えられており、
大洗・酒列両社の官社・名神へのスピード指定にも鹿島神宮の肝煎りがあったのだろうか。
のち、戦国時代に大洗磯前神社と同じく兵火にかかって焼失したが、
江戸時代に入り、水戸徳川藩によって現在の位置に遷座・再興されている。

両神社が「薬師菩薩」という名号を賜わったのは、
大己貴命・少彦名命が全国を巡って「国作り」を行う過程で、
人や家畜のための医療の法や、虫害を防ぐまじないの法を人々に教えた、とされているためだろう。
『日本書紀』にはその伝承が収録されている。
記紀の伝承では、大国主神は出雲に隠れ、少彦名命は海のかなたの常世国に去った、とされているが、
国史に記されている両社の創祀伝承においては、両神は国作りののちともに東海へ去っていた、とされていた。
常陸の国には、記紀の伝承とは異なる両神の伝承が語り伝えられていたということだろうか。
いわゆる「日本昔話」も全国に広まって地方ごとに様々なバリエーションがみられるが、
神々の伝承についても同じことがいえるのだろう。
この伝承にも、太平洋岸に住む人々の「東海」「南海」の彼方への憧憬を汲み取ることができるだろうか。

海沿いの道からぐるりと急斜面を登ると、鳥居がある。
江戸時代に再興される前の旧社地は鳥居の辺りと伝えられる。
境内南側に駐車場有り。
奉納の酒樽が並んでいる。
少彦名神は酒の神としての信仰を持っているため。
「酒列」の名にもふさわしい?
長い参道。
鳥居から拝殿まで300m弱。
この辺りの境内地はひどく細長い。
海側から参道途中へつながる急な石段もあり。 鳥居と狛犬。
左手には摂末社が並ぶ。
摂末社の隣には、水戸藩主徳川斉昭公お腰かけの石。
摂末社は向かって右から事比羅神社、富士神社、水神社、天満宮、稲荷社。
拝殿。後方に本殿。
社殿は磯を背にした西向き。
海に向かって東向きの大洗磯前神社とは逆になっている。
神輿庫。 駐車場近くの車祓所。
阿字ヶ浦の港。神社の北方。
神社の後背、東方は磯になっており、そこには「く」の字になった小さな岩礁群があって、
これが「さかつら(逆列)」という地名の元になったといわれている。

*久慈郡

静(しず)神社。

那珂市静に鎮座。
JR水郡線、静駅の西方2kmほど。すぐ北にゴルフ場がある。
三方を山に囲まれた静かなところ。

『延喜式』神名式、常陸国久慈郡七座の一。名神大社。
鹿島神宮に次ぐ、常陸国二宮。

創祀は、社伝では大同元年(806)と伝える。
『日本三代実録』仁和元年(885)五月二十二日条に、
「常陸国従五位下静神、稲村神に並びに従五位上を授く」とある。
倭文神(しどりのかみ)である建葉槌命を主祭神とし、天手力男神、高皇産霊尊、思兼神を相殿に祀る。
建葉槌命は、倭文神という別名どおりに織物の神だが、
『日本書紀』の国譲りの段の異伝には、
国譲りにおいて最後まで従わなかった星神・香香背男を平定したという伝承が収録されており、武神でもある。
古代の人は織物に相手を屈服させる呪力を認めていたのだろうか。
香取・鹿島と並び、東国三守護神のひとつとして崇敬された。
倭文(しどり、しつおり)は、日本古来の織物。どのようなものであったかはいろいろ説があるが、定まっていない。

『常陸国風土記』久慈郡の条に、
郡衙の西に静織里(しどりのさと)があり、上古、この村にて初めて綾を織ったことからその名がついたと記されている。
また、久慈郡の条には、大田郷に鎮座する長幡部(ながはたべ)の社(現在の長幡部神社。式内社)の記事がある。

  天孫降臨のとき、天孫の御服を織るために天下った綺日女命(かむはたひめのみこと)がおり、
  筑紫の日向の二神峰より三野国(美濃国か)の引津根丘に至った。
  のちに美麻貴天皇(みまきのすめらみこと、第十代崇神天皇)の世、
  長幡部の遠祖・多弖命(たてのみこと)が三野を去って久慈に移り、機殿を造って初めて織った。
  その織物は自ずから衣装となって断ち縫う必要はなく、これを内幡(うつはた)といった。
  あるいは、絹を織るとき、人が見ないように屋の扉を閉じて暗い中で織ったので、烏幡(からすはた)といった。
  この織物はいかなる武器も断ち切ることができなかった。
  今、毎年神調として献納している。

久慈郡は織物の里として発展し、また水戸から奥州への棚倉街道沿いに位置していたために大いに賑わい、
郡内の大社である静神社もそれに伴って崇敬を集め、ついには鹿島に続く二宮と呼ばれるほどになったのだろう。

江戸時代、水戸徳川藩の所領となると徳川家祈願所となり、水戸学の思想にしたがって神仏分離が行われ、
水戸黄門として知られる徳川光圀公が寺院を分離し、社殿を新たに造営した。寛文七年(1667)のことと伝わる。
この社殿は天保十二年に焼失し、現在の社殿は水戸の烈公こと徳川斉昭公が天保十三年(1842)に造営したもの。

神宝として、静神社銅印、扁額三十六歌仙絵、陣太鼓など。
歳を経た森と整備された建物・庭のコントラストが印象的。

境内入口鳥居。「常陸二宮 静神社」の標柱が立つ。
前は県道61号線で、道向かいにはため池がある。
二の鳥居。
石段両側の大木がすごい。
二の鳥居前。 参道を行く。拝殿までは200mほど。
大ヒノキ。那珂市指定文化財。
深い森。 神門前。
庭もきれいに整備されている。
門をくぐると、拝殿。
神門。奥は社務所。 徳川斉昭公の時代の陣太鼓。
境内社など。 奥に本殿。
鎮守の森。 境内から外を見る。


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