にっぽんのじんじゃ・しまね

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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意宇(おう)郡(松江市南部、東出雲町、安来市。のち安来市域は分割され能義郡に):

『出雲国風土記』には、以下のような地名起源伝承が記されている(要約)。

  意宇と名づけたわけは、
  国引きをなさった八束水臣津野命(やつかみづおみつののみこと)が、
  出雲の国が狭いとお思いになり、新羅、隠岐、越(福井県北部~新潟県)の土地の余りを見つけると、
  それぞれ鋤で土地を分割し、大縄をかけて「国よ来い、国よ来い」と引き寄せて縫い付けた(島根半島の由来)。
  国を引き終えると、「今は国を引き終えた」と詔して、意宇の杜に御杖を突き立て、「意恵(おゑ)」と詔した。
  ゆえに、オウという。

この「国引き神話」は、古代の出雲が朝鮮、隠岐、北陸地方と密接な関係を有していたことをあらわしている。
たとえば越から引いてきた土地は美保の崎だが、
風土記によれば、美保には越の沼河比売命の御子のミホススミノミコトが鎮座しているとしている。
これによれば、引いてきた土地が各々引いてきた先の地と深い関係を持っていたのだろう。
原文は同じ形式を何度も繰り返すもので、従来は語り部などによる口承形式であるといわれていたが、
近年の研究により、「国引き神話」は『出雲国風土記』編纂の時点においてまとめられ整理されたものとみられている。

意宇郡は出雲国造である出雲臣の本拠地であり、その一族が意宇郡郡司に任じられて郡政を行っており
(大領・少領・主政・主帳の郡司四等官を独占することも多かった)、
また「神郡」として、郡の収入はすべて熊野大社および杵築大社の運営に充てられていた。
その範囲は、東は伯耆国に接し、西は出雲郡・大原郡に接し、南は仁多郡に接するという広大なもの。
そのため、平安時代初期に意宇郡東部を分割して能義郡が設置されることとなった。ほぼ現在の安来市の区域となる。

神魂神社 六所神社
*出雲国庁跡
*意宇の杜 眞名井神社 揖屋神社 *伊賦夜坂
(黄泉比良坂)

神魂(かもす)神社。

松江市大庭町に鎮座。
神魂神社、熊野大社、揖屋神社、真名井神社、八重垣神社、六所神社からなる「意宇六社」の一で、
「大庭の大宮」と称えられる。

『出雲国風土記』意宇郡・神戸条に、

  出雲の神戸。郡家の南西二里二十歩(*1.1km)。
  伊弉奈枳(いざなき)の麻奈子(まなこ。愛児の意)でいらっしゃる熊野加牟呂乃命(くまのかむろのみこと)と、
  五百(いほ)つ鉏々(すきすき)取り取らして天の下をお造りになった大穴持命(おほあなもちのみこと)と、
  二所の大神たちに寄進し申し上げる。ゆえに神戸という〔他郡の神戸もまたこれと同じである〕。

とある、この「出雲神戸」の地が神魂神社の周辺一帯であり、
熊野大社・杵築大社の宮司、および意宇郡の郡司という祭政の権能を兼ね備えていた、
出雲国造氏である出雲臣の本拠地だった。
古墳時代中期には神の鎮まる山、「カンナビ山」である茶臼山西麓の山代の地に巨大古墳が現れるようになり、
後期にはその中心地が南下して大庭へと移っていて、
出雲国西部での古墳の衰退と反比例してこの地を中心とする出雲東部の勢力が増大していったことが認められ、
その核となったのが出雲国造の出雲臣であり、国庁および郡家が東隣の大草の地に置かれたのもそのためと考えられている。
伝承によれば、大庭の地は出雲国造である出雲臣の祖・天穂日命が天降った地であり、
以来、杵築大社(出雲大社)へ本拠を移すまで代々の出雲臣が住んでいたと伝えられている。

「神魂神社」にあたる神社は『出雲国風土記』『延喜式』にはみえないが、
これは、当時はまだ出雲国造屋敷内の私的な斎館であったためとされている。
その後、出雲国造がこの大庭から出雲郡の杵築大社へ本拠を移すことになったのを契機に、
「神魂神社」として活動を始めるようになったのだろう。
出雲氏が杵築大社へと移転したのは、『類聚国史』十九「国造」にある『日本後紀』延暦十七年(798)十月十二日条逸文に、

  勅。
  国造と郡領は、その職掌を各々異にしている。
  今、出雲・筑前両国は、慶雲三年(706)以来、国造に郡領を兼帯させてきているが、  
  神事にかこつけてややもすれば公務を停止しており、その怠りがあっても処分できない。
  これより以後、国造が郡領を兼帯することがないようにせよ。
  また、国造が神主を兼帯しているところでは、新任の日に妻を離縁し、
  百姓の女子を取り神宮の采女として、みずからの妻としている例がみられる。
  みだりに神事にかこつけて遂に淫らな風を起こす、
  これは国法に照らして糺さねばならないことである。
  今後は国司が卜によって一女子を定め、これに供せよ(*神宮の采女とせよ)。
      (*筑前・・・筑前国宗像郡は宗像大社の神郡。『続日本紀』文武天皇二年〔698〕3月9日条に、
      「宗形・意宇両郡の郡司の三親等以上の連任を許す」という記事がある。
      のち、700年に安房国安房郡、704年に伊勢国多気・度会郡、
      723年には上総国香取郡、常陸国鹿島郡、紀伊国名草郡に同じ許可が出ており、
      これらを総称して「八神郡」とよぶ。安房郡は安房神社、多気・度会郡は伊勢神宮、香取郡は香取神宮、
      鹿島郡は鹿島神宮、名草郡は日前・国懸神宮の神郡。
      安房郡が早くに神郡になったのは、安房国造が天穂日命の子孫であったことによるか〔『先代旧事本紀』国造本紀〕)

とあるように、早くとも国造が郡領(大領・少領)を兼任することが停止された延暦十七年より後とみられ、
   (*大領・少領・・・郡司四等官の第一・第二。今でいう市町村長・副市町村長。地元の豪族が国司の推薦で朝廷より任命される、任期の無い終身官。
   もとの国造など、その土地の古豪が多く任じられた。一般の郡では三親等内の連任が禁じられていた〔世襲の禁止〕が、
   意宇郡のような特定の神社に奉献された「神郡」においてはそれがみとめられていたので、
   神郡においてはその神社の宮司・社家一族が郡司職をほぼ独占していた)
おそらくは出雲国造が京に参向して『出雲国造神賀詞』を奏上する重儀が廃れてのち、平安時代後期と考えられている。
ちなみに上の記事では国造さんがエロい人であるかのように書かれているが、
たとえば大国主命は正妻である須勢理比売命のほかにも筑紫の多紀理比売命や越の沼河比売ら多くの女神を娶っており、
これは上古の主権者が各地の神を祀る巫女を娶ることでそれらの地を支配したことを反映しているという説があって、
古くは一国の祭政を掌っていた国造が正妻とともに多くの妾をもつことで領内を治めていた、その名残と考えることもできる。
お盛んなのには違いないが、「魏志倭人伝」にも「身分の低い者でも二、三人は妻をもつ者がある」とあり、
多く妻を持ち、その間を円滑に取り計らうことは昔の理想的なリーダー像のひとつだった。
もっとも、平安時代にもなると、この勅のように「神職のくせにエロすぎだろ!いい加減にしろ!」という認識になっていた。

史料初見は、鎌倉時代の建長元年(1249)十一月二十九日鎌倉将軍家御教書で、
文中に承元二年(1208)の年号があって、13世紀にはその存在が確認できる。
それまでのような国造の私的な施設ではなく、
国衙からの祭礼料田の給付や一国平均役による社殿造営が行われており、公的な性格をもっていた。
また中世を通じて「伊弉冉社」と称され、茶臼山に鎮座する「伊弉諾社」(現在の眞名井神社)とともに「両神魂」と呼ばれていた。
国造は杵築大社にあって神主職を務め、秋上氏が権神主として神魂神社の社務を掌っており、
のち、室町後期の大永三年(1523)、尼子氏の意向によって国造北島雅孝が両神魂および惣社(六所神社)の神主職を秋上氏に与え、
以後は秋上氏が神魂社をはじめとする三社の神主となり、千家・北島両国造家の火継式をも執り行うことになった。
明治の神社改革により、それぞれの神社は出雲大社より独立して現在に至っているが、
重要な祭典については今なお国造の参向がある。

現在の社殿は、天正十一年(1583)に焼失したものを毛利輝元らの寄進により再建したもので、
現存最古の大社造社殿であり、国宝に指定されている。
再建にあたっては焼け残った古材を使用したようで、その心御柱には「正平元年丙戌(1346)十一月日」との墨書がある。
現在の一般的な大社造と比べてかなり高床であり、
かつては出雲大社本殿もこのような高床であったと考えられている。

