これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
金剛山系、そして吉野の山に鎮座する諸社。
吉野郡: (吉野郡、五條市の一部)
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宇智郡: (五條市) |
*吉野郡(よしののこおり)
吉野郡吉野町吉野山に鎮座。
吉野山から高城山へとずんずん登っていく途中。
『延喜式』神名式、大和国吉野郡十座の一。大社で、祈年・月次・新嘗祭において朝廷よりの班幣に預かっていた。
創祀は不明も、『続日本紀』文武天皇二年(698)四月二十九日条に、
「馬を芳野の水分の峰の神に奉る。雨を祈るなり」
とあるのが国史初見。また、『延喜式』祝詞式収録の『祈年祭祝詞』には、
大和の地の水利を司る東西南北四水分神の一(南の水分神)に挙げられており、古くからの信仰があったことをうかがわせる。
もとは吉野山地最奥部の青根ヶ峰に鎮座していたが、大同年間(9世紀初頭)に現在地へ遷座したという。
主祭神は天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)。神名のとおり、水の配分を司る神。
中世、「みくまり」が「みこもり」となまったことで子宝に霊験ある神として信仰を集め、今に「子守宮」との通称がある。
豊臣秀吉もこの社に子宝を祈願、秀頼をもうけたといい、慶長年間には建部内匠頭光重を奉行として社殿を再建、
それは現在に残り国指定重要文化財となっている。
国学者・本居宣長も父母がこの社に参詣したのちに生まれ、宣長は自らが水分神の御蔭でこの世に生まれたとして終生この神社を篤く崇敬、
遠く松阪より三度にわたって参詣し、
吉野山花は見ぬとも水分の神のみまへをおろがむがよさ
水分の神のちはひのなかりせばこれのあが身は生まれこめやも
父母の昔思へば袖ぬれぬ水分山に雨はふらねど
の歌を残している。
また、蔵王権現、勝手明神とともに「子守明神」として金峯山蔵王権現信仰を形成する一社であり、
修験者から厚く崇敬されていた。
秋の吉野山。 桜で有名だけど、 紅葉もいいものだ。 旅館や土産物屋の並ぶ通りが 正面遠くに見える。 |
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「上千本」のあたり。 神社まではもうすぐ。 この道路は地元の方の生活道路なので、 車が通ることができる。 ただし、狭くてかなりの急坂。 |
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見えてきたー | |
ついたー |
鳥居、楼門と回廊。 この山中に、非常に立派な構えの建物。 |
楼門をくぐると、右手に本殿、正面に幣殿、 左手に拝殿と、社殿がぐるり回廊状になっている。 かなり独特な形式。 |
本殿三殿。 中央に主祭神の天之水分大神を祀り、 左殿に高皇産霊神、少彦名神、御子神、 右殿に天萬栲幡千幡姫命、玉依姫命、天津彦火瓊瓊杵尊を配祀している。 配祀神の高皇産霊神と少彦名神は親子であり、天萬栲幡千幡姫命と天津彦火瓊瓊杵尊も親子。 玉依姫命は神武天皇の母。 この神々の霊験によって子宝が授けられる。 社殿の古び方が絶妙で、とても神さびた雰囲気がする。 色づく紅葉もそれに拍車をかけていた。 |
ここからさらに登ってゆくと、吉野の修験道の本拠・金峯神社へとたどりつく。
私は時間がなく断念しました
そして山をあとにする |
大名持(おおなもち)神社。
吉野郡吉野町河原屋に鎮座。
吉野川に沿って走る国道169号線と、吉野から飛鳥へと抜ける道である桜井吉野線との交差点にコンビニがあるが、
その後背の「妹山」に鎮座している。
国道169号線に面しているのだが、意外と気づきにくい。
祭神は大名持御魂神(おおなもちのみたまのかみ)。大国主命(大己貴神)の御魂を祀る。
須勢理比咩命(大国主命の妻)、少彦名命を配祀。
『延喜式』神名式、大和国吉野郡十座の一。
名神大社で、祈年・月次・新嘗祭において朝廷よりの班幣に預かっていた。
また『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条に、
「大和国従一位大己貴神に正一位を授け奉る」
とあるように、六国史終了時の神階が極位である正一位。
大和国で当時正一位の位にあった神社はほかには春日祭神四座のみであり、