祭神は、主祭神を伊弉冉大神とし、伊弉諾大神を配祀する。
天穂日命降臨の地とされ、もとは出雲国造の邸宅の社とされることから祖神の天穂日命を祀っていそうなものだが、そうはなっていない。
「かもす」という社号は、「神坐所(かんましどころ)」が訛ったものとされており、
「神の鎮座する所」という漠然とした言葉が元とすると、もとは特定の神を祀っていたのではないのかもしれない。
出雲国造が『出雲国造神賀詞』を奏上する前後にそれぞれ一年間の潔斎を行う時のさまを、『神賀詞』は、

  ・・・伊射那伎(いざなき)の日まな子、かぶろき熊野の大神櫛御気野命(くしみけののみこと)、
  国作り坐しし大穴持命の二柱の神を始めて、百八十六社(ももやそあまりむつのやしろ)に坐す皇神(すめがみ)等(たち)を、
  某甲(それがし)が弱肩に太襷(ふとたすき)挂けて、いつ幣(ぬさorみてくら)の緒結び、天のみかひ冠(かがふ)りて、
  いつの真屋に麁草(あらくさ)をいつの席(むしろ)と苅敷きて、いつへ黒益(ま)し、天の瓺(みか)わに斎(い)みこもりて、
  しつ宮に忌静(いみしづ)め仕え奉りて、朝日の豊栄登(とよさかのぼり)に、
  いはひの返言(かへりごと)の神賀吉詞(かむほぎのよごと)、奏(まを)し賜はくと奏す。・・・
    (伊弉諾尊の貴い愛子、おかっぱ頭の童子神である熊野の大神・櫛御気野命、
    国をお作りになった大穴持命の二柱の神をはじめ186社に鎮座する神々を、
    わたしの弱い肩に太襷を掛け、神聖な幣帛の緒を結び、天上の神聖な火を蒙って、
    神聖で立派な家屋に新しい草を神聖なむしろとして苅り敷いて、神聖な竈を黒くし〔*神聖な火で毎日の神饌を調理すること〕、
    天上の甕に清浄に籠りつつ〔*神酒を醸すこと〕、静宮に神聖に鎮め仕え申し上げて、朝日の勢いよく登るこの時に、
    祝いのご返事である〔出雲の〕神々の御祝辞を〔天皇に〕申し上げたい、と申し上げます)

と、厳重に潔斎して神饌を調理し神酒を醸しつつ、
国内の式内社186社の神々を「しつ宮(静宮、鎮宮)」に鎮め仕え奉ることがのべられているが、
この「出雲国式内社総神殿」ともいえる「しつ宮」が神魂神社の前身であったかもしれない。
あるいは、『出雲国風土記』や『新撰姓氏録』などに神皇産霊尊(かみむすひのみこと)のことを「神魂命」と表記していることから、
はじめは出雲における「御祖神(みおやのかみ)」である神皇産霊尊を祀っており、
「かみむすひ」「かむむすひ」が「かもし」「かもす」と訛った、という説もある。
それはともかく、公的な神社となってからは当初より伊弉冉尊を主祭神として祀っており、
茶臼山南麓に鎮座する伊弉諾尊の社「伊弉諾社」(現在の眞名井神社)とともに「両神魂」と称され、ワンセットとなっていた。
神魂神社の神座は北向きであり、眞名井神社の神座は南向きで、
意宇平野を南北から見守る形となっている。
中世においては杵築大社の祭神が素戔嗚尊となっていたことから、その親神である両神を特に尊崇するようになったものと考えられ、
いわば「中世出雲の新たな神祇体系」を構築する神社であったということになる。
しかし近世になって、杵築大社の神仏分離に伴い大社の祭神が大国主神に復したことで、

  伊弉諾尊・伊弉冉尊(両親、天神、神魂神社)―素戔嗚尊(御子、天神、杵築大社)

という緊密な関係が崩れ、

  伊弉諾尊・伊弉冉尊(祖父母、あるいは七世の先祖、天神、神魂神社)―大国主神(孫、あるいは七世の孫、地祇、杵築大社)

と、両者の関係が不明瞭になった。
そのため、近世において両神の信仰は紀州熊野権現や比婆山の伊弉冉尊神陵などと結び付けられるようになった。

東の国道432号線沿いには「額田部臣」の銘文大刀が発掘された岡田山1号墳があり、
その隣の丘に「八雲立つ風土記の丘センター」の中核施設である「展示学習館」がある。
この地方について書かれた文献やこの周辺の遺跡から発掘された遺物の展示が行われている。
レンタサイクルもできるので、ここを中心に意宇平野の史跡を巡ることも可能。

一の鳥居前。
参道入口は北から。

この辺りの字は「神主屋敷」といい、かつてここから背後の一帯には出雲国造である出雲臣の居館があった。
のち出雲国造が杵築大社周辺に移動したのちも、「神火相続式」や「新嘗会」などの祭事における国造の止宿所として用いられ、
南北朝時代に国造家が千家・北島の両家に分かれたのちはそれぞれ近隣に館を設けて、それらは明治初年まで存続していた。
ここから東側(左のほう)の字は元鳥居、鳥居前といい、北島国造館は元鳥居の地にあった。
右手の山麓には曹洞宗の徳応山正林寺がある。
もとは出雲大社の別当寺であった天台宗鰐淵寺の末寺であり、出雲国造家の菩提寺であったといわれる。

北島国造家所蔵の「神魂社古図」を見ると、正林寺の真裏の高台には五輪塔が何本も立っているのが描かれているが、
これは現在も「出雲国造家五輪塔」として残っており、北島国造家の墓所とみられている。
五輪塔建立は中世に流行しており、五輪塔の中には鎌倉時代後半のものと推定されるものがある。

正林寺の周辺一帯からも古墳時代から中世にいたる遺物が発掘されており、「正林寺遺跡」と名づけられている。
二の鳥居。 そこからは自然石の石段が続く。
手水鉢があり、
拝殿へ向かう自然石の石段がある。
この石段はわりとデコボコ、かつけっこうな段差があって、
少し登りにくい。
そのため、境内南から回り込む緩やかな傾斜の「女坂」が
設けられている。直進すれば女坂。
女坂は、もともと後方の山への登山路だった。

神魂社古図には、石段の手前に「古道」という、
現在の社務所の前に出る道が描かれているが、
今はなくなっている。
古社においては、本殿の正面に参道をつけないことが多い。
これは、神の正面に立つ、
あるいは神に背を向けることを極力避けるため。
こんな感じ。
石段を登れば、すぐに拝殿となる。
参道脇の道路の先には、
立正大淞南高校がある。
サッカーの強豪校として知られ、
近年では冬の選手権でベスト8、ベスト4に入っている。

神魂神社拝殿。
社殿は東向きとなっている。
石段を上がってすぐにあり、
拝殿の大きさのため本殿も見えないので、
だいたいの人は(自分も)これが拝殿かどうかすぐにわからず、
いったん脇に回って本殿を見つけて、
これが拝殿でいいんだと確認してから拝礼する。
本殿。
かなりの高床だが、全体として均斉がとれている。
でかい。

この本殿と、それに付随して、「内殿」(本殿内の内陣御神座に置かれる、御神体を収めたミニサイズ社殿。一間社切妻造・妻入)、
および「正平元年丙戌十一月日」の墨書がある「心御柱古材」が国宝に指定されている。

大社造で、内陣は出雲大社とは逆の造りとなっており、社殿が東向きのため神座は北を向いている。
この形式は「女造(めづくり)」と呼ばれ、女神を祀っているゆえとされている。
また、屋根の上の「千木」も上が水平にカットされた「内削ぎ」となっており、出雲大社の垂直にカットされた「外削ぎ」とは異なるが、
出雲では「内削ぎ」を「女千木(めちぎ)」と呼び、女神を祀る社ではこれを採用している。

なお、伊勢の神宮の御正殿の千木は内宮が内削ぎ、外宮が外削ぎになっているが、祭神はともに女神。
千木の削ぎ方は、もともと社格・神格の差別化のため(内削ぎの社が上位)であったものが、
時代が下ると男女の別をあらわすものと解釈されるようになったものと思われる。
『魏志倭人伝』には、「その集会での立ち居振る舞いには、長幼・男女の別がない」とあり、
上古の日本において祭神の性別により建築上の差別化があったとは考えにくい
(ただし、「身分の高い人に敬礼する時は手を拍つ」とあるなど、身分の上下の別はあった)。
それに続いて「その性質は酒を好む」とあり、日本人は昔から酒が大好きだったようだ。

屋根は檜皮葺ではなく、栃葺。
内部の壁面には、出雲国造神火相続式、舞楽や流鏑馬の風景、佐太神社・加賀潜戸の図などが描かれている。
中世には佐太神社も伊弉諾・伊弉冉の両神を祭神としており、伊弉冉尊が加賀潜戸にて天照大神を生んだとされていた。
これは『風土記』にみえる佐太御子神の誕生伝承を改変したもの。
中世において、出雲国における伊弉諾・伊弉冉両神のウェイトは非常に高く、
これに杵築大明神である素戔嗚尊を加えた三神を中世の出雲大社は非常に推していた。
信仰獲得のためには「単純化」とか「わかりやすさ」が大切ということか。

また、殿内天井には「八雲の図」が描かれており、そこには雲が九つ描かれているため、
出雲大社の「八雲」が七つしかないことから、「ひとつが大社から当社へと飛んできた」という俗説もある。
本殿北の境内社。
手前より杵築社、伊勢社、熊野社、そして御釜宮。
御釜宮。
出雲国造の祖・天穂日命が大庭の釜ヶ谷に天降った時に乗ってきたと伝える神釜を祀る。
かつて出雲国造は旧暦十一月中卯の日に当社に赴き、
その年の新穀を神前に供し、また自らもこれを食して国家隆昌と五穀豊穣を祈念していた。
この祭を「古伝新嘗祭」といい、それにあたっては「御釜御神事」を行うことを常例としていた。
明治四年の神社制度改正により、古伝新嘗祭は出雲大社にて行われることとなったが、
新嘗祭をなお「大庭御神事」とも称し、御釜を祭る「釜の神事」も行われている。
現在、古伝新嘗祭の「釜の神事」は出雲大社拝殿にて行い、神釜は境内末社の「釜社」(東十九社の北に鎮座)に納められているが、
もともとは当社の庁舎と国造館の両所にて、権神主職の秋上氏が執行する神事だった。

現在、御釜宮の例祭は「新嘗祭」として、
旧儀の祭日である旧暦十一月中卯日とほぼ同じ時期にあたる十二月十三日に、
千家・北島両国造参向のうえ行われている。

旧暦十一月の中の卯の日(当月に卯の日が二日しかない場合は下卯の日)といえば、現在では十二月中旬~一月半ばにあたる。
その頃の山陰地方の天気といえば曇天で冬風厳しく、ことに国造が大庭へ向かう日には決まって厳しい風が吹いたといい、
この頃の嵐は「国造荒れ」と呼ばれていた。
そのため、風雨激しい折に出立する旅人に対して、土地の人は、
「ほんに国造様のようでいらっしゃる」
と声をかけていたという(小泉八雲『杵築』)。

新嘗祭がそのような厳しい時期にわざわざこの神魂神社で行われてきたのは、
当社が「国内諸神祇の総神殿」であり、出雲のすべての神々にその年の収穫を感謝する意味があったと考えられる。
往古は、旧暦十一月中卯の日に国造が神魂神社に赴き、
熊野大社から参向した社人より神聖な火を鑽る(きる。起こす)ための火燧臼(ひきりうす)と火燧杵(ひきりぎね)を拝受、
それをもって火を起こして神饌を調理し、国造は神々に御飯と醴酒を献じて自らもそれを食する「相嘗(あいなめ)」を行い、
それから真名井にて採取した小石を噛む「歯固め神事」を行ったのち、「百番の舞」を舞う。
その後、場所を庁舎に移して、秋上氏が「釜の神事」を行った。
この神事においては、竹の棒の一方に瓶子を、もう一方に稲束をくくりつけてこれを担ぎ、青竹の杖をつきつつ、
釜の周囲を「あら、たぬし(楽し)」と唱えながら三度廻る。
奇妙な儀式だが、これは民間の稲荷の祭、収穫感謝の行事が神事に取り入れられたものと考えられている。
神魂神社の釜は出雲氏の祖神・天穂日命の天降りの時に用いられたものであるので、
釜の神事は、天降った稲の神としての天穂日命に豊作を感謝する神事ということになる。
現在は、火燧臼と火燧杵を拝受する儀式は「鑽火祭」として10月15日に熊野大社にて行われ、
その他の祭は出雲大社にて行われる。

火燧臼と火燧杵を拝受するにあたっては「亀太夫神事」というものがあり、
熊野から「亀太夫」という社人が出て、大社から奉献のために用意していった餅に対して、
「今年の餅は小さい」「今年の餅は色も悪くて搗きぶりも悪い」などとさんざん悪態をつき、
大社の社人はいちいちこれに対し謹んで申し開きをし、最後には受け取ってもらうという奇妙な行事がある。
このため出雲では、口やかましく文句をたれる人のことを昔から「亀太夫」と呼んでいる。
これは、中世における熊野の社人の増長ぶりが形式として残ってしまったものともいわれるが、
熊野の神へいかに心を込めて餅を搗いたかということを言葉をもって披瀝する儀式、とみるのが妥当だろうか。
熊野の火燧杵は伊勢神宮のそれのように弓がついておらず、何もついていない木の棒であり、
これを直接両手でもんで発火させるという、最も原始的な形式で火を起こす。
そのため、それこそ「炎のコマ」ばりに両手を動かさないと発火しない。   

かつては、国造の代替わりの時に行われる神火相続式も新嘗祭と同じく当社で行われていたが、
現在は北島国造家が当社にて、千家国造家が熊野大社にてこれを行うことになっている。
往古は、神火相続式には両国造家が参向し、相続の儀が終わると祝いの相撲を奉納していたが、
その結果は必ず引き分けとなっていたといい、その情景が本殿内部壁画に描かれている。

この「古伝新嘗祭」や「神火相続式」は、もともと出雲国造主導で行っていた神事ではない、という説もある。
「古伝新嘗祭」については、杵築大社では元来旧暦九月九日に「九月会」という新穀感謝祭を行っており、
十一月に国造がわざわざ大庭へ出向いて改めて新嘗祭を行う意義は薄く、その儀も九月会とは大きく異なる。
「旧暦十一月中卯の日」は、律令国家体制の根幹である『養老令』にて定められた「大嘗祭(一般では新嘗祭)」の日であり、
事実、国衙総社神主であったとみられる佐草氏が神魂社における新嘗会に関わっていたことが文献から確認できる。
杵築大社は国からの新嘗祭班幣に預かる神社ではなく、十一月中卯日に新嘗祭を行う必然性はないので、
「古伝新嘗祭」はもともと杵築大社とは関係ない祭であったと考えられる。
神火相続式は出雲国造の代替わりにあたっての式だが、元来は天皇が出雲国造を任命し、
国造は一年間の潔斎ののち京に参向して『出雲国造神賀詞』を奏上する形式だったのを、
平安時代末期になるとその儀も廃れ、出雲国司が出雲国造を任命するようになっていた。
この儀も当然、出雲国庁、総社において行われたものと考えられ、
のち、神魂社における神火相続式にも国衙在庁官人の参加があった。
これらのことから、中世に国衙の衰退によって総社(六所神社)の管理権が出雲国造に帰した時(鎌倉時代の13世紀中頃)、
それまで国府総社にて国司主導で行われていた新嘗祭や神火相続の儀を、
神魂神社に移して行うようになったのではないか、という説。
ただ、新嘗祭はともかく、「神火相続式」のような特殊な儀礼を国家機関である国衙で行っていたか疑問であり、
また、「火起こしの道具を授受する」という、形としてはきわめてシンプルな儀式が神仏習合華やかなりし中世に創出されたとも思えないので、
これは国家による儀礼とは関係なく国造家に古くから伝わる儀礼ではないかと思われるが、
はたしてどうだろうか。
ただ、どちらにせよ古儀ということには違いない。

本殿南に鎮座する貴布禰稲荷両神社、外山社。

貴布禰稲荷両神社は室町末・戦国時代の天正十一年(1583)の造営で、
二間社流造という珍しい形式であることから、国指定重要文化財となっている。

外山社は、江戸時代の神魂社祝詞の中に「と山の大神」と名のみえる社で、
祝詞中では「熊野大神」と「杵築大神」の間に置かれており、
出雲国内神名帳にも、「神魂大明神」「伊弉大明神」「伊弉冊大明神」「杵築大明神」に次いで
「豊山大明神」とある神と思われ、
熊野・杵築の大神に比肩する神格をもっていた。
武勇社、蛭子社、「お柴」と呼ばれる神籬。
右奥の小祠は荒神社らしい。

神籬は地元の祷家氏子(とうやうじこ)が祭祀するため、
他の人は触らないように、と書かれていた。


真ん中奥に見える穴は、戦時中に掘られた防空壕らしい。

神籬は「祷家神事(とうやしんじ)」を行う場。
これは新嘗祭に供える神饌や出雲国造が常食される穀物の増産を祈願する神事であり、
御供田にて田作りから収穫、神事にいたるまでの行事を行うもの。
神事は祷家氏子が代々受け継いでおり、
奉仕者である「祷人」の名は『神魂神社御祷家録』に記され、宝永六年(1709)以降の記録が残っている。
行事は、まず一月四日(現在は一月第二日曜)に「祷渡し」といってその年の祷人を定め、その月のうちに「お柴」(写真の神籬)を立てて、
お柴は一年を通じて祷人たちにより祈願される。
お柴は、現在は神社境内に立てられているが、往古は祷家の庭に立てられていた。
その間、御供田(山崎向山地区にある)では農耕がおこなわれ、翌年一月三日に役目を終えたお柴を解体し、神籬に宿った神をお返しする。
その翌日(現在は一月第二日曜)には還幸神事が行われる。
御供田で収穫された米から銀鯛と酢飯の馴鮓(なれずし)と米飯による神饌を調理し、それぞれを桶に入れる。
なれずしを入れる桶は「おすし」といい、飯を入れる桶は「ごくう(御供)」という。
この二つの桶を担いで、神社の参道から古代山陰道推定地を通り、氏子区域内を練り歩き、
桶を取り付けた担ぎ棒の丸太を辻や集落の入口で突き合わせる。
これは五穀豊穣・子孫繁栄を祈願する意味があるとされ、
そののち神社に戻り、宮司による三度の歩射(ぶしゃ)の儀が執り行われて、その年の稲の作柄を占う。
行事が終わると直会が行われ、神饌が皆にふるまわれる。
銀鯛のなれずしは昔から宮司の秋上家が作るならわしとなっており、非常に塩辛いらしい。