朝廷から非常に重んじられていた神社であったことがうかがえる。
吉野は古来天皇の行幸地であり、その縁によるのだろうか。
鎮座する「妹山(いもやま)」は「忌山(いみやま)」の訛ともいわれ、古来この山を神聖視して祀っていたものと思われる。
この山の木々はまことに堂々としており、妹山樹叢は天然記念物に指定されている。
神社下の吉野川潮生淵には毎年六月晦日に海水が湧き出るとの言い伝えがあり、
大和国やその周辺からこの社に参詣して潮生淵で禊を行う「大汝詣り」が昔から行われているとのこと。
吉野川を挟んだ対岸には「背山」があり、
浄瑠璃「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」の舞台になっていることでも知られる。
このコンビニの向こうに・・・ | 鎮座しております 左端の変なモニュメントは、 「伊勢湾台風のときに吉野川はここまで水位が上がりましたよ」 をあらわしているらしい。 |
石段を上がっていくと、簡素ながら堂々とした社殿があらわれる。 背後の森も素晴らしく繁っている。 |
拝殿。 | 手水舎には金魚がー |
吉野郡東吉野村大字小に鎮座。
『延喜式』神名式、大和国吉野郡十座の一。
名神大社で、祈年・月次・新嘗祭において朝廷の班幣に預かっていた。
水の女神である罔象女神(みつはのめのかみ)を祀る。
鎮座は天武天皇白鳳四年(675)と伝わる。
寛平七年(895)六月廿六日に丹生川上社の社地境界禁制について発行された太政官符(行政最高機関の太政官が出した命令書)には、
『名神本紀』という書を引用して、
人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀(いつきまつ)らば、
天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨のこと)を止めむ。
という神託により創祀したという伝承が記されている。
国家の定めた四時祭(しいじさい。毎年の恒例の祭)である祈年祭、月次祭、新嘗祭には朝廷の班幣が、
また臨時祭である祈雨祭、名神祭には同じく奉幣があり、
古来、祈雨・止雨の神として尊崇された。
祈雨祭においては、
丹生川上社と貴布禰社(きふねしゃ。現在の貴船神社、京都市左京区鞍馬貴船町鎮座)には特に「黒毛馬一頭」が幣帛に加えられており、
雨の神としてとくに崇敬されていたことがうかがえる。
律令制が崩れてきた時代にあっても京・畿内の大社として奉幣を受ける「二十二社」の一社として信仰を集め、
また天皇・皇后の行幸も行われたという。
大和神社(おおやまとじんじゃ。天理市新泉町鎮座)の別宮扱いだったようで、
奉幣にあたっては大和神社の神主が奉幣使に同行していた。
しかし応仁・文明の乱以降、日本が大混乱期に入るとその伝統も途絶え、祭祀も中絶して社地不明となる。
世の中が落ち着いた江戸期になると社地の比定が行われるようになり、
まず現在の下社の位置(吉野郡下市町)に鎮座していた「丹生大明神」が丹生川上神社であるとされ、
幕府や朝廷もこれを認めていた。
明治になってこの社がそのまま官幣大社に列したが、その後、この神社の少宮司が、
この神社の四囲(境界)が『類聚三代格』収録の寛平七年六月廿六日の太政官符に記す丹生川上神社の四囲である
「東限、塩匂。南限、大山峯。西限、板波瀧。北限、猪鼻瀧」
に合致しないことを指摘。
そして吉野郡川上村の高龗(たかおかみ)神社を丹生川上神社に比定し、
これが認められて新比定社を上社、旧比定社を下社として二社併せて丹生川上神社と称することとなった。
だが、大正になって新たな研究がなされ、太政官符に記された四囲に一致するのは小川村の「蟻通明神」であるとし、
社内に平安後期の女神坐像、「丹生社」の銘がある弘長年間(鎌倉中期)の石灯籠があるなどの傍証が提示された。
これにより内務省が実地調査、この説が認められて蟻通明神が式内丹生川上神社であるとされ、
これを丹生川上神社中社とし、上社・下社と併せて丹生川上神社とした。
それに伴い祭神は、
中社が罔象女神、
上社が高龗神(はじめ上社になったときに祭神が高龗神から罔象女神に変わっていたのが復帰)、
下社が闇龗(くらおかみ)神(はじめ下社になったときに高龗神に変わっていたのがさらに変更)
に変更。
中社を三社の中心とした。
先の大戦後、三社は宗教法人としてそれぞれ独立しており、
この中社は「宗教法人丹生川上神社」と登録しているので、境内や案内板にも「中社」の文字はない。