中世には、天照大神が御生誕されて「御七夜」の日に当たる一月四日、
伊弉冉尊・伊弉諾尊が諸神を大庭に集めて宴を開いたのが起源であるとされていた。
出雲・伯耆地方に広く分布する「荒神祭」の一形態。
大庭地区は、『出雲国風土記』には山代郷に「正倉」が置かれたと書かれているように古代からの穀倉地帯であり、
この祷家神事も稲作の伝統にもとづく祭りとして長く伝えられてきたのだろう。

境内から北へ出た先に鎮座している小祠。
こちらは神魂神社の所管ではなく、
正林寺の鎮守社である秋葉社らしい。
秋葉社は火難除けの神様。

出雲国造北島家所蔵の「神魂社古図」(明和四年、1767)にも記されているので、
江戸時代にはすでに鎮座していたようだ。

東より、神魂神社社叢。
境内東に広めの駐車場がある。

神社背後の山「大庭の宮山」は古くより禁足地であり、武家の世にあっても「守護不入」とされ、
近世においても入山伐採が禁じられた聖域だった。
慶長九年(1607)八月、出雲・隠岐二十四万石に封ぜられていた大名・堀尾忠氏公が、
月山富田城に代わる新しい城地の候補地である亀田山を検分した帰りに当社を訪れ、
社の奥にある池を灌漑用水の水源として検分しようとした。
神官は不吉であると言って引き留めたが、忠氏公は聞き入れずに山に分け入り、山中にてマムシに咬まれ、
富田城に帰城後意識不明となりその日のうちに亡くなった、と地元では言い伝えられている。
なお、父の堀尾吉晴公は息子の推していた亀田山に松江城を築き、以後は松江が出雲国の中心となった。

山中には巨岩が林立する場所があり、「宿禰岩」「天之磐座」と称されている。
「宿禰岩」というのは、第十一代垂仁天皇の治世、
当時大力無双で鳴らしていた大和国当麻の人・当麻蹴速(たぎまのくゑはや)と闘わせるため、
出雲臣の一族で土師氏の祖・野見宿禰(のみのすくね)が召された時、
野見宿禰が当地に参籠し、巨岩を当地へと運び上げて力試しを行い、勝利を祈願したところであると伝えられることからの名。
野見宿禰は蹴速と対戦すると、蹴りの打ち合いで相手のあばら骨を粉砕し、腰骨を踏み折って勝利した、
と『日本書紀』に記されている。
その伝説はともかくとして、この地域における古くからの祭祀場であったのだろう。
磐座へは、神社方面からだと立正大淞南高校の敷地内を通らなければ行くことができない。
不審者扱いされないように注意。
そこをクリアしても、目的地は山中であるので蛇やスズメバチにも注意しなければならない。

六所(ろくしょ)神社。

松江市大草町
意宇平野の南部、茶臼山を北に望む意宇川北岸に鎮座する。

出雲国総社。
また『出雲国風土記』意宇郡の神祇官登録神社四十八所の一の佐久佐社、
『延喜式』神名式、出雲国意宇郡四十八座の一、佐久佐神社の論社。
「意宇六社」の一。

国司が新しく中央から赴任してきて最初に行う仕事は国内の神社を巡拝することであり、
これを「国司神拝」といったが、
時代が下ると、国衙内あるいはその隣地に国内の諸社を一括勧請して国司神拝の労を省くようになり、
これが「総社」のはじまりであるとするのが現在の通説。
「六所」の「六」は「上下東西南北」、つまり「すべての方向」の意を含み、
「六所の神社」とは「その国内すべての天神地祇」をあらわしていたが、
のち、国衙が衰廃してその由来が忘れられたのち、その社号から祭神は六柱の神であると解され、
任意の六柱を祀るようになったと考えられている。
出雲国においては、中世の佐太神社(松江市鹿島町鎮座。出雲国二宮)の縁起書に、

  一 大草六所の社とは。異国の諸神が十月十日にまずこの社に集い、当社に赴く。ゆえにその社を物社という。
   (*大草六所の社・・・大草の六所神社。 *当社・・・佐太神社。 *物社・・・「物」は「惣」。惣社、つまり総社)

とあって、当時の佐太神社の見解では、神在月の十月十日に神々が出雲総社の六所神社に集い、それから佐太神社に赴くとされており、
「総社」とは「全国の神々の集う社」という認識であったことが知られる。
現在、総社を「六所神社」と称するのは、出雲・相模・武蔵・安房・下総・常陸・信濃・下野・出羽・能登の十国。
出雲国六所神社の祭神は、
伊邪奈岐命・伊邪那美命・天照皇大神・月夜見命・素盞嗚命・大己貴命。

当初は、総社は国司が祭る神社であり、その維持経営や祭祀は国衙によって行われていたが、
国衙の衰退とともにその管理権が出雲国造に与えられ、国造が総社の神主となった。
これにより、「新嘗会」「火継神事(神火相続式)」など、
それまで国府総社で行っていた祭祀・儀式を神魂神社にて行うようになった、という説がある。
その後、意宇郡では大庭の伊弉冉社(神魂社)・眞名井の伊弉諾社と総社の三社が中心となって確固たる地盤を築いていった。

現在の鎮座地は、出雲国庁(現在でいう都道府県庁)の中枢である「政庁」の区画内にあたり、
かつてはこの近隣に鎮座していたが、国庁の衰廃にともなって現在地に遷座したものと考えられている。
また、旧号を『出雲国風土記』『延喜式』に名の見える「佐久佐神社」であるとして、その論社ともなっている。
中世以降杵築大社の上官となった佐草氏は、佐草社神主であり在庁官人であったという伝承をもっており、
総社=佐久佐社の論拠となっている。
佐久佐神社の論社としては、同じく意宇六社の一である「八重垣神社」がある。
13世紀中頃より出雲国造が総社の管理権を委譲されて神主となり、
戦国時代には伊弉冉社(神魂社)の権神主であった秋上氏が、神魂社・伊弉諾社・総社の神主職に任じられ、
杵築大社の影響下のもと、三社が一体となって経営された。
神社の神紋は二重亀甲に「有」字で、
同じく杵築大社の傘下であった神魂神社・眞名井神社と共通している。

鳥居前。
鳥居をくぐると右手に手水舎、正面に神門。
この正面、意宇川土手にも標柱が立っており、そこから参道が伸びている。
六所神社拝殿。
本殿。
本殿西隣鎮座の王子神社。
祭神は高御産霊命・神御産霊命。
本殿東隣鎮座の町明神社。
祭神は青幡佐久佐彦命(あおはたさくさひこのみこと)。

『出雲国風土記』意宇郡大草郷条には、

  大草郷。郡家の南西二里一百二十歩である。  
  須佐乃乎命(すさのをのみこと)の御子、
  青幡佐久佐丁壮命(あをはたさくさひこのみこと)が鎮座している。
  ゆえに大草という。

と、その神名がみえる。
境内南東鎮座の天満宮。 佐久佐社の碑。
神門東外に立っている、
「社日」らしい古い六角の石柱。


境内東外、天満宮の裏にある、出雲国庁の後殿跡。

国衙の中心部である政庁の設計には一定のフォーマットがあったようで、
現在確認されている国衙跡の政庁部分はほぼ同じつくりになっている。
それによれば、この前方に正殿があり、さらにその前方両側に東殿・西殿があったとみられている。
ただし現在そこには民家が建っているため、発掘確認は難しい。

意宇川は八雲町から出てくると不自然なまでに右へ蛇行して直進して流れているため、
出雲国庁設置において流路が変更されたのではないかとも考えられている。
事実、眞名井神社参道にある大坪遺跡の発掘から、その部分にかつて川が流れていた痕跡が認められ、
弥生時代において意宇川は茶臼山に近い意宇平野北辺部を流れており、
その後、徐々に南へ流れを移していったと推定されている。
出雲国庁の後方官衙部。
正殿を中心とする政庁は儀式中心の建物であり、日常の政務は後方官衙にて行われていた。
この区域からは後方官衙建物跡、雑舎跡、柵跡、側溝跡などが見つかっており、
後方官衙跡の後方には大溝の跡があって、その北にまた別の区画があることが確認されている。
『出雲国風土記』の記述によれば、
意宇郡の行政をつかさどる「意宇郡家」、国家の常設軍隊(徴兵制)である「意宇軍団」、
そして緊急情報伝達システムである「黒田駅家」も国衙の周囲に置かれており、
この辺りは政治・軍事・交通機関の集中する区域だった。

出雲国府はその衰廃後に場所が分からなくなっていたが、
元禄四年(1691)の大草村検地帳に「こくてふ」(=国庁)の字名があり、
また昭和18年に近隣から墨書遺物が発見されたことから、現在地付近であろうと推定されていた。
そして昭和43年から45年にかけて発掘調査が行われ、その結果、この場所が国庁跡であると確認され、
翌46年には約41万㎡が国指定史跡となって環境整備が図られ、
以後、範囲を広げての発掘作業が行われている。

遠くに見えるのは茶臼山で、『出雲国風土記』には「神名樋野」と記されている、神の鎮まる山。
その南麓には眞名井神社が鎮座している。


草むらの中や路上に蛇をよく見かけたので、暑い時分は足下に気を付けた方がいいかもしれない。


意宇の杜(おうのもり)

松江市竹矢町
出雲国庁跡の東北の田園地帯のただ中、「客ノ森」と呼ばれている場所。

『出雲国風土記』意宇郡条にみえる「国引き神話」の最後のところに、

  (八束水臣津野命は、)
  「今は、国は引き終えた」
  と詔されて、意宇の社(もり)に御杖(みつゑ)を突き立てて、
  「意恵(おゑ)」
  と詔された。ゆえに意宇(おう)という。
  〔いわゆる意宇の社は、郡家の東北のほとり、田中にある壟(こやま)がこれである。
  周囲は八歩(*約14.2m)ばかりで、その上に一本の木があって茂っている〕

とある。
「国引き神話」は、実はこの「意宇」という郡の名の由来を説明するために記されているものであり、
八束水臣津野命の「おゑ」という言葉がいかにして発されたか、をのべる長大な前フリになっているが、
「意宇の社」(ここでは、「もり」に「社」の字を当てており、この当て字は『万葉集』にもみられる)は「国引きの完了の地」であり、
それがこの「客ノ森」の地であると伝えられている。
意宇郡家は、『出雲国風土記』道路・駅・軍団条の、

  国の東の境より西に行くこと二十里一百八十歩で野城橋(のきのはし)に至る。
  長さ三十丈七尺、広さ二丈六尺〔飯梨川である〕。
  また西へ二十一里で、国庁・意宇郡家の北の十字街(ちまた)に至り、そこで分かれて二つの道になる。
  北に枉(まが)った道は、北に行くこと四里二百八十歩で、郡の北の境である朝酌(あさくみ)の渡に至る〔渡は八十歩、渡船が一つある〕。
  (中略)真西の道は、十字街より西一十二里で、野代橋(のしろのはし)に至る。長さ六丈、広さ一丈五尺〔野代川である〕。
  (中略)
  東の境から西に去ること二十里一百八十歩で野城駅(のきのえき)に至る。
  また西に二十一里で黒田駅に至り、そこで分かれて二つの道になる〔一つは真西の道、ひとつは隠岐国に渡る道である〕。
  (後略)
  意宇の軍団。これは意宇の郡家に属している。

という記述から、出雲国庁のすぐ近くにあったとみられており、
この辺りは、出雲国庁・意宇郡家・黒田駅家・意宇軍団など、政治・交通・防衛の機能が集中する出雲国の中心地だった。
意宇の杜はそのシンボルとしてあったのだろうか、
あるいは意宇の杜があったからこそ、この地が意宇郡のみならず出雲国の中心となったのだろうか。

「客ノ森」には一本のタブの樹が立っており、
古来、「意宇のタブ」として近隣の崇拝を受けている。
現在も十月一日に上竹矢・中竹矢の講中の人々によって祭りが営まれているとのこと。
この森はあくまで『出雲国風土記』にみえる「意宇の社」の比定地であり、実際そうであったことを実証するものはないが
(ただし、意宇郡家跡が発掘されればはっきりする)、
地元の人々は、この開墾しようと思えば即座に田んぼになってしまうような小さな杜を現代まで大切に祭り伝えてきた。
少なくとも、そこには何か重大な意味があったのだろう。

『出雲国風土記』では、八束水臣津野命が国引きの事業を終えた時の言葉として「おゑ」と言っているが、
『播磨国風土記』宍粟郡伊和村条には、

  伊和の村〔もとの名は神酒(みわ)〕。
  大神が酒をこの村で醸された。ゆえに神酒村という。
  また於和の村ともいうのは、大神が国を作り終えられてのち、「於和(おわ)」といった。「我が美岐(みき、神酒)」に同じ。

との地名起源伝承があり、ここも事業を終えた神の言葉が地名となっていて、その言葉も似ている。
大神というのは、播磨国一宮・伊和神社の祭神である伊和大神で、大国主神と同体とされている。
「おわ」という言葉は「我が神酒」という意味である、とあり、その前には「神酒」を「みわ」と読ませている。
つまり「おわ」という言葉は「お(私)+わ(酒)」と解されていたということで、
それをこちらに適用すると、
「おゑ」とは「お(私)+ゑ(杖)」の意だろうか。
単にすごい肉体労働したのでちょっと吐き気を催したのかもしれないけど。

田んぼの中、道端にこんもりと木が茂っている。
杜のところはわずかに盛り上がっている。
往古は今より地表のレベルが低かったはずなので、
もう少し「小山」っぽかっただろう。
周囲には御幣串が数多く立てられていた。
南西には、
出雲国庁跡である六所神社の社叢が見える。
(送電鉄塔の間)

眞名井(まない)神社。

松江市山代町に鎮座。

『出雲国風土記』意宇郡の神祇官登録神社四十八所の一の眞名井社(まなゐのやしろ)、
 および神祇官未登録神社一十九所の一の末那為(まなゐ)社。
『延喜式』神名式、出雲国意宇郡四十八座の一、眞名井神社。
「意宇六社」の一。
社号は、一般には「真名井神社」と書かれるが、正式(宗教法人登録上)には「眞名井神社」と表記する。

大草町の田園地帯の中にそびえる茶臼山(標高171m)は、『出雲国風土記』意宇郡・山野条に、

  神名樋野(かむなびの)。郡家の西北三里一百二十九歩(*1.8km)。
  高さ八十丈(*237.6m)、周囲六里三十二歩(*3.3km)〔東に松がある。ほかの三方にはいずれも茅(ち。チガヤ)がある〕。

と名がみえる。
「野」なのになぜ山が比定されているのかというと、
『出雲国風土記』において、「野」の用字は樹木の少ない山あるいは山裾の傾斜地について用いられているため。
注記の通り、山の東部に松が生えているほかは茅が群生する山であったことから「野」と区分されたのだろう。
神の宿る地であることを示す「カムナビ」は出雲国内に四つあり、いずれも神社が鎮座している。
意宇郡(神名樋野、茶臼山)・・・山代社、眞名井社、末那為社
秋鹿郡(神名火山、朝日山)・・・佐太御子社
楯縫郡(神名樋山、大船山)・・・多久社
出雲郡(神名火山、仏経山)・・・曽伎乃夜社、審伎乃夜社、支比佐社

祭神は伊弉諾尊と天津彦根命。
伊弉諾尊は、意宇郡の主神ともいえる熊野大神の父神であり、
記紀神話においては神々そして万物の父神として描かれている。
天津彦根命は天照大神の御子である五男神の第三子で、
記紀によれば山代国造(やましろのくにのみやつこ)あるいは山代直(やましろのあたひ)の祖とされており、
「山代」という地名にもとづいて祀られているようだ。
ただし、ここでの「山代」は現在の京都府南部、もとの山城国にあたる地域。
中世以降「伊弉諾社」と称し、当時は「伊弉冉社」と呼ばれていた神魂社とともに「両神魂」と呼ばれていた。
出雲大社からは「別火職」を定められており、国造の指揮の下で経営が行われていた。
「別火」とは「一般の火とは異なる、神聖な道具で鑽り出した神聖な火」の意で、
その火をもって調理したものを食べることで、日常から潔斎を行いつつ奉仕する上級神官のこと。
戦国時代になると、伊弉冉社(神魂社)権神主の秋上氏が伊弉諾社・六所神社(総社)を合わせた三社の神主に任じられ、
明治を迎えることとなる。
明治になると、社号は伊弉諾社から『延喜式』にみえる社号であるところの眞名井神社へと改称され、現在に至る。
神紋は、神魂神社・六所神社と同じく、二重亀甲に「有」の字。