あとの二社は「丹生川上神社上社」「丹生川上神社下社」の登録であり、
便宜上、当社を「丹生川上神社中社」と呼んでいる。
『日本書紀』神武天皇即位前紀には神武天皇が「丹生川上」に天神地祇を祭ったとあり、
それがこの地であるとして近隣に神武天皇聖蹟碑が建っているが、
このとき神武天皇はすでに宇陀まで進出しており、その記述のすぐあとに「則ち彼(そ)の菟田川の朝原に・・・」とあるので、
一般にはその記述における「丹生川」は「菟田川」のことと解釈されている。
高見川と四郷川が合流するところ、また県道220号線と県道221号線の合流点。
高見川が大きく蛇行するその川沿いに鎮座する。
本殿裏山の小牟漏岳にはツルマンリョウ自生地があり、国の天然記念物に指定。
自然の眺めのよいところで、近くにはキャンプ場がある。
鳥居前。ごっつい雨。 雨の神様として信仰されていた神社だから、 その御神徳に預かったということにしておこう。 |
拝殿。 拝殿内は石の間になっている。 |
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拝殿より本殿を見る。 |
その傍らにある「なでフクロウ」。 「叶え大杉」にフクロウが棲み付いていて、 その霊鳥としてのはたらきにあやかったもの。 境内に生えていた山桜で彫ったものらしい。 かわいい。 |
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神木の「叶え大杉」。 |
清めの御水。井戸から汲んで飲めるようだ。 | 吉野離宮址の碑。 |
拝殿横から本殿を見上げる。 本殿の両側に東殿・西殿があり、 弘長年間の銘がある国の重要文化財の石灯籠は東殿の前にある。 |
本殿横の夫婦杉。 | 境内末社・木霊神社。 和歌山市の伊太祁曽神社を勧請した神社。 木の神・五十猛命を祀る。 |
神社前。すぐ外を県道220号線が走り、その隣はもう高見川。 境内地は結構広い。 寛平七年の太政官符によると、往古の社域はさらに広かったようだ。 この太政官符は、大和神社の神主から、 「国栖(ここから西方)の百姓浪人らが度々社域を犯し社地を汚すので、 丹生川上神社の社域および禁制を定めて欲しい」 という求めに応じて太政官から出されたもの。 |
神社東の蟻通橋を渡った川向かいに鎮座する境外摂社・丹生神社。 本殿が現在の位置に遷る前の旧社地に建っているとされ、 本宮とも称される。 |
丹生川上神社から蟻通橋を渡り、 四郷川をひたすら遡ったところにある、 「七滝八壺(ななたきやつぼ)」。 小さな滝が連なって四郷川へ流れ落ちている。 環境省認定「平成の名水百選」に選出されているみたい。 名水、といっても飲用に適するとは限らないので、 飲めるかどうかは名水の所在自治体に問い合わせてくれ、と、 環境庁のHPには書いてあった。 まあ水質の問題とか、雨の後とかいろいろ混ざったりするし。 |
雨なので水量が多い。 | つながってるー | |
四郷川に流れ込むところ。 吊橋を渡れば、 上まで見ることができる。 |
ここまで登れる。 水辺までいけるが、 飲めるかどうかは知らない。 |
吉野神宮。
吉野郡吉野町吉野山に鎮座。
旧官幣大社。南北朝時代、室町幕府に対抗して吉野に都した後醍醐天皇を祀る。
明治25年に竣工し、吉水神社から後醍醐天皇の御魂を遷座した。
吉野だけあって春になると桜が美しいところだが、行ったときは雪の積もる2月で、
車のタイヤがノーマル(しかも寿命寸前)だったんで、山越えのときとかアイスバーンでスピンして崖道の路肩にぶつかったりとかたいへんだった。
よく生きている。神様の御蔭かも。
近鉄吉野線が来ており、最寄に吉野神宮駅がある。
鳥居。 神社ではあるが、寺院のような引き締まった雰囲気が漂う。 御祭神のゆえだろうか。 |
案内板。 |
拝殿正面。拝殿内から本殿を拝する。 一般の神社の本殿は、 地形上の制約がない限り、東向きもしくは南向きに建てられるが、 当神宮の本殿は異例の北向きで建てられている。 これは、遂に京を奪回することなく崩御された後醍醐天皇の御遺言、 「玉骨はたとひ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」 (わたしの骨はたとえ吉野山の苔に埋もれても、 その魂魄は常に皇居の方角を望み見ていようと思う) に従い、京都の方角に向けて建てられているため。 |
境内摂社、船岡神社。 境内には南朝の忠臣を祀った三摂社が鎮座する。 |