「真名井」という社号は通常「神聖な井戸」をさす言葉であり、少なくとも水に関わるものだが、
現社地にはそのような施設はない。
神社より東に約200m、山の東南麓に「真名井の滝」という小さな滝があり、
その水は、かつて大庭の神魂神社にて行われていた「新嘗会」や「神火相続式」において用いられていた神聖な水だった。
また、近世においては滝のところに「真名井荒神」という神が祀られていて、
さらに真名井の滝の西には「聖岩(ひじりいわ)」という岩が立っており、
往古は真名井の滝が「真名井社」、聖岩の神が「末那為社」ではなかったか、と考えられている。
(真名井荒神は江戸時代に伊弉諾社の境内へ遷座して「瀧若宮」と呼ばれ、現在は「末那為社」として祀られている)
となると、現在の本殿は中世になって「伊弉諾社」として新たに建てられたものということになる。
大庭の大宮である伊弉冉社(神魂社)はもと出雲国造の私的な斎館であったものが公的な神社として発展したもので、
いわば新しくあらわれた神社であり、それと対であった伊弉諾社も新しく建てられた神社であったと考えるのが妥当だろうか。
もともとの真名井社は、滝や聖なる岩を神として崇める自然信仰にもとづいていることからその規模はさほど大きくはなかったと思われ、
そのため中世になってその社号は忘れられたが、その水は永く出雲国造の重要な儀式に用いられていたことから、
その水が神聖な水であるということは忘れられることがなかった、ということだろうか。

社前の風景。目の前の道路は眞名井神社参道。
まだ新しい道路がつけられており、松並木となっている。
以前は単線の狭い道路で、両側に松並木があり、往時は流鏑馬神事も行われていた。
この道路の開発にあたって発掘調査が行われ、
弥生時代から中世に至る土器片、須恵器片、土師器片、木簡などが出土しており、
「大坪遺跡」と名づけられている。
また、この道路のラインは古代の条里のラインに一致していることから、「史跡出雲国府跡指定範囲」の西限となっている。
この遺跡の発掘にあたっては、その範囲が「推定古代山陰道」とクロスしていたことから、
古代山陰道の発見がもっとも期待されていたが、残念ながらその遺構は発見されなかった。

神社やや東の民家のある辺りには須恵器片(年代不明)が発見され「真名井遺跡」と呼ばれており、
そのやや上には「大谷横穴群」と名づけられた横穴墓2穴がある。

写真中央左の茶臼山頂上には、戦国時代に「茶臼山城」という山城が築かれていた。
そこからやや北に下ったところからは縄文土器が発見され、「長元遺跡」と呼ばれている。
同じく、山頂から少し南に下ったところは山代神社の旧鎮座地であると伝えられる。
鳥居前。 自然石の石段。
わりと急な角度。
眞名井神社拝殿。
拝殿に床はなく、土間となっている。
奥に本殿。
眞名井神社本殿。
透塀に囲まれ、正面には中門を備える。
寛文二年(1662)の軸立で、檜皮葺の大社造。
通常の大社造と異なるところは、内陣の神座が正面向きであること。
つまり、普通に南を向いて意宇平野を見下ろしているということになる。

当社の例祭日は十月十七日となっているが、
中世の佐太神社の縁起書には、その日は伊弉諾尊がお隠れになった日であるとしており、
十月に神々が出雲国の佐太神社に集うのは、神々が父である伊弉諾尊に孝行の義をあらわすためであるとされていた。
ちなみに、天照大神がお隠れになったのは六月十五日とされていた。
命日を重んずるのはいかにも仏法の影響というところか。
本殿の西に鎮座する児守神社。
境内の案内板によれば、
宍道若宮社・山代神社・荒神社を合祀しているとのこと。
御扉がふたつある合殿形式になっているのはそのためだろうか。
本殿の東に鎮座する末那為社。
御前に狐の像が控えていたり、
小さな狐の置物が供えられたりしているので、
稲荷社としての信仰があるのだろう。
かつては真名井の滝において祀られていたと伝えられる。

かつては神魂神社で行われ、現在では出雲大社で行われている古伝新嘗祭には、
「釜の神事」という、神釜を据えてその周囲を大社の禰宜(明治までは神魂神社の神主・秋上氏)が巡るという行事があるが、
その時には竹の棒の一方に瓶子を、もう一方に稲束をくくりつけてこれを担ぎ、青竹の杖をつきつつ、
釜の周囲を「あら、たぬし(楽し)」と唱えながら三度廻る。
奇妙な儀式だが、これは民間の稲荷の祭、収穫感謝の行事が神事に取り入れられたものと考えられており、
現在の末那為社がかつて真名井の滝にて稲荷神として信仰されていたのだとすれば、
「釜の神事」には真名井の滝と稲荷神とが結びついた信仰が採り入れられている、ということになるか。

境内東側には立派な神楽殿が建っている。

真名井の滝は茶臼山東南麓にある。
夏場には流しそうめんをやっているようで、駐車場も設けられている。

真名井の滝前。

流しそうめんのシーズンオフなのでちょっとさびしい
真名井の滝。
滝といっても細流であり、「日本の名滝百選」とかみたいにドバドバ落ちているわけではない。
ホースで下の方へ水が引かれており、そこから直接水を汲むことができる。

滝の背後は竹林になっている。
奥にはそうめんハウスっぽい建物

真名井の滝の向かいには土を盛り上げたところがあり、その中に石の区画があって石が数個立てられ、
入口には竹を渡して立ち入りを禁じていたが、真名井荒神の旧地なのか、あるいは古墓であるのかわからない。

「聖岩」はここから西、数十メートル(といっても約100m)のところ(このへん?)にあるらしい。
行き方は知らぬ。
聖岩の周辺からは、土師質土器や古銭が見つかっている。


揖屋(いや)神社。

松江市東出雲町揖屋に鎮座。

『出雲国風土記』意宇郡の神祇官登録神社四十八所のうち、伊布夜社(いふやのやしろ)、および伊布夜社、
 および神祇官未登録神社一十九所のうち、伊布夜社。
『延喜式』神名式、出雲国意宇郡四十八座のうち、揖屋神社(いふやのかみのやしろ)、および同社坐韓国伊大氐神社。
「意宇六社」の一。

『日本書紀』斉明天皇五年条に、

  この年、出雲国造〔名を欠く〕に命じて、厳神の宮を修(つくりおさ)めさせた(*あるいは、「神の宮を修厳(つくりよそお)わさせた」)。
  狐が、於友郡(おうのこほり)の役丁が取った葛の端を喰い切って逃げた。
  また、犬が死人の腕を言屋の社に喰い置いた〔「言屋」は、ここでは伊浮[王耶](いふや)という。天子が崩御される兆しである〕。
   (*於友郡・・・意宇郡。ただし、実際には当時はまだ「郡」ではなく「評」表記。『書紀』の用語は、大宝律令下の用語に統一されている)
   (*役丁・・・えのよほろ。庸や雑徭などの力役に徴発される男子)
   (*葛・・・神宮の造営に用いる綱材として用いる)
   (*「言屋」は、ここでは伊浮[王耶](いふや)という・・・「言屋」の読みを漢字の音で注したもの。「ことや」と読み誤られる恐れがあるため)

とあるのが国史初見。
ここにいう「神の宮」がどの社を指すかについては出雲大社、熊野大社の両説があるが、
記紀には朝廷が出雲大社の修造に関わる由来の記述はあっても熊野大社の修造に関わるような由来は記されていないので、
出雲大社とするのが妥当とみられる。
出雲大社の修造にあたって意宇郡内で二つの変事が起こったことが記されており、それが斉明天皇崩御の前兆であるとみなされているが、
そのうちのひとつが「犬が死人の腕を食いちぎって揖屋神社の境内に置いていった」というもの。
出雲大社の修造にあたって、出雲国造の御膝元である意宇郡の有力な社で「ケガレ」が発生したのは不吉であり、
また、「いふや」という地は、『古事記』においては黄泉の国との境である「黄泉比良坂(よもつひらさか)」のある地であるとされており、
「死」の予感を高める出来事であったようだ。
また、この翌年に新羅が唐と結んで百済を滅ぼし、百済遺臣が日本に救援を求めてきたので、
斉明天皇は百済救援のためにみずから軍を率いて九州に向かわれたが、その翌年に筑紫の朝倉宮で崩御され、
中大兄皇子が救援軍の指揮を執るも、唐の軍事力の前に敗退するという事態になった。
『日本書紀』のこの時期の記事には、戦乱の予兆、百済滅亡の予兆、天皇の崩御の予兆、
そして敗戦の予兆とされる異変が数多く収録されている。
この時期に出雲大社の修造が行われたのは、
神功皇后の新羅遠征にあたって「大三輪社を立てた」、つまり大物主神=大己貴神を祭ったという記事が『日本書紀』にあるので
(神功皇后摂政前紀、仲哀天皇九年九月十日条。その時の社は『延喜式』神名式、筑前国夜須郡の於保奈牟智神社とされる。
現在の福岡県朝倉郡筑前町弥永鎮座の大己貴神社)、
この度の百済救援の出征にあたっても出雲大社を修造し大己貴神を祭ることで、その神威を蒙ろうとしたのかもしれない。

その後、『日本三代実録』貞観九年(867)五月二日条に、

  出雲国従五位下の能義神、揖屋神に並びに従五位上を授く。

貞観十三年(871)十一月十日条に、

  ・・・出雲国正五位上の湯神(*玉作湯神社)、佐陀神に並びに従四位下、
  従五位上の能義神、佐草神、揖屋神、女月神(*売豆紀神社)、御譯神、阿式神(*阿須伎神社)に並びに正五位下、
  従五位下の斐伊神、智伊神、温沼神、越中国従五位下の楯鉾神に並びに従五位上(を授く)。

という神階昇叙記事がある。
「野城大神」を祀る能義神社と同時昇叙されていることから、同格の社、もしくは関連の深い社であったようだ。
十一世紀末には、出雲国守藤原兼平が熊野社・水訳社(御譯社)とともに当社を造営した記録があり、
意宇郡の有力な社として存在していたことがうかがえる。
平安末期よりは揖屋荘という荘園(崇徳天皇勅願寺である成勝寺に寄進)の鎮守神として崇敬されており、
当初は杵築大社とは直接の関係はなかったとみられるが、
その後、鎌倉時代末期の元亨四年(1324)の国造出雲時孝譲状に「大社領揖屋荘」とあり、
この頃までには揖屋荘が杵築大社に寄進され、その影響下に入っていたと推定される。
以後は社殿の造営、遷宮においては出雲国造が携わって行われるようになったが、
社職の補任までは口を挟まなかったようで、そののちも荘園領家が別火職を補任し、
近世初頭まで大宅氏が別火職として奉仕していた。

武家よりの崇敬も篤く、室町時代後期には大内氏、尼子氏による奉献が行われ、
また天正十一年(1583)には毛利元秋(元就の五男。当時の月山富田城主)が社殿を造営した。
のち、慶長六年(1601)に堀尾吉晴公が四十石の地を寄進し、また元和元年(1615)に社殿を造替、
堀尾氏が断絶改易ののちに入封した京極忠高公は旧領の四十石を安堵し、寛永十一年(1634)に社殿を修造。
そののちに入封した松平氏初代の直政公は旧領を安堵し、三代目の綱近公は検地による出石分の十二石一斗三升六合を加えた。
社殿の営繕は松江藩作事方によって行われ、修造が成って遷宮の儀が行われる時には藩主の代参があった。

主祭神は伊弉冉尊、大己貴命、少彦名命、事代主命の四座で、武御名方命、経津主命を配祀。
本殿の両側には韓国伊太氐神社と三穂津姫神社が鎮座する。
近世には「伊弉冉社」と呼ばれていたが、明治になって『延喜式』にみえる「揖屋神社」へと変更され、旧に復している。

社に伝わる特殊神事として、「一ツ石神幸祭」「穂掛祭」がある。
「一ツ石神幸祭」は、中海袖師ヶ浦の沖、崎田鼻の「一ツ石」まで祭神の神輿を舟に乗せて神幸し、
一ツ石前で一夜御水(甘酒)と抜穂を献饌し、祝詞奏上を行う儀。
その後、西揖屋に着くと神輿は陸船に乗せられ、氏子の歓待を受けつつ神社へと還御する。
この時には鈴なり提灯を先導にして笛太鼓の囃子方を乗せた屋台車が行列となり、大いに賑わう。
「穂掛祭」は、祭の前日に神職が袖師ヶ浦にて禊を行い、新米をもって神酒や焼米などの神饌を調理し、
祭典当日、榊に稲穂と瓢豇を付けたものを境内の七十五か所に捧げ、神饌を御供えする儀。
もともと「一ツ石神幸祭」は旧暦七月二十八日の式日に行い、「穂掛祭」は熟稲の時期によって祭日を決めていたが、
現在は八月二十七日の午前に「穂掛祭」を行い、そののち「一ツ石神幸祭」を行うことになっている。
揖屋の地は意宇川河口に位置する港町であり、海を祭る神事も重要だった。
「船での御幸→陸路還御」というのは下総国一宮・香取神宮の船神事も同様。
「穂掛祭」は、収穫感謝のほかに宮地の境界を祭る意味合いがあっただろうか。
『延暦儀式帳』によれば、かつて伊勢大神宮においては春・夏・秋の年三度、御巫内人(みかんなぎうちんど。主に祓えを担当する神官)が、
宮域の境界守護神である宮廻神(内宮124前、外宮200余前)および御井・御田の神を、幣帛を献じ祝詞を奏して祭っていた。

東南の平賀地区には、伊耶那岐命と伊耶那美命が事戸(ことど)を渡したという「黄泉比良坂(よもつひらさか)」とされる場所があり、
神社はその南北に伸びる山地の西北の先端に鎮座している。
たいてい「黄泉比良坂」との関連で語られるため陰気なイメージを持たれるかもしれないが、
とてもすがすがしくさわやかな境内。

社前。
神社の北を走る道路は「出雲街道」といい、出雲と山陽道の飾磨郡(現在の姫路市)をつなぐ街道。
古代より山陽と山陰を結ぶ街道であり、
中世には後鳥羽上皇や後醍醐天皇が隠岐に配流される時にお通りになり、
近世においては松江藩主の参勤交代の道となり、松江城から姫路まで宿場が整えられて栄えた。

古い町並みが残っている。
鳥居。
神社表参道は街道に面して北にあり、
本殿は西を向いている。
鳥居をくぐると手水舎があり、
石段の上に神門。
手水舎横の燈籠。
亀がおんぶ。
神門をくぐると、左手に拝殿、および本殿。
拝殿・本殿とも雄大な造りで、本殿を取り巻く木々の威容も素晴らしい。
揖屋神社拝殿。
出雲の神社らしい、巨大な注連縄。
拝殿に床はなく石の間となっており、鏡が置かれている。
拝殿の先には石段があり、中門があって、本殿の周囲に透塀が巡らされている。

写真右端に石段が見えるが(向かって左側にもある)、これを上ると玉垣内に入ることができ、
三穂津姫神社・韓国伊太氐神社の両摂社に参拝できる。
本殿の左(向かって右)に鎮座する、三穂津姫神社。
『出雲国風土記』意宇郡の神祇官未登録神社(朝廷の神祇官の神名帳に登録されていない神社)一十九所の一である、
「伊布夜社」に比定される。
三穂津姫は、大物主神と事代主神が八十万神を率いて天に登り天神に忠誠を誓った時、
高天原の司令神である高皇産霊尊が、服属のしるしとして大物主神に娶らせた自らの姫神。
大物主神と大己貴神(大国主神)は同体であるので、妃神を祀っていることになる。
美保関に鎮座する美保神社の祭神の一であり、
また奈良県の田原本町鎮座の村屋坐彌冨都比売神社にて主祭神として祀られている。
本殿の右(向かって左)に鎮座する、韓国伊太氐神社。
こちらは『延喜式』神名式に名のみえる式内社。
祭神は素盞嗚尊と五十猛命。
素盞嗚尊は大己貴命の父神、あるいは祖神であり、
五十猛命は素盞嗚尊の御子神で、日本中に木種を播いて国土を緑の大地とした「勲功(いさをし)の神」。
揖屋神社本殿。
大社造だが、内陣の造りは出雲大社と逆になっており、
社殿が西向きであるので、神座は南を向いていることになる。
拝殿の向かいに鎮座する小祠。
恵美須社、天神社。
中央は神木か。
小祠の周囲に藁蛇を巻き、
多くの御幣串を立てているものが二ヶ所あった。
これは出雲・伯耆地方にみられる「荒神祭」で行われる儀。

「出雲・伯耆の荒神祭」は、国の民俗無形文化財(記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財)に指定されている
(2009年3月11日指定、所在地が2都県以上に渡る広域な選択)。
毎年11月~12月を中心に、その年の農作物の収穫を感謝して行われる祭りで、
巨大な藁蛇と大量の幣串を製作し、荒神を祀った木に藁蛇を巻き付けたり、石などに藁蛇を供え、その周囲や藁蛇に幣串を刺す。
特殊な形態として、翌年の豊凶を占ったり、藁蛇を隠したりするところもある。
出雲では「コウジンマツリ」、伯耆では「タツマキサン」「モウシアゲ」と呼ばれることが多い。

本当に清々しい境内。
西向きの神社であるため、午後に参拝するのが日当たりよくて吉。



黄泉比良坂(伊賦夜坂)。

松江市東出雲町揖屋の平賀〔ひらか〕地区にある。

『古事記』によれば、
火の神を生んだ伊耶那美命が死んでしまったため、夫の伊耶那岐命はその後を追って黄泉国を訪れ、伊耶那美命を連れ帰ろうとした。
御殿から戸を閉じて出てきた伊耶那美命は、すでに黄泉国の食事を食べ、黄泉国の住人となってしまっていたが、
やはり帰ろうと思って黄泉神(よもつかみ)と話し合うこととし、その間、自分を見ないでほしいと告げて殿内に入っていった。
長い時間が経ち、待てなくなった伊耶那岐命は、櫛の歯を折って火をともし、殿内に入っていったが、
中には腐乱して全身に八つの雷をまとった伊耶那美命の姿があった。
それを見て畏れた伊耶那岐命は逃げ帰り、伊耶那美命は「わたしに恥をかかせましたね」と言って「予母都志許売(よもつしこめ)」に後を追わせた。
伊耶那岐命は何とか「よもつしこめ」をあしらったが、

  また次には、その八雷神(やくさのいかづちのかみ)に千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副えて追わせた。
  そこで、佩剣の十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて、後手に振りつつ逃げ来たが、なお追ってきた。
  黄泉比良坂の坂本に到った時、その坂本にあった桃の実を三つ取って迎撃したところ、ことごとく逃げ帰った。
  そこで伊耶那岐命は桃の実に仰せになって、
  「おまえがわたしを助けたように、葦原中国に住むすべての生ある人間が苦しみの淵に落ちて憂え悩む時には、助けよ」
  と仰せになり、名を賜わって意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)と名づけられた。
  最後に、その妻の伊耶那美命が自ら追って来た。
  そこで、千引の石(ちびきのいは)をその黄泉比良坂に引いてきて塞ぎ、その石を間に挟み、
  各々向かい合って事戸(ことど)を渡した時、伊耶那美命が言うには、
  「愛しいわが夫の命(みこと)よ、このようにするならば、わたしはあなたの国の人間を、一日に千人くびり殺しましょう」
  と言った。そこで、伊耶那岐命が仰せになるには、
  「愛しいわが妻の命よ、おまえがそうするならば、わたしは一日に千五百の産屋を立てよう」
  と仰せになった。このため、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まれるのである。
  こういうわけで、その伊耶那美神命を名づけて黄泉津大神(よもつおほかみ)という。
  また、(伊耶那岐命に)追いついたことによって、道敷大神(ちしきのおほかみ)と名づける。
  また、その黄泉坂を塞いだ石は、道反之大神(ちかへしのおほかみ)と名づける。
  また、塞坐黄泉戸大神(ふさがりますよもつとのおほかみ)という。
  そして、そのいわゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)という。
   (*千引の石・・・千人がかりでようやく動くくらいの大岩)
   (*事戸・・・コトは言葉、事柄。トは、呪的意味を付与する接尾語。
   『書紀』の一書には「絶妻之誓、ここには許等度〔ことど〕という」とあり、離縁宣言をいうとするが、
   ここでは互いが立てた呪的な誓いの事をさすか。『記』と『書紀』は基本構想が異なっており、同じ記事でも解釈が異なる)
   (*道敷大神・・・「チ」は「みち」、「シキ」は「追いつく、及ぶ」の意。「百聞は一見にしかず」の「シク」に同じ)

最後に「黄泉比良坂」に大岩を置いてその道を塞ぎ、黄泉国との通行を断ったとされる。
そこが「出雲国の伊賦夜坂」であるといい、その地が当地であるとされている。
かつて、この地には東の意東地区へと越える古道があったといい、その道を「夜見路越(よみぢごえ)」、
付近の谷を「夜見路谷(よみぢがたに)」と呼んでいた。
ここは山の麓にあたるところであり、「黄泉比良坂の坂本」、つまり坂の麓という記述と合致している。
「坂」は「境」の意味も含み、そこを越えることは異界へと足を踏み入れることを意味した。
異界には良いものがいるのか悪いものがいるのか不明であり、
悪いものがやってこないよう、道には塞神(さいのかみ)、道祖神が置かれて防御の役を担っていた。
ここにいう道反之大神あるいは塞坐黄泉戸大神は、その塞神の役を担っている。

『古事記』には、
大穴牟遅神(おほあなむぢのかみ。大国主神)が須佐之男命の治める「根堅州国(ねのかたすくに)」にて試練を受けたのち、
須佐之男命の神器を奪い、須佐之男命の娘である須世理毘売(すせりびめ)と逃走した時、
須佐之男命が「黄泉比良坂」まで追ってきたと記されている。
ただ、その前に大穴牟遅神は大屋毘古神(おほやびこのかみ)の住む木国(紀伊国)から根堅州国へと渡ったと記されていることから、
出雲の黄泉比良坂とは別の所と考えられる。
そこでは、須佐之男命は逃走する大穴牟遅神を遥かに望み見て、
 
  おまえが持っているその生大刀・生弓矢をもって、おまえの腹違いの兄弟をば坂の裾に追い伏せ、また川の瀬に追い払って、
  きさまは大国主神となり、また宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ。現世の国土を領する神霊)となって、
  その我が娘須世理毘売を正妻として、
  宇迦の山の麓に、底つ磐根に宮柱ふとしり、高天原に千木たかしりて居れ、こやつめ!

という手荒い祝福の言葉を送っており、のちにこれはすべて成就することになる。
これは伊耶那岐命と伊耶那美命の「事戸」と同類のものと考えられ、
「黄泉比良坂」は広く「異界との境界」を指し、また「異界の言葉を聞く」場所でもあったと思われる。
十字路などの衢や橋の上にて、耳に入ってくる言葉をもとに吉凶を占う「辻占」「橋占」はその一種。

近隣に来ると案内板がそこかしこにあるので、迷うことはないはず。
某蟹座の黄金聖闘士の人も感心するかもしれない。
山道を登ってゆく。 そのまま真っ直ぐ登っていくと、突き当りがその場所になる。
黄泉比良坂。
いくつかある大石が「千引の石」道反之大神ということになるのだろうか。
上までは道がついていて、
上がって行ける。
途中、右手にある池が
わりとおどろおどろしい。
神蹟黄泉平坂・伊賦夜坂伝説地碑。

昭和十五年(1940)に、
当時の町長さんが皇紀二千六百年を記念して
当地を整備し、建てたもの。
ぶれた
もともとは東の意東地区へと通ずる山道があったそうだが、
現在、この周囲は整備されており、
山道もなくなっていて、
かつてはどのような道がついていたのかはもうわからない。
東側は溜池になっており、
その下には住居が見える。

「ヨミ」に当てられた「黄泉(コウセン)」という漢語は死者の行く国を意味し、また元の意味は「地下の泉」であることから、
従来、「黄泉国」は地下にあると解釈されてきたが、
『古事記』には黄泉国から逃げる伊耶那岐命が「黄泉比良坂の坂本に到り」とあり、「坂本」とは「坂の麓」ということであるので、
伊耶那岐命は「坂を下ってきた」ことを意味する。
よって、黄泉国は「山の中」あるいは「山の向こう」にある、地上と同レベルにある世界であるという説も出てきている。
古代においては、自分たちの住む集落から山一つ、川一本越えればそこはもう別の世界であり、
それらの境界である「峠」や「橋」には恐ろしい神や鬼がいるとされ、その向こうはそれこそ「何がいるかわからない異界」だった。
いろいろなタブーが薄れ、人や物の移動が活発化した中世においてもなお、
それこそ目の前にある川向かいの集落と極度に仲が悪かったり、山河の利権について頻繁に衝突する集落も多かった。
『出雲国風土記』には、大国主神が「(邪悪な兄の)八十神たちはこの青垣山の内側には居させないぞ」と言い、
また諏訪大社の中世の祝詞には、「すべての凶事はそれらがまだ来ないうちに峰の向こうへ払い退けて下さいますように」とあり、
山に囲まれた場所に住んでいる人々にとっては、凶事は山々の向こうに追いやるべきものだった。
それはとりもなおさず、山の向こうは凶事に満ちた禍々しい地であることを意味し、
『古事記』に「伊那志許米、志許米岐穢国(いなしこめ、しこめききたなきくに)」、
『日本書紀』に「不須也凶目汚穢之国(いなしこめききたなきくに。“伊儺之居梅枳枳多儺枳”という音注がある)」と、
記紀ともに黄泉国を「何とも醜い、穢い国」と記している。
『古事記』には、伊耶那美命は出雲と伯耆の境の比婆山という、国境という大きな「異界との境界」に葬られたとされた。
現在の弓ヶ浜は鳥取県に属するが、古代においても隣国の伯耆国に属し、『出雲国風土記』では「夜見(よみ)の島」と呼ばれている。
(さらにいえば、国境の東に聳える大山は「火神岳」と記され、火神は伊耶那美命の死の原因となり、伊耶那岐命が斬り殺した神)
伊耶那岐命が伯耆との国境あたりから逃げ帰ったとすると、帰って行く先は出雲国内、それも意宇郡ということになる。
『出雲国風土記』意宇郡条には伊耶那岐命の名が散見し、熊野大神の父も伊耶那岐命とされている。
とすれば、『古事記』にある伊耶那岐命の黄泉国行きの話は、もともと出雲神話に属するものかもしれない。
『日本書紀』には、伊弉諾尊は淡路島に鎮座しているという記事があり、
また伊弉冉尊の墓所が「紀伊国有馬村」にあって(現在の三重県熊野市有馬町、花の窟神社)、
土地の人は時に応じて祭を行っている、という記事があり、両神の信仰圏は広かったと考えられる。
そのため、その土地ごとに、その土地の人々の日常に即した、両神に関する独自の伝承があったのではないか。
『日本書紀』の本文には伊弉冉尊(伊耶那美命)が火の神を生んで亡くなるという描写はなく、
天照大神ら三貴子も両神の男女の営みにおいて生まれたとされており、同箇所に収録する異伝に『古事記』の記事によく似た話を付している。




